前編
世に悪は尽きぬものだ。
夜闇が街を包んでいた。多くの人々は寝静まり、明日の朝日を待つ時間。しかしそんな闇の中において、眠らぬ者たちがいる。
彼らは夜の闇に眼を慣らし、人々が安息とする時間を狙い、悪を成す。
窃盗、強盗、暴力、殺人。この街に多くの人が住むのと同じく、多くの悪もまた街に潜んでいるのだ。
悪は人々の隙を狙い、その行いにより、さらなる悪を世に広めていく。街の自警団も、国の兵士達も、そのすべてと戦うことはできない。
彼らは多くの悪を防ぐが、そこから零れ落ちる悪が必ずいるものだからだ。
零れ落ちた悪は何の罰も与えられないまま、悪による行動の対価として利益を得る。そうしてほくそ笑むのだ。今日も上手くやれたと。
街の外より流れてきた男、デッドもそんな悪の一人である。
彼が目を付けたのは、日頃から、キラキラとしてイラつく宝石を店頭に並べている宝石店。
彼はそんな店へ押し入ると、目に付く宝石を奪いつくした。
店主はすぐ物音に気が付き、寝床から飛び出して来たが、もう遅い。デッドは足に自信があった。
流れ者としてあちこちの街を渡り歩き、その度に何らかの獲物を見つけては盗み取り、そしてまた別の街へ逃げる。
そんな生活を続けていたため、兎に角逃げ足だけは早かったのだ。
店主に顔は見られていない。見られていたとしても、それなら街から逃げれば良い。
そのための軍資金なら、ついさっき大量に手に入った。これらを売り払えばそれなりの財産になるだろう。
美味い酒だってたらふく飲める。デッドは笑みがこぼれそうになってきた。この街での商売も上手く行く。そんな良い気分だと言うのに、邪魔をする様に目の前に人影が現れた。
「おい! てめぇ! さっさとどきやがれ!」
道を塞がれた事より、上機嫌な気分を邪魔された事に苛立つ。
だからこそ怒鳴り付け、大半の人間は、これで道を退くものだ。そうでない人間も、顔に拳で一発入れてやれば大人しくなる。
それがデッドの知る世の中だった。だと言うのに、目の前の人影は退く様子を見せない。どうやら拳が欲しいらしいと見えた。
「どきやがれって言ってるだろうがぁ!」
威圧的に、ぶっ倒れるくらいの強さで右腕を人影の顔へ叩きつけようとするも、人影の頬に拳が触れる前に、その腕が止まっていた。
止めようとしたわけでは無い。人影の手が、こちらの右腕を掴んでいるのだ。
勢いよく振るったはずの腕を、いとも容易く止められた。そう気づいた瞬間、人影が口を開くのを見る。
「いけないな、そうやって暴力を振り回すのは!」
人影が何か言っている。結構な大声でだ。
これでは夜であろうとも人目を引いてしまう。本来であるならば、さっさとこの場を去るか、声を上げる人影を振り払うところであるが、今はそれができなかった。
強く。本当に強く人影に握られた自分の右腕が、まったく動かず、自分から行動の大半を奪っていたからだ。
「て、てめぇ……何者だ!」
こっちの問い掛けに対して人影は笑った。夜闇の中であろうと、むかつくくらい白い歯を見せているので間違いない。
「良くぞ聞いてくれた! 僕こそがこの王都の怪人、ブルーさ!」
悪くは無いのだ。
エイド国フォーリング家は地方貴族として順風満帆な一族であった。領民から慕われ、王家からの信頼も悪い方ではない。
当主のヘリントン・フォーリングは今年32歳でまだまだ若いが、その能力を自他共に認められている。別に英傑とか逸材とか言われる程ではないが、その地位にふさわしいと認められるくらいには才覚があったし、経験も積んでいた。
伴侶にも恵まれている。妻、リィミー・フォーリングは穏やかな女で、絶世の。という言葉さえ頭に付けなければ、美しい女性である。
年はヘリントンより2つ下で、穏やかな女であった。表に出るタイプでは無いが、内助の功という物で、日ごろから領地運営に忙しいヘリントンに対して、家内の一切を取り仕切る形で、ヘリントンと家そのものの負担を減らしてくれている。これだけでも、世の中の妻と呼ばれる女性の中で上位に立っているのではと思う。
夫婦仲も良い。貴族の常として、恋愛結婚では無く、家の事情で添いを遂げた仲になるものの、十分に互いを愛している。妻に直接聞いたわけではないが、愛し合っているとも思う。ヘリントン自身、婚姻してから育む愛というものが確かにあるのだと実感していたのだ。
悪くはない。さしあたって大きな問題も無いのだから、本当に悪くは無かった。むしろ良い人生の半ばにいる。今のヘリントンは幸せだった。それは自信を持って言える。
それでも頭を悩ます事柄があるとすれば、それは子に恵まれぬというその一点のみにあった。
「領民方の申し出、受けてみてはどうでしょうか?」
ある日、妻のリィミーはヘリントンにそんな提案をしてきた。ただ、正直なところ、ヘリントンはその提案に乗り気では無い。
馬鹿にされているとは思わないが、揶揄されているとは感じる。その事に引っ掛かりを覚えていたのだ。
「村の祭りに参加するのはやぶさかでは無いさ。予定も空いている。招待されている以上、歓待だってされるだろうしな」
最近、少しだけ出てきた腹を摩りながら妻の問い掛けに答える。
領主の仕事における運動の比率は少ない。一方で食事の比率は結構あるから、節制しなければすぐに太ってしまう。
ただ、太るから招待されるのが嫌というわけでは無かった。そんなものは、余暇を運動に費やせばなんとか帳尻は合う。それくらいには若いつもりだ。
問題は祭りの内容である。収穫を控えた秋の近いこの夏。領内にある村の一つ、テニージ村は、この季節まで順調に収穫物が育っていることに対する祝いとして、地元の神へ感謝を捧げる祭りを行うそうだ。
それ自体も別に構わない。領地が栄えるのは領主である自分のおかげであり、神の力ではない。だから祭りを行うなら自分を対象にするべきだ。なんて狭慮な考え方をするほど、捻じ曲がっているつもりは無かった。
どんな形であろうとも、人には祈る対象が必要だ。そう強く思う。それに神様なら、太り気味の体に悩んだりもしないだろうから、祈る対象としては丁度良い外見をしているだろう。だからこの点に関しても何ら問題は無い。
懸念があるとすればだ。その神への祈りを捧げる祭りに関して、領民がいつもとは違う提案をしてきたことである。
「わかっているのかね? 今回の祭り、神に子を授けてくれるように頼んだらどうかと、あの村の長は提案してきたのだよ?」
要するに早く子を成せという催促だ。奥様もご一緒に。とも言われているため、かなりの確信犯であろう。遠回しとすらも言えない。むしろかなり直接的に、世継ぎがいないと不安で仕方ないと訴えて来ているわけである。
自分は良い。自分にはまだ領主と言う立場がある。多少の不満は領主の義務として飲み込める。
しかし妻はどうなるのだ。領主の妻としてもっともやるべきことは世継ぎを生むこと。そう考えている領民は少なくあるまい。そういう人間にとって、リィミーは領主の妻として失格なのだ。
ふざけるなと声高に言いたい。彼女がどれほどフォーリング家に尽くしてきたか、心無い輩は一切理解しないのである。
「前々から良く言っているが、この件に関しては君の責任ではあるまい。あるとしたら私だよ。私にあるのだ」
「お願いですから、その様なことを仰らないでください……」
眉をひそめながら妻はそう言うが、ヘリントンにはいろいろと思い当たることがあるのだ。
例えば子どもの頃、蛙にしょんべんを掛けた憶えがある。もしかしたらその祟りやも。いやいや、それとも、近所の池で大きな石を落して遊ぶなんてことしていたので、池の主が怒ったのかもしれない。
兎に角、そんな理由で原因はこちらにあり、妻には一切責任は無い。というのがヘリントンの結論であった。
「私はね、君が悪く思うことは無いと言っているのだ。子を成せぬ不幸はあるかもしれん。確かに存在している。だがね、そのことで君が気落ちする表情を見せるというのは、私にとってもっと不幸だ」
いざとなれば養子を取れば良い。それにしたって貴族らしい選択ではないか。ヘリントンはそう考えている。
「だとしても、こうまで来ては、やはり何かに祈るしか無いというものではありませんか」
妻の言う通り、神に祈るしかできぬ状況ではある。夫婦仲は悪くなく、そういう営みだって少なくはない。
ただ一向に子は授からない。食事に生活に方角にと、色々な方法を試してはいるが、一切効果は現れぬ。
お互いの肉体に問題があるのだとするのであれば、もう縁起物か神に頼るしかないと妻が考える理由も分かった。
「笑われるために向かうのではなく、自らのために祭りに出たいと、君はそう思うわけかね?」
「それで無理なら諦めもつきますわ」
もしや今回、誘いのあった祭りは、妻にとって最後の手段なのかもしれない。そう思うと、誘いに乗って、祭りに赴く気にもなってくる。
さて、こうしてヘリントン・フォーリングは領地の祭りに参加することを決意した。まさか祭りの日の夜に、待望の宝児を授かるとは夢にも思わずに。
「ぼっちゃまー! ぼっちゃまー……どこですかー!」
侍女のサナの声が聞こえる。漸く目の覚めたレック・フォーリングの脳裏に、真っ先に思い浮かんだ言葉はその程度のものだった。
その程度のものだったので、特に深く考えずに返事をした。
「サナー、こっちー」
と、返事をした時点でしまったと思う。今の自分をやっと把握したからだ。
上半身を起こし、下半身を見る。相も変わらずちいちゃな体。もう少し大きくなっても良いのにと思うが、ままならぬものである。
年はまだ13歳。望みなら絶たれていないと思いたいのだが……いや、そうじゃない。
「あー……しまった云々より、服汚しちゃったよ。どうせばれるよね、これ」
現在、どうやら自分は地面に仰向けで倒れているらしい。その地面は、野ざらしの場所というか、林の中なので、存分に汚れている。
落ち葉や土で茶色くなった服。軽装ではあるけれど、こうなる前はそれなりに小奇麗だったので、汚れが目立つ。
さて、問題はこの汚れた服だろう。別にこんな場所で昼寝をする趣味は無いため、服を汚したくて汚したわけではないことは理解して欲しい。
では何故こうなったかと言えば、この場所のちょうど上にある木の枝に問題がある。いや、ちょっと言い方が違うか。上にあったと表現する方が正しいかもしれない。
「坊ちゃま! いったいどうしたのですかその姿は!」
倒れている姿を、侍女のサナに見つかった。
彼女はとても口うるさい。もう既に結婚適齢期のはずだけれど、特段良い人というのはいない。そういう感じの女性だ。口うるさい代わりに面倒見は良い。こうやってこちらを探してくれているのも、仕事であるというのもあるが、それ以上に心配してくれてのことだろう。
「うん……なんだろうね?」
とぼけるフリをしてみるも、付き合いがそこそこにあるサナ相手だと通用しない。どうしたのかと尋ねられたが、きっと彼女は分かっている。
木に登って、さらに枝に足を掛けたところ、枝が折れて、地面に落下した間抜けな小僧こそが、坊ちゃまと呼ぶ対象であると。
「怪我は!? 怪我はございますか!?」
「ああ、うん。大丈夫。ほら、見てのとおり」
「まあ! お召し物がこんなに!」
しまったの2回目だ。これ見よがしに汚れた服を見せつけてしまった。怪我は無いけれど、後ろめたさはある。
「ええっと……うん。汚すつもりは無かったんだよ」
言い訳をしてみると、サナの顔は怒りのそれに変わる。心配する必要が無くなり、次の段階に至ったわけだ。
「怪我は……本当にありませんか?」
怒り顔のまま、最後通牒の様に尋ねてくる。ここで上手い嘘を吐けるほどに、神経が図太くないことが悲しい。
「無い。無いよ……あと、服、ごめん。なんかほら……この色に染まりたい気分だって服が―――
「でしたら、奥様に報告させてもらいます」
息子のレックは待望の跡継ぎであり、それ以上に愛した妻と自分の間にできた、目に入れても痛くない跡継ぎである。
息子が生まれる前、村の神へ祈りを捧げる祭りに参加したのが効いたかは分からない。ただ、大凡、願いは叶う形になったのだ。
子どもであればどの様な姿形でも。そんな風には願ったが、あの時、さらなる欲があったのであれば、きっと男子を。それも壮健な男子をと願っていたところだろう。
そうして、どうにも神様はサービス精神が旺盛だったようだ。きっと妻の日頃の行いが良かったせいだろう。自分だけでは並の子か、そもそも願いは通らなかったはず。そう思う。
産まれた子どもは、素晴らしいことにとても健康だった。頑健と言い換えても良い。産まれてより健やかに育ち、自分の知る限りにおいて、大きな病気になったことも無かったはずだ。
なんという幸運か! やはり妻の行いは大変に良いものだったのであろう。どんな家庭でも、子どもを欲していれば、そういう子どもを望む。
もっとも良い子とは健康で、少なくとも親より長生きしてくれる子なのだから。
ただし怪我をすることはあった。自分で歩ける様になると、あっちこっちへと出かけ、小さな生傷を沢山作って帰ってくる。その度に妻は驚き、治療しつつ、子を叱りつけたものである。
そのあたりに関しては、ヘリントンが何かを言えた立場ではない。
子どもの頃の傷は男にとっての勲章だ。なんて思う部分もあるし、年を経ていれば落ち着くだろうとも考えていた。
ただし、やはり怪我をしたら叱られるもの。叱ることも親の愛だと気付くまでは、嫌な思いをさせるべきだとも考えている。
だからまあ、息子の怪我が酷いもので無い限り、父親が何がしか口には出すまいと心掛けていた。
息子もその思いをくみ取っていたかは知らぬが、その酷い怪我というものを、産まれてから一度くらいしかしたことが無かった。なので、自分が本気で怒ったのはその一度のみである。
そういう態度が良かったのかもしれない。息子は比較的、父親の方が気安い相手だと思い、いろいろ悩みを打ち明けてくる様な関係性を築けている。
総じて幸福である。息子の体は、領民の子らと比べても頑丈で元気で、さらに聡い部分もある。貴族として、当家の跡取りとして、既に勉学を初めているが、飲み込みが早いと王都から呼んだ家庭教師にも太鼓判を押された。良くぞ産まれて来てくれたと、本人の前では言えぬものの、抱きしめたいくらいなのである。
だからこの後に続く不満は贅沢な不満だ。息子が元気過ぎるなんてことは、本当に贅沢な不満なのだ。世の中に、幼い子どもを失う親のなんと多いことか。
ただ、父親の責務としては、いくらか忠告すべきことがあるとヘリントンは考える。それだけは確かだろう。
「今回はさすがに弁護し切れんな。2、3日は部屋の中で押し込まれることを覚悟するべきだろう」
「やっぱり……そうですか?」
息子はいたずらを叱られた子どもの様な顔を浮かべる。つまり妻の決めた仕置きはきっちり効果のあるものということだ。
この子は外出が好きで、いろんな場所へ向かう事がもっと好きなのである。元気で結構であるが、偶に、こういう失敗をする。そうして妻から何がしかの罰を与えられる。
「何時も言っていることだがね、何かやるにしても上手くやることだよ。服を大げさに汚せば、どんな言い訳もできん。しかしそうで無ければ、どんな行動でも言い訳はできる。わかるかね?」
「はい。今度はもうちょっと、足元に気を付けることにします」
しゅんとする息子を見て、この子が私の話をしっかり役立てるだろう事を予想した。ちなみにヘリントンとて、真っ当な事を言っていない自覚はある。
しかしだ。この聡い息子は、既に世の中の道徳、常識というものの固さを理解しており、上手く物事を渡りきるには、ちょっとした工夫が必要という事を学び始めた頃合いだと、ヘリントンは知っている。
ならば父親としてすべき事はなんだろうか? それは恐らく、息子の成長をより促してやること。何も知らぬ子どもでは無く、何かを知り始めた少年として接してやる事が親の責務だろう。そう考えていた。
「怪我をしない様にしているのは素晴らしいことだと思うね。受け身の方法でも誰かから学んだかね?」
「屋敷の奥書庫で、戦闘技術本があったので、つい読み耽ってしまいまして」
「それは素晴らしい。本も埃溜めにならず喜んでいるだろうな」
なんというか、親子の会話とはこういうものだったろうかと疑問に思いながらも、息子がそれなりに世を渡り歩ける存在へなりつつあることを喜ぶ。親は何時だって、子どもに逞しく育って欲しいと思うものだろう?
「さて、そろそろ罰の時間だぞ。自分の部屋に戻って、書庫の本でも読んでいなさい。欲しいものがあれば使用人に運ばせよう。多少反省した態度を見せれば、母様も1日くらい、部屋への閉じ込めを短くしてくれるかもしれん」
「はーい……わかりましたー」
露骨に肩を落として、息子は部屋を出て行った。あの態度のままであれば、妻もそう長い間、息子を部屋に閉じ込めはしないだろう。
あれはあれでとても子煩悩なのだ。でなければ、出かける度に叱られる息子へ、その度に許し、再度外出許可を与えるなんてことはしない。
「それにしても……」
息子が扉を閉め、私の部屋から遠ざかっていくのを確認してから、ヘリントンはふと独り言の様に呟いた。
「日に日に頑丈になっていくな。あの子は」
息子が落ちたという木。確かあの辺りの木々はとても高く、成人だろうと上から落ちればただでは済まない高さだったと記憶しているが。
レック・フォーリングはベッドで仰向けになり、自室の天井を見上げていた。何時も寝起きと就寝の際は良く見る天井で、特段、これと言って思うところはない。
ただ、どうにも今日は嫌な気分になってしまう。何故ならば、暫くはこの天井とそれを支える壁や柱に囲まれた部屋で過ごさなければいけないから。
「父上の言う通り、上手くやれなかった代償ってやつだよね。いや、子どもがやんちゃなのは仕方ないことだから、その点は反省しないよ? うん」
木の枝から足を滑らせたのも失態と言えば失態だけれど、今度は滑らない様に心がける。それでこちらに関する反省はお仕舞だ。
後は、もし同じ事態になった時、どうやって上手く言い訳をするか。そこに尽きる。
「意識を飛ばしちゃあ駄目だ。その時点で僕の判断力、そのすべてが奪われる。落ちた時、頭を庇うべきだったか、もしくは多少の振動で気を飛ばさないくらいに鍛えるか。そのあたりだろうさ」
まったくもって反省の無い言葉を呟きながら、本人なりには今後に活かすべき、発展性のある思考を続けていた。暫くは外出禁止だから、こうやって考える暇はいくらでもある。
「やっぱり、体捌きが重要だね。頭でっかちは駄目だよ。健全な精神は健全な体にって言葉があるけど、鋭い思考には鋭い動きが……はいってるよー。ちゃんと反省してるー」
部屋の扉がノックされた。それはこちらを自由にしてくれる外界への扉であり、別に鍵は掛けられていない。
けれど、今は母から言い渡された、謹慎という罰の真っ最中。これを破ることは母への裏切りであると同時に、自分の中で納得できないもやついたものを生み出してしまう。
だから、自分から扉を開くということはしない。別にものぐさというものでも無いとは言える。
あと、さっきまでの独り言が聞かれていないかという焦りもあった。
「レック坊ちゃま。頼まれていた御本を探してきましたが」
自分に対して坊ちゃまと言うことは、これは使用人の誰かだとレックは判断する。女性だけれども、昼間、こちらが木から落ちたところを発見したサナではない。それよりもっと若い声だ。
さらに対象を狭められる条件として、坊ちゃまの上にわざわざレックと付ける使用人に限られる。と、ここまで考えたところで、わざわざ考えるほどの相手でも無いことに溜息を吐く。
この声についても良く知っている。そもそも、フォーリング家が雇っている使用人は、同じ規模の貴族と比較すれば少なく、そんな状況で、この世に生を受けてからずっと過ごしているのだから、殆どの使用人は、外見と声と名前が一致していた。
とりわけ、この声の主については。
「ありがとう、ソウカ。鍵は開いてるから、入っても構わないよ」
ベッドから起き上がり、使用人の一人、ソウカを招き入れる。彼女は扉を開くと、一度辞儀をしてから、部屋の中へと入ってきた。
「では失礼します」
ソウカは背が小さい。というより、体格全体が小柄だ。今年13になるこちらと同じくらいか、尚小さい。
それについては当たり前。だって、彼女は自分と同じ年齢なのだ。むしろこちらが彼女より貧弱な体格だったとしたら、その方がショックである。
ソウカは長い黒髪を後ろでまとめた髪型をしており、そんな髪を大きく揺らしながら、部屋内にある机の上に、何冊かの本を置いた。全部、自分が探すように頼んでいたものだ。
「いやあ、良かった。無かったら、暫くの暇な時間、どう過ごそうか悩むところだったよ」
ベッドから起き上がりながら、その勢いのままにソウカの隣に立つ。うん。良かった。やっぱりこちらの方が身長は高い。
「それは良きことですけれど、また無茶をなさったんですか?」
ジト目でこちらを睨んでくるソウカ。そんなの、使用人が主人の家の嫡男へ向ける視線じゃあないぞ?
「無茶って言うか……ほら、権力者でも、自然の気まぐれには勝てないって言うかさ」
「奥様から聞いております。木から落ちたそうですね。情けない」
気安いなんてレベルじゃない対応をする。とても使用人らしき目線じゃないぞとソウカを見つめながら、それも仕方ないことだと思いなおす。
彼女とは、お互いが六つになるくらいからの付き合いだ。
当時、なんの因果やら、フォーリング家が直接的に治めている領地には、同年代の子どもと言うのが少なかった。
それはつまり、レックという少年にとって、遊び友達が少ないということでもある。
子どもは友人と遊ぶべきだ。できれば立場なんかは気にせずに。というのが領主である父の考えだったから、その状況はやや問題視された。
そうして貴族らしいやり方で、その問題を解消しようと試みたのだ。結果、彼女がフォーリング家の使用人をしている。
元々、彼女は領内にある別の村の子どもだったのだが、領主が提案する形で、領主屋敷の使用人として雇い入れることにしたのである。
当時のソウカの年齢は六つ。使用人と言ったって、何がしか十分に仕事ができる年齢ではない。彼女に求められたのは、レックの遊び友達としての役割だったのである。
(ってことは、まんまと父上の狙いに乗せられたわけだね。僕はさ)
ソウカ側がどう思っているか知らないが、レックはソウカを使用人であると同時に、友人だと考えていた。
だからこそ、いくらソウカが気安い態度を示しても、それを咎めることはしない。友人同士は気安いのがむしろ普通なのだから。
「木から落ちたのは確かに失態だね。だからこそ、こうやって、また学ぶことから始めるってわけさ」
ソウカが机の上に置いた本のうち、一冊を手に持って、表紙を彼女に見せた。表題は『カタルタ兵団技術書』。
だいたい40年くらい前に存在していた兵団が所持していたものらしく、団員向けの訓練方法や作法などが載っている本だ。カタルタ兵団は剣や槍と言った武器そのものより、それを扱う肉体の技法に主眼を置いた戦い方をしていたらしい。
なので、その技術書も肉体の動かし方や、変わった道具を上手く扱う腕捌きについてが多く掲載されている。
「またその様な……無用で無駄な知識を……」
頭を痛めるかの様に、ソウカは額に手を置く仕草をする。お互い、そんなポーズが似合う年齢でもないだろうに。
「無用じゃあないよ。無駄なんかじゃもっと無い。きっちり技術として利用させて貰ってるんだ。今日だって、あの枝が少ない癖に異常に背が高いセルカコ杉を天辺まで登りきったんだよ? それもこれも、この本のおかげってわけ」
表紙を手でポンポンと叩きながら、如何に価値のある本かをソウカに説明する。こういう技術書は貴重なのだ。失われていくはずの経験や知識を、離れた場所や世代に届けることができる。
自分の肉体の頑丈さを理解しているから、後はそれをどう扱うかと悩んでいたころに、この技術書を見つけることができた。
幸運な事だったとレックは思う。最近では持て余すばかりな自分の肉体を、より有効に使うことができるのだから。
「はぁ……」
「な、なんで溜息を吐くかなぁ」
「いえ、せっかくの貴重な御本も、レック坊ちゃまに掛かれば単なる遊び道具なのだなと思い、つい溜息を吐きたくなったわけでは、決してありません」
つまりはそういうわけなんじゃあないか。レックはさすがに怒りたくなったが、この度の失態は自分にあるため、抑えておくことにした。
やはり、みっともない言動はしないでおきたいのだ。貴族として。別にソウカへ思うところが有るわけでは無い。無いのだ。
「知識の実践は世の中に必要不可欠だよ。本は貴重で大切だけど、残すだけじゃあ埃が被ってしまうだけさ。僕はね、こういう本に載った技術や知識を実行することで、この本の本当の価値をだね……」
「奥様にもそのような言い訳を?」
「もうちょっと、耳障り良くは言ったと思う……かな」
頬を掻きながら、次は交渉術が載った本を活用しようと心に決める。自分でも、言っていて説得力の無い話だなと思ったからだ。
「坊ちゃまの本音は良く存じておりますから、あまり遠回しな表現はしない方がよろしいですよ。余計な誤解を招きます」
本音……確かに、本音はある。その本音も、長い付き合いのソウカにはバレバレらしいけど、他には隠せていると思いたかった。
「おいそれと言えない本音なら、隠すために言い訳を繰り返さなきゃいけない時って、あるもんじゃない?」
やや、自嘲気味に笑みを浮かべて、ソウカに尋ねる。こういうことを言えるのも、ソウカが友人だからだ。
「確かにその通りですが、私にも、どうにもできぬ事柄ですから……愚痴や弱音なら、幾らでも聞きますけれど」
そんな、友人らしい言葉を返してくるソウカ。ただ、悩みの解決には、まだまだ遠く感じられた。
食卓で妻と二人きりというのは久しぶりかもしれない。
ヘリントン・フォーリングはそんなことを考えながら、ナイフとフォークを動かしていた。正確に言えば、侍従が食卓に料理を運んでくるわけであるから、完全に二人きりと言うわけでもない。妻とは談笑だってするため、静寂に包まれている。ということでもない。
ただ、どこか静けさを感じてしまう。それはきっと、息子がここにいないからだ。現在息子は自室に謹慎させているため、勿論、部屋で食事を取らせている。折檻とはそういうものであろう。
ただ、妻も大分怒りを収めてくれたため、この静けさも明日までだと思う。そうであるならば、むしろ丁度良いことだとすら思った。
食卓の静けさが寂しさに変わる前に、話しておかなければならないことがあったのだ。
「なあ、リィミー。レックについてどう思う?」
「どうもこうもありませんわ。相も変わらずやんちゃで、困ったものです。もう13になるのですから、少しくらいは大人らしくなって欲しいとは、あなたも思いませんか?」
「まったくだな。そう、もう13になる。まだまだ若いが、大人へ近づいていく年頃だ。育ち、学ぶ年齢から、それを活かす年齢になってきている」
「あなた?」
こちらの会話の意図が分からぬと、妻は首を傾げる。だが、ヘリントンはそれを一種の恍けだと考えた。
妻は無意識的に、これからするような話を、これまで避けて来ていた。それはヘリントンも同じである。が、何時かはしなければならない話でもあった。大事な話だ。恍けてばかりもいられない。
「王都の古い友人から、誘いが来ている。司書官の役職が一つ空いたからどうだ? と。勿論、私自身への誘いじゃあない。今さら書類整理なんぞする立場じゃないからな。ではいったい誰に宛ててのものか。わかるだろう?」
「あの子にはまだ早過ぎます! あっ……失礼を」
妻は大声を上げ、その後、口元を手で隠した。やはり、かなりの動揺があったらしい。仕方ない。親とはそんなものだ。子は何時までも子どもで、自分の手から離れ、独立していくなど想像もしてない。
誰しもが、自分の子どもは未熟のままであると思い込む。
「私にだって不安はある。が、早過ぎるということも無い。あの子くらいの年齢で、既に公職に就いている人間はいくらでもいるのだからな」
そもそも、国にとっての貴族とは、国の機能の一部を担う存在だ。ヘリントンが貴族なのは、国から領地運営を委託されているという考えから来ているし、妻もまた貴族であるが、それは配偶者と言う立場から、ヘリントンの補佐及び代理としての仕事を任されているという考えの元からである。
貴族は生まれながらに貴族なのだという人間もいるが、その自負は、生まれながらに国の機能を担っているという事実から来ている。その事実を知らずにそんな言葉を口にする人間がいれば、それは貴族では無く詐欺師であろう。
「あの子は私の後継者となる、たった一人の後継者だ。しかしだね、領地運営というのは生半可な仕事ではない。小さな国を治めるという事に近い。何も学ばずにその役目を担わせることなどできもしない」
そんな事態になってしまえば、それこそ親の責任と言う話になる。何時までも檻の中にいさせるということは、子のすべての責任をすべて奪い去ってしまうことなのだから。
勿論、ヘリントンはそんな親には、絶対になりたくない。
「あの子は……レックは、これから貴族の流儀というものを、多くの場所で経験する必要があるだろう。頭が柔らかい年齢のうちから、外の世界も知るべきだ」
通常、貴族の子は、若いうちに王都へと派遣され、そこで何がしかの要職に就く。
勿論、十全に仕事が行えるわけも無いが、四苦八苦の中で、国というものを、外の世界を知り、その後、再び領地へと戻ってくるというのが慣例である。
貴族は贅沢を人一倍するかもしれないが、苦労もまた人より多く経験しなければならないのだ。ヘリントンもそうであったし、その苦労の中で妻のリィミーと出会うことができた。
この過程を踏まない貴族は、大概が歪む。自分と自分の領分に閉じこもり、大きな世界……例えば国や、さらに他国、世界そのものへの摺合せができないからだ。
だからレックについても、機会があれば、王都へ出してやるべきだと考える。しかしこれは理屈の話だ。
「その様な事は分かってします。しかし……あの子は……」
妻は言い淀んでいた。もし、続きがあれば、レックは奔放で向こう見ずなところがあるから、王都に出すのはまだ早い。と言ったところだろうか。
だが、それにしたって、余所にはもっと酷い子がいるはずだ。そういう子とて、王都には出される。また、親の贔屓目で無くとも、レックは優秀と言える子どもだった。だから妻もそれ以上の続きを言葉にしなかったのである。
これは情緒の話だ。子は離れて行って欲しくない。レックはヘリントンやリィミーにとって宝児で、できればもっと親として守っていきたいと、そう思ってしまう感情の話だ。
「私とて、あの子にはもう少し、ここに居て欲しいと思う。成長を見守ってやりたい。まだまだ猶予だってあるだろうさ。だがね、親として、君もとっくに気が付いているのじゃあないか? あの子は外の世界を見たがっている」
妻はレックをやんちゃだと言っていたが、一方でヘリントンは聡明な、やや大人びた部分もある子だとも思えていた。
なら、どうして何時も子ども染みた無鉄砲さを発揮してしまうのか。それはきっと、今の世界に狭苦しさを感じているからだ。
有り余る体力と知識。それらはもっと大きな世界で試してみたい。挫折することもあるだろうが、この領地にいる限りは、その挫折すら経験できないと、レックはそう感じているのだろう。
あの子の目は、何時だって親の私達に訴えかけている。手を離してくれるのは何時頃ですか? と。
「私は……怖いのです。見ていないと、本当にどこかへ飛び立ってしまいそうで」
「だが、その飛び立たせることこそが親の役目だろう? 勿論、立派になって帰ってくれば、しっかりと後継者として鍛えなければならないが、それはずっと先。なら、今の親の務めは何になるか……君になら分かるはずだ」
ヘリントンはこれらの言葉を、自分自身にも言い聞かせていた。子離れをさせずに子を引き留める親というものもいるが、自分はその様な親は目指すべきではないと思った。
だから、例え本当の部分では嫌だったとしても、自分が正しいと思う親を演じなければならない。正しいことというのは、誰だってそれを演じているに過ぎないのだから。
「……あなたが決めたことでしたら、私に何かできるものではありませんわ」
そういう事しか妻には出来なかったのだろう。嘘だとしても、レックを王都へ向かわせたいなどとは言えない。そういう妻だ。
だからこそ、その妻の分までヘリントンは子を送り出さなければならない。これは貴族とは何の関係も無い話である。どんな家庭にも言える、家長の責務なのだ。
こうして、レック・フォーリングの与り知らぬうちに、彼が悩んでいた事柄について、いつの間にか解決の道が拓けていたのであった。
レック・フォーリングが父の執務室でその事を聞かされたのは、自室から出ることを許されたその次の日だった。
「王都へ? 僕が……ですか?」
「そうだよ。いますぐというわけじゃあないが、今日くらいから準備を始めなければ間に合わない程度に差し迫った予定だな」
父から、王都で司書官として務める様に命じられた事に対して、レックが真っ先に思ったことは、何かの冗談か、もしくは夢を見ているのか。と言った内容だった。
都合が良すぎるのだ。確かに最近はずっと、この領地を離れ、別の世界を見てみたい。本の知識だけじゃあ自分の好奇心を満たせないから、それを実践できる環境を。などと考えていたが、まさか、ここに来て、そんな幸運が向こうから舞い込むなどとは、考えもしていなかった。
「その……本当なんですか?」
「今の私は、おまえの父じゃあなく、フォーリング家の当主として、さらにはこの地方を収める領主であると言えば、信じられるかな?」
地方領主の執務室で、その領主が命令を下した。それは嘘でも冗談でも無く、もっと厳正なものだということ。
「分かりました。その命、謹んでお受けします」
本当は飛び跳ねて喜びたいところだったか、それはさすがに抑えておく。厳正な命令ということならば、丁寧に対応せねばならぬ。この命令が取り下げられては困るからだ。
「王都で役職を正式に拝命するまでは、まだ仮のものでしか無いが、これでおまえは、貴族としての立場になる。どれほどの端役であろうとも、国の役職とはそれだけの重大さがあるのだ。そのことを忘れないようにしなさい。良いね?」
父の言う通り、王都にて国家運営に関わる役職付になることこそが、貴族として自他共に認められるということである。
では、それまでレックがどういう立場だったかと言えば、貴族の子という立場でしか無かった。
一般的には貴族の子も貴族と思われがちだが、この国においては、名目上ですら役職に付いていない人間は、どんな血が流れて居ようとも庶民なのである。貴族の子、レックも正しく表現すればまだ庶民なのだ。
事実としては、貴族の子は貴族と扱われてはいるものの、それでも立場上、曖昧な存在だと表現できる。
「フォーリング家の家名に傷つけることは絶対にしません。それだけは誓って………ええっと」
「うん? どうかしたか?」
形式通りの返答をしようとしたところで、心にちょっとしたしこりが浮かび上がる。こんなにも都合が良いのはどうしてだろうと。理由があるはずだ。ひょっとして……。
「父上……ここでは領主であることは承知していますが、父上に話をします」
「な、なんだ。いきなり」
「ありがとうございます。必ず、必ず立派になって、ここへ帰ってきますから。約束します」
「……」
父の目をじっと見る。レックはもう、転がり込んでくる都合の良い幸運と言うものを、素直に受け止める年齢では無かった。
つまり、自分の道が順調だと言うことは、誰かがレックの事を思ってこうしてくれたと言う考えに繋がる。そんな相手、両親以外に考えられなかった。
ここは格式ばって使命を果たすと宣言する時ではない。頭を下げ、未熟な自分を認めてくれてありがとうと感謝をするべき状況なのである。
「……何時からだろうな。おまえはきっと、もっと大きい何かになるんじゃあないかと思う様になった。親の贔屓目だとばかり思っていたが……今ははっきりと言えることがある」
「なんでしょうか?」
優しく見つめてくる父。ここに至っては、もう領主と領民や命令する者とされる者なんて関係ではない。
ただ単純に親子としての会話になっていた。
「好きにして来なさい。思う様に生きるんだ。良いな?」
何かしら目標が出来た後の日々とは、どうしてこうも早く過ぎるのか。父から王都へ向かうことを命じられたレックであるが、そのための準備。王都へ向かう際の荷物の整理や、王都での一般的な作法やマナーについて学び、さらには向こうで世話になるだろう相手へのやり取りと、忙しく日々を過ごしていた。
これが最初の仕事だからと、両親からの手伝いは最低限のものとなり、屋敷の従者達にも命じているらしく、レックへ手を貸す者は殆どいないのが現状だ。
その殆ど以外、数少ない手伝い人として、ソウカがいた。
「荷物は両手で持てるくらいにしましょう。他に必要なものがあるのなら、向こうで取り揃える事で、あちらの生活に慣れる事もできます」
レックの部屋で、レック以上に忙しく動き続けるソウカ。そんなソウカを見て、レックはつい尋ねてみたくなった。
「うん。分かってる……けどさ、ソウカは……良いの?」
「この手伝いのことでしたら、私は坊ちゃまの手伝いをして良いとのことですので、ご心配なく」
「そういうことじゃなくって……これはつまり、ソウカも僕の付添いとして、王都へ向かうことになるってことだろ?」
王都への派遣については、いくら命令と言っても、裸一貫で向えというものではない。そこはやはり貴族の家柄。慣れ親しんだ従者も一名連れて行き、向こうでの生活の助けとする文化があった。
王都への滞在を始めて暫くは、良く知る者はその従者一人だけであり、その後もずっと付き合いを続けていくことになる。となれば、気心の知れた相手が適切であり、レックの場合、ソウカがそういう人材であるということは分かる。
その点に関してレック自身も問題なしと考えているのだが、ソウカの方はどうだろうか? この地方は彼女にとっても故郷であり、そこを離れて別の場所で暮らすというのは苦痛なんのでは……。
「まず第一に、私は坊ちゃまへの付き添いを領主様より命じられました。それに逆らうことなどできません」
それはまあそうだろう。一使用人が、既にある決定に逆らうことは、余程の理由が無ければ出来ることではあるまい。
「そうして二つ目として……坊ちゃんと王都で過ごすこと。それほど嫌というわけでもございませんから」
「……」
なんだろう。なんだか照れる。ソウカからやや視線を逸らし、頬を掻くレックは、何か別の話題は無いものかと宙を仰いだ。
「あ、そうだ。考えて見れば、出発まであと3日を切ってるんだよね。そういえば」
ふと思いつく様な話でも無かったが、他に話題が無いのだから仕方ない。
「そうですね。既に荷物整理以外のやる事は終えていらっしゃるのでしょう? ならば本当に、待つだけになりますが……楽しみですか?」
ソウカに問われて、どうだろうとレックは自分の心に問いかけた。怖さとか不安は勿論あったが、それ以上の高揚感や好奇心がそれらを覆い隠している。
いったい王都には何があり、どんな出来事が待っているのか。ほんの少し想像するだけでも、鼓動が高鳴った。
「いや、そりゃあいろいろと思うところはあるんだよ? けどさ……やっぱり一番は楽しみだね。うん、楽しみだ。本当に」
手足を震わせたくなる様な感覚。待ちに待った瞬間を待つって、こんなにももどかしいのか。
「では、存分に楽しむと良いですよ。坊ちゃまはそういう姿が似合っていると思います。とっても」
「そうかな? けど、そうすることにするよ」
漸く願いが叶ったのだ。ソウカの言う通り、楽しまなきゃ損になる。
そうして遂に、出発の日がやってきた。領主屋敷の門で止まる2頭引きの豪奢な馬車の前で、父と別れの挨拶を交わすレック。
「これまで何度も言っていることだが、怪我はするなと言わんから、上手くはやるようにしなさい」
「はい。それはもう父上に教えられた通りに」
短い言葉だけを交わす。まるで何時も通りの会話だった。父親との別れなんてこんなものかもしれない。別れの準備というのは、もっと早くから行っているのだろう。後は最後の挨拶をするだけということになる。
一方で、母親とはどうだろうか。レックは未だに顔を出さない母を探し、辺りに視線を向ける。
「彼女なら……別れが辛いからと顔を出さんことにするそうだ。……そんな顔をするな。この件に関しては彼女が悪い。お前が気を落とすことでは無いさ」
父はそう言うが、やはり最後くらいは笑っている顔を見たかった気がする。正真正銘の最後ではないのであるが、気分の問題だ。
「できれば、年に1、2度は帰る事にしますから、その時こそ顔を合わせることにしますよ」
「ああ、それが良い。気難しい関係性には、時間が一番の良薬だろうから」
お互い笑い合ってから、レックは馬車へと乗り込んだ。続いて、横で待っていたソウカも乗り込み、二人で乗車席へと座った。御者が馬を動かすための鞭の音がして、馬車が揺れ動き始める。そんなタイミングで、ソウカが呟いてきた。
「坊ちゃま、あちらの窓から外をご覧ください。できれば屋敷の2階辺りを」
「え? 何が……って、なるほど」
言われた通りに外を見ると、屋敷の窓から、母が目元をハンカチで抑えながら、こちらを見ている姿があった。
レックは何をするべきかと考えた後、ゆっくりと大きく手を振ることにした。母から良く見える様に。
母もそれに反応して手を振り返してきた。とりあえず、母との別れもこれで出来たらしい。ああ、良かった。
「まあ、理想通りってわけには行かなかったけどね。出来れば笑ってお別れが良い」
「みんな笑顔が坊ちゃまの理想ですか?」
「その通り。どんな時だって笑顔じゃなくっちゃさ」
そんな軽口を叩き合いながら、慣れ親しんだ故郷を出発する。向かう先は勿論、エイド国の王都だ。
そこはサブラと呼ばれる都市で、国の中心地……よりはやや東側に位置している。なんでも流通路の発展具合から、そこに位置するのが適切なのだそうだ。
王家となるエイド家はもともと、国の西側にある領地出身であり、純粋に利便性から、歴史のどこかで遷都が行われたと学んだ。
その位置取りはフォーリング家にとっても好都合で、整備された道のおかげもあってか、比較的早く領地と王都を行き来する事ができた。
馬車による移動であれば、日数にして1日と半日。それだけあれば、十分に辿り着ける距離に王都は存在しているのだ。
だから道中に何か事件があるわけも無し。無事に王都サブラへたどり着くことに成功する。
王都だけあって、サブラへの門は普段から厳重な警備下にあるらしいが、レック達がそこに至って立ち往生する。ということも無かった。
「フォーリング家の方ですか? この度はどの様な……なるほど。王室への奉公ですか! 頑張ってください!」
見張りの兵士の一人が、わざわざ向こうから出向き、案内と歓迎が同時に行われた。どうやら、馬車そのものが身分証明の様なものらしく、王都へ入るのに時間を要することはない。むしろしっかりと確認しなくて良いのかと心配すらしたくなる。
「平和なのかな? 貴族って言ったって、荷物検査くらいしても良いと思うけど」
街へと入る門が開き、馬車がその門を潜る間、ちょっとした疑問をソウカにぶつけてみる。
「フォーリング家は古くからの名門です。その一族を疑うというのは、王家にとっては恥になるのかと」
「なるほど。うちの家がそれなりに信用されてるわけだ。父上やご先祖様に感謝だね」
幾ら古くからあると言っても、普段の素行が悪ければこうもいかない。先祖代々、宮仕えの方もしっかりしてきたと考えられる。
そうして、今日からはレック自身がその一員となるのであった。
まずはレック自身、自らの立場を再認識しつつ、馬車が進んで行く。門を潜ると、そこは既に王都の街並みだった。
「さすがだね……街中に畑なんか無いや」
国中の採石場や材木場に存在する資材の、いったい何割がこの街のために使用されているのか。目が眩みそうな程に建物が立ち並ぶ光景。
用途毎に建物の材質は変わっているものの、区画によってそれらは整然と立ち並び、街に統一性とデザイン性をもたらしていた。
中心街道は馬車が通るには十分過ぎる程の広さがあり、四台並んだところで、まだ余るだろう。
レック達を乗せた馬車はその中心街道を進んでいる。区画毎に移り変わる街の景色というのは、故郷では絶対に見られないものだった。
レンガ造りに石造り、木造や良く分からない材質の物まであり、そのどれが、どの様な意図を持って建てられたのだろうか。考えるだけでも興奮していると言うのに、それをこれから知ることになるかもと思えば、それだけで心が弾む。
「坊ちゃま。気分を高揚させるのは良いですが、これから、お世話になる方々と会うことになるのです。どうか慎みだけは維持してくださいね?」
「分かってるって。そういう作法なんかは、それこそ産まれた瞬間から教えられてるし」
今すぐ他の貴族たちに囲まれたって、涼しい顔で応対できるくらいには自信があるつもりだった。
知識を通り越して本能的な部分にも及んでいるらしく、馬車が向かう先、王城へと近づくにつれ、感じていた高揚感が収まっていった。
「着いたみたいだね。こういう場合、案内が来るのが常なんだけど……あ、来た来た」
馬車が王城内の待機場所へと辿り着くと、ソウカと共に馬車を降りる。すると待っていましたとばかりに、案内人らしき人間がやってくる。
「フォーリング家、レック・フォーリング様ですね。お待ちしておりました」
辞儀をする案内人の男。立ち振る舞いからして、王家雇いの従者か家令だろう。名前を名乗る前からこちらの名を呼ばれるのは、事前に今日くらいに王都でやってくる旨を手紙で伝えていたからだ。
ここで事前の意思疎通が不得手な地方貴族となると、慌ただしい中で、何時間も待たされたりする。突然やってくる訪問者なんて、貴族だろうが何だろうが迷惑者に違いないから。
「ちょっと予定より遅れたかな? いや、街の道は見事だったから、きっと僕の出発が遅かったんだと思う」
「いえいえ、その様な。指定されていた時間帯にぴったりでございます。実際、王都へは何度か?」
大仰に反応する案内人。こういうやり取りも礼儀の内に入っている。相手がとりあえずの話はできる相手だという確認だ。
「いや、これまでじゃ一度だけ来たことがあるけど、記憶なんて殆ど無くて。ほぼ初めてみたいなものさ。だからこそ、掛かる時間なんかには大分気を使ったとは思う。できれば、この後もそうしたいかな」
予定通りに事を進めてくれればそれで良いと、暗に伝える。
ここで素直に気楽にして良いなんて言う人間がいたら、それはむしろこういう仕事に就いている人へ戸惑いを与えるだけだから。
「では本日のご予定ですが、まず、王の代理人にお会いしていただき、役職着任の署名と宣言を行っていただきます。また、その後に、お勤めになられる王立図書館へご案内させていただきますね。勿論、そこでも挨拶を。順に館長、他の司書官、さらにこれはご都合が宜しければですが、一般作業員にも顔見せを行っていただきますが……」
矢継ぎ早に予定を告げられるも、それをすべて受け入れなければならない。既にレックの仕事は始まっており、今は本人の能力が試されている段階だ。
「うん、全部やるよ。それが終わったら、普段寝泊まりする場所への案内ってところかな?」
ちなみにすべてを受け入れたが、すべてをこの場で暗記したわけではない。事前の手紙でのやり取りで伝えられていた通りだったのだ。
唯一予定と違うのは、自分がこれから働く場所、王立図書館での一般作業員への顔見せだけ。
ちなみにこの予定の殆どは形式だけのものであり、レックという存在にとって、これから一番大事になってくるのは、付け足しの様に伝えられた一般作業員との顔見せだ。
これから色々と仕事をして行く上で、彼らとの関係性はもっとも大事なのである。いきなり偉そうに振る舞う人間は、いくら貴族だって従ってくれるものではない。
「普段の生活の場所をお望みでしたら、司書官用の宿舎がございますし、部屋も幾らか選べます。街のどこかに宿を取っている方もいらっしゃいますね。その点に関しましては、どの様に?」
「ああ、王都にいる間は街に泊まる予定だよ。『カラハル』って宿、知ってる?」
「『カラハル』ですか? いえ……失礼ながら存じておりませんが……」
どうやら有名な宿では無いらしい。大きな街だ。宿屋なんて幾らでもあるだろうし、仕方ないのかもしれない。
「地図に寄ればここなんだけど」
レックは持参した王都の内の地図を持ち出す。かなり簡略化した地図であり、さらにやや古いものである。が、だいたいの位置なら分かるはずだ。
「ここ……でございますか? いや、まさか……フォーリング家ともあろう方がこんな場所に……ですが……そうか、教育という可能性も……っと、失敬。こちら周辺でその宿があるかどうかお探ししましょう。護衛などは必要ですか?」
何か戸惑った顔を見せる案内人。なんだろう。ちょっとばかり不安になってきたぞ?
「母の親類が経営している宿だそうだから、そう変な場所じゃあないとは思うんだけど、護衛とかも特に……」
「そう……ですか。分かりました。それでは大変にお気をつけてください」
不安しか残らない対応をされて、レックは戸惑うばかりだった。そうして、案内人の言動の意味について知るのは、今日の予定を終えて、宿へ向かう時を待つこととなる。
夕暮れがやってきて、夜が徐々に空の帳を降ろしていく。夜の時間は闇の時間。昼には存在すらしないと思える犯罪者や悪人が動き始める。
それをすべて根絶することは出来ないだろう。人という存在の影にこそ、何時もどこかに闇が存在しているからだ。
街にも同じことが言える。良い街があったとしても、その街のどこかには悪が蔓延る。それは絶対的な現象である。
王都サブラでもそれは変わらない。街の規模が大きいので、むしろその闇の総量も多いのである。
それはどれほどのものかと言えば、広き王都の一画が、そのまま危険な地区であると指定されるほど。
元は街の外からやってきた移住民用の区画として整備されていたところ、良く無いものも多く呼び込んでしまい、あれよあれよと言うまに出来上がった場所という噂。
一般的には貧民街と呼ばれているが、聞く者が聞けば鼻で笑われてしまうそうな。曰く、貧乏人だけじゃああんな混沌とした場所ができるはずがない。
そんな貧民街と通常の街との境界線上。まるで入口の様に街の景色が変わるその場所の、やや貧民街側に、宿があった。
宿の名前は『カラハル』。一般的な宿よりかなり大きめの敷地と木造の建物を持つこの宿であるが、夜だというのに騒ぎが聞こえてくる。一階部分が酒場も兼ねているのだろう。明かりがこれでもかと灯されているため、窓越しですら光が眩しかった。
宿全体の印象は少し汚れていると言った印象。周囲の建物がもっとボロボロだったり汚れていたり、落書きなんかもされている事を考えるに、この一画ではまだ随分とマシな外観をしていると言えた。
もっとも、それも価値観をこの区画基準に合わせればの話だ。
例えばこの場所以外から来た人間。それもどこぞの地方からやってきた貴族の少年からしてみれば、そこをこれからの宿とし、寝泊まりする場所として過ごすなんて、考えもしなければ想像だってしてない。そんな場所であるはずだ。
そんな宿、『カラハル』の入口前で、レックとソウカは佇んでいた。
「……冗談か何かかな?」
「そうかもしれませんね。それも悪い方の」
お互い顔を見合わせて話す。本当にここは、貴族の奥方であるところの母が指定していた場所なのだろうかと。
「確かに奥様からは、ここが親類……なんでも奥様の弟様が経営している宿と聞いておりますが……それはもう、随分と繁盛なさっている宿とか」
「確かに繁盛はしてるね。すっごい賑わいさ」
宿の酒場部分からは、笑い声や怒声が絶え間なく聞こえていた。随分と客は多いらしい。ただ、宿部分の客にとっては迷惑この上無い気もする。
「失礼ですが、奥様のご家庭とはどの様なものなのでしょうか? 私、何か重大な勘違いを、これまでずっとして来たかもしれません」
「いや、ちょ、ちょっと待って! 一応、かなり大きな商家のお嬢様って聞いてるよ!? 蝶よ花よと育てられて、貴族の家との繋がりを作ろうと、うちの家に嫁いで来たって。ただ、弟さんは、そういう堅苦しい家柄を嫌ってたらしくてね? 家を出た後、独立して宿の経営を成功させたって……」
宿の経営。その言葉を自分で言ってから、またその宿を見る。宿『カラハル』。どうにも街に来るまで想像していた場所とは、大きく違うらしかった。
宿『カラハル』いや、酒場『カラハル』と言った方が良いかもしれない。そんな喧噪に包まれたこの店は、中に入ってみても、やはりドタバタとして騒がしい雰囲気に包まれていた。
少し横を見れば床に突っ伏した中年男性がいるし、酒が満たされたジョッキを掴み、笑いつつも、そろそろ喧嘩に発展しそうな口論をしている二人の若い男性もいる。
酒場の隅で商売道具らしきもの(刃が付いた何かに見えるのはきっと気のせいだろう)を研いでいる老人の姿を見掛けるや、その前方を若い女性のウェイトレスが忙しなく駆け抜けて行った。
全員が全員騒がしいというわけではないが、まとまりが無く、そうしてやはり喧しい。耳が落ち着かず、ただそれが騒音なのだと認識するのみである。
「うん。最初は驚いたけれど、これはこれで良いじゃないか」
「本当にそう思っていらっしゃいますか?」
ジト目でこちらを見てくるソウカ。そりゃあ思っているとも。もしここで普段から寝泊まりするということになれば、この喧しさを日常にしなければならない。それを想像すると心がどうしてか疲れるくらいには、ちゃんと思っている。
「住めば都って言葉が確か何かの本に載ってたはず……」
「甚だ疑問に思う言葉ですね。住み易い場所と住み難い場所ってあると思います」
ソウカがどこか疲れた表情を浮かべながら答える。その疲れは表情だけでは無いのだろう。家を出て馬車で移動し、王都に着いてからは挨拶回りを続けていたわけで、ずっとレックに付き添っていたソウカの体力はかなり消耗しているはずだ。
一方でレック自身はと言えば、勿論、かなり疲労を感じてはいるものの、生来から体力はある性質で、ソウカよりはまだマシと言える。何時だったか、2、3日眠らずに過ごせた事もあるくらいには自信のあるものだった。
ただ、この景色をずっと見ていると、そのマシな体力というか精神力がいつまで持つか不安にはなってくる。と、そんな風に考えていると、宿の店主らしき人間がこちらに気付いたらしく、ドカドカと大きな足音を立てて近づいてきた。
「おお! もしかしてお前さん、レック坊やか?」
大きな声の大男だ。やや色の抜けた茶色の髭を生やし、髭と同じ色の頭髪は薄く見えた。体格は骨太と言った様子で、似合わない給仕用のエプロンは付けているものの、大分汚れている。
「えっと……あなたが、カーベルバ叔父さん?」
「叔父さんかぁ……お前さんがリィミー姉さんの子どもだってんならそうなるな! いや、前に見た時は小さかったのに、随分と大きくなったじゃねえか」
カラハルの店主。これから会う予定であった人物であり、レックにとっては叔父にあたる彼、カーベルバ・ディルトナルは豪快に笑った。
しかし随分と大きくなったとはどういうことだろうか。レックの記憶の中に、カーベルバのこの顔は無いのであるが。
「失礼ですけど、以前にも?」
本当に失礼かもしれないが、聞くは一時の何とやらだと思い尋ねてみる。
「憶えてねえか? お前さんがこんな小さい頃に一度だけ会ったんだが……」
こんなと、手でジェスチャーをするカーベルバ。その大きさは赤子くらいのものである。そりゃあ憶えているわけが無い。
「記憶の片隅に残っている様な……無い様な……」
つまり記憶に無いわけであるが、それを直接的に告げない情緒くらいレックにはある。
「そりゃあ良かった!」
何が良いのだろうか。とりあえず向こうから手を差し出して来たため、握り返すことにする。ごつごつとした太く大きい手で、握手を求められているのだ。
「よろしくな! レック! それとそこの……確かお手伝いさんが同行するって聞いてたんだが……」
カーベルバはソウカを見て戸惑っている様子。ソウカの外見は年齢相応であり、お手伝いというよりも甥の友達か何かにしか見えないのだろう。
「彼女は間違いなく、僕の従者ですよ。ソウカと言う名前の。ソウカ、挨拶を」
後ろに控えていたソウカへ向き、その後、彼女が前に見える様に、横へと避ける。
「フォーリング家に仕えております、ソウカと申します。現在はこちらにいらっしゃるレック・フォーリング様の従者としての任を仰せつかっています」
丁寧に辞儀をしているソウカであるが、現在は。という発言は違うだろう。なにせ、フォーリング家に来てからずっと、ソウカはレックの従者を続けているのだから。
「お、おお……仕えて……な」
さて、このやり取りにて、カーベルバもさすがにこちらがそれなりの家格に属する人間であり、少々この宿に不釣り合いな存在だということを分かってくれた様だ。
(これでちょっとした行き違いが是正されて、お互い、住むべき場所に住みなおすって感じにもできるんだろうけど……うん。なんだろう、それはちょっと面白くない)
絶対に面白くない。レックはそう思った。先ほどソウカに言った、これはこれで良いという表現は、本音の部分で嘘は無かったのだ。
ここでなら、フォーリング家の領地に居た時からは想像も出来ない経験が出来そうなのだ。新天地に憧れていた自分にとっては、むしろ歓迎するべき状況では無かろうか。そう思い始めていた。ならばどうするべきか。
(ちょーっと、頑張ってみようか)
レックはカーベルバが次の言葉を発する前に、まず酒場を見渡し、この場の雰囲気の理解に努めた。こういう場において、自分が望む状況を作りだすにはどの様に動けば良いか。それを瞬時に判断する事が重要だ。
(やれるさ。そういう訓練もしてきた。貴族にとっては必要なことだからね)
レックは笑みを浮かべる。ほくそ笑む表情でも、慎ましやかな笑みでもない、ひたすらに元気良く見えるだろう溌剌とした笑顔を。
「みなさん! 僕の名前はレック・フォーリング。叔父のカーベルバの元で、今日からこの宿で居候させてもらうことになりましたっ! 常連の人とは顔を合わせることもあると思いますけど、よろしくお願いしますね!」
「……」
酒場中に響く声で自己紹介をする。さて、どんな反応が返ってくることやらとレックはやや焦りを覚えていた。上手くやれたと思うのだが、酒場にいる全員が何事かとこちらを見ている状況で、焦らない人間はあまりいない。
果たして、その結果はレックが望むべくものとなった。
「おー! 坊主! よろしくなぁッ!」
「この変は危ないから夜はうろつくんじゃねえぞ!」
「店長の親戚にしちゃあ綺麗な顔立ちしてんじゃねえか!」
大半の人間が歓迎してくれた。ここは酒場であり、基本的には騒ぎ楽しむ場所。小難しい話も暗い話題も必要ない。ただ元気にこちらも調子を合わせれば、向こうは自然と受け入れてくれるのだろう。
「ほら、やっぱり住めば都だよ、ソウカ。それと叔父さんも、これからよろしくお願いしますね」
レックは振り向き、未だ怪訝な表情を浮かべている二人に、ここを王都での居住地を宣言したのである。
「ここへ住むってことは分かった。そりゃあ大層なお坊ちゃんだったこと結構な驚きだが、それはこっちの不手際だしな」
酒場も客がいなくなる時間となり(つまりかなりの深夜だ)、レックとソウカは店主のカーベルバと共に、今後についての話をしていた。
客が散々に汚したテーブルを挟んでの話し合い。まあ、真面目な雰囲気には中々ならない。それでも、これからの生活にとっては肝心な話である。
「お互いの認識の違いについては、僕の方は、いろいろと経験してこいという母からのエールか何かだと思って受け入れることにしましたよ。ええ」
「うちの姉ってそんな独創的だったか……? まあ良いか。元々その予定だったわけだし、そっちが良いってんなら構わねえんだ。ただ、貴族の坊ちゃんってことなら注意しとかなきゃいけねえことが幾つかある。心して聞けよ?」
「はい。なんていうかドキドキですね。そういう入り方をする話題って嫌いじゃありませんよ」
ふざけている様に見られたのか、カーベルバはやや眉をひそめた。しかしレックはふざけているのでは無く、なんだろうと楽しむつもりという姿勢なだけである。
「まず一つ目だが……ここらへんの地区の裏道にはおいそれと入るな。外から言われるほどスラム街ってわけじゃあないし、むしろ華やかな部分はあるが、それも大通りだけの話だ」
混沌とした場所である。という情報だけは事前に聞いていた。実際、見て見なければ分からない部分はあるのだろうが、そもそも迂闊に見学できるかどうかも怪しい場所らしい。
「やっぱり、ルール無用の残虐行為が俺たちの世界だ! って感じなんですかね?」
レックの頭に思い浮かぶのは、明日どころか一秒先すらも考えないマッチョで髪型が個性的な男どもがたむろしている光景だった。
「いや、むしろルールならあるんだ。だが、それが複雑で、どんな行動がルール違反になるか、長く住んだ奴にしか分からんって話でな。慣れるまでは大通りだけを歩け。どんな遠回りになってもだ。分かったか?」
素直に頷いておく。これはこちらを気遣っての言葉だとレックは思うからだ。人を思っての言葉というのは、何だろうと肯定的に受け入れるのが人間関係を良くする方法であろう。
ただ、それに従うかどうかの本質的なところは、とりあえず余所にしておく。
「次に二つ目だな。姉さんからそれこそ2、3年くらいは余裕で寝泊まりさせられる代金は貰ってる。飯だって作ってくれと言われりゃあ作るから安心しろ。そっちの口に合えばだけどな」
「いえいえ、こうやって店を開いてる人の料理に、あれこれ文句なんて言いませんよ」
母はかなり奮発してくれたらしいなとレックは内心で思う。2、3年くらいの期間はこの王都に滞在しなければならないだろうが、前払いでその額を支払うという契約は中々に無い。
(やっぱり、宿がこんな場所にあるなんてのも思って無かったんだろうね。もうちょっと高めの宿なんかを想定していたんだろうさ……うん)
王都にいる間はこういう宿で過ごすのも修練の一つ。などと本気で思われていなかった様で安心した。
「あの、私の部屋などは……」
と、今まで控えていたソウカが発言した。これまでレックについての話ばかりだったので、住む場所はあるのかとさすがに心配し始めたらしい。
「安心しな、嬢ちゃん。お前さんの分も合わせての説明だからよ。姉さんからの話じゃあ二つ分の部屋をって話だったから、忘れられちゃあいねえぜ?」
つまりはソウカの分の部屋と食事もきちんとあるらしい。それは重要だ。彼女とはこれまで長い付き合いだし、これからも長く付き合うことになる。そんな彼女を無下には扱えない。
「ええっと……坊ちゃまよりかは格落ちの部屋の方が……」
「あん? その方が良いのか?」
使用人としての矜持が働いたのか、レックよりも粗末な待遇が良いと発言するソウカであるが……。
「いいえ。僕と同じ部屋や食事内容で良いです。せっかく用意してくれた部屋に対してあれこれ言うのは失礼だよ、ソウカ。っていうか、部屋にそんな格の差がある宿に見える? ここがさ」
「おいおい。宿の店主を前にして言うことじゃあねえだろ……いや、実際そうなんだけどな。だから嬢ちゃん。悪いんだが、格落ち部屋の用意ってのは勘弁してくれや」
「う、うう……わかりました」
ソウカもかなり使用人根性が染みついている。レックと二人きりの時はそれなりに気安くなる部分はあるものの、それでも対外的な格好を気にはするらしい。
「よし、じゃあ二つ目もOKだな? それじゃあ最後に一番大切な三つ目だ。さすがにお前さん程度の年齢相手にゃあ心配し過ぎかもしれねえが、口は達者そうだからな、言わせて貰うが……」
いったい何が飛び出すやら。もっとも大切な話と言われては、それなりに緊張もした。
「俺の娘には手を出すな。お前さんには従姉ってことになるんだろうが、器量良し性格良しの上物件だ。注意しなきゃ手を出す輩がたくさんいるんだよ。ここいらにはな」
「はーい。紹介されたレベッカでーす。レックくんとソウカちゃんはよろしくねー」
と、カーベルバに示された先には、店員として先ほどまで働いていた女性が手を振っていた。
彼女の名前はレベッカ・ディルトナル。カーベルバの一人娘であり、つまりレックの従姉ということになるだろう。
結婚適齢期よりかはまだ前と言った印象はあるが、レックより明らかに年上であり、カーベルバの言う通り、美人の類である。
(母さんと同じ血筋だな。これは)
絶世の。美しい。という言葉よりかは、愛嬌や可愛らしいと言った言葉が似合う顔立ちであり、女性らしい程度に短くした亜麻色の髪がなんとも似合っていた。
「言われた通り手は出しませんけど……っていうか親戚ですし」
「貴族ってのは親戚同士結婚するもんじゃねえのかい?」
「うちの母は父と縁戚関係じゃないでしょう? いや、そういう近親婚をしがちな貴族もいるにはいるんで、否定はできないんですけどね……」
血筋で家格を維持している家柄であれば、祖父や祖母の代で同じ人物に行き当たるなんて良くあるらしい。
一方でフォーリング家は実力主義。跡継ぎは長子と決まってはいるが、その長子はとことんまで知識と経験を詰め込まれ、領地運営に関わる年齢になれば、その仕事振りで周囲を納得させることを強いられる。
この王都へ若いうちから滞在するのもそういう側面があった。一生を領地内で暮らす事が多い領民よりかは世界というものを知る機会が増えるため、その分、上位に立つことができる。
「ま、だから一番大事だがとりあえずって話だ。そういう話でなきゃあいくらでも仲良くなってくれて構わねえよ。俺たちゃあ親戚同士。言ってみりゃあ家族だ。おっと、そこの嬢ちゃんもそう思ってくれて良いんだぜ?」
カーベルバは無骨な外見で、荒っぽい雰囲気をまとった男だったが、この言葉でレックは彼を信用できる人間として見る事にした。
ソウカを家族として見ても構わないという言葉には、レックにとってそれだけの価値があったのである。
さて、慌ただしい王都の一日が終わろうとしていた。やってきてから色々な人間に出会い、恐らく明日も同じくらいの人間と出会うだろう。
だが、とりあえずは一旦の休憩。ベッドに手足を投げ出し、微睡みの中で体に休息を与える時間だった。
レックもまたベッドに寝そべっている。ただ、まだ完全に眠ることはできない。ベッドの隣で椅子に座ったソウカがいるからだ。
「今後の段取りとかは明日の話にしようよ。ソウカも自分の部屋っていうのを貰ってるんだし、そこで休んでも良いよ?」
いい加減、ソウカの体力の方が限界だろうとレックは思う。彼女に倒れられては事なのだ。
「いえ、まだ納得できるまではお部屋を離れることはできません」
ちらりと横目で見ると、真剣さと困惑を混ぜた様な表情を浮かべるソウカの顔が見える。疲れを、そういう感情で抑え付けている様にも。
「納得って、ここを宿とすることがそんなに不満? 一応は、フォーリング家の親戚が運営している宿ってことになるんだけど?」
「それはそうですが……! 坊ちゃまが暮らしていく様な場所とは思えません」
やはりと言うか、彼女の心配は彼女自身というより、レック本人についてだったらしい。彼女自身の疲れよりも優先すべき事項が、彼女にとってはそれなのだろう。
「フォーリング家ってのを持ち上げすぎだよ、ソウカ。親戚たどれば一般の商家にも行き着くってことは、こういう場所で寝泊まりできる身分でもあるってことさ。僕みたいな世間知らずにとってはね、こういう場所が一番丁度良いんだ。って、こういう場所って言い方も失礼か」
例えば、明日フォーリング家が無くなったらどうなる? レックはコネも無く、世間も知らないため、路頭に迷うことになるだろう。
そういう不安は、きっと将来への自信をも揺るがせる。自分は自分の身一つくらいは生活させることができるんだという自負が、世を知らぬ小僧には一番必要なのだ。
(それに自分一人だけじゃなく、あと一人くらいは養えるくらいになりたいしね)
あえてソウカから目を逸らしながら、レックはこの場所で暮らすことの意味について考えていた。
もっとも、ソウカの方はレックが目を逸らし、睡眠に移ろうとしている様に見えたのだろう。少し声を強くして話しかけて来る。
「けれど、やはりわたしは心配です……!」
「そういう心配のされ方はね、情けないけどちょっとうれしいよ。理屈じゃない感じだし……だからこっちは卑怯な言い方しかできないかな。主人の命令だから従えって」
ソウカ相手にはあまり言いたくは無い言葉であったが、彼女の心をとりあえずは納得させるための言葉でもあった。
「お互い、今日は疲れてる。複雑にあれこれと考えても上手く行かないと思う。話の続きはさ、また明日にしよう。明日には明日の事件が起こるんだろうけど」
「……わかりました」
納得はしていないが、この場はとりあえず引き下がる。そんな気分にはなってくれたらしい。部屋から立ち去るソウカを見て、漸く目を瞑ることにした。
疲労感はすぐに心地良い睡眠欲となり、眠りへと誘ってくる。そんな状況だから、レックはすっかりと忘れていた事がある。
部屋の戸締りだ。
夜の闇は悪の味方。昼の光の元ではすぐに暴かれる悪心を、その姿ごと隠してくれる。その男もまた闇を味方に付ける人間の一人だった。
男は夜が深まる前に、獲物を見つけていた。その獲物とは金持ちだ。男が縄張りとしている場所では見ることすら珍しい人種が、何故かは知らぬが近場で寝泊まりするらしい。
男の経験や知識の中には、金持ちとは油断をする人種だという常識が存在している。だからこそ、油断しても守りが堅い場所で引き籠っている奴ら。という印象を持っていたのだが、どうやら今回の金持ちはそうでも無いらしい。
油断したまま守りも固めない金持ち。男にとっては絶好の獲物としか映らないそんな相手。見逃す手は無かった。
男は夜闇を味方につけている。自らの姿をもっとも闇の中へ溶け込ませる方法を良く知っている。
それは音を無くすことだ。闇は姿を消してくれるが、音までは消してくれない。だからこそ音も無く潜み、音も無く歩き、音も無く部屋へと侵入していく。
男にはそれが出来た。部屋の鍵が掛かっていなかったのも、男にとっては幸いだった。さすがに鍵を開けるとなれば音が鳴る。金持ちが寝泊りしている宿は、金持ちらしく鍵はそれなりのもので、男が持つ技術では無理やりに開けることすら難しい。
だが、その最大の難関が、金持ちの油断により取り除かれた。やはりは金持ち。自分の宿では自分を狙って舌なめずりする悪人なんていないと、そう考える。
そんな甘っちょろい考えの相手に対して、ちょっとした罰を与える。そう考える男は、今回の仕事はちょろく、そして楽しみのある仕事だと認識していた。
その視界に、誰かの目が映るまでは。
「へっ!? えぶっ―――」
男は姿勢を崩す。足元がふらつき、視界もぐらつく。立っているのがやっとの状態に陥って、漸く自分の状況を理解した。
喉への強烈な痛み。こちらを見る二つの眼。喉を突かれたのだ。結果、呼吸に支障を来し始める。
痛みを逃がそうと息をする度に、突かれた喉がさらに痛む。すぐに肺は酸素を失い、脳はもっともっとと呼吸を促す。
その度に男は痛みに悶え、倒れそうになった。そんな男の後頭部に何かの感触。ふらつく男は、その感触が誰かの手の感触だと気が付かない。
男はただ、痛みが辛いか、床が自分に迫ってきているという考えしか浮かばなかった。そんな考えも、床にぶつかり、その瞬間の衝撃により消え去っていった。
結局、部屋の主により喉を突かれ、安定を欠いた体を頭ごと床に叩き付けられたという客観的な事実を、男は気を失うまで理解することができなかったのである。
慌ただしい一日が終わり、次の日の朝がやってきた。
まだ昨日の疲れが残るソウカであるが、とりあえずは何時も通り一日を始めようと心がける。そうして目を覚まし、顔を洗い、身嗜みを整え、主人の部屋の前で待機しようと移動した段階で、空いた口が閉まらなくなった。
主人であるレックの部屋の扉が開いており、その中に困り顔の三人。レックと宿の店主であるカーベルバと、その娘のレベッカがいたことは、謎に思いこそすれ驚くことではない。
ただ、その三人以外の、薄汚れた格好をした小汚い印象の男が、ベッドのシーツで縛られているのを見たからには、驚かないわけには行かなかった。
「あの……どういう?」
この状況は何だろう。そういう疑問を込めての問い掛けだったが、カーベルバには、床に転がる見知らぬ男はいったい誰だ。という言葉として聞こえたらしい。
「おお、嬢ちゃん起きたかい? いや、何、こいつの名前はメイヒイっていうケチな盗人さ。ここいら一帯っても、ちょっと外に出たところで小銭を盗むやつでな。久しぶりに金払い良く店に来てると思ったら、まさかレック坊やを狙ってたとはなぁ……」
「坊ちゃまを狙って!? そもそも、盗人と分かってお客として歓迎をしていのですか!?」
少しばかり気が遠くなりそうになる。気を失うと今後の仕事が出来ないから、必死に意識を繋ぎ止めていた。
「うちは客であれば誰でも歓迎だぜ? その分、割増料金は取るが、飯は上手いから大丈夫だ」
「な、何が大丈夫なのですか!?」
何故か自信満々に断言するカーベルバに、怒声混じりで叫ぶソウカ。その隣で、レベッカが手を合わせて謝罪の姿勢を取った。
「ごめんねー。うちもさぁ、商売だから、お客の選り好みとかできなくって……その代わり、部屋の鍵とかはちゃんと上等なの用意してるのよ?」
「そういう問題では無く……はっ、そうだ! 坊ちゃま! 坊ちゃまは大丈夫なのですか!?」
自分にとって大きな失態である。レックの無事に関して、まず真っ先に確認するべきだった。ソウカは大慌てで、目の前に立っている主人に声を掛けた。
「僕は無事だよ。無事っていうか、無事過ぎるから問題っていうか……」
レックは横目で、縛り付けられ、床に転がっている盗人を見ていた。が、そんなのは関係ない。どこかに怪我でもしていたら大変だ。
主人に近寄り、その体をきょろきょろと確認していくソウカ。幸運なことに、彼の体にこれと言った怪我は無い様子。
「無事の何が問題なのですかっ。坊ちゃまに怪我でもされたら、領主様やお母様に申し訳が立ちません。だいたい何時も坊ちゃまはそういう風に自分の体を蔑ろに………え? その、状況を察するに……坊ちゃまがやっつけちゃったと考えてよろしいのでしょうか?」
幾らかこちらの感情も落ち着いてきたところで、現状を把握し始める。普通、この様な状況であれば、レックが慌てるか怪我をするかと言った具合だろうが、何故だか盗人が部屋に転がっているという状況。
このやや奇妙な状態はいったいどの様にして出来上がったのか。ソウカには想像できるものが一つあった。それはレック本人が盗人を退治してしまったという状況だ。
「いや……まあ……寝込みを襲ってくるっていうのは強盗の類かと思ってさ。待って、待ってよ。単なる物取りだって分かってたら、さすがにもうちょっと穏便な対応をしてたよ?」
言い訳っぽく話をするレックであるが、話の焦点はそこではない。ソウカに関しては、主人が危険に遭ったというそのことを問題視しているのであり、ガーベルバやレベッカは、もう少し違う事を考えているに違いない。
つまり、何故レックの様な少年が、大人の盗人をこうも容易く捕えることが出来たのかについてだ。
「ははは。で、どうしよっか。この人」
焦り顔を浮かべたレックが、とりあえず状況を進めるためだろう、盗人を指さして尋ねてくる。ソウカにとっては、どうしたものかと同じく困惑するところであり、他の二人に答えを任せたいところだった。
「どうするっても、自警団に突き出すくらいだけどよ……うちの客に手を出したって部分は、個人的にやりてぇことはあるけどな」
前者はともかく、後者は物騒だからやめて欲しいとソウカは思う。それがこの地区のルールなのかもしれないが、レックが寝泊まりする場所について、これ以上、物々しい場所であると認識したく無いのである。
「じゃあ今回は被害者側の顔に免じて、自警団に突き出すだけってことにしときましょう!」
「坊ちゃま!?」
物騒なのは嫌だとソウカも思ったものの、当事者のレックから軽い言葉が出てきたことに驚く。いや、けど、こういう感じの主人であることはソウカも十分知っているけれども。
「うーん。レックくんがそういうなら別に構わないんだけど、自警団に引き渡すにしても、どうやって捕まえたかとか聞かれちゃうと思うんだぁ。そこのところ……どうなの?」
「あ、ああ。そのことですよね……やっぱり話さなきゃ駄目か」
レックがまだ困り顔を浮かべている。やはり一番に気になるところはそこなのだろう。レックが何故、盗人を倒すことができるのか。それを答えなければ、この場は収まりそうになかった。
ただ、どうにもレックは上手く話せる自信が無い様子。ならばここはソウカの仕事だ。主人が困った時に手を貸すのが使用人の仕事。
王都に来てからは主人の後に付いていくことしか出来ていないのであるし、ここらで存在感を出して行きたくもある。
「レック坊ちゃま。この後のご予定もあるでしょうし、もしよろしければ、この場は私に任せて、先に今日のやるべき事をしていただけませんか? 坊ちゃまについても幾らかお二人に説明することになるでしょうが、その点に関しましては許可をいただければ」
「えっと……本当? ソウカ? 僕としてはすっごく助かるけど」
主人の許可が出たため、今日の仕事はレックの付き添いでは無く、この宿で起こった厄介事の処理と、今後のための事情説明というものになりそうだ。
「まあ、嬢ちゃんが事情を説明してくれるってのなら俺も構わないけどよ。ってか、盗人に入ったのはこいつの方なんだから、そっちが話し難いことがあるってんなら別に話さなくっても良いんだぜ?」
どうやら、カーベルバはかなり気を使ってくれているらしい。この気遣いに対してどう行動するべきか。それを決めるのはソウカでは無い。ソウカはレックの顔を見て判断を仰ぐ。
「いえ、ここでの生活は長くなりそうですし、こっちの事情なんかも、知っておいてもらった方が良いと思います。そういうことだから、ソウカ。君に任せる。変に隠し立てなんかしなくて良いから、好きに話しちゃって」
「好きにとは、つまり坊ちゃまについて、あること無いことを話したって構わないと?」
ちょっとばかりいたずらっぽく尋ねてみる。これについては使用人の仕事なんかじゃなく、なんとなく、友達との談笑みたいな感覚での質問だった。そんな質問に、レックも笑みを浮かべつつ、軽口で応酬してきた。
「任せるって言っちゃったからね。どんな人間として紹介されても、覚悟しなきゃ……かな?」
主人のその返答を聞いて、ソウカは深々と辞儀をした。
「坊ちゃま……レック・フォーリング様は、生来より、非常な程の頑丈な体をお持ちなのです」
レックが『カラハル』を出て暫く、ソウカは店内の酒場部分の椅子に座り、開店準備をしているカーベルバとレベッカに、自らの主人についての説明をしていた。
ちなみに盗人に関しては、早々に自警団へ突き出している。
「頑丈ってのは……頑丈ってことか」
「パパったら、そのまんまじゃない」
カーベルバの言葉にレベッカがツッコミを入れているものの、ソウカだってそれ以外に表現方法を知らない。
兎に角、レックは体が頑丈なのだ。例えば打ち身などで腫れあがったりした時も、数時間で腫れが引いたり、普通なら骨折しかねない衝撃があっても、少し足が痺れる程度で済んだりする。切り傷やひっかき傷などでも、すぐに瘡蓋が出来て血が止まり、それも短時間ではがれ、薄皮が張っている様な状態になる。
幼年期からの付き合いであるソウカ自身、そういう主人の異常な頑丈さを直接目にしていた。本人は両親に心配を掛けまいと秘密にしている様だったが、ソウカから見ると、その特性について、ややバレていた節もあったと思う。
「まあ、頑丈なのは分かったけどよ。単なる個性って言えばそれまでだろ。それが今朝の一件とどう関わってくるんだ?」
棚に並べられたコップを布巾で拭きつつ、ガーベルバが尋ねてくる。その通りで、頑丈なだけでは部屋に侵入した盗人を捕えたりはできないだろう。
ここまでは、あくまで前提の話である。
「ある時、事件がありました。領内の、屋敷近くの野山に大きな猪が侵入したのです」
「へえ。そりゃあ危ないねー」
店内の清掃を始めているレベッカを見て頷く。そう、危なかったのだ。
「坊ちゃまはその野山で、猪と遭遇してしまいまして……」
「こっぴどくやられたってわけか」
これもまた頷く。いくら頑丈だって子どもである。狩りの技術や知識なんてものも知らない。一方的にやられるだけであった。
「坊ちゃまは大怪我を負ってしまいました。さすがに隠しきることもできず、旦那様はそれはもう大きな雷を落として……」
「そりゃあ親としては叱る。そもそも怪我だけで済んだことが幸運だろ。その……頑丈さってのもあるんだろうが」
ここまでも当たり前の話だった。獣が人を襲うのは遊び半分の行動では無く命がけの行動であり、結果、人側の命に係わるなんて事態は幾らでも聞く話だから。
ただ、この結果を受けての行動が、レック・フォーリングという人物の変わった部分であったのだ。
「坊ちゃまも反省したのですが、その反省の仕方というものが、今度は同じ失敗をしないぞというものでして。その……戦い方を学び始めたのです。さすがに表だってはしていませんでしたが、教本の類は手に入りやすい環境にありましたので……」
これについては、さすがにご両親にも内緒にしている。ソウカとレック二人だけの秘密だった。
ちょっとした技術や知識だけなら兎も角、実際に相対した相手をどうやって捕縛し、無力化し、時には命を奪う段階まで進ませるかという技術だ。些かどころではなく物々しすぎる。修練を積んでいるという事が知れるだけでも大きな問題となるだろう。
「そういう知識を実践しちゃったのが今朝のことってこと? 盗人の話聞く限りはかなり手馴れてたらしいけど」
いくら学んでいたとしても、それなりの経験が無ければ上手く行くものなのかとレベッカは疑問に思ったらしい。
「私も学んでいる事しか知りませんでしたので、ここからは私の想像でしかありませんが……実践についても、既に何度かしているのかもしれません……はい」
幼い頃からの付き合いとは言え、レックは行動が読めないタイプの人だった。万が一、そういう可能性もあるのではないかという想像を、実際に行っていてもおかしくは無かった。
「びっくりする話ではあるな……けどよ、幾ら反省して自分を鍛えなおすことにしたって、そこまでするもんか?」
「坊ちゃまならします。というのも、先ほど話した生来の頑丈さについての話に戻るのです」
やることこそ予想できないものの、やった事に対する理由を想像できるくらいには、ソウカはレックの事を知っていた。
「尋常じゃないくらいに頑丈……だったか」
「はい。明らかに一般人とは違う身体。そのことに坊ちゃまは何時も違和感を覚えていらっしゃいました。どうして自分はこうなのか。この違いは何が原因なのかと。だから、そんな体の使い方を積極的に学んでいたのでしょう」
自分の生来からある資質についての大きな疑問。それはレックの行動理由にとって、大きな部分を占めているらしかった。
ただ、答えが見つかる事は無かったし、やはり他者とは違うという部分を意識させられる事しか起こらなかったそうであるが。
「ふぅん。私だったら、そんな体でラッキーって思うけどな。怪我とかすぐ治っちゃうんでしょ? 便利じゃない? って、いったーい!」
軽く言葉にするレベッカの頭を、カーベルバが叩いた。
「馬鹿。そういう問題じゃねえんだよ。親父もお袋も、自分とは違う。周りにも同じ奴はいねえ。そういうのはな、寂しいんだ。正しいのは周りで、間違ってるのは自分だって、そう思っちまう。それをなんとかしたくて、まず自分の体の使い方ってのを知ろうとしたんだな、レック坊は」
ガーベルバはレベッカを窘めつつ、レックについて一定の理解を示した。もしかしたら彼自身の何がしかの境遇と重なって見えたのかもしれない。だったら良かったとソウカ自身、胸を撫で下ろす。
これはレックにとっては周囲に伝え難い話であり、抵抗を感じるものであるはずだ。それを伝えることを任されたソウカであるから、もし、これで受け入れられなければ、伝えたというソウカの行動自体が主人を傷つける結果となってしまう。
それはソウカにとっても嫌な事だった。
「この王都への滞在も、坊ちゃまはとても乗り気でした。それは恐らく、そういうことなのでしょう」
「広い世界なら、自分と同じ様な奴を見つけられるかもしれねぇ。そうで無くても、自分の悩みなんてちっさいものだと思えるかも……ってことか」
だから、ソウカは王都へ向かうレックに付き従おうと強く思った。例え命令されていなくても、自分から強く訴えたはずだ。
もし、レックがこの街で何か、悩みについての解答を見つけられなかったとき、支えられるのは自分くらいだと思うから。
「確かに、世の中広いわな。もしかしたら、レック坊と同じ身体の人間だって見つかるかもしれねえし、もっと変な奴もいるかもしれねえ。そのために王都にいたいってんなら、幾らでも部屋なんて貸してやる。金払いも良いことだしな」
「そうねー。お客さんは選ばないってのがうちの方針だしっ」
カーベルバとレベッカは、これまでの話を聞き、レックの悩みを肯定してくれたらしい。相談に乗ったり、否定したりというのではなく、そういう話もあるだろうという形の受け入れ。
多分、レックが彼らに一番欲しがっている反応がこれのはずだ。だからソウカも、彼らの反応が喜ばしかった。
「それでは、どうかこれからよろしくお願いします」
深々と辞儀をする。住めば都とレックは言ったが、ソウカはそれを、人々と良き付き合いを続けられれば、どこでも良き場所になるという言葉だと受け取った。
レックが王都へとやってきてから十数日が過ぎた。まだまだ目新しさを感じる街並みだが、それでも慣れの様なものが生まれる頃。
王都においてレックが任せられている仕事は王立図書館の司書官であり、その仕事についても、ある程度の要領を掴み始めていた。
となると、どういうことになるかと言えば、仕事中、雑談などをする余裕も生まれるということ。
「へえ、あそこはやっぱり、単なるスラム街ってわけじゃあないんだ」
並ぶ棚に並ぶ本。それらを整理しながら、レックは作業員の一人、パンタ・カクスと話をしていた。
本来、本の整理などは作業員の仕事であり、司書官で貴族でもあるレックはその様な作業をする必要は無い。というのは建前の話。仕事なんてものは何でも一から始めなければ覚えぬもので、大半の、まっとうに仕事をしようとする人間であれば、貴族だろうと何だろうと、こういう作業の手伝いから仕事を覚えていく。
「ええ。レック様があの周辺に滞在していらっしゃると聞き、そりゃあ驚いたものですが、考えて見れば、中々面白い土地柄で、あえてあそこで。という選択肢もありかと」
パンタはレックより10ほど年上の男性であり、細身な体格と人の好さそうな顔つきが特徴だ。
そんな彼であるが、あくまで庶民。貴族ではないため、レックを目上として扱ってはくる。しかし、レックの方も気安い対応を心掛けているため、この様に雑談をする仲になっていた。
相手がこちらを貴族として意識している限りにおいては、この程度の距離感で話せるのが丁度良いのだ。
「王都の内側にあって外側にある場所……だったっけ? 面白い表現をするよね。別に土地的には、街の外に出っ張ってるわけでも無いのに」
こういった雑談は、今のレックにとっては何より貴重だった。自分より経験を持った人間と親しくなるのは損ではないし、こういう話をしていく中で、慣れぬ街に慣れていく。仕事とは関係の無い話かもしれないが、少なくとも、この話題はレックにとって興味もあった。
「どういう理屈かは分かりませんが、あそこは外からの人間が良くやってくる場所なんですよ」
外からの人間。王都という一つの完結した社会における外側という意味だろう。レック自身も言ってみればそういう立場である。
「そのせいで治安が悪く、スラム街などと呼ばれていますが、その言葉と違って華やかというか……うん。飽きない場所なんです。昼間行くなら、別にこれと言って危ない場所ではありませんし」
パンタが変わった感性を持っているわけではないだろうから、これは王都の住民共通の認識なのかもしれない。一方でスラム街と揶揄される程度には、危険な場所という認識もある。
(治安が悪い理由は、当たり前の話として外から来る人間が多いから。違う文化が増えれば、そりゃあ諍いも増えるからね。縄張り意識とか、そういうのも出来るさ)
一方で文化の坩堝という考えから、王都にはない物や人、そうして新しい考えが生まれやすい。と、ここまで考えたレックであるが、これは教科書通りの考えだなと反省する。
(一番ここで思うべきは、なんであの地域に、外からの人が多く集まるのかってところだ)
王都の門は別の場所にある。本来、その門周辺こそが、外の文化と触れ合う上で、もっとも活発な場所であるはずだ。
だと言うのに、『カラハル』のある場所周辺が外界との接点となっているのは、必ず理由があるのだろう。
「あそこは……外からの人間が住み易い土地柄ってことかな?」
「え、ええ……まあ、そういう表現もできるかと」
言葉を濁すようにパンタは肯定するが、本質的な回答ではないと見えた。深くは聞かないし、まだ聞ける間柄で無いため、この返答が来た時点で話は終了だ。世間話を中止して、自分の仕事に専念する事となった。
詳しく聞きたい話は詳しく聞ける相手に聞くとしよう。
「ああ、そりゃあお前、ここいらにゃあ外来の人間に仕事を斡旋するやつらがいるからさ」
仕事を終えて『カラハル』へ戻る。最近は、帰ってからカーベルバにレモネードを作ってもらって飲むのが日課になっており、今日もまた、彼に差し出された飲み物をレックは口に含む。
本日の話題は仕事中に気になった話であり、聞いてみるとすぐに答えが帰ってきた。
「仕事の斡旋ですか。ああ、外から王都に来る人の大半は地元で食い詰めてか、一攫千金をって類ですから、不思議な話じゃないのか……」
基本、人を雇う時は雇われる側の信用が重視される。一方で外来の人間の大半はその信用が無い。どこの誰とも知れぬという言葉がそのままに外来の人間の評価となっているわけである。
レックの様に身元確かに王都へやってくる人間なんて、貴族か商人くらいではないだろうか。
「外からの人間にゃあ、自分は仕事が出来ますよって看板が必要なのさ。その看板持ちがベイレイン組ってやつらで、もう何十年もここらでデカい顔をしてんだよ」
貴族や商人の類では無いが、少なくとも組織として統一はされている。そんな集団らしい。ベイレイン組は、王都へやってきたものの仕事先が見つからない外来の人間に仕事を紹介し、紹介先にはベイレイン組の保証付きだと売り込む。そうして双方から仲介料を手に入れると言ったシステムなのだそうだ。
「そのベイレインって組合ですか? 聞く限りではそんな悪い集団じゃあ無さそうですけど、カーベルバさんはあんまり良い印象持って無さそうですね。仕事場で話に出た時も、言葉濁す感じで聞かされましたし」
「斡旋する仕事がな……。真っ当な物ばかりなら良いが、外来の人間に適正があれば何でもさせちまうのさ。ほら、お前さんが王都にやってきてすぐに退治しちまったあの盗人がいただろ」
そういえばそんな事があったなと、盗人の顔を思い出そうとするも思い出せない。既にレックの中では、あまり印象深い事柄では無くなっていた。
「その盗人も、ベイレイン組から仕事を紹介されたってことですか? その割には犯罪なんかに手を染めちゃって。組合も顔に泥を塗られたってところか……」
「違う違う。紹介された仕事ってのが盗人なんだ」
「はい?」
普通。泥棒の類は仕事なんて呼ばない。犯罪と呼ぶ。故に仕事斡旋業者が泥棒を紹介することも無いだろう。
が、どうにもこれは、ここらの常識では無いのだとレックは知ることになる。
「王都にやってくる奴らの中には、地元から追われてって奴らもいるんだよ。なんで追われたかって言えば、やっちゃいけねえ事をしたってところだろうな。だが、ベイレイン組はそのやっちゃいけねえ事をした奴の腕を買いやがったのさ」
盗人として腕を持つ人間は盗人として、強盗をした者には強盗を、そうして、人殺しには殺しを。
そんな物を仕事と称して紹介するのだ。
「ベイレイン組ってのはな、そういう仕事をしやすい場所ってのを外からの犯罪者に紹介するのさ。そっちも、紹介料を取ってな」
「なんですかそれ。そんなのしてれば、そもそも組合自体に信用が無くなる。普通の仕事は紹介できなくなる。紹介される側がお断りだ」
どこに犯罪者に犯罪を行わせている組織から人を欲しがるというのか。すぐに斡旋業なんて出来なくなるはずだ。だというのに、何十年とそんな事をしていると言う。何か絡繰りがあるのだろう。
「そこが商売の上手いところでな。最初は普通の斡旋業者だったらしいんだ。それも手ごろで手厚いって具合の仕事振りよ。この地区が派手に発展してるのも、その頃の手腕がずっと続いてるからさ。表向きの仕事は、まず上等な部類に入るだろうな」
一方で、裏向きの仕事はひっそりと進められた。最初は斡旋した従業員から仕事先の情報を集めることから始め、その次に、カーベルバの言う通り、犯罪者にその情報を提供する。
この仕組みが浸透する頃になれば、勿論、組合は不正を行っていると手を切る業者も出始めたらしいが……。
「そういう手を切るって啖呵切った業者の情報を、優先して売り払っちまうのさ。そうなりゃあ分かるだろ? 表稼業の人間が去る代わりに、裏稼業の人間がやってくるんだ。ただでさえ従業員の斡旋を断って商売がガタついてるんだ。トドメの一撃ってなもんで店ごと潰される」
表が優良で裏が悪辣と言うのが一番厄介なのだそうだ。少しでも浸透してしまえば、黙って利用した方が得だと認識されていく。
「だいたい、今のこの地区の状況が分かりかけて来ましたよ。治安が悪いって言うのも、治安をそういう風に操作してるんですね、ベイレイン組って言うのが」
「まあ……な。ベイレイン組を良く利用して金払いも良いって店には、不思議と犯罪者が近寄らない代わりに、そうじゃない店が良く狙われちまうのよ」
不思議な偶然もあったものである。偶然では無いのだろうけれど。
「じゃあ、このカラハルが前に盗人に入られたのは……」
「うちはベイレインの野郎どもへの金払いが悪くてな!」
歯を見せて笑うカーベルバであるが、相応に苦労しているはずだ。この地区を取り仕切っているのがベイレイン組なのだとしたら、敵対と言うほどで無くても、かなり被害を受けているはずだ。
「パパったら、ほら、そういう頑固なところあるからさぁ。っていうか、もうすぐお客さんだって来るんだから、辛気臭い話やめてよねー」
話を聞いていたらしいレベッカが横槍を入れてくる。けれど確かに、酒場で話す様な話題では無かった。
「煩せえよ! だいたい、実家が堅っ苦しくて飛び出したってのに、こういう場所でもあーだこーだ決まりを守らなきゃってのが嫌だったんだよ、俺は!」
このまま口喧嘩でも始まりそうになってきたため、レックはレモネードを飲み干して、二階の自室へと帰ることにした。
必要悪かどうか。それをまず考えるべきだ。世の中は複雑だし、すっきりと行かないものなのだから、どこかに吹き溜まりが生まれる。
それは仕方ない。が、それが不必要なほどに肥大化するのは止めるべきだし、そもそも必要だからと言って、なんとかしようとする試みを止めてはいけない。
ただ、一般人にそういう理念を理解してくれと叫ぶつもりは無いし、そもそもが筋違いである。理念を持つべきは国を取り仕切る側。言ってみれば貴族と呼ばれる存在であるはずだ。
「また何か妙な事でも考えてるんですか? 坊ちゃま」
自室で考え事をしていたはずなのに、何故か隣にいるソウカから指摘が入る。もしかして顔にでも出てたろうか。
「あのね、ソウカ。僕は考えなきゃいけないことしか考えないんだよ。それ以外の事について考える時間があれば妄想に使うね。今、ちょうどギャラクチャーが世界を支配するために軍隊を動かしたところ、各国の有志が集まって対策を練り始める感じで盛り上がりはじめてるんだからさ」
「坊ちゃまがどんな空想に思いを馳せていても、何か言うつもりはありませんが……」
言う割に、呆れたと言った様子で溜息を吐くソウカ。そりゃあレックもギャラクチャーと言う名前はどうかと思った。もっとこう、悪の幹部的な名前を付けたかった。
「時々、心配になる事をしてしまうのが坊ちゃまですし、気を付けて欲しいと思うところではありますね」
「ああもう、最近は母上みたいな事も言い始めたね、ソウカ。だいたい、なんで僕の部屋にいるのさ。ソウカの部屋だってあるんだよ?」
「私は坊ちゃまの使用人ですので。日に一度くらいは、こうやって傍にいさせていただきます」
何というか、自分がベッドに寝転がり、そのベッドの横でソウカが椅子に座っているという風景が、日常になってきていると思うレック。これではいけない。
「日に一度くらいね……。そりゃあまあ、仕事場に連れて行く用があんまりないから申し訳ないけどさ」
ソウカの仕事は勿論、レックの使用人として働くことである。しかしだ、細々とした王都での準備が終わり、日常と表現するべき流れになってくると、王都でのレックの働きに、ソウカが入ってくる割合が減ってくる。
これで貴族用の宿舎などであれば、食事の給仕係や、ちょっとした時の荷物運びにと働ける機会もあるのだが、残念ながらこの宿はそんな上等な場所ではない。
自分の事は自分でしてこそ住み心地が良くなる場所であるからして、ソウカの仕事は空いた昼間の間にレックの部屋を掃除するくらいである。
そうなるとソウカの立場が無くなってくるため、なんとかする必要があるとは思っていた。
「ってな感じで、色々と考えてた事の一つがソウカについて何だけど、なんていうか、僕以上に馴染むのが早かったよね? ソウカってさ」
「そうでしょうか? 確かに、坊ちゃまよりは、こういう場所に慣れているとは言えますね」
最近のソウカは、空いた時間に『カラハル』の商売を手伝っていた。真面目で仕事も手早いと評判も良いらしく、その分、給金も貰っているそうだ。
フォーリング家からも給料は支払われているわけで、もしかしたらレックより自由に使える金銭に関しては多いかもしれない。なんだかんだて、結構王都での生活を楽しんでいるのではと睨んでいた。
「楽しそうで何よりだよ。これで、ここらもそれなりに治安が良ければもっと安心なんだけど」
例えば昼間、自分の見ていないところでソウカが暴漢に襲われるなどは事だ。この宿を王都での宿泊地とするのを決めたのはレックであるため、その分の責任がある。
「そうそう都合の良い土地柄というのもあまりございませんから。ですから、坊ちゃまも深く考える必要なんて本当にございません。本当にですよ?」
何度も注意する様に言われてしまう。なんだろうか。もしかして、こっちが治安云々への対処について色々と考えていた事がバレていたか?
「んー。けどさあ。こう、僕は貴族なわけじゃない? 貴族の家に生まれたから貴族だって言うんなら、それこそ家畜の鶏や豚だって貴族になるわけで、そういうのとの違いは、貴族らしい振る舞いにあるのかなって」
「街の治安に頭を悩ますのは大層貴族様らしい振る舞いではあるでしょうが、実際に何かできるというものでは無いと思いますけど。せいぜい、自警団みたいに夜の見回りする程度で、坊ちゃまの外見だと、それも効果があるか怪しい―――
「それだよソウカ!」
ピンと頭の中に何かがひらめく。レックにとってもれば天啓に近い発想だった。どうして今まで思い浮かばなかったのかと自分に問いかけたいくらいである。
「えっと……坊ちゃま? 自警団というのも例え話で、坊ちゃまが危険な事をする自体にそもそも反対と申しますか……」
「準備が必要だよ、ソウカ。組織とやり合うなら、個人であることを隠せって何かの本に載ってたんだ。集団は個人より強いから、敵に特定されたらどうやったって負ける。そのためには身分を隠す物が必要だ。うん。まずはその道具を揃えることから始めないとね」
ソウカが何やらを言っているが、レックはその話よりも、自分の考えを優先することにした。
自分になら出来る仕事がある。出来る仕事とやらは社会貢献の類であり、貴族としては、それは是非にでもするべきだと、強く思う様になったのであった。
まずは顔を隠す事から始めよう。けれど顔を覆い尽くすと、それはそれで息苦しく、動き辛いものになるだろうから、あくまで目元を覆うくらいの、帯状の目隠しに、視界用の穴を開けた程度のものにしておく。
色は派手な方が良いだろう。覆面が目立てば目立つほどに、その奥の顔は目立たなくなる。青。個人的には空の青が好きだ。ならば青にしよう。濃い青を覆面の色とした。
靴は安全靴の裏に分厚い鉄板を。武器になるし、何より背丈を誤魔化せる。服装については作業着を選んだ。どこにでもありそうで、貴族が着ないものであり、なにより機能性がある。そちらの方も青く染めた。これが一番苦労したと思う。青く染めてくれという注文を店側にしてしまえば、そこから身元がバレてしまうから自前で染め上げたのだ。
我流と聞きかじった知識だけでなんとかしたが、作業着の方は望んだ色ではなく、やや薄暗い印象を持つ青となってしまった。それもまた、特徴と言えば特徴だろうか。
最後に皮手袋を手に嵌める。刃物などを滑らせる素材であり、ナイフを持った相手でも、なんとかやり合う事ができる……と思いたいところだ。
「坊ちゃま? 本気なのですか? そもそもが正気で?」
『カラハル』の自らの部屋で衣装を着込み、初仕事だとばかりに窓の外を見やるレック。そんなレックに対して、ソウカが心配した目線で話しかけて来る。
本当は誰にも内緒にしたいところだったが、この件の発案者であり、また、衣装を揃えるのを手伝って貰ったため、彼女には隠していなかった。
「本気も何も、夜の見回りなんて、気が向いたならやるってくらいなものじゃないか」
「場所が場所だと言っているんです。坊ちゃま一人、そんな……何時どこで危険な目に遭うか」
「手に負えないと思ったら逃げるし、そもそも、そんな危険な目って言うのを減らすために見回りって言うのはするんだよ?」
「けど坊ちゃまは、むしろ直接相手にするつもりじゃないですかっ」
そういうことになる。レックが考えた事とは、如何にして、治安の悪いこの地区を治安良くしていくか、という物であった。
治安の悪いそもそもの原因は、カーベルバから聞いたベイレイン組が関わっている。彼らの裏稼業の稼ぎの対価として治安の低下が発生していると考えて良い。
ならばベイレイン組を潰すべきか? レックはそう思わなかった。幾ら貴族と言えども、組織に個人が対向なんてできるはずも無い。それに潰せたところで、ベイレイン組が与える害より、ベイレイン組が突如として消えた場合の混乱が大きければ、潰す意味が無い。
「やり方の問題なんだよ。大きな獣を倒すなら、獣より鋭い爪をへし折るんじゃなくて、獣の餌を奪って弱らせれば良い」
現在のベイレイン組は、犯罪行為の幇助によって組織を維持しているとレックは見た。
となると、まずその犯罪行為を妨害する事が組織を弱体化する手になると考えられる。妨害方法は勿論、直接的に犯罪を潰す事であろう。
犯罪者の大半は個人、もしくは数人の人間でしかない。ベイレイン組そのものを相手にするよりはマシである。もっとも、草の根的な活動を続けていれば、ベイレイン組に目を付けられるし、結果、レックの周囲に害が及ぶ可能性も高まるかもしれない。
だからそのための覆面だった。自らの正体を隠しきれるのであれば、レック本人やその周囲に害は及ばない。正体不明の相手が、組織の商売をいちいち妨害する。その状況こそ、ベイレイン組を相手にする上でもっとも効果的な方法だと考えたのだ。
「だから、どうして坊ちゃまがそんな事をする必要があるのかと聞いているんですよぉ……」
ついには泣きそうな顔をし始めるソウカ。この顔には本当に弱い。一度決めた事柄を翻しそうになるくらいには。
だから、それを振り切るために宣言しなければならない。
「僕が貴族だからかな? 貴族ってのはそういう称号じゃなく、そういう役割なんだ。治安……一般市民の安全と国家の益が損なわれているっていうなら、なんとかする。そういう役目が貴族にはあるんだよ」
と、偉ぶってみたところで、ソウカの目線はこちらから逸れなかった。多分、見透かされているのだろう。こちらが行動に出た本当の理由を。
「本当のところはね、自分の力を発揮できる良い機会だと思ったんだ。他人より頑丈な体なんて、こういう機会に使わないと何の価値も無くなっちゃうだろ?」
そう言って自分の意思を強くしたものの、ソウカの悲しそうな目が消えないのは、やや心残りだった。
夜の街を歩いている。耳を澄まし、怪しい物音を聞き逃さない様にしていた。視力はあまりアテにしてはならないだろう。夜は人間から視界を奪ってしまう。そのおかげで、こんな奇異な恰好をしても、誰かに呼び止められたり、おかしな人間を見る視線を向けられる事が無いのだから確かだ。
(治安が悪い場所だからって、そこかしこに犯罪が行われてるってわけじゃあ無いんだよ。こっちから見つけるってくらいじゃなきゃ遭遇しない。向こうから寄ってきてくれるタイプの恰好じゃないしね、今の僕って)
普段の貴族の小僧と言った姿であれば入れ食い状態だったろうが、その状態で反撃でもすれば、すぐに正体がバレる。
一方で今の姿だと、恐らくはよっぽどな変人として見られているだろうから、そういう奴には近寄らないで置こうという対応をされてしまう。ままならないものだった。
「そうだ。変人なら変人らしく、そういう名前を名乗るってのもありだよね。この姿に見合った名前だ。何が良いだろう……」
目的地も無く歩き続けていると、おかしな妄想が頭の中で駆け回るものだ。本当に、馬鹿らしいとすら思える発想に頭を働かせていると、ガラスの割れる音が聞こえた。この方向には確か宝石店か何かがあったはずだ。同じ方向から店主の声も響いてくる。
待て。誰か。そう言った声を聞くに物盗りに入られたであろうことは分かるが、待つ犯罪者もいなければ、この現状を助けてくれる誰かもいないだろう。レックを除けば。
(足音がこっちに近づいて来る。店主の声の距離からさらに近い距離だ……状況から考えるに、盗人の足音か!)
その足音の前方に出る様に歩き、その足音に自分を近づけていく。焦る必要は無い。位置取りさえ間違えなければ、向こうから近づいて来てくれるのだから。
「おい! てめぇ! さっさとどきやがれ!」
現れた男の姿。細めの体であるが、体格も背丈もレックより良い。そんな男が威嚇する様にこちらを睨んでいた。
相手を観察していると、どうにも怒りを買ってしまったらしく、男は拳を振り上げてくる。
「どきやがれって言ってるだろうがぁ!」
大きな身振りの拳骨であるが、体に無駄な力が入り過ぎている。込めた力が体の各部分に分散し、肝心の拳周辺は、見た目よりも勢いが無かった。レックは迫る拳を、受け止めつつ、正面からの勢いを流す。
相手から見れば、もしかしたら全力の一撃を容易く握り止められたかの様だったかもしれない。ちょっとした手品みたいなものだ。
「いけないな、そうやって暴力を振り回すのは!」
手品に合わせて大声を出す。どうせ覆面。派手に馬鹿らしく、そうして格好つけるが相応しい。相手の腕を握り、また、間接を固めながら、そんな事を考えている自分に驚く。
「て、てめぇ……何者だ!」
さて、どう名乗ったものだろうか? 深く考えることでも無いが、良い機会であったので笑う事にした。
目の前の男には礼を言いたい気分でもある。今ここで、レックに新たな名を授けてくれる切っ掛けになったのだから。
「良くぞ聞いてくれた! 僕こそが王都の怪人、ブルーさ!」
ブルー。用意した服装の色から安直に名付けたものだったが、なかなかに単純で良いと思う。一度聞いたら忘れない。そんな名前だ。
「な、舐めてんのかぁ!? ああっ!?」
盗人らしい男は、掴まれた方の反対側の手を握り締め、再度、レックへと殴りかかろうとする。ただ、やはり体捌きが非常に悪かった。こっちが腕を掴んでいるせいもあるのだろうが、動きが大げさで予想しやすい。
「いやぁ、舐めるのも舐められるのも遠慮したいね。絵面が非常に悪い! 似合う姿と言えば……そうだね。君を僕が縄で縛るなんてどうだろうか? 君は盗人だから、とても似合ってる構図だと思うけど」
一旦、握った手を離し、男の拳を避ける。自由になったのだからそのまま逃げれば良いと言うのに、男はムキになってこちらへ二度三度と拳を振るってきた。相変わらず大振りなそれをレックは躱しながら、さらに軽口を叩く余裕を見せている。
実際、それを行うだけの余裕はあるのだが、行った理由自体は、遊び半分だからではない。言う通り、相手を舐めているわけでは決してないのだ。
「興奮してるところ悪いんだけど、そろそろ良い子は寝むる時間でね。僕は勿論良い奴だから、早く寝なくっちゃならない。だから君も、そろそろ休んだらどう? それとも悪い子を続けるかい?」
「いい加減にしやがりゃあッ!」
怒り顔になる男を見て、しっかりとこちらの声が聞こえていることを確認した。これで良い。
この男はこれで、はっきりと王都の怪人ブルーの名前を覚えたことだろう。これから頭を強くぶつけて気を失ったとしても、ブルーの名前という記憶は飛ぶまい。
「手加減はするつもりさ。だから君も、これから真面目に生きてくれよ」
こちらへ突進する男を横に避け、足を引っ掛ける。興奮した相手ほど、直線的に動くものだから、これは容易い事だった。
ただ、このままでは転んでまた起き上がってくるだけ。だから、転ぶ男をさらに後押しする。
引っ掛けた足でバランスを崩す男の後頭部を掴み、さらに地面へ叩き付けたのだ。地面へ転ぶ勢いと、こちらの腕力。二つが合わさって、より勢い良く男は地面へ頭をぶつけた。
かなり鈍い音が地面に響く。それで終わりだった。
「っと、ちゃんと息は……してるな。気を失ってるだけだ」
手を男の口元に伸ばしながら、男が死んではいない事を確認する。これが一番不安だった。
対象を無力化するのは、命を奪うことが一番の近道であり、大概の戦闘技術はその道を進もうとする。が、こちらとしては命まで奪うつもりは無いのだから、どこかで加減をする必要があるのだ。
その加減具合に関しては、試してみなければ分からないと言ったところが実際だから、こうして成功した事は喜ばしい。
「さて、残りは後始末か。おっと、都合が良いな」
漸く、男が盗人を働いた店の店主がやってきた様だ。息も絶え絶え、必死になって追ってきた来たであろう店主は、こちらを指差しながら何やらを叫ぼうとしていた。
「あ、あんた……あんた……何……」
息を落ち着かせずに言葉を発し様としたためか、店主の言葉はたどたどしい。いちいち会話ができるまで待つのも何だなと思ったレックは、作業着からロープを一本取り出し、倒れている男の脇に放った。
「夜の闇に紛れる悪漢はこの怪人ブルーが倒した! あとは煮るなり焼くなり好きにすれば良い! あ、ロープでとりあえず縛り上げて、ここらの自警団に差し出すのが一番のおすすめだけどね。それでは!」
店主と倒れた男を背中に、レックは走り出した。
怪人ブルーは謎の男として動かなければならない。正体なんて誰も分からないまま、けれども確かに存在した妙な男として、噂が広がっていく事が望ましかった。
スラム街に怪人現る! その名はブルー! そんな題の記事がゴシップ紙に載るまでに数日。
既にブルーとしての活動を始めてから、何度も犯罪を抑止していたレックは、『カラハル』にある自分の部屋で、その記事が載ったゴシップ紙を眺めていた。
「名前は売れたって感じかな?」
「そんなゴシップ記事、どなたが信用すると思いますか?」
実際に、確かな事実として、泥棒、強盗、暴漢等を未然に防ぐような、ブルーとして目立つ様に数件ほど行っている。が、隣で同じく記事を見ているソウカは、世間はその存在を嘘っぱちか噂程度のものだと認識しているのではと指摘する。
「信用なんてしないでくれても良いさ。それこそ、噂されたり馬鹿にされたりすれば良いんだ。それだけ、このブルーって怪人にまつわる話が飛び交うことになるんだからね」
ブルーの行動の本質はベイレイン組の弱体化を狙うものだから、ブルーの行動が目立てば目立つほどに、ベイレイン組の名も目立つ。ブルーの行動が真実かそうで無いかは問題ないのだ。
(ああいう手合いは、公然と汚いことはするけど、その汚いことが表向きに噂されるのを嫌うんだ。言い訳できなくなるからさ)
ベイレイン組の裏稼業は、どう言い繕っても犯罪だ。利害関係を上手く結びつけることで目溢しされてはいるものの、あくまで犯罪は犯罪なのである。
表立って、そんな犯罪が行われていると噂されれば、国家だって動かざるを得ないし、それを上手く乗り切ったところで、乗り切るために動く労力が損となる。どう足掻いたって、ベイレイン組の力は削げると言う寸法だった。
「私はだからこそ心配です。つまり、坊ちゃまは目の上のたんこぶになろうとしているってことなんじゃないですか。だったら、坊ちゃまは今後、どんどん悪い方に狙われます」
「一応、そうなることが前提で行動を起こしたんだけどなぁ。あ、それと、狙われるのは僕じゃなくて怪人ブルーだよ。そこは大切にだ」
ブルーの正体がレックであることは、絶対にバレてはいけない。だから、そのための方法を幾つも考えている。
服装にしてもそうであるし、動く時間帯、場所、服装を着替える際や、仕事始めと仕事終わりを人に見られていないかの確認等。これでもかと注意を払っていた。
特に重要なのが、レックという個人が、怪人ブルーなんて存在に成りっこないと周囲に思わせることだ。
これにはレックが貴族であるという身分が役に立ってくれている。どこの世界に貴族の坊ちゃまが、スラム街に近い場所で、犯罪者と直接戦うと言うのか。
「こういう記事があるってことを、どれほど知っている事にするのかも考えなきゃね。詳しく知り過ぎてるのは怪しまれるけど、こんな記事で目にしたって程度の知識は持ってるべきかな?」
「……知りません」
最近、ソウカがつれない態度になる事が多い。理由については勿論分かっている。ソウカからは、レックが危険な行為へどんどん傾倒して言っている様にしか見えないのだろう。
この件に関しては、ソウカから肯定的な意見を貰うのは難しいかもしれない。
(実際、危険なことしてるんだから、文句の付けようも無いんだけども……うん。頭が痛い話だ)
だが、一度始めた事を、明確な結果も無く終わらせることは難しい。むしろ始まったばかりの段階だから、止めるなんて発想は出て来なかった。
「恐らく、このまま行動すれば、明確に怪人ブルーへ敵対する誰かが出てくる可能性が高い。そうなって来たところで、今後どうするべきか決めなきゃかな……」
「私の意見は変わりません。坊ちゃまは危険な事を止めてくださいと言い続けますから」
それはそれで心強い。貴族の坊ちゃまは、ついつい調子に乗って、止め時を見失う性質があるかもだから。
この部屋に来る人間の大半は、この部屋が薄暗い部屋だと言う印象を受ける。が、実際は壁紙や床が黒ずんでいるだけだと、ケイ・ベイレインは考えていた。
部屋も自分も、既にかなりの歳月が過ぎている。自分が運営する組織もだ。この小さな部屋から始めた仕事は、今はケイにとって大きな利益を生むまでに成長していたが、成長が過ぎ、ところどころに老いが見え始めているのかもしれない。
「うちの組が、せめて俺より長生きしてくれりゃあ文句はねえんだがな」
椅子に座り、仕事机を前にしながら、自らの手を見る。皺だらけの手であり、染みらしきものもあった。跡の消えない手傷も……。
誰がどう見ても、苦労を重ねた手と言われるだろうし、実際その通りに苦労してきた。
そんな苦労の結果は、自分がこの世を去るまで残って欲しいと強く思う。誰だって、苦労して育てた子どもは、自分より長く生きて欲しいと思うものだろう?
「組織ってのはデカく成長すりゃあ、それだけ動きが鈍くなるもんだ。そいつぁ仕方ねえ。体のデカい奴に俊敏に動けって言ったって無理ってもんだからな。違うか?」
仕事机のさらに前、小さな部屋に押し込まれたと言った印象を受ける体格の良い男たちが3人。立ったままケイを見ていた。
彼らは椅子に座るケイを威圧しかねない立ち位置にいるものの、実際、ケイは彼らを睨み、委縮させる立場にあった。
ベイレイン組の組長、ケイ・ベイレインは今、組員に対して指示を行っている最中なのだから。
「だが、舐められて何もしねえってのは、単なる木偶の棒だ。デカいだけの役立たず。そんな奴に誰が金を支払う? 誰が俺たちにおまんまを食わせるってんだ? 言ってみろよ、イザギ」
3人の組員の一人、真ん中に立つ男に話しかける。本当はずっと話し掛けているつもりだが、名前を言わないと委縮したまま喋ろうともしない。つまり、その程度の器ということなのだろう。
「い、イサリです」
そうだったか。まあ、この程度の男の名前を覚える必要も無い。最近は、記憶するにも疲労を感じる年齢になってきているのだ。
「じゃあイサリよぉ。てめえらはこの後、どうするつもりだ? こんな記事を記者に書かれて」
仕事机に乗せているゴシップ紙を顎で示す。そこには怪人ブルーとやらの名前が載っていた。
軽犯罪を頭の悪そうな奴が防止していると言う内容だが、その防止された犯罪の幾つかに、ベイレイン組が関わっているとまでは書かれていない。が、それも放置していれば時間の問題となるだろう。
「こ、この記事を書いた奴ってのをとっちめて―――
「だからてめえらは木偶の棒だってんだっ!」
仕事机を叩き、怒鳴り声を上げる。大の大人が3人。冷や汗を流し始めるのが見えた。
本当は疲れるからこんな事はしたくも無い。が、こういう行為も組織の延命のためだ。舐められてはならない。開業当初から鍛え続けたその骨が、今の組織を支えている。
「記者ぁ叩いてどうなる? 嘘八百並べ立ててんなら話は別だろうが、単に噂をそのまんま記事にしてるだけだろうが。その噂をどうするかって話を俺はてめえらに尋ねてんだよ」
怪人ブルー。噂どころか、実際にベイレイン組の仕事を妨害している生きた人間だ。本気でブルーなどと名乗っているらしく、服装も奇抜と言うのだから、きっと頭のおかしい人間か何かだと思われるが、何故か正体が掴めない。
そうなってくると厄介なのは、頭はおかしいがキレるタイプでもある可能性だ。
純粋に、ベイレイン組に害を与えるために、的確に行動している。どんな得があるかは分からないが、もしそうであれば放置したままでいる事ほど危険な行為は無い。
「は、はい! ブルーって奴を見つけて、袋叩きにしてやります!」
「おうそうだ。その言葉を真っ先に聞きてえのよ。で? その方法は思いつくか?」
「そ、それは……」
どもる組員。だが、これについては怒鳴らない。そもそも、そこまで頭の回る連中ではないから期待もしていないのだ。怒りなんて覚えるはずも無い。
「ぶらぶら探したって見つかる相手じゃねえだろ。だから、ちょっと芝居を打たせてもらうつもりだ。てめえらはその芝居の登場人物ってわけだ。分かったな?」
「は、はい!」
背筋を伸ばして答える組員。馬鹿は馬鹿なりに動いてくれればそれで良い。舐められない様にだけしていればそれで。
「ああ、それとだ。袋叩きって言ったか?」
「ええ。そうするつもりですが……」
「これからは、川に浮かべるって言い替えとけ。生かしてるなんて生温い」
舐められてはならない。その方針が、ケイ自身の威厳をも支えていた。
組員たちが去った小部屋で、動く影が一つ。ケイ自身では無い。ケイはただ、椅子に深く腰を埋めているだけだ。その影は、ケイの斜め後ろ。休憩用のソファにあった。
「少し良いかね」
その影は老人である。ケイよりもさらに年を重ねた老人だ。白く長い髪と蓄えたというより、顎から下げたと言った風の髭。そうして今にも折れそうな細い体。どれを取っても老人らしい老人だったが、耳が不思議なほと尖っている。姿勢も腰は曲がっておらず、まっすぐに立っていた。
先ほどまでソファに座っていた老人だったが、ケイの座る椅子の隣へと歩いて来ている。
「な、なんでしょうか。その……隊長?」
ケイは自分が冷や汗を流し始めているのを理解した。さっきとはまるで逆だ。威厳も威勢も、恐怖だとか緊張だとか言った感情に押し流されてしまっている。
この老人に対しては、こちらが委縮する側になるのだ。一方で老人は、口元に苦笑いを浮かべるのみ。
「隊長はもう良い。お互い、何十年も前の話じゃあないか。今は別々の生き方をしているし、社会から見れば、そちらの方が上だろう?」
老人はそう言う。だが、これは器の問題だとケイは思う。この老人とケイでは器の大きさが違った。いや、器の質と言うべきかもしれない。
ケイの器は、この老人の存在そのものに畏怖を覚える。そういう性質に出来上がっているのだった。
「あなたの方は……あの頃から一切、道を違えていませんので、どうにも……」
「その言い方も違う。私は道の抜け時を違え続けている間抜けな老人にすぎん。今日とて、数日の宿に、元部下の家を頼る始末だ」
そうして、頼まれれば従うしかない。そういう考えをケイの本能的な部分にまで植えつけたのもこの老人だ。別にこの老人がケイに害を与えるわけも無いし、実際、老人自身もそう考えているだろう。が、それでもこの老人には絶対に逆らってはならないと、ケイはそう思っている。
「……仕事の方はまだ続けているんで?」
「なんども言わせるな。恥ずかしい。言ったろう? 道の抜け時を違え続けていると」
ケイはかつて傭兵だった。貧民街で産まれたケイは、他者よりも成り上がりたいという欲求が強く、まずは手っ取り早く稼げる仕事に就いたのだ。まだ十代やそこらの時だ。
当時、この国を含む幾つかの国家は、大規模な戦争を繰り広げていた。今でこそ平和になったが、当時は傭兵業の仕事が有り余っており、身分や来歴など関係なく、傭兵と名乗れば仕事に有り付ける、そんな時代だったのだ。
そんな時代に、ケイはとある傭兵隊に身を置いていた。あくまでも臨時的に作られた部隊だったが、その時の隊長がこの老人だったのである。
「それでだ。私の話については聞いてくれるかね?」
「ええ、それはもう」
だから断りの言葉を向けられる相手ではない。ケイは老人の部下だった時代に、彼の恐ろしさを骨の髄まで理解したから。
「では少し希望したいのだが、ブルーとかいう怪人に、君らは制裁を加えるつもりなのだろうが、それを見学させてはくれんかね?」
「見学……ですか?」
「そうだ。ああ、安心してくれ。邪魔をするつもりは無いんだ。ただ、そのブルーという男……男だろう? 少し興味が湧いた。老人の酔狂と言うやつだな」
邪魔をするつもりは無いと老人が言う以上、こちらから言える事は無い。好きにしてくれと答えるしかないのだが、何故、興味を湧かせたか。その点が気になった。
「明らかに、頭の狂った様な奴ですよ? それを何故?」
「何故……だろうな。私にも良く分からん。だから、実際に見てみたくなったのかも」
「……」
老人は髭を摩りながら、実際に、疑問符を浮かべる様な表情をする。それこそ、ケイに何かが言えるわけでも無い状況である。本当に、老人の酔狂でしかないのかもしれない。
ケイの沈黙を了承と受け取ったのか、老人はこの部屋から立ち去ろうとする。そんな老人の背中へ、挨拶の代わりとして、ケイは最後の質問を投げ掛ける事にした。
「まだ、ウィンドエルフなどと呼ばれて?」
「今では、そちらの呼び方の方が馴染み深い。他の名前など、どこかに置き忘れたのかもしれんな」
その言葉だけ残し、老人、ウィンドエルフは部屋を去って行った。




