第13話 塗装は、乾くまでが仕事だ
夕方、アルヴァンが支部へ来た。
マノンから報告を受け、コレットの帰還記録を見て、リセの状態を聞いた。
それから、俺の前で頭を下げた。
「ノル。ラストール支部に、第七迷宮の補修を正式に依頼したい」
「俺はグランゼルをクビになった」
「だから、こちらが依頼する」
「金は」
アルヴァンは少し笑った。
「街が死にかけている。多くは出せない」
「なら、道具と塗料がいる」
「用意する」
「補修員の名簿は」
「古いものならある」
「前の補修記録も」
「探させる」
「第七迷宮を閉じる話は」
アルヴァンは窓の外を見た。
「延期する」
今は、それで足りる。
閉じるかどうかは、線を見てからでいい。
リセが寝台からこちらを見ていた。
まだ信用しきった顔ではない。
だが、初めて会った時の、化け物を見る目ではなかった。
マノンが台帳に新しい行を書いた。
「第七迷宮入口基準印:仮接続」
「未帰還者三名:全員帰還」
「聖女リセ:死亡予定・未確定」
「補修員ノル:ラストール臨時補修依頼」
字が少し震えていた。
だが、読める。
その頃、グランゼル迷宮管理部では、帰還記録の空欄が増えていた。
死者ではない。
まだ、死者ではない。
だが、戻りが遅い。
同じ区画を何度も歩き、矢印の前で足を止め、封鎖線の手前で魔物の羽音を聞く者が増えた。
管理室の壁に貼られた古い警告板の端が、音もなく浮いていた。
《グランゼル第三迷宮:閉鎖勧告・予備審査》
ザックは斧を握ったまま、報告書を睨んでいた。
「大げさだ。線が薄いくらいで、迷宮を閉じるわけがない」
誰も笑わなかった。
受付の女が、低い声で言った。
「本部から、ガレス様が来るそうです」
その名を聞いて、ザックの指が一度だけ止まった。
新人育成監督官ガレス。
迷宮で新人を死なせないために、古い印と帰還路を見て回る男。
ノルの線を、二十年前から知っている男だった。
ザックは舌打ちした。
「来るなら来い。俺が稼いだ魔石を見せてやる」
壁の赤い帰還路印が、そこで一筋、剥がれた。
夜になった。
第七迷宮の入口へ行く。
赤い基準印は、まだ濡れていた。
端が少し浮いている。
俺は膝をつき、指で下地を確かめた。
乾くには、まだ時間がいる。
背後でリセが立ち止まった。
「手伝えることはありますか」
「ある」
「何をすれば」
「踏むな」
リセは一瞬黙った。
それから、小さく笑った。
「はい」
俺は刷毛を取った。
死を消したわけではない。
街を救ったわけでもない。
ただ、剥がれかけた線を、上から押さえただけだ。
それでも、今日は三人が戻った。
リセの死は、確定ではなくなった。
なら、次の線を引ける。
赤い塗料を、入口基準印の端に置く。
薄く。
強すぎず。
弱すぎず。
乾くまで、見る。
その時、胸元に冷たいものが触れた。
塗料ではない。
血でもない。
薄い黒が、服の内側から浮いてくる感覚だった。
俺は刷毛を止めた。
リセが息を呑む音がした。
「ノルさん」
「見えたか」
「……はい」
声が硬い。
俺は自分の胸元を見た。
布の下に、黒い線がある。
まだ文字にはなりきっていない。
だが、そこだけ皮膚ではなく、古い塗膜のように浮いていた。
下地は、もう死に触れている。
《死亡予定:未確定》
リセのものとは違う。
釘のような硬さはない。
代わりに、濡れた黒が広がる前の、嫌な浮きがあった。
「あなたまで」
リセの手が、途中で止まった。
触れていいものか、分からないのだろう。
俺でも分からない。
俺は胸元から目を離し、入口基準印を見た。
赤はまだ乾いていない。
端が、ほんの少し浮いている。
まず見るべきなのは、壊れたものだ。
「ノルさん」
「あとにする」
「あとにできるんですか」
「分からない」
俺は刷毛を置き直した。
「だが、こっちは今、乾いていない」
リセは何も言わなかった。
足音だけが、一歩下がる。
彼女が線を踏まない位置に移ったのが分かった。
それでいい、と言いかけて、やめた。
言葉にすると、乾く前の塗膜に触れる気がした。
俺は赤い線の端を押さえた。
塗装は、乾くまでが仕事だ。




