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復讐  作者: 樋口 涼
―宮木亜希と宮本亜妃―

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32

亜妃は目を開けると、皓兄の鎖骨が目に入った。

寝息の音もしない、彼の顔を見る。

普段と変わらない…が、少し幼く感じた。


前髪が垂れ下がり、その隙間から眉毛が見えている。

いつもなら、上向き加減で眉間に皺を作っていた眉が緩み、真一文字に引かれていた。


ベッド上部にある、微々たる物を置く為のスペースに彼の眼鏡が置いてあった。

黒い縁取りの眼鏡。


亜妃は皓兄が眼鏡をかけている所を見た事が無い。

この半月ほど一緒に居たが、夜自分の方が先に寝ているのもあって、こんな風に眠っている所も、見た事が無かった。


体の怠さや吐き気も治まり、ゆっくりと上半身を起こす。

力も戻って来たようだ。


ライティングデスクの上に皓兄の煙草を見つけた。

両親と同じ銘柄の煙草だ。


喘息が治まった頃から、母親がリビングや部屋で吸う様になり、服や髪に匂いが付いて小山先生に訝しまれたし、匂いからしてそんなに美味しい物と思えない大人は吸う。

それが少し不思議だった。


亜依が居た頃、悠衣と三人で吸ってみようかと試みもした。

が、間島に見つかり取り上げられた。

お母様やお父様に言いつけはされなかったから、怒られてはいない。


…言いつけられた所で、怒られはしないのかも知れない。

今なら、そう思う。

お父様の弱さに寄る無関心も、お母様の亜妃への線引きも…理解していた。


いつ寝たのか分からない皓兄を起こすには忍びないと、布団を引っ張らない様にベッドから出た。

誰かしら一緒に寝ていた経験から、それは得意だった。


横に有ったごみ箱は袋が変えられ、自分が吐いた床のシミも、綺麗になっている。

皓兄か後藤がしてくれたのだろうと、亜妃は思う。


ライティングデスクの上の煙草の箱を手に取ると、一本取り出し匂いを嗅いでみた。

火が付き、煙が出ている時とは若干違う匂い。


この船の客室でも、色々な煙草の匂いがしていたが、手に持つそれは懐かしい気持ちが胸に広がる。

火を付けないまま咥えてみる。

あの時と同じ、紙の感触が唇にする。


「吸いたいのか?」


声に振り返ると皓兄が起き上がっていた。

上手く擦り抜けて来た亜妃だったが、皓兄は寝ている時でも気を緩める事は無い。

少しの揺れや布の摩擦、その音に気が付く。


「ごめん」


亜妃は謝る。

何の…どの事を謝っているのだろう。二人にも分からない。


「気分はどうだ?」


皓兄は眼鏡をかけるとベッドから出て、亜妃の方へ歩いて来る。

着崩れたシャツの襟もとから、刺青がチラチラと見える。

見慣れない眼鏡姿と顔の幼さと…刺青が持つ厳つさのギャップに、亜妃は少しドキッとした。


「大丈夫」

「そうか。なら良かった」


そう言って、水をグラスに注ぎ、亜妃に渡した。


「口の中、気持ち悪いだろ」


受け取ると半分で口を濯ぎ、半分を飲んだ。

まだ乾きは治まらない。

今度は自分で水を入れ、飲む。


「胃の洗浄をした」


だから、黒い物が嘔吐物の中に有ったのだと聞く。


「…すまなかった」


今度は皓兄が亜妃に謝罪した。

亜妃は首を横に振る。

何を言って良いか分からなかった。


亜妃が取り出した煙草が、火を付けられないまま灰皿の端に置いてある。

皓兄は新しく一本出して口に咥えると、ライターの火が音を立てながら点された。


ジリジリと焼ける音と、煙を吐く音が部屋の中を流れ、静寂が戻る。

白い煙は天井に消えていく。


「吸うのか?」


洗面台に居る亜妃に、ライティングデスクに寄り掛かりながら皓兄が聞いた。


「良いの?」


法律違反だが。


「治外法権ってやつだ」


外国人が居住する国の法律に従わなくていい。

そんな権利。


「俺、日本人」

「今は違う…こっちの人間として居るだろ」


屁理屈を捏ねる。


「喘息は…?」

「治まってる」

「ここ最近も?」

「あぁ。うん。水泳教室に通ってから…小児喘息?だったらしい。成長すると治る…らしい」

「じゃあ、治ったのか?」

「多分」


じゃあ良いんじゃないか?と皓兄は軽く笑い、また一吸いしては煙を吐いた。

灰皿に置かれていた一本を亜妃は見る。

細く小さな指が煙草を掴むと、ライターの火が差し出された。


「吸いながら点けるんだ」


先を火に近付け、息を吸うと煙草に火が移る。

ぐっと咳をしそうになったが、勢いよく吸っては居なかった為、無様に咳き込まずに済んだ。


「最初は軽く吹かしとけ」


それで空腹を紛らわせろ。と続ける。

過食期が治まるまで、煙草で口を塞いでろ。と…。


「…」


ふっと亜妃が笑う。


「もう誰からも食べ物は貰わないよ…もちろん飲み物も」

「そうしてくれ」

「皓からは…大丈夫なんだよね?」

「あぁ」


一つ一つ確認の様に話す。

そして法律違反を一つ犯し、亜妃は心がくすぐったく感じた。

意識しての…。

強要されて。では無い『初めての悪い事』だから。


「港に着けば嫌でも『悪い事』をする事になる…覚悟しておけよ」


冗談では無いが、深刻さも無い皓兄の台詞に、亜妃は「分かった」とだけ答えた。

そう。何故だか、不安も恐れも怯えも無く、ただ冷静に受け入れられた。

不思議なくらいに、心は凪いでいる。


港に着くまでも…着いてからも、今までいたはずの、姿の見えない後藤の事は聞かなかった。

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