第9話 戦えない補修員
コレットは避難部屋の手前にいた。
正確には、避難部屋だった場所の前だ。
扉は半分落ち、床の石が崩れている。
その崩れた石の間に、細い足が挟まっていた。
少女は、眼鏡を片手で押さえていた。
もう片方の手には、小さな薬草袋。
額に汗が浮き、唇の色が薄い。
唇が乾いている。
それでも、壁の赤印を見ていた。
「コレット」
マノンが駆け寄ろうとした。
俺は腕で止めた。
「足元を見ろ」
マノンが止まる。
床に、細い亀裂がある。
迷宮の床は、表面だけ見ても分からない。
下が空いている場所は、音が違う。
俺はヘラの柄で床を叩いた。
軽い音が返る。
《床下:空洞》
《崩落危険:小》
踏めば落ちる。
「右から回れ」
バルドとエダが先に動いた。
その時、奥の暗がりから魔物が出た。
灰色の迷宮鼠が三匹。
いや、五匹。
その後ろにも影がある。
さっき塞いだ割れ目とは別だ。
《封鎖線:剥離》
《魔物流入:進行》
俺は息を吐いた。
数が多い。
「バルド」
「分かってる!」
バルドが槍を構え、通路を塞ぐ。
エダがその脇に立つ。
狭い通路では、二人で十分に壁を作れる。
だが、長くは持たない。
俺は壁を見た。
古い封鎖線がある。
赤ではない。
黒に近い茶色。
魔物を止めるための線だ。
半分以上、剥がれている。
「三十息、持たせられるか」
「やってみる」
「無理なら二十でいい」
「最初から二十と言え」
「なら二十だ」
バルドが笑った。
槍の先は笑っていない。
俺は封鎖線に近づいた。
魔物の一匹が、バルドの槍をすり抜けかける。
エダが斬る。
血ではなく、灰色の泥のようなものが飛んだ。
俺はそれを避ける。
避けただけだ。
戦ってはいない。
封鎖線の下地を見る。
《下地:腐食》
《封鎖線:剥離》
《迷宮滲出:中》
この場で本補修は無理だ。
だが、仮ならいける。
灰色塗料に黒止め粉。
少しだけ赤を混ぜる。
帰還線と喧嘩しない程度に。
刷毛では太すぎる。
指先で置く。
「ノルさん、手が」
マノンの声がした。
「見てる暇があるなら、コレットを見ろ」
「はい」
指先が冷たい。
あの封鎖区域で血を混ぜた指だ。
あの時ほどではない。
だが、感覚が一枚、乾いていく。
《上塗り》
薄い文字が浮く。
使いすぎるな。
自分でそう思った。
だが、ここで使わなければ、魔物が抜ける。
俺は剥がれた封鎖線を押さえた。
《封鎖線:仮閉鎖》
壁の向こうで、魔物の足音が鈍る。
一匹。
二匹。
迷宮鼠が足を止め、鼻を鳴らす。
バルドが槍で押し返した。
「効いてるぞ!」
「長くは持たない」
「そればっかりだな!」
本当のことだから仕方ない。
俺は封鎖線の端をもう一度押さえた。
強く塗れば割れる。
弱ければ抜ける。
ここでも同じだ。
迷宮は、過剰な塗りを嫌う。
塗料が迷宮側へ引かれる。
線が逆流すれば、魔物はかえって寄ってくる。
「強すぎるな」
俺は手元に言った。
エダが一匹を斬り落とす。
バルドが二匹を押さえる。
その間に、マノンはコレットのそばに回っていた。
「足、見ます」
「マノンさん……?」
「しゃべらないで。今、出します」
マノンは戦えない。
だが、手順は分かっている。
崩れた石を無理に引かず、まず周りの小石をどかす。
足の向きを見る。
出血を見る。
動かす前に、縄を準備する。
いい手順だ。
「バルド、十息」
俺は言った。
「こっちは五息でも長い!」
「五息でいい」
俺はコレットの足元へ移動した。
石の間に、別の表示が見える。
《崩落危険:小》
《足部圧迫:中》
《避難部屋印:剥離》
避難部屋印が剥がれたせいで、ここが安全部屋として機能していない。
床下の空洞も、そのままだ。
「石を上げるな」
俺は言った。
「ずらす」
マノンが頷く。
「はい」
「エダ、こっちに来られるか」
エダは最後の一匹を蹴り飛ばし、こちらへ来た。
「少しだけ持ち上げる。俺は床を押さえる。マノンは足を抜け」
「了解」
俺は床の亀裂に灰色を置いた。
本当に仮だ。
塗ったというより、割れ目に薄い膜を張るだけ。
《床下:空洞》
《崩落危険:小》
灰色が沈む。
《崩落危険:一時低下》
「今だ」
エダが石を持ち上げる。
マノンがコレットの足を抜く。
コレットが声を殺した。
眼鏡が落ちそうになる。
それでも薬草袋は離さなかった。
「抜けました!」
マノンが叫ぶ。
「担架」
支部員が持ってきた簡易担架を広げる。
バルドが後退しながら叫んだ。
「そろそろ抜けるぞ!」
封鎖線が鳴っている。
ピキ、と乾いた音。
線の端にひびが入った。
「戻る」
俺は言った。
「線の横を歩け。走るな。担架は赤を踏むな」
「この状況で走るなは無理だろ」
バルドが言った。
「走れば迷う」
「分かったよ!」
戻りは、行きより長く感じた。
俺は最後尾ではない。
最後尾はバルド。
俺はその一歩前で、帰還線の端を見ながら歩く。
剥がれそうなところだけ押さえる。
曲がり角だけ太くする。
避難丸印には触らない。
今触ると、かえって向きが乱れる。
コレットは担架の上で、薄く目を開けていた。
「赤……」
「見るな。休め」
「丸印が、戻っていました」
「そうか」
「でも、全部じゃないです。奥は、まだ変です」
「分かってる」
「ここを直さないと、次の人も同じところで迷います」
「今は帰る」
俺は短く言った。
「直すためにも、まず帰る」
コレットは小さく頷いた。
入口の灯りが見えた。
リセが立っている。
隣の支部員が、包帯箱を抱えたままこちらを見ていた。
リセの額に汗が浮き、唇の色が薄い。
「戻りました」
リセが言った。
俺たちが見える前に、死の流れで分かったのだろう。
俺は赤線の横を通り、入口を出た。
コレットを支部員が受け取る。
マノンがすぐに処置へ回る。
バルドが壁にもたれ、息を吐いた。
「補修員ってのは、もっと地味な仕事だと思ってた」
「地味だ」
俺は指先を見た。
血は出ていない。
だが、指の腹が白く乾いている。
塗り終えた壁のように、感覚が薄い。
リセがそれを見ていた。
「ノルさん」
「言うな」
「でも」
「今はコレットだ」
リセは口を閉じた。
支部の中から、マノンの声がした。
「息はあります! 足も、切らずに済みます!」
その声で、入口の空気が少し変わった。
入口の赤が、かすかに落ち着く。
俺の目に、短い表示が浮いた。
《未帰還者:零名》
数字が消えたわけではない。
三人分の足が、入口のこちら側へ戻っただけだ。
だが、今はそれで足りる。
バルドが笑った。
エダが剣を鞘に戻した。
支部員が床に座り込んだ。
俺は第七迷宮の入口を見た。
赤い線は、ところどころ剥がれかけている。
だが、まだつながっていた。
一人、帰ってきた。
線は、ぎりぎり乾いていた。




