お酒を飲むと不機嫌
咲き初めのバラを愛でるという会場はまるで夢のような舞台だった。
真っ白なクロスが張られたテーブルには色とりどりの軽食が飾られ、その間でカクテルを片手に談笑する人々はどの人も美しい装いでおとぎの国の住人のようだ。
ユーディト夫妻のあとを必死について歩いていたウルはその世界に一瞬で圧倒されてしまった。
右を見ても左を見ても煌びやかで、目がちかちかする。
しかしユーディトとラウレンツは平気な顔で会場をぐるりと見渡すと、
「私は主催に挨拶してくるよ」
そう淡いグレーのコートがよく似合うラウレンツが手を振って行ってしまう。
「じゃあ、私はグレン夫人にご挨拶してこようかしら」
ラウレンツに合わせたような淡い紫のドレスのユーディトはまるでこの会場の主役のように注目を浴びながら「いらっしゃい」とウルを連れて歩き出してしまう。
どうすればいいのかも分からないウルはユーディトについていくしかない。
ユーディトが挨拶にやってきたのは初老の婦人だった。一瞬喪服に見間違えてしまうほどの濃いチャコールグレイのドレスをまとった婦人はユーディトを見つけると痩せた神経質そうな顔を綻ばせた。
丁寧に白髪交じりの髪を結い上げている婦人はユーディトのそばでひっついていたウルにも視線を寄越して、
「お久しぶりね、ユーディト。今日は可愛らしいお友達もお連れなのね」
婦人は見た目よりも軽やかな声だ。ユーディトは淑女の礼をとって「お久しぶりです。グレン夫人」と普段の勝気さは鳴りを潜めた落ち着いた声で答えた。
ユーディトに倣ってウルも礼をとると「そちらのお嬢さんは?」とグレン夫人の声がする。ウルが答えなければならないのかと顔を上げかけたが、ユーディトがすかさず答えた。
「わたくしの姪のウルリーケと申します。わたくしの家にちょうど遊びに来ておりましたので、良い経験になればと連れてまいりました」
当たり障りのない答えはさすがユーディトだ。ウルが答えてしまったなら事の顛末まで話してしまったかもしれない。
グレン夫人は「まぁそうだったの」と頷いて、
「ウルリーケ。ぜひ楽しんでいらしてね」
にこやかな夫人の声にウルは「ありがとうございます」と答えて挨拶は終了した。
ユーディト共にグレン夫人のもとを離れるとウルの手は汗だくだった。
そんなウルをユーディトは朗らかに笑う。
「よく余計なことを言わなかったわね。あの夫人に睨まれたら、国中の社交界で鼻つまみ者にされるのよ」
そんな恐ろしい人の前に初心者のウルを連れていったというのか。時々ユーディトの思い付きは過激だ。
「疲れたなら少し木陰で休むといいわ」
ユーディトはすでにふらふらのウルに木陰の椅子を指した。
「でも、姉さん。休んでいていいのかしら」
「なぁに。気後れでもしているの? 今日のあなたは一段と可愛いのよ」
ユーディトの呆れ顔にウルは納得する。それはそうなのだ。今日のウルはユーディトと邸のメイドたちによって化粧からドレスの着付けまで完璧に整えられていて、自分でも鏡を見て驚いた出来栄えだ。
出来栄えに疑いの余地はないが、ウルの心配は別問題だ。
ウルの目的は園遊会に出ることでもグレン夫人に挨拶することでもない。テオを園遊会に連れてくることだ。
「テオさんを探さなきゃいけないんじゃないかしら」
いくらウルの出来栄えが良くてもテオが来ていなければ意味はないのだ。
深刻なウルの心配にユーディトは「いいの」とウルを椅子に座らせてしまった。
「あなたはもうラウレンツ様との約束を守ったわ。あとはテオドール次第よ。淑女なら腹を括りなさい、ウル」
ユーディトらしく言い切って、彼女はウルにボーイから受け取ったジュースをウルに持たせる。
「元々、来るかどうか分からないままここまで来たんでしょう? だったらあなたは自分のやれることは全部やったのよ。――ウル、あなたは頑張ったわ」
今日のために整えたウルの前髪をユーディトは細い指でゆるく整えて微笑む。
ウルはもともと前髪を短くしていたので、全部結い上げられなかったのだ。だから前髪が少し額にかかっていて社交界デビューをする前の少女のようだ。
「ウルばかりに頑張らせておいて何もしないテオドールなんて放っておけばいいのよ。あなたはこの園遊会でもっと素敵な男性と出会えばいいわ」
「えっ」
ウルがユーディトの台詞にぎょっとしていると「私、ちょっと友達に会ってくるから」と彼女は去っていってしまう。
さすが恋多き女だ。ああやって社交界を華やかに泳いでいるのだろう。
残されたウルは木陰の椅子でジュースに口をつけた。オレンジジュースにベリーを混ぜたジュースは上品で爽やかな味だ。緊張していたウルの喉をほどよく潤してくれる。
「――やぁ、これは可憐な小鳥が羽根を休めているね」
気障な台詞で話しかけてきたのはベージュのコートの男だ。ウルよりもいくらか年上に見えるが口元の笑みがいかにも軽薄だった。
「さっき、ユーディト夫人と一緒に居た子だろう? 一人で休憩中かい」
あいにく椅子は一人掛けなのでウルが顔を上げると男は少しかがんで近づいてくる。
「園遊会では見ない顔だね。どう? ジュースでも飲みながら向こうのベンチで話でもしない?」
さっとボーイから男性が二つ取ったのは酒の入ったグラスだ。ジュースはタンブラーだが、酒はゴブレットに入れられている。
この男はウルが田舎者の娘だと知って、何も知らない娘に酒を飲ませるつもりらしい。
それに男が指しているベンチは会場から死角になっている庭園にある。ウルは恋人たちの密会に使われそうなベンチに誘ってのこのこついていきそうな娘に見えるようだ。
(そんなに子供に見えるのかしら)
いくら子供に見えるからといってもウルはもう十八になる。田舎の領地でのことだが当然デビュタントは済ませていて、社交上手ではないがジュースと酒の区別ぐらいはできる。
「申し訳ありません。人を待っているのでここを動くわけにはいかないのです」
予想外に落ち着いて答えたウルに男は少し面食らったようだが「じゃあ、待っているあいだに少しお話しでも」と続けた。
「そちらのジュースも美味しいですが、こちらのジュースも美味しいですよ」
あくまでも酒を飲ませようとする男にウルは努めて穏やかに返した。
「せっかくですが、お酒はあまり飲めないのでご遠慮させてください」
ウルがジュースを酒だと見抜いていることを伝えれば今度こそ男は去るかと思われたが、男は意外にもしつこかった。
「見破られていましたか。ですがこのカクテルは甘いので、アルコールの苦手な女性にも人気なのですよ」
とうとうウルの持つタンブラーにも手をかけようとしてくるので、ウルがとっさに避けようとしていると、
「――そんなに酒の相手が欲しいなら、俺がしてやろう」
男が持っていたカクテルを低い声が奪い取る。
愛想はないがどこか甘いような透る声にウルも男の一緒に見上げると、声の主がカクテルを一気にあおったところだった。一瞬で空になってしまったゴブレットを彼は男に突っ返す。
「まだ飲むなら付き合ってやるぞ」
男を見下ろしたのは透き通るようなアイスブルーの双眸だ。鷹が威嚇するようなその視線に、男は苦笑いして後ずさった。
「い、いや。結構だ。失礼する」
空のゴブレットを手にしたまま去っていく男を唖然と見送ったウルだったが、今度は鷹の目が自分に向けられていることに気付いた。
改めて鷹を見上げたウルはその眼光の鋭さと彼の容姿に思わず怯んだ。
そんなウルを不機嫌に見下ろしているのは、鷹のような目を持つ見知らぬ貴公子だった。




