大切な人
森を出たウルはすぐに荷馬車に乗せてもらうことが出来た。
隣町まで行くというおじさんは気のいい人で、快くウルを隣町の港まで送り届けてくれた。
街からは鉄道の駅があり、そこから王都へ行けるということだったがウルの手持ちでは船代が精いっぱいだった。
それにまっすぐ王都へ向かえばいいわけではない。
ユーディトの住む王都近隣の街にも寄らなければならない。
ウルはユーディトからの手紙を頼りに船へと乗り込んだ。
船旅は幸い一日で、波の揺れに慣れる頃には王都近郊の港に着く。
四等の船室は大部屋で、王都へ行くという大勢の人が乗っていた。
その中でウルはトランクを抱えて戸惑っていたが、親切な老婦人が場所を開けてくれて座ることが出来た。
思えば、ウルが船に乗るのは初めてのことだ。
ただ必死に飛び出してきた。
それが良いことだったのかといえば、どちらかといえば良くないことだった。
(テオさん、怒ってるかな)
怒っているか呆れているに決まっている。
どんなに彼のために、と言ったところで結局はウルの自己満足にすぎないのだから。
借金のこともある。
テオを怒らせても何も良いことなどないというのに、どうしてウルは突っ走ってしまったのだろう。
船からの景色を楽しむ余裕もなく、ウルは深く考え込んだまま夕方の前には港へ着いた。
そこからユーディトの屋敷の住所を手当たり次第に聞きまわり、ようやく御者に聞き出した彼女の住まいは港から馬車で一時間もかかる場所だという。
「お嬢さん、いくらなんでも歩いていくのは無理だよ!」
教えてくれた御者が言うには辺り一面はブドウ畑ばかりで民家などなく、馬車を雇って行くしかないらしい。だがウルの懐にそんな贅沢は許されていない。
「ありがとうございます。でも行かなきゃいけないから」
ウルは御者に礼を言って教えられた道を歩き出した。
どうしてこんなに意地になっているのだろう。
馬鹿なことをしている。
そう自覚があるというのに、ウルはどうしても足を止めることが出来なかった。
ここまで来たところで何が解決するとも思えないのに。
居てもたってもいられないのは、テオのことだからだろうか。
街を出てまっすぐ続く道を行くと、そこは見渡す限りブドウ畑だ。
御者の言う通り民家はなく、夕方を過ぎると辺りはすぐ真っ暗になった。
月は明かりの頼りない三日月で、星のまたたきばかりが夜空に小さく灯っている。
暗闇を進む足元はおぼつかない。
トランクは荷物を減らしてきたとはいえ重く、ウルの腕はもうしびれている。
テオのためになればいいと、それだけで出てきてしまった。
今となっては失敗だったかもしれないと、後悔がウルの心に重くのしかかっている。
もっと話し合いをしていれば、もっとウルが上手く彼を説得できれば。
もっとウルが賢い大人であったなら。
何もできない小娘でなければ、ユーディトにも頼らず素晴らしい結果を示すことが出来たのではないか。
田舎者の小娘の浅知恵が世間に通用するとも思えない。
(馬鹿だわ、私)
汗だくになってトランクを引きずるしか出来ないウルに、いったい何が出来るというのだろうか。
止まってしまいそうな足を引きずっていたウルの耳に、がらがらという車輪の音が聞こえてくる。きっと馬車だろう。
ぼんやりとそう判断して道を開けるべく、わだちから逃げたウルの前を馬車が通り過ぎていく。
だが、馬車は少し通り過ぎただけで停車してしまった。
何かあったのだろうか。そう顔を上げたウルの前で馬車の戸がばたんと開く。
「ウル!」
甲高い女の声が響いた。
今日も豪奢な金髪の彼女は、真っ白な美しいドレスを振り乱してウルに駆け寄ってくるではないか。
「あなた、いったいどうしたの! こんなに泥だらけになって可哀想に」
「ユーディ姉さん…」
暗がりでもはっきりと分かるユーディトの美しい顔を見上げ、ウルはほっと息をついた。
ウルの様子にユーディトも息をつく。
「あなた、街で私を探していたんですって? 待たせていた御者に訊いて引き返してきたの。――まったく、運のいい子だわ。私の買い物時間に、うちの御者に声をかけるなんて」
ユーディトにつられるようにしてウルが馬車の御者台に目を遣ると、馬車のランプの下で見覚えのある御者が帽子をとって振ってくれた。どうやらウルが声をかけたのは、ユーディトの家の御者だったらしい。
「まさかあの熊男に追い出されたの? あの男は昔から血も涙もない…」
ユーディトがそう顔を歪めるので、ウルは慌てて首を横に振る。
「違うの! ユーディ姉さんに会いに来たの。……私が勝手に」
ウルが勝手に出てきて、勝手にやってきたのだ。
思わずウルが俯くと、ユーディトはそれ以上怒らず「続きは温かい紅茶でも飲みながらしましょう」と馬車へ乗せてくれる。
その親切がありがたくも申し訳なくて、ウルは縮こまるようにして馬車に乗り込んだ。
ブドウ畑を泳ぐようにして馬車が進むと、道の先に小さな森が見えてくる。その先にあるのがユーディトとその夫の邸であった。
うろこ瓦の三角屋根を幾つも持った建物は重厚だが、鈍色の格子やドアノブはどれもツタや花を模していて瀟洒だ。
馬車が邸の前に着くと使用人たちが現れてユーディトとウルを出迎える。
まずウルに部屋を、というユーディトに断って、ウルは簡単に靴や服についた泥をとってから話をさせてほしいと頼んだ。
「でもあなた、少し休んだ方がいいわ」
ユーディトの気遣いにもウルは首を振った。
「少しでも早くお話しさせて欲しいの。――私の勝手なお願いだから、ユーディ姉さんにじっくりと考えて欲しいの」
唇をかむウルをユーディトは覗きこむ。そんなユーディトを見つめ、ウルは訴えた。
「私がここに来たのは、園遊会のことでお願いがあるからなの」
ウルの勝手な願いだということは分かっている。
それでもユーディトにウルは続ける。
「テオさんを説得して園遊会に行かせてほしいの。ユーディ姉さんの話を聞いてからテオさんずっと悩んでるわ。森の暮らしが気に入っているって言ってるけど、テオさんはそれが全てじゃないはずなの。だから悩んでいるんだと思ったんだけど、私じゃテオさんを動かせないから、ラウレンツさまとユーディ姉さんに助けて欲しいの」
「ウル、あなた…」
ユーディトはウルをじっと見つめ、溜息をつく。
「テオドールはあんな風でも子供じゃないわ。自分で決めることよ」
そんなことは分かっている。
お膳立てしたところで結局はテオが動かなければ何も変わらない。
「それでもいいの。……でもこのままじゃテオさんが一人になってしまうわ。私にもっと何かが出来るなら、助けてあげたいけれど……」
ウルでは何もかも力不足だ。
それは、森を飛び出してよく考えて分かったことだ。
「……困った子」
ユーディトは俯くウルの頭を優しく撫でる。
「――テオドールが好きなのね」
優しい細い指先に誘われるようにしてウルは顔を上げた。
「え…?」
「あんな熊男のどこがいいのか私にはわからないけど、好きなんでしょう? こうやって考えなしに森から飛び出してきてしまうほど」
ユーディトの優しい笑みにウルは息が詰まった。
テオのために何か出来たらいいと思っていた。
彼のためになるなら、自分の浅知恵が報われようと報われまいとどちらでも構わなかった。
――好きになっていたのだ。
いつからなのか、どこからなのかもわからない。
ただ、テオの優しさに触れた時からきっと惹かれていた。
でも、それも今日で終わりだ。
「……どうしよう、ユーディ姉さん…」
恋を自覚したその時に、その終わりを知ることになるなんて。
あんな手紙一つで飛び出したウルを、彼が許すはずもない。
どうしようもない後悔と浅はかさに、ウルはただ泣き出すしか出来なかった。




