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第10話 旧白鐘管理区画

コレットは支部の寝台で眠った。


足は折れていない。

深い打撲と、皮膚の裂け。

マノンの処置と、支部に残っていた薬で、ひとまず命には届かない。


リセは、その寝台から少し離れた椅子に座っている。


近づきすぎない。

けれど、目は外さない。


コレットの死を読んでいるのか、自分の死を見ているのか。

俺には分からない。


分からないものに名前をつけると、手元が鈍る。

俺は刷毛を洗った。


赤が落ちない。

黒止め粉と混じった赤は、毛の奥に残る。

割れた毛先は、さらに広がっていた。


そろそろ限界だ。


「その刷毛、もう駄目ですか」


マノンが言った。


彼女の袖には血と薬のしみがついている。

インクのしみより、そちらの方が目立っていた。


「細かい線には向かない」


「替えは」


「ない」


マノンは少し考えた。


「旧倉庫に、前の補修員が残した道具があるかもしれません」


「見たい」


「はい。ただ、その前に」


マノンは台帳を抱え直した。


「領主館へ行きます。旧白鐘管理区画の鍵を借りるために」


「今からか」


「朝を待ちます。夜中に押しかけても、門で止められます」


正しい。


俺はリセを見た。


《死亡■■》

《塗膜残存:四日未満》


五日未満から、少し減っている。

救助の間、入口に立っていただけでも削れたのだろう。


「朝までは持つ」


「見えていますか」


リセが聞いた。


「ああ」


「私にも、近づき方が少し分かります」


「眠れるか」


「眠るのは、少し怖いです」


「起きていても剥がれる」


リセは少しだけ眉を寄せた。


「そういう言い方をするんですね」


「眠れ」


リセは返事をしなかった。

だが、椅子の背にもたれた。


寝る気になったなら、それでいい。


朝。


ラストールの領主館は、街の中央にあった。


館というより、古い役所だ。

白い石壁は黒ずみ、門の鉄飾りは片方落ちている。

それでも、入口の階段だけは磨かれていた。


人がまだ使っている建物だ。


マノンが先に立つ。

俺とリセは後ろ。

リセは歩けるようになっているが、足取りは重い。


門番はマノンを見て、すぐに通した。


「支部のマノンか。昨日の未帰還者は」


「三名全員、帰還しました。一名重傷ですが、生存しています」


門番の目が少し開いた。


「三名、全員?」


「はい」


その言葉は、館の中まで届いた。


通された部屋で、領主代行アルヴァンは立ったまま待っていた。


三十代半ばくらい。

細い体。

書類を扱う手。

剣よりペンの方が似合う。


だが、目は疲れている。


「三名が戻ったと聞いた」


アルヴァンはマノンではなく、俺を見た。


「君が補修したのか」


「仮に押さえただけだ」


「それで戻った」


「線を見つけた者は戻った。動けない者は救助隊で戻した」


アルヴァンは少しだけ黙った。


「名前は」


「ノル。元グランゼル迷宮管理部の補修員」


「元?」


「昨日クビになった」


マノンが少し焦った顔をした。

リセは黙っていた。


アルヴァンは眉を上げたが、そこは掘らなかった。


「白鐘旧管理区画の鍵が欲しいと聞いた」


「聖灰がいる」


「何に使う」


俺はリセを見た。


リセは胸元を押さえている。


言うかどうかは、彼女のものだ。

俺が勝手に剥がす話ではない。


リセは少しだけ息を吸った。


「私は、死が確定した印を読んでいました」


リセは胸元を押さえた。


「この人は、それを消したのではありません。上から押さえました」


アルヴァンの表情が変わった。


「死を、押さえた?」


「治してはいない」


俺は言った。


「剥がれるまで、死の印を上から止めているだけだ」


「それは、治癒術か」


「違う」


「神殿の奇跡か」


「違う」


「では何だ」


「塗装だ」


アルヴァンは黙った。


俺でも黙る。


「……マノン」


「はい」


「昨日戻った三人の記録は」


マノンが台帳を開いた。


「こちらです。入口基準印の仮補修後、サシャとトマが帰還。二人の証言では、奥の丸印の向きが戻ったとのこと。その後、救助隊でコレットを搬出しました」


アルヴァンは記録を読んだ。


紙を見る目が変わる。

眉間にあった疲れが、一度だけ消えた。


「入口基準印を触れる補修員が、まだいたのか」


「いたというより」


マノンは俺を見た。


「来ました」


アルヴァンは窓の外を見た。


その先に、第七迷宮の方角がある。


「第七迷宮を閉鎖する予定だった」


「聞いた」


「閉鎖すれば、未帰還者は減る」


「街も減る」


アルヴァンは苦く笑った。


「その通りだ」


彼は机の引き出しから、古い鍵束を出した。


「旧白鐘管理区画は、十年前に封鎖した。神殿が引き上げた後、死者記録と聖灰の一部だけが残った。だが、中の保管印が劣化している可能性がある」


「見る」


「危険だ」


「だろうな」


「君は戦えるのか」


「戦えない」


アルヴァンは少し目を細めた。


「ずいぶんはっきり言う」


「戦えるふりをすると、帰る線を見落とす」


アルヴァンは鍵を机に置いた。


「なら、戦える者をつける。バルドとエダでいいか」


「初級区画なら」


「旧管理区画は迷宮ではないが、迷宮と壁を共有している。何が出るかは分からない」


俺は鍵を見た。


古い白鉄の鍵だ。

柄に鐘の印がある。

その表面に、薄い白が残っている。


《封印塗膜:劣化》

《白鐘管理区画:閉鎖》


鍵にも塗膜がある。


つまり、中も同じだ。


リセが鍵を見たまま、動かない。


「リセ」


俺が呼ぶと、彼女はまばたきをした。


「はい」


「行けるか」


「行きます」


「聞いてない。行けるかを聞いた」


リセは少し黙った。


「……入口までなら」


「入口までで足りる」


アルヴァンが鍵を渡した。


「聖灰を持ち出す許可を出す。ただし、記録を残すこと。マノン、同行して記録を」


「はい」


マノンが返事をした。


俺は鍵を受け取った。


冷たい。


鍵の白い塗膜が、指先に粉を残した。


旧白鐘管理区画は、支部の裏手にあった。


白い石の低い建物。

窓は板で塞がれ、扉には鐘の印が塗られている。


白い印は、ほとんど灰色になっていた。


《封印塗膜:剥離》

《死者記録庫:閉鎖》

《聖灰保管室:奥》


リセの呼吸が浅くなる。


「ここを知っているのか」


「知りません」


リセは首を振った。


「でも、似た匂いがします」


「匂い?」


「神殿の、死者を記録する部屋の」


俺には分からない。


だが、リセの指が震えていることは分かった。


俺は鍵を差し込んだ。


鍵穴の白い塗膜が、ぱらりと落ちる。


扉の奥で、何かが乾いた音を立てた。


剥がれた音だ。


俺は刷毛を握り直した。


「開けるぞ」


扉の白い線は、まだ完全には死んでいなかった。

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