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後編

 風が穏やかに流れる暖かな日差しの中、レックは司書官としての仕事が早めに終わったため、王都の街並みを歩いていた。昼は貴族としての仕事。夜は怪人としての仕事と忙しい日々であったため、こうゆったりとした時間は貴重だった。

(何時までもピンと張りつめてたら、何時かは切れちゃうからね。疲れる様なことを、兎に角考えない時間ってのは大切なんだろう)

 さて、こうやって歩き出してみると、知らない街並みがまだまだある事を実感する。王都は広く、そして複雑だ。区画整理された町並みと聞けば、整然とした姿を思い浮かべるけれど、整理しなければ街としての機能が無くなるほどに、元来煩雑だとも言える。

 新しいもの、見慣れぬものというのに興味を抱く性質であるレックは、そういう街並みがなんとなく好きだった。自分が住む、あのスラム街とすら言われる区画だって、そういう点では気に入っていた。煩雑な王都という言葉の縮図があそこにはあるのかもしれない。

 鼻歌でも歌いそうな気分で歩きながら、心を楽しませていると、危うく、正面からやってくる人物にぶつかりそうになった。慌てて避け、頭を下げる。

「すみません。ちょっと前方不注意で……。本当にすみません」

 幾ら気分が良くても注意が散漫になるのはいけない。そういう自分への戒めも含めての謝罪だったが、ぶつかりかけた人影、長い白髪の老人は、その謝罪を手で止めた。

「いや、余所見をしていたのはこちらもだ。そうまで頭を下げる必要はない。何分、私もこの街に来たばかりでな。いや、ついついあちこちを見てしまう」

 人の良さそうな笑顔で、むしろ向こうから頭を下げられてしまった。その物腰から、好々爺と言った印象が正に似合う相手である。

「そうですか? 体の方の何もなければ、こちらも安心なのですが……」

 見る限り、老人の体に何か不調の様なものは見えない。変なところと言えば、半円状の大きな布袋を背中のつり革に掛けているくらいか。いや、耳が妙に尖っているもの特徴かもしれない。

「体はな、この年齢になるまでまだまだ元気なのだよ。むしろ元気過ぎるくらいだ。そろそろ、若い者に道を譲りたくもあるが、その若者にぶつかりかけるとなると、まだまだいかんなぁ」

 不思議な愛嬌を見せる目の前の老人を見て、レックは少し話をしてみたくなった。どうせ暇な時間。あちらが良ければ、道すがら話をしてみるのも良いかもしれない。

「どちらかへ向かう予定でもありますか? よろしければそれまで荷物でも持たせてもらいますけれど」

 レックは老人が背負う布袋を指さして尋ねてみた。

「あー……親切に悪いのだが、これは大事な商売道具でな。自分で持つべきものなのだよ」

 これはちょっと迂闊なことを聞いてしまったと思う。荷物を持とうなどと、老人を狙った追剥ぎと勘違いされてしまうもの言いだ。

「だがまあ、実はどこへ向かうという予定でも無いのだ。もし君の方こそ時間があるのなら、話しがてら、ここらをぶらついたりはせんかね?」

 それは嬉しい申し出だった。老人から出てきた言葉こそ、こちらが提案したかったものだから。

「ええ。良いですよ。ところで、商売道具って言うのは何なんです? 袋越しにでも特殊な形をしてますけれど」

 さっそく歩き出しつつ、レックは真っ先に疑問に思った事を聞いてみた。すると老人は、何やら言い辛そうな顔をして、頬を掻く。

「実を言うと、表立って言えるものではないというか……年甲斐も無いものなのだ。人に言うのは少し恥ずかしく……聞かないでおいてくれると助かる」

「そうですか? だったらすみません」

 やはり気安すぎたかと心の中で反省する。最近は浮かれ気味であるためか、どうにも人との接触も、的を外したものになっているらしい。

「謝る必要などない。若い者は何にだって興味を持てば良いし、何だって大人に聞くべきだ。そうして育っていく……商売と言えば、君は何か仕事をしているのかね? それとも勉学を?」

 一瞬だけ遠い物を見る目をした老人だが、すぐにレックの方に視線を合わせて、今度はあちらから質問をしてきた。

「一応、王立図書館の方で働いてます。小僧程度の仕事しかできませんが……」

「その割には物腰が出来ている……もしやどこぞの貴族の子であったりせんかね?」

「えっと……まあ、はい」

 すぐにこちらの立場を見透かされてしまう。こういうのを、長く生きた人間の眼力と言うのだろうか。

「なら、多く苦労をすると良い。苦労した分だけ、君はきっと偉くなるだろう。苦労をしていない者よりは余程な。それがまるっきり良いとは言えんが……」

「貴族として偉くなるのは良いことばかりではありませんか?」

 偏見込みの視点で見られると、貴族というのは何時だって贅沢をしている存在らしいのだが。

「私は貴族ではないから断言も確約もできないが、偉くなるとな、どうにも身動きがし辛くなる。やらなければならないと思うことがあったとしても、それが出来なくなる歯痒さを思い知る事にもなる。そうなる覚悟が無ければ、偉くなるのは止した方が良いのだろうな」

 感慨深そうに老人は話しているが、これはつまり、実感の籠った言葉と言うことだろうか。

「もしかして、あなたも何か……貴族とか?」

「私か? 私は違う。私は逆だよ。偉くなる覚悟が無かった。不自由さを恐れたのだな。おかげで、こんな年齢になってまで根無し草だ。今日みたいに、あちらこちらをふらふらと。少年よ。私みたいになってはいけないよ?」

 老人から子どもへの忠告と言うには、それは少々寂しいものだった。まるでこの老人は、自らの生に意味を見いだせていない様に見えたのだ。老人特有の疲れは見せるのに、老人らしい充足感が、この老人からは抜け落ちていた。

 もしかしたらそのちぐはぐさこそ、レックの興味を引いたのかもしれない。

「ふむ。だが、最近になって、漸く、何かを残したいと強く願う様になったな」

「何か……ですか」

「そう。どんな形でも良いから、私が持っている物を誰かに託したい。そんな風に思う様になった。つまりは、そういう年齢なのだろうさ」

 老人はぼかしていたが、それはつまり、死期を悟り始めたということなのかもしれない。死ぬ前に何か形あるものを残したい。そういう願いが、この老人にはあるのだろう。

「いや、若者に話すべき内容では無いな、これは。そうだ。次は君の方から話を聞かせてくれんかね? 世間話とは、お互いに色々と話し合うものだろう? 一方的に喋っているのなら、独り言と変わり無くなる」

「僕のこと……ですか」

 何を話そうか。そう思って思い浮かべた話題が、自分でも意外だった。本来であれば、さっき出会ったばかりの相手に話す内容ではないのに。

「僕は……若いからかもしれませんけど、自分は他とは違うって、そう悩んでます」

「他とは違う。若い者なら、むしろそれを誇ったりするものであるが……自分は選ばれし者だ。英雄だ。などとな。それとは違う?」

 本当に、自分はどうやら気が抜けている。この老人に話をしたところで解決などするはずも無い悩みなのに、目の前の老人になら別に構わないかと思ってしまう。この老人の愛嬌のせいもあると思いたいが。

「生まれつき、体が頑丈なんです。それもとびっきり。そりゃあ自分が英雄なんだと思えれば気楽だったんですけど、明らかにその……他とは違うっていうか」

「なるほど。その力を誇るより前に、他者との差異に気が付いてしまったのだな……だが、その力は……いや」

 老人が、何かを言い掛けて止まる。伝えるべきでないことを伝えかけたと言った風に。

「すまないな。助言になる様な事を言えれば良かったのだが、この年齢になっても、私はまだまだ未熟だ。君の悩みを上手く解決できる言葉が浮かばない」

「ああ、良いんですよ。きっと、何時までだって抱えなきゃならないものだって、分かってますから」

 人間の特徴なんてそんなものだろう。向き合い方は変わっても、そこにそれがあるという事実は決して消えない。

「ふうむ。悩ましい話ばかりと言うのも何だな。相応しく無い気もする。どうかな。ここらで世の中の流行などについて話すというのは」

「流行ですか? 僕も王都に来て間もない身ですが、職場ではこんな話を……」

 こうして、ふと出会った老人と話をし続けた。得る物はあまり無い話だったかもしれないが、有意義な時間で無いという訳でも無かった。

 時間の上手い潰し方。そういう種類の物だったことは確かだったから。




 ベイレイン組の影響区域にありながら、彼らを頼らない商店というのも幾つかある。そのうちの一つとして、古くからの衣料品店が存在し、その店の歴史はベイレイン組よりも長いものであった。

 店主は店の開業以来の三代目。まだまだ若いが、先代譲りの頑固さで、ベイレイン組などという世間に顔向けできない集団とは、一切関わるつもりはないとすら公言している。

 そんな店に、近々強盗が入るという噂が流れ始めた。

 普通、強盗は事が起こる前に察知されて行うものではないため、単なる馬鹿らしい噂と言えれば良かったのだが、その噂には、こういう尾ひれがついている。曰く、ベイレイン組の息が掛かった強盗が襲撃する予定なのだと。

「どう思います? 本当なのかなぁ……」

 この噂を『カラハル』の酒場で耳にしたレックは、仕事終わりに、店主のカーベルバへ尋ねてみることにした。奇妙な噂であったし、個人的に思うところがあった話だからだ。

「ほんとか嘘かってのなら、俺が分かるわきゃあないけどよ。ベイレイン組がするかどうかって話なら、したっておかしくは無いだろうな」

 カーベルバ曰く、ベイレイン組が傘下の犯罪者に、堂々と不法行為をやらせることは偶にあるらしい。

 どれほどの力をベイレイン組が持っているかの示威行為としての意味合いがあるそうで、その対象は、勿論ながらベイレイン組の力を知らぬか疑う相手になる。そうして組の力を周囲に示すのだ。逆らえばどうなるのかを。

 この話において一番肝心なのは、犯罪者を事前に知ったところで、背後にベイレイン組がいるので、どうしようも無いという部分だ。

 例え、前もって噂されていたとしても、いや、噂されるからこそ、ベイレイン組の恐ろしさが分かる。自警団にも手を出させない根回しがされているらしく、助けを求めることができず、確実に対象を追い詰めていくそうだ。

「単なる噂話では終わらないかもってことですね?」

「だろうな。ただ場所が妙なんだよ。あそこの店は、結構地元に親しまれてんだ。無理に敵対したら、地元の人間を全員敵に回しかねねえ。だから組も手出しできなかったんだろうが……何か考えでもあんのかねぇ」

 多少の反発が予想される中で、それでもこのタイミングで反抗的な相手を叩く理由。それは何なのか。ふと思いつくものがあった。

(挑発……例えば、ベイレイン組と敵対している人間がいるとして、この噂が実際に行動に移されるっていうのは、敗北を意味するんじゃないかな?)

 ベイレイン組の行いは、明確に悪と言える。自分たちに従わないのであれば、その地域に住む者の感情すら無視して排除する。そんな意思を容易く飲み込める人間なら、そもそも彼らと敵対などしない。

 レック自身、この噂が実際に行われるとしたら、なんとか妨害しなければと強く思う。

(そうして、それが狙いかも……)

 精神的に飛び込み易い状況を作り出し、そこで敵が来るのを待つ。もし来なかったとしても、本来の業務の延長線上にある仕事なのだから、大損するとまでは行かない。

 むしろ、ヒーロー気取りの何者かが動くべき状況で動けなかったという事実を作り出し、相手の精神に泥を掛けることができるのだから、得が上回るかも。

 そんな考えの元にこの状況があるのだとしたら、やはりこの話は一種の罠であると予想できた。

(問題は罠だとして、どう動くかだ)

 巷で噂になっているブルーという存在を、確かな影響力がある存在にするのなら、ここで引くわけにはいかないだろう。肝心な時に逃げる存在と思われては、ベイレイン組への抑止とならないのである。動かないとう選択肢は無かった。

「そういや、最近噂になってる……なんつったか? こう色の名前の……怪しい人間の……」

「ブルー?」

「おお、それだそれ!」

 まさかカーベルバの口からブルーの名前が出てくるとは思わなかった。勿論、ゴシップ記事にされるくらいには噂が広まっているのだから、彼の耳に入っても不自然さはない。

 だが、こういう話題の時に、カーベルバがわざわざ出してくる名前では無いとも思った。

「怪人ブルーがどうかしたんですか? あんなのは単なる与太話でしょう?」

「ああ、だろうなぁ。ただ、ベイレイン組が例の店を狙ってる噂と一緒に、そのブルーとか言うやつが、強盗から店を守るために来るとか、そういう噂も流れててな。いや、こりゃあ確かに与太話か」

「なるほど……」

 どうやらベイレイン組は、本格的に怪人ブルーを潰すつもりらしい。

 彼らにしてみれば、噂などで無く、直接的に彼らの商売を妨害する存在を既に認知している。だからこそ、強盗の噂とブルーの噂を同時に流すことで、確実にブルーが現れざるを得ない状況を作り出そうとしているのだ。

(間違いなく、噂の発生源はベイレイン組だ。ブルーに対する挑発も込みでこんな話を……)

 逃げる気は無い以上、なんとか策を練らなければならない。さすがにレック自身、待ち受けているだろう強盗集団を、正面から相手にできる自信は無いから。

「カーベルバ叔父さん。ちょっと良いですか?」

「うん? なんだ?」

「その狙われてるって噂の店について、他に知ってることがあれば教えて欲しいんですけど。こう……野次馬根性ってやつで」




 ずらずらと人が集まってくる。時間は夜。一般人は寝静まる時間。看板に翠彩亭と書かれた店を囲む様に集まり始めたその人数は10を下らないだろう。全員が全員、棒状の何かを持っており、恐らくは凶器に成り得る道具でもあった。

 彼らは一応、強盗目的で集まった悪人である。だが、そんな後ろめたい理由の集まりだと言うのに、その理由自体は表向きのものらしい。

 店一つ襲うにしても過剰なのだ。集まっている人間すらそう思っている。強盗に成功したところで、分け前をそれぞれに渡せば、個人個人が得る利益は微々たるものになってしまう。荒事というのはそれだけで多大な労力が必要だと言うのに。

 だが、その事に不満の声を上げるものはいなかった。強盗で得た分へ、さらに報酬が約束されているのだ。というより、そちらの報酬の方が魅力的だった。

 自警団も、この時間帯であれば警備が薄くなるという“話”を聞かされているから、強盗を行うことそのものはそう難しい仕事では無いはずだ。

「なあ、本当に来るのかよ」

 一人の男が隣の男に話しかける。強盗そのものに不安は無い。だが、表向きのその仕事では無く、彼らは裏向きの仕事について懸念を抱いているのだ。

「組長がよ。来るっつってんだから来るんだろうよ」

「この人数だぜ? 普通ビビるだろ」

「頭に覆面付けて悪党退治なんて言ってやがる奴が、ビビるとかビビらないとかあんのか?」

 彼らは、自らが所属する組織のリーダーに、この場に現れるであろう強盗の妨害者を、逆に捕えてしまえと命令されていた。ちなみに捕えるのはその体だけで、命の有無は、有れば良いが、無いなら無いで構わないとのこと。

 彼らは勿論、その命令に従った程度の手加減をするつもりだった。別に死んでも構わない程度の手加減を。

 彼らにとっての心配は、むしろ対象となる相手が現れない可能性だった。現れるからと聞いたから集まっているのだが、もし現れない場合、強盗を実行することになるだろう。その点に対しては文句も無いが、組長の意思に反する事態にはなるわけで、その後がやや怖かった。

「もし現れなくてもよ、人数いりゃあ逃げちまうってんなら大したことないぜ?」

「そりゃあそうだな。あれ……?」

 男の一人が、首を傾げて辺りを見回す。

「どうした?」

「いや……数え間違いか?」

 暗がりもあって、自分の気のせいにしてしまう。結果、もっと注意深い者がいれば分かったことに彼らは気付くことができなかった。

 先ほど集まった人数より、人が減っている事実を。




「―――!! ――――!」

「はい、命までは奪わないから、暴れないでねー」

「………」

 目の前で大人しくなった男を見て、レックは頷いた。現状、レックはブルーの姿で、建屋の陰に隠れていた。

 彼の目は『翠彩亭』の前へ集まった暴漢にも向けられており、彼らの中で無防備だった一人を浚い、物陰に隠れたのだ。

 目の前で大人しくなった男(布でつくった猿轡で声を封じ、縄で縛り、さらに先ほど気絶させた)でまずは一人目。

 敵は十数人いる事を確認したが、その中から一人減った事に気が付かない程度の集団である。戦う事はできそうだなと戦力を予想する。

(正面から戦うわけが無いじゃないか。今回は名乗りもせずにやらせて貰うよ。ヒーローっぽくは無いけどさ、仕方ない仕方ない)

 事前に襲う事を噂するなど、戦う準備をしてくれと言っている様なものである。

 『翠彩亭』周囲の地形や建物の構造。目立たぬ場所や物を隠せる場所に至るまで、しっかりと調べさせてもらった。地の利はこちらにあると言えるだろう。

「気づく前に3人。気づかれた後の勢いで3人ってところかな」

 それでも半数には満たないが、有利に進めながらそこまで減らせるのなら上等だ。これが取らぬ狸のなんとやらにならぬうちに、レックことブルーは行動を再開することにした。




 『翠彩亭』に集まった暴漢たちが敵襲を受けている事に気が付いたのは、4人ほど仲間が消えた時からだった。当初集まった人数は14人。二桁が一桁になる前に気が付けて良かったと見るべきか、それとも1人目が消えた時点で気付かぬ間抜けと言うべきか。

 どちらにせよ、何もしないままでいれば間抜けを通り越して愚かである。敵襲であればその敵を探し出すか。

 いや、しかしどこを。そうやって騒いでいるうちに、2人ほどやられた。いきなり近づいてきた人影に一人が地面に叩き付けられ、もう一人が足を転ばされた上に、胴体を蹴られたのである。

「……っ、なんだてめぇ!?」

 混乱の中でさらなる変化。一瞬茫然とした後、仲間を襲った人影を見る。見ようとした。が、人影は二人を倒してすぐに逃げる様に距離を離した。一瞬の隙が仇となり、追いつけない距離まで人影は離れていく。追いかけるべきか。全員で? それとも個人で? 暴漢集団が迷っているうちに、人影は建屋の陰へと姿を消していた。

「くそっ! いやがらねぇ! どきに行きやがった!」

「おい! バラけるな! 野郎、一人ずつこっちを潰すつもりだぞ!」

 追ってみるも見つからず、さらにこのまま探そうとした場合、また一人ずつやられてしまうという判断が働いた。

 結果、残った全員が固まり、その固まりとなって、敵を探すという行動に出るのだが……。

「ぎゃっ!」

「おい! 大丈夫か!? くそぉ! 石を投げてきやがった!」

 固まって、隠れ潜んでいそうな場所を探そうとしたところ、その集団めがけて石が降ってきた。勢いと大きさのある石であり、タイミングから見て投石であろう。

 集団ともなれば移動速度は遅く、そして的は大きい。探す場所も細い道だったから、狙いも付けやすいはずだ。

「バラだ! やっぱりバラけて探せ! ちょ、ちょっと待て、俺を置いていくなよぉ!」

 集団で動くか個人で動くか。それとも少人数で固まるか。探すにしてもどこを。相手の次の狙いは何だ。

 暴漢集団は完全に混乱の中にあった。彼らの失態は、自分たちの数だけで自分たちの力を判断し、それぞれの役目を決めていなかったことだ。最低限、リーダーを決めておくべきだったのだ。役割の別れぬ集団とは、単なる個人でしかない。

 そもそも彼らは、集団行動の訓練なんて受けた事が無かった。腕っぷしには多少の自信があったとしても喧嘩レベルである。

 いざ敵が集団の切り崩しに掛かった時の正しい対処方法。それを知らない彼らは、一転、狩られる側へと回ったのだ。




「けど、やっぱり集団で纏まっていられるのが厄介なんだよ。ああやってバラバラになってくれて良かった。すっごいやりやすい。」

 逃げた路地裏から建屋の窓や柵を使って、立ち並ぶ建築物の屋上へと登っていたブルー。現在は屋上から暴漢集団を見下ろしていた。木の棒と布で作った簡素な投石器で暴漢を攻撃したのだが、怪我はさせたがダメージは無しと言った様子を見て、次の行動は何をしてくべきかを判断する。

 一番厄介だったのは、暴漢が固まって行動していた場合だろう。こっちの飛び道具は投石器のみ。しかもあまり威力は無い。手ごろな石だって街中で調達するのは極めて難しいのだ。いざ暴漢たちが集団行動をし続ければ、こちらは逃げ、そうして隙を伺い続けるしか無く、長期戦になる恐れがあった。

 しかしダメージこそ与えられなかったものの、投石器による一撃は暴漢集団を混乱させるのには役立ったらしい。集団行動を取れずに混乱する集団など、個人を相手にすることよりもやり易い。勝手にそれぞれがそれぞれの邪魔をし合ってくれるのだから。

「さて、またあぶれた人間を一人ずつ倒して行こうかな。10人よりは減ってるし……まあなんとかなるでしょ」

 見下ろす状況から、さらに一人でこちらを探す暴漢を見つけたので、音を消しながら近づいて行く。戦闘訓練も碌に受けていない相手なら、一対一で負ける心配も無い。ブルーが現場を俯瞰的に見る事が出来ている以上、集団相手にも勝てるだろう。

 他に、この状況を的確に判断できる人間がいなければであるが。




 その男……老人は、騒ぎのある場所から少し離れた場所にある、建物の屋上に立っていた。

 人様に屋敷の上に足を置くことは失礼かと思ったが、気づかれさえしなければ文句も無いだろうと、そのまま居させてもらっている。

 老人がそこに立つ理由は騒ぎそのものにあった。彼は騒ぎをその離れた場所から見学していたのだ。

 現在の場所からでは、人間なんて指先よりも小さくしか見えないと言うのに。

「やれやれ……ケイの坊やも、もう少しまともに動ける人間を雇うべきだな。いや、守銭奴な気質があるから、彼一人では難しいか。何にせよ、あの動きはいかん。あれではもっと少人数の方が上手くやれただろう。もっとも、ブルーだったか? あの様子を見るに、それなりに知恵が回るらしい……彼が相手であれば、どちらでも手玉に取られるだろうな」

 老人は騒ぎのある方を向きながら、騒ぎの状況についての推測を始める。観察と言う意味では細部に及ぶそれであるが、もっとも驚くべきは、老人の視界では、そんな細部まで見ることは不可能と言う点だった。

 視力の限界とか距離が離れているとかそういう問題では無く、騒ぎが起こっている『翠彩亭』周辺から老人がいる場所までは障害物が幾つかあり、完全には観測できないはずなのだ。

「このままでは、あの暴徒連中すべてが捕えられるだろうか。実力違いであるから当たり前の結果なのだろうが……ふむ。一宿一飯の恩というものでも無いが、物は試しか」

 老人は背中に負った半月状の袋包みを手に取り、袋を剥がす。すると中からは弓と矢が出てきた。街中で持つことは禁止されている武装だが、これもまた、バレなければ文句も無い。

「そういえば、街中で使うのは久しぶりか」

 矢を弓につがえ、矢じりは『翠彩亭』の方角へ。だが、狙うべき人間は視界内にいない。が、視界にはいないだけだ。相手はしっかりと捉えている。ならば狙える。

「ほう……あのブルーと言う少年。なるほどな。こういう偶然もあるか」

 老人は矢をつがえる姿勢になった途端、生気を取り戻した様な表情になる。老人らしい外見は変わらないが、肉体も色艶を良くし、それ以上に老人の感覚を鋭くしていく。

 これまで見えなかったものが見えていくかの様に。

「少年よ。君の悩み……君の思い。試させてもらうぞ。このウインドエルフがな」

 老人、ウインドエルフは弓を引き絞ると、見えぬはずの相手へ向かって、その矢を放った。




 直感。という言葉は好きではない。どちらかと言えば、感覚が気が付く。という表現が正しいと思うからだ。

 ブルーにとって、その瞬間に覚えた感覚は“前に転べ”というものだった。やはりこれは直感では無いと思う。

 どこからか聞こえた風切音。体全体が感じる空気の変化。そうして第六感とすらも言える、濃厚な殺気。それらはブルーの知覚すらも飛び越え、ブルーの体へ反射的な命令を下したのである。

「―――っ……何が!?」

 残りの相手はあと三人。と言ったところで、ブルーは躓く様に前方へ転んだ。何故、その様な行動を感覚は取らせたか。追いついた知覚は、視界に映るそれが原因だと後から告げた。地面に刺さった一本の矢が原因であると。

 それは、さきほどまでブルーがいた場所に刺さっていた。間違いなくブルーを狙っていたであろうそれは、行動が一瞬でも遅ければ、ブルーの体のどこかへと突き刺さっていただろう。

「まだ他に敵がっ!? って、あんたらじゃない!」

 咄嗟に矢を避けたため、無用な音を立ててしまった。結果、残り三人の暴漢がブルーの場所に気が付き、手に鈍器を持って襲い掛かって来たのだ。

「てめぇあ! 良くも仲間をぉ!」

 感情をそのまま声にする様な男の言葉を無視して、ブルーはどうするべきかを判断していく。場所は路地裏から出た比較的幅の広い道。相手三人が真っ当に動けば、ブルーを囲むことが出来るだろう。

 出来れば気づかれず、背後から襲い掛かりたかったし、それをするつもりだった。が、突如として飛来した矢により、それを妨害されてしまう。

 そう、矢だ。この矢の方が厄介この上ない。目の前の三人については、他の暴漢たちの技量から察するに、それでも相手取ることができるだろう。

 だが、矢を放った相手は別だ。相手がこちらを狙っている以上、矢の主がどこの誰かを把握できない限り、ブルーは常に不利な立場に立たされるのだ。立場がまるっきり逆転してしまう。

「だからさっさと対策を取りたいんだけどなぁ!」

 暴漢の一人が振り下ろした鈍器に対して、ブルーは躓いた姿勢のまま、体を横に回転させる。軸をズラして鈍器を避けた勢いのまま立ち上がり、横に回ろうとしていた別の暴漢へと突進した。

「へっ? 俺がっぐぉっ―――」

「さっさと倒れて欲しいかなってさ!」

 まずは移動。そうして姿勢を整えて、敵を殴る。そんな悠長な動きをしていた暴漢一人に突進し、その喉仏に拳を当てた。例え相手に気付かれたとしても、相手が気を少しでも離せば奇襲はできる。喉仏を叩かれ、呼吸を乱し、足がふらついている暴漢へ、さらに足を引っ掛ける。

「べぶっ……!」

 手で体を支えることを忘れた暴漢は、顔面から勢いよく地面へと接触した。気を失うまでは行かないだろうが、暫くは戦闘力を奪えるはず。そう予想した後、跳ねる様にまた横へと体を飛ばす。

「殴る位置には気を付けなよ。影で殴り掛かる姿が見え見えだ」

 後方から殴り掛かろうとしてきた暴漢が空振る姿を見つつ、距離をさらに離す。そうして残り二人の暴漢を視界へ納めた。

 三人同時で襲い掛かり、結果、一人がすぐにやられたという状況に対して、明らかに物怖じしている男たち。それを見たブルーは、彼らに話し掛けた。

「そういえば名乗りがずっと遅れてたね。僕は王都の怪人、ブルーさ。ところで質問なんだけど、君ら、もしかして弓使い辺りが援軍でいたりする?」

「な、なんだてめぇ! なんなんだよぉ!」

 残念ながら話にならなかった。相手は一方的にこちらを恐怖している。と言うことは、彼らにとっての援軍はいないということ。

(となると乱入者か? ますます厄介じゃないか。把握できない敵に狙われるなんて、こんな怖いことないぞ……っと!)

 ブルーの思考を遮る様に、また暴漢が殴り掛かってくる。もっとも、感情を乱し、恐れ交じりに殴り掛かるその動作は予想しやすい。

 ただ大振りで、思いっきり殴り掛かる。そんな動きはブルーが相手にしなくても、勝手に転んで怪我をするだろう。

 だから怪我をする前に倒し切ることにした。暴漢が手に持った鈍器を振り切る前に、その顔に右手の平を合わせる。

「かひっ―――」

 暴漢の鼻っ柱が手の平にぶつかり、相手の勢いをそのまま相手へ返した。勿論、こちらへの衝撃もあったが、タイミングを計り、手を収めることで、最小限に留めている。

 それでも右手はやや痺れた。殴り掛かってきた暴漢は、地面に膝を付いているが、まだもう一人は無事なまま。

 さて、右手が使えなくなったままでどうやり合うかと言ったところで、最後の一人はブルーに背を向けた。

「ひ、ひぃっ! た、たすけてくれぇ!」

 背中を向けたまま、走り去っていく暴漢を見て、ブルーは痺れていない左手で頭を掻く。

「そっか。こっちの脅威を示せば、やり合わなくてもあっちが勝手に逃げてくれるんだ……。数人くらいは、無駄に対処しちゃったかな?」

 倒れたり膝を付いたりしている暴漢を見ながら、もう少し、上手いやり方を学ぶ必要があると反省した。

 そうしてもう一つ。考えなければならない事がある。

「ねえ、ちょっと良いかな?」

「は、はひっ!? ひぃっ!」

 先ほど、鼻っ柱を折った相手に話しかける。怯えているが、悲鳴を上げる程度には話をする余裕はあるだろう。

「あそこに刺さってる矢。本当に心当たりは無い?」

「ひ、ひらねえ……ひ、ひえ……ひ、ひりまへん! ひりまへんよぉ!」

 どうやら知らない事は確定らしい。矢を放った主は、先ほどの一発以外に、次を放ってくる様子も無い。

(純粋に乱入者だった? それにしたって何のために?)

 自分に矢を放つ何者かに対して、警戒心を抱くブルー。だが、相手の居所も分からず、さらには次の行動にも出ない様子の相手に対して、何も出来ずにいた。

「……そうだね。とりあえず、君らをロープで縛りつける事が先か」

「ひ、ひぃっ!」

 考えても分からないことを考え続けるのはドツボだ。だから何も行動するなと言うことでは無く、目の前の、出来る事から始めるのが建設的なのだろう。




 次の日。騒ぎのあった地区の自警団副団長であるヒルステラ・ヒライルは、起こってしまった事件に頭を抱えていた。

「おいおい。こりゃあ目を瞑っておくなんてできやしねえだろう」

 今年で42歳になり、妻子を抱えている身としては、日々が平穏に過ぎる事が重要なのであるが、この事態はまったくもっての不穏である。

「おい。何人いる?」

 騒ぎのあった場所。『翠彩亭』という店の前で検分をしている若い部下に対して尋ねる。数くらいは数えられるが、その気力が中々湧かないのだった。

「はい! 全員で14人です! 全員、縛られてはいますが軽傷です。やっぱり、怪人が出たってことでしょうか?」

 怪人。不穏の正体はそれだろう。

 最近、あちこちで犯罪を防いでいると聞く、自警団という組織にとってはライバルとも目の上のたんこぶとも言える存在だ。

 そんな存在が、大捕物を仕出かした。集団で店を襲おうとした連中を、個人で全員を捕まえたのである。本来は自警団で、大人数で行うべきことであり、それを自警団の手を離れて行われるとなると、こちらの面子が丸潰れだった。

 また、この件に関しては、やや後ろめたい事情もある。

「やられちまったなぁ。こいつは」

「我々では、事が実際に行われるまではどうしようも無いのでは? その……人間が集まってるというだけで捕まえるのは問題ですし」

 こっちが気落ちしている様に見えたのか、若い団員は状況に対する釈明を述べ始めた。が、そんな事をされてもこちらのやる気が溢れるわけもない。

「そこが組織って物の悪いところだわな。明らかに武器を持ってる相手でも、単なる家事道具ですって言われりゃあ、それで悪さしねえ限りはどうしようもない」

 そう。組織としてのしがらみが自警団の行動を遅くして、怪人を活躍させる隙を作ってしまったとも言える。もう少し暗い話をするのであれば、現団長がその動きをさらに遅くしてしまっているのだから性質が悪い。

(ったく、これで団長も、ちったぁ懲りてくれると良いんだけどよ)

 現自警団長は、ヒルステラ以上に平穏志向の人間だ。ひたすら事が起こらない様に祈るタイプで、堅実な組織運営をするからと今の地位にいる。ただ健全かと問われればそうでも無く、平穏を維持するために、様々な不穏に目を瞑ることが多かった。

 今回の件にしても、事前にここで何か起こるかを知っていた節がある。

 大方、知った上で放置しておけば自警団に害は来ないと判断したのだろう。昨夜、ここでの見回り役をするはずだった団員に、何故か、本当にタイミング良く、別の仕事を頼んでいた。

「とりあえず、昨日の夜にこいつらが乱痴気騒ぎしてたのは事実なんだ。しょっ引いて身元の確認しとけ。絶対に埃が出るからよ。そうでなくても、全員ここで転がしとくわけには行かないからな!」

「分かりました!」

 団員に指示を出してから、ヒルステラは溜息を吐きたくなった。

(ここらで、こんだけの人間動かせるってのは、ベイレイン組以外考えられねえよな。うちの団長に根回しなんてのも、あいつらのしそうな事だ)

 現自警団長はベイレイン組と懇意だ。なにせ彼らと来たら、自警団へ被害を訴えるであろう人間を、丁寧に潰してくれるのだから。

 結果、自警団の仕事量は減る。さらには何故か自警団長の懐が暖まるとあっては、懇意にせざるを得ないだろう(それが犯罪の減少にまったくもって繋がらないとしてもだ)。

「ま、今回はそのどっちもが泡を食ったって思えば、小気味良いか」

「なんのことです? 副団長?」

「ああ、何。今頃、忙しい奴は忙しいんだろうなと思ってよ」

 自分より忙しい人間を見れば、自分の立場も幾らか納得できる。今回に関しては怪人に感謝をと思いつつ、ヒルステラは自分の仕事を再開することにした。




 一方、忙しい奴であるところのケイ・ベイレインは、今日もまた、自らの仕事部屋で目の前の部下に対して怒声を上げていた。

「おい、俺は川に沈めるくらいでやれっつったよな? で? このザマは何だ? イザギよぉ!」

「は、はい! イサリです!」

「てめえの名前なんざイザギで十分なんだよ! てめぇがやったのは単なる失敗じゃねえ。こっちが命令してちゃっちゃと動く連中10人以上を捨てちまったってことなんだよ! しかもそれをやった奴はまだのうのうと生きてやがる! うちの面子は丸潰れだ! わかってんのか!? あぁ!?」

 今回ばかりは純粋な怒りだった。能力が無い奴らだと思っていたが、本当に無能なところをマジマジと見せ付けられた気分である。

 頭の中では、どうやって目の前の男一人で、今回の件の落とし前を付けさせるかを考えていた。

 相手の顔面は蒼白しており、今にも死にそうな雰囲気だったが、実際、そういう選択肢も有りえるだろう。つまり、死んで落とし前をつけさせるかどうかだ。

「おい、イザギ。仕事は失敗した。そりゃあもうどうしようもねえよな? で、潰れちまったうちの面子についてはどうする? 仕事を失敗しました。次からは頑張りますじゃ済まねえってのは、その頭でもよぉく分かるよな?」

「そ、そんな。組長……」

 最低限、こちらの言いたい事が分かる頭はあったらしい。表情は蒼白を通り越して、黒くなっていた。あくまで命に関わらせるのは選択肢の一つでしか無いのだが、目の前の男が、自発的に違う選択肢を選ばない以上、ケイがその選択肢を選ぶしか―――

「まあ待ちたまえよ、ケイ。うん? それともケイ組長の方が今はらしいかな?」

「た、隊長……」

 ケイの怒鳴り声が響く部屋に、飄々と一人の老人が入ってきた。今はウインドエルフと呼ばれる老人が。

「だから、今さら君に隊長と呼ばれるのはこそばゆいと言っているだろう? だが、もし、その威厳が今も通用するのなら、幾らか言わせて貰おうじゃあないかね」

 ケイは今まで怒りに震えていた感情が、みるみるうちに萎んでいくのを感じる。今さら、目の前の老人を、かつての上司と恐れているわけではない。恐れているのは、老人が未だ持っている力そのものだ。

「相手の戦力を見誤る。それが今回の失態だよ。この、ここに立っている君の部下は、君の言う通りに人を集め、君の言う通りに噂を広めた。狙う相手はまんまと誘き出され、結果、複数人の男と戦う破目に相手は陥った。つまり相手は君の画策した罠に嵌ったのだよ。何から何まで、君が命令した通りじゃあないかね」

「そ、そりゃあそうですが……」

 かつての、この目の前の老人の部下だった頃を思い出す。まだ下っ端でしか無かった自分に対して、まるで教師の様に戦いのイロハを教え込んだのだ。背格好こそ変わったが、その話し方は一切変わっていない。

「君らが狙っていたブルーは、頭が回る。その事に気が付かず、安易に強盗の噂を流した。今回の失態はそこにある。相手を誘き出すためだろうが、相手に準備をする余裕を与えては意味が無い。準備も出来ない馬鹿者では無かったのだからな。敵を侮ること無かれ、敵を買い被ること無かれ。ただ答えは肌で感じる戦場にこそある。忘れてしまったかな? ケイ組長。戦場の風を、君は」

「あ、あんた……あんたは……」

 唾を飲み込みながら、老人をただ見ることしかできない。この老人の、授業の様な話の後には、何時も決まった事が起こるからだ。

「私は……見たよ。君らが狙うブルーという男を。彼は知恵が回る。その知恵を実行する胆力と体力もある。だが、まだ未熟だ。まだまだ未熟だ。戦場を知らない。戦場に吹く風の音色を知らないのだ。もし彼がそれを知った時、いったい、どの様な成長を迎えるか。それとも逃げ出すか。実に見てみたい。単なる偶然の様な出会いだが、この出会いに運命を感じる……」

 老人は興奮している。それが分かった。大声こそ上げないが、その分、感情が込められていた。

 そうだ。何時だってそうだった。老人はまず部下に指示を出し、指示の結果、作戦が失敗に終わった時、感情を昂ぶらせ、彼自身が出る。そうなった時、老人は一度として作戦を失敗させなかった。本来、集団で行うべき作戦であっても、彼は個人で向い、そうして勝利してきたのだ。

「あんたが……あなたが出るほどの相手なのか? そのブルーってのは」

 かつて老人が行った作戦と比べれば、たかが奇人一人をどうこうするなど、小さな話に思えていた。だと言うのに、この老人はかつての作戦の様に乗り気だった。

「ああ、そうだとも。私が出なければならない。私が確認せればならない。そういう相手だ。分かっていると思うが……これは私個人でやる。私が一人でだ。その後にどうしようが君らの勝手だが、私の行動だけは邪魔せんでくれ」

「じ、じじい。あんた、組長に何を―――

「黙ってろイサリぃ!」

 老人に対して脅しに掛かろうとする部下を、怒鳴って止める。別に、この程度で怒りを露わにする相手では無い。無いが、彼と敵対する可能性だけは、万に一つでもあってはならない。だから止めた。

「ふむ。了承と取って構わんかね? なあに、そう時間が掛かるものでも無い。事が終わるのはな。だから、君らの商売を邪魔するものではないと言っておくよ。私は何も……この街と戦いに来たわけではないからね?」

 老人はそれだけを告げて、また部屋を去っていた。その姿を確認してから、ケイは深い安堵の溜息を吐く。

「ふぅ…………もしかしたら、ここには二度と訪れないかもな。あの人は」

 別に、ブルーとやらに返り討ちに遭うなどとは欠片も思わない。ただ何にせよ、この街に滞在する理由も無くなるはずだ。老人は獲物を見つけたから、獲物を狩った後は静かに去るかもしれない。

「おい、イサリ。てめぇの始末はもう良い。尻拭いは俺がやっておく」

 老人の言う通り、自分の失態だったとケイは認めた。部下の命を奪ったところで、何ら進展も無い。

「は、はい! それでその……いったい何者なんで? あの爺さんは……ひぃっ! な、なんでもありやせん!」

 少し睨む形になったせいで部下が怯える。聞かれた内容自体に、やや思うところがあるだけなのだが。

「あの爺さんはな、化け物なんだよ。シィナン川の戦いってなぁ知ってるか?」

 答える義理も無いが、聞かれたのなら誰かに聞かせても良いかと言う気分になった。あの化け物の話を。

「む、昔あった戦争ですかい?」

「そうだ。お前が生まれるずっと前の話さ。川を挟んで二つの国の兵士が睨み合っててな。渡れない川じゃあないが、行軍は遅れる。そこを突かれたら不利になるってんで、誰も動けなかった。少数で夜分にってならバレずに渡れるんだろうが、どっちもいるのは大軍だ。数人で倒せる相手じゃあねえ。しかも命は確実に失うってんで、誰もしたがらなかった。で、あの爺さんが、自分がやると言い出した。何をだと思う?」

「川を渡って、奇襲ってやつですかい?」

 部下からの返答は当たり前の話だ。当たり前の話で、誰だって当たり前の様に考えた事。

「だったら人間らしいやな。あの爺さんは、川を渡れないなら、川の向こうから矢を射かけりゃ良いと、そう言い放ちやがった」

 そんな事が出来るならとっくにしている。その時、誰もがそう思った。川は浅いが幅がある。さらには矢で撃たれては意味が無いと、敵軍は川から少し離れた場所で陣取っていたからだ。防塁だってある。撃って当たるものでは無かった。誰にでも分かる。

 だが、やるだけの損も無いだろうと、老人……当時はまだ若かったあの男に試させることにした。起こった結果が、予想外の事態を生むとは誰も思わないで。

「距離がある障害もある。そんな状況だってのに、あの爺さんは撃ったんだ。矢がある限り……一発も外さずにだ。最初は敵の指揮官。次に指揮官の側近。その次はまた下の部隊長。矢を撃ち尽くすまで射殺したのよ。普通、敵に矢を撃たれりゃ隠れる。当たらない場所にな? 勿論、敵もそうしたってのに……それでも矢で撃ち殺されたんだ」

 結果、敵軍の指揮系統はズタズタになった。まともに軍を動かせる状況では無くなり、老人が所属している軍が勝利する発端となったのである。

「そんなことを……どうやって……?」

「さてな。本人は風を感じ、風の助けを借りるかなんとか言ってたが、俺にはさっぱりだ。ただ、あの耳。尖ったあの耳は、なんでも北東の大森林に住む、エルフって人種の特徴で、そいつらは武具の扱いに長けるんだそうだ。だからあの人は、ウインドエルフなんて呼ばれてたな……」

 ウインドエルフは戦場における死だ。相対すれば、こちらが反撃することも出来ず、風に貫かれる様に矢で射殺される。隠れても無駄だ。障害物で自分を囲ったところで、その隙間から矢を放ってくる。遥か彼方にいながら。誰にも止められない。ただ受け入れるしかない死、そのもの。

「もしかしたら、俺たちも知らない技術があるのかもしれねえが……何にせよ、化け物さ。だから、あの爺さんには絶対に手を出すなよ。ブルーって奴にしても、あの人に狙われちゃあお終いだ」

 ブルーとかいう怪人。今では同情心すら覚えてしまう。確かにもう、ケイが手を出す必要が無くなったのかもしれなかった。




 怪人ブルーから、貴族レック・フォーリングへと戻ったレックは、数日はブルーとしての活動を止めることにした。今回は少し派手に動きすぎたし、妙な介入を警戒していたというのもある。

 ブルーの噂に関しては、数日間はむしろ盛り上がり続けるであろうことが分かっているため、そこを危惧する必要も無い。

「犯罪が野放しにされてる状況を放置っていうのは、一個人としては見過ごせないけど、本来は自警団の仕事だしね」

「なら、最初から自警団に任せておくという選択肢は無かったのですか?」

 仕事終わりの夕暮れ、レックは街の大通りを歩きながら、ソウカと話をしていた。『カラハル』で出す料理の食材を買い入れする仕事を手伝っているのだ。

「尻引っ叩いた程度で動いてくれるならそうもするんだけど、あっちはあっちでベイレイン組と繋がりありそうで、おいそれと介入するのも……あ、尻引っ叩くって、ちょっと下品な言い回しかな?」

「そういう話でなく、ゴシップ紙以外でも、こんな記事が載るようになったんですよ? そのことに、何か思うところが無いかと聞いているんです!」

 ソウカは王都で良く読まれている大衆紙をレックへ見せてきた。『カラハル』に置く物であったが、そこには先日の強盗を計画していた連中が逆に襲撃されるという騒動についてが載っている。

 内容は、強盗逆襲撃の裏にブルーと名乗る怪人の存在あり。強盗達が口を揃えて、怪人ブルーが現れたと証言。という見出しから始まっていた。

「怪人なんて名前出すくらいなら、イラストとかも載せてくれたら良いのにね。どんな風に想像されてるんだろう……」

「だからそうでなく! これは噂などのレベルですらなく、実際に起こった事件として認識されていることに、危機感を覚えないのですか?」

「と言っても、事実は事実だしね」

 実際に行動した結果がこの記事に載っているのだ。多少の過大表現や情報の齟齬こそあれ、大まかな部分は正しく書かれている。上等な部類の記事だろう。行動そのものに対する危険について言っているのなら、それを承知した上で行ったとしか言えない。

「けど、とりあえず暫くは行動を自粛するつもりだよ。挑発されたからって、少し派手に動きすぎた」

「もう……坊ちゃまが危険な目に遭う事に、私は苦言を申しているのに……」

 それも……分かっている。ソウカの心配は理屈のそれで無く、純然たる感情から来るものだ。危ない事は止めてくれ。そう言われ続けている事は理解しているし、正論であることも分かっていた。

「なんだろうね。僕としては……なんだ?」

 ふいに後ろを振り向く。通りを歩く人影が見えるだけで、特に違和感は無い。

「どうかされましたか?」

 首を傾げるソウカを見て、気のせいだったのかとこちらも思いそうになる。何かに見られている。そんな感触があったのだ。この感覚、未だに良く分からない部分があるものの、先日の騒動の時にも感じた事があった。

「ソウカ、ごめん。先に帰っててくれるかな? ちょっと買い忘れたものがあったんだよ」

「買い忘れって、坊ちゃまは買い出しの付き合いだったはずでは……」

「いや、付き合いついでに買いたいものがあったんだけど、すっかり忘れちゃってて。そういう事だから、ごめん!」

「あ、坊ちゃま!?」

 申し訳ないが荷物をソウカに渡して、彼女から離れることにする。出来るだけ、少なくともソウカからは距離を置かないといけない。彼女だけは危険な事に巻き込みたく無いのだ。

 その場を走り去り、どこへ向かうともなく、あちらこちらの物陰に隠れたり移動したりを繰り返す。もし、この感覚が正しければ、自分は狙われている。何者かに。もしかしたらその相手は、先日、矢を放ってきた相手かもしれない。

(どうする? どう行動するのが最適だ?)

 動きながら、嫌な感覚を避けるためにはどうすれば良いかを考える。尾行を撒く方法など学んだことは無いが、別に役立ちそうな知識は無いものかと頭を動かし続ける。そうして……。

「路地裏……人気の無い場所を選んだのは考えなしか。それとも、追跡する者を炙り出すためか……。なんにせよ、また会ったみたいだな、少年よ」

 背後、さっきまでは一切見えなかった場所に、ふいに人影が現れた。その人影の姿をレックは知っている。一度だけしか会った事の無い相手だったが、印象深い相手だったので憶えていたのだ。

「あなたは……先日出会ったご老人じゃないですか!? なんでこんな場所に……!」

 柄にもなく、自分の立場を話した相手。人の良さそうだと思っていた老人。その人物がそこにいた。

「その言い方は違っているだろう? こう尋ねるべきだ。どうして、自分なんかを尾行していたのか。とな」

 確かに、それが一番聞きたい事柄だった。何故、どうして自分を尾行するのか。あの、矢を放った相手と同じ様な感覚を持ちながらどうして。

「まずはその鋭敏な勘。本能とも言える部分については合格だ。迫る危機に対して、鈍感ではいけない」

 老人は薄らと笑っていた。以前は、親しみを覚えた老人の表情だったと言うのに、今は恐怖を感じるのは何故だ。

「だが、危険の大小を計るまでは身に付けていないらしい。これについては経験不足か。それは仕方ないだろう」

 老人は、こちらを値踏みしていた。レックの行動や発言一つ一つを、じっくりと見ていなければ出来ない事だった。

(どこから? 何時からこの人は僕を見ていた?)

 ゾッとする様な発想が浮かんだ。例えば、この老人が騒動の時に矢を放った相手だったとしたら? それはつまり、自分がブルーである事が、この老人には分かっている。

「あなたは……!」

「君が怪人ブルーと名乗っていることは承知しているよ。余計な言い訳も誤魔化しも無意味だ。格好を変えたところで、君の本質的な動きは変わらない。風が……それを教えてくれる。君の動作とブルーの戦い方は、ぴったりと符合するものがあった。覆面越しだろうともな?」

 頬を汗が伝う。恍ける事ができるか? いや、既に老人の発言は確信に近いものがある。既に気が付き、何事を繰り返したとしても、その考えを取り払うことはできないだろう。

(ブルーの正体が……バレた)

 それはもっとも避けるべき状況だった。貴族の子弟、レック・フォーリングにとって、怪人ブルーの行動は愚行以外の何物でも無いからだ。老人はこちらの弱みを握るつもりか? それはいったいどの様な形で?

「安心しろと言えば良いのか……その事について、私は君に何かを言うつもりは無い。ブルーだという正体をバラすつもりも」

 老人はそう言うが、安心できる材料には一切ならなかった。

「じゃあいったい、何が目的で……!」

「目的……か。強いて言えば、今回は手札を見せに来た。と言った程度かな?」

 老人は、背負っていた袋包みを剥がし、そこから弓矢を取り出した。その動きは早く、すぐに矢の先でレックを捉える。

「……っ」

 レックは事情も疑いもすべて捨て置き、その矢先から逃れようとした。人気が無く細い路地裏。だが、幾つか障害物となるものはある。

 捨て置かれたらしい大きな木箱、建屋の出っ張った柱。裏口に繋がる石階段など、矢の射線から逃れる場所は幾らでもあった。

 その内の一つ、もっとも近くにあった柱の陰に隠れようとしたその瞬間―――

「なっ……んで……!」

 頬のすぐ傍を、矢が一本通り過ぎた。薄らと、頬の皮ふを傷つける様なそれは、レックよりも早く柱の陰へたどり着き、壁へ突き刺さる。伝う汗が血に変わった。

「その頬から流れる血は挨拶代りだ。当たれば痛い、傷を負うことの証明だよ。ああ、安心したまえ。今日はこれ以上、当てん」

 いや、当たらない。当てられないはずなのだ。この場所は、直線か縦に弧を描く軌道の矢にとって、完全に死角となる、そんな場所のはずなのだ。だからこそレックはそこに隠れようとした。が、レックが隠れるはずのその場所に、突き刺さる矢が一本。

(ヤバい……これはヤバい相手だ……!)

 本能が、まだまだ浅いはずの経験則が、それでも危険信号を発している。相対するべきではない、敵対するべきではない存在がここにいると。

(逃げる……正体を知られてるからって構うもんか! 逃げなきゃ、確実に殺される!)

 レックは身を翻し、障害物に隠れながらも、この路地裏から逃げるための動きを始めた、その瞬間。

「距離を置くのは悪手だな」

 老人のその言葉より先に、レックの横を通り過ぎた矢が、路地裏の出口となる道の真ん中に刺さった。横を通り過ぎたはずの矢が、レックの目の前に。

「……」

 自分の息の音が聞こえる。迫る危機に感覚が鋭くなり、一方で、追い詰められているという事実が息を荒くしていた。

「矢を持つ相手を倒す場合、まず二つの方法がある。一つは自らも飛び道具を持つこと」

 老人がまた矢を弓につがえる。咄嗟に大きな木箱の後ろに隠れるが。

「が、君は今、それを持たない。残念ながらな」

 矢が、木箱に隠れるレックのすぐ隣の地面へ刺さる。今回もまた、刺さるはずの無い場所へ。

「では二つ目はどうか? これはもっと単純だ。弓を持つ相手に近づき、接近戦を挑む」

 木箱を飛び越え、また別の障害物へ移動しようとしたレックの横腹を、さらに矢が掠めた。狙い、あえて外した。そんな軌道を描く矢。

「が、一手目に君は逃げを選んでしまった。勇気の有る無しの話では無い。接近できる距離から離れてしまった。故にもう近寄れないのだ」

 頭の中を読まれている様な言葉が、老人から紡がれていく。そうして、その内容が一層レックを追い詰めた。

「君は今、手を塞がれた状況だ。この状況を打破するには、奇抜な発想か、私をも超える技量が必要になってくるだろう。そのどちらかを、君は持ち合わせているかね?」

 老人がまた矢を放つ、レックが反応し逃げようと、避けようとする先を、その矢が塞ぐ。まるで意思を持っているかの様な矢に対して、レックは翻弄されるしか無かった。隠れることも逃げることも、ましてや反攻に転じることもできない。

 矢がレックの周囲を動き、レック自身が雁字搦めにされていく。路地裏を駆け回る事は出来る。だが、それは老人がそれを許しているからに過ぎなかった。どれほど動こうとも、老人の矢から逃げ出すことは出来ない。それを証明するかの様に。

「っ……僕に、手札を見せるだって……?」

 話すことも、まだ許されていた。いや、既にそれくらいしか出来ない事を理解してしまった。今、レックの命は、老人が矢を番える、細い手の中にこそあるのだから。

「ああそうだ。ただの奇襲ではこちらが有利過ぎる。正面切っての戦いでもまだそうだ。故に君を試す前に、こちらの技量を把握してもらおうと思った。この矢が尽きるまで」

 老人の手には一本の矢が握られている。どうやら手持ちの矢を、その一本を除いて使い切ったらしかった。

「……何? 僕を試す?」

「ああそうだとも。君がふさわしい存在か否かを試させてもらう。そうして今、この場は、その準備に過ぎない」

 話を続ける。そうする事しかできない以上、この行動から活路を見出すしか無い。

「僕が何にふさわしいって言うんだ……」

「後継者……いや、違うな。同じ世界を持つ者。老い先短い私は、それを残したい。既に私自身がどん詰まりなのだ。こうやって、若者をいたぶるしかできない私。だが、もし、誰かに何かを託せたのなら……」

(今だ!)

 老人が話を続けようとしたその瞬間を見計らい、レックはさらに前へ動こうとした。勿論、老人は矢を放ち、その動きの妨害をする。だが、その結果、最後の一本を使ってしまったのだ。

「おお、これは……」

「手を抜くのも話に入り込むのも勝手だけど、隙を見せるべきじゃあ………えっ」

 老人が持つ最後の一本。その矢は放たれたはずだった。だからこそレックは走り、老人へ接近しようとしたのだ。そんなレックの動きを止めたのは、後方から飛んできた一本の矢。

 それは放たれた時とは逆方向に飛び、老人の手へ収まった。

「話は最後まで聞くべきだ。それとも、こんな老人の話は退屈かね?」

 足が動かない。傷を負ったわけでも疲労に寄るわけでも無い。只々どうしようも無い状況に対して、肉体が先に根を上げてしまったのである。

 老人はそんなレックを見ながら、取り戻した矢を手で弄ぶ。

「昔から私は、風を感じていた。その風が何であったかは、若い頃の私には分からなかったが、それでも、この風は私の手助けをしてくれた」

 風が、路地裏を吹き抜ける。突風とも言える勢いに、レックは目を閉じそうになるが、何とか耐えた。いや、耐えたのでは無く、老人の存在に、目を閉じることすら出来なくなっていた。

「何時しか私は戦場に立つようになった。才覚を買われたのだ。私の一族は武を生活の一部とし、その中でさらに才能ある者は、一族のためにその武を使うことを許された。何のことは無い、傭兵として売られたのだよ」

 老人はレックが動けなくなっていると見るや、そのまま話を続けた。

「そんな戦場でも、私は風と共にあった。弓を放てば風が吹き、その勢いを助けてくれる。弓を放たれれば風がその勢いを削ぐ。最初は単なる偶然かと思えたが、弓の修練を続け、戦場を駆け回ると共に、風の扱いを理解していった。風が……私の戦場では、何時も風が吹いていたのだ。何時しか、誰かが私の事をこう呼ぶ様になった。ウインドエルフと」

 老人は弄んだ矢を、再度弓につがえ、放つ。レックの足元に刺さった矢は、何時の間にか一枚の紙が結び付けられていた。

「一週間後。そこに書かれた場所に来たまえ。その時が本番だ」

 地面に刺さる矢を、老人は指さした。そうして、もうこれ以上の話も無いとばかりに背を向ける。レックはその背中を追うことも出来なければ、その場を動くこともできなかった。敗北感以上の恐怖。それが体を支配していた。

 だが、老人は去る前に一旦止まり、その姿勢のまま言葉を告げる。

「一つ言い忘れていた。やはり老いはいかんな」

 老人が忘れていたというその言葉を聞き、レックはその場で崩れ落ちた。

「もし来なければ、君の身内を狙う。私はブルーの正体を他に告げるつもりは無いが、私自身、君の正体に対して、何を行うかは勝手だろう?」




 どれほどの時間が過ぎただろうか。日が暮れる頃になり、漸くレックは立ち上がり、歩き出した。だが、その足取りは重い。

(どうすれば……どうすれば良い? 僕は一体……どうすれば……)

 今まで、こんな無力さを感じたのは初めてだった。何時だって、どんな時にも、希望や活路と言ったものはあるのだと、そう信じていた。

 だが、今日、出会ってしまったあの老人は例外だったのだ。

 あの老人は、殆どの道を塞ぎ、死という言葉だけが残る道だけを残す。

 もし、一週間後、老人が指示する場所へと出向けば、レックは確実に殺されるだろう。そうして、もしそれを無視すれば、レックの家族が殺される。既にレックの人となりが知れている以上、それが出来てしまう。どの場所にも、目に見える死の形があるのだ。

(身から出た……錆びか)

 自分の手を見やる。小さな手だ。子どもの手だ。こんな子どもが、ガキが、何を思ってブルーなどと言う怪人を演じたというのか。どれほどの理屈や理想があろうとも、子ども染みた行いには必ず報いが来るというのに。

(僕が……僕の行動で……僕自身が招いた結果だ、これは!)

 誰かを犠牲にするなど許されなかった。どこの、誰の意思も、法も関係ない。レック・フォーリングという個人が、自らの行動の結果を、誰かに押し付けるなど考えられなかったのだ。

 ならばもう、自らを死地へ追いやるしかない。その選択肢しかレックには残されていなかった。その事実を受け止めているというのに、レックの体は恐怖に震える。

(なんて情けない奴なんだ、僕は……)

 目の前の、自らが招いた死という結果に、レックは恐怖していた。もし、逃げ場があるなら逃げ出したい。そんな思いに駆られている。

(責任を取るだって? 違う、そうじゃあない。他に道が無いから、死を選ぶしかないだけだ。この恐怖が、その情けなさの証明じゃないか!)

 泣きそうになる自分を抑えつけながら、レックは『カラハル』へと辿り着いた。酒場の喧噪が聞こえる中、この店へ入って良いものかと足を止める。自分の行いで、彼らも狙われるかもしれない。ソウカも。

 そんな自分が、この宿に足を踏み入れて良いのかと躊躇する。せめて、残りの一週間は、誰にも迷惑を掛けない場所にいるべきじゃないかと、そう思えた。『カラハル』に背を向け、別の場所へ歩き出そうとするレック。

 だが、そんなレックに話しかける存在がいた。

「おかえりなさい、坊ちゃま。どうかしたのですか?」

 『カラハル』から出てきたソウカが、立ち去ろうとするレックの背中に話しかける。どこか優しいその声。

 張り詰めていた心が、その声によって裂けてしまった。強がりがどこかへと吹き飛ばされ、その場に残ったのは、ただの情けないレックだったのである。




「……」

「何か、お話になっていただかなければ、こちらも何も言えないのですが……」

 『カラハル』の自室へと帰ってきたレック。目の前にはソウカがいて、どう考えても様子のおかしい主人を心配していた。彼女が心配しているということは、レックが理由を述べない限り、絶対に離れてくれないことを意味する。

「僕は……情けない人間だ」

「ええ、はい。まあ……そういう部分もあるのが人間だと思いますが?」

 これ以上言いたくない。言ってしまえば、そんな情けない姿を、一番見せたく無い相手に見せてしまう事になるのだから。

 だが、ソウカの目は、それを見逃してくれそうになかった。

「ブルーの正体がバレたんだ……」

「ええっ?」

「それも……どうあがいたって勝てない相手に」

 言えるのはそれだけだ。それ以上の言葉を続けたところで言い訳になる。

 放置しておけば身内に害が及ぶ。だから自分の命が奪われることを承知で敵に挑む。そんな言葉を続けたところで、失態の尻拭いを自分ですると言っているだけなのだ。所詮は言い訳になってしまう。

「迷惑を掛けることになると思う。だけど、せめて君が致命的なことにならない様には―――

「大変ですね。なら、早く身を隠さなければ。ご実家に戻られますか? それとも、どこか別の場所へ?」

「ソウカ?」

 彼女は、一度は驚きの声を上げたものの、その次の瞬間には、レックを責めるでも無く、彼女なりの仕事をしようとしていた。主人を守るための発言を始めたのだ。

「余裕はどれほどございますか? 時間が無ければ、すぐにでも荷物を纏めなければ」

「だ、だからちょっと待ってソウカ! ブルーの正体がバレたんだよ? 危ない相手に、君や、周囲にまで迷惑が掛かるかもしれない。だって言うのに……」

「坊ちゃまが一番危険ということですよね? 身内より先に、自分自身の命が危ないから、そんな顔をしていらっしゃるのでしょう?」

 痛いところを突かれる。そりゃあ確かにレックは、この期に及んで自分自身の心配もしていたが。

「それはそうだけど……僕の失態で君らまで危険な目に遭うんだ。僕の責任だし、僕の罪だ。普通は自分の命に代えてでも、事態を収めなきゃならない。だって言うのに、僕はその事に不安を抱えて、怯えてる……そんなの……」

「格好悪い……ですか?」

 こちらの目を覗き込む様な姿勢になるソウカ。その目が、今のレックには直視し難いものだった。

 けれど、何故かソウカの目には、侮蔑や失望と言ったものは見えてこない。その事実に、なんだかとても混乱してしまう。

「格好悪いさ! ブルーなんて調子に乗って粋がって、結局はこんな風に怯えてる。どこの誰が今の僕を格好良いなんて言うんだ……」

 とうとう愚痴に近い言葉まで零してしまった。それだけ感情のバランスが崩れているのだ。しかし、そんなレックの姿を見ても、目の前のソウカは変わらぬままだった。

 何時もの、レックを坊ちゃまと呼ぶその姿のまま。

「なるほど、それは道理です。他の方々でしたら、もしかしたら坊ちゃまを罵倒なりなんなりするかもしれませんね」

「だろ? だからソウカも―――

 ソウカが首を横に振り、右手を自らの胸に置いた。

「私は私です。坊ちゃまに仕えると決めた私です。坊ちゃまが坊ちゃまである限り、嫌いになったり、見損なったりしません。絶対に」

 と、胸を張って宣言するソウカ。

「な、なんで?」

 既に恥やら情けなさなどの感情すらどこかへ行ってしまった。既にレックは、目の前の従者に対して、良く分からない生き物を見るみたいな、そんな感情を抱いてしまっている。

「そういえば何故でしょう? 普通なら、私だって坊ちゃまの事、嫌ったりしそうなのに、全然そんなこと無いんです」

 本人ですら首を傾げてしまう。どうしろと言うのだ。

「……てっきり、失望されると思ってた」

「だからそれが不思議なんですよね……あ、けど、前にもこういうことありましたよね。あれ、何時だったか……」

「前?」

 何時の前の事か。今日みたいに、命に関わることなんて早々無いと思うし、記憶にだってしっかりと残っているはずなのだが。

「ほら、以前に、私が領地の裏山で猪に襲われたことがあったじゃないですか」

「以前っていうか、もう随分と前のことだよ。ああ、けど、あの時も、命の危険があったって言えば、その通りか」

 当時はまだ屋敷で働き始めたばかりのソウカが、道に迷い、そこで運悪く、裏山を荒らしていた猪と遭遇してしまったのである。冬も近く、腹を空かした獣相手に、子どもが一人。自然の摂理に従えば、どちらがどうなるかは目に見えていた。

 同じく、裏山で遊んでいたレックがいなければの話だったが。

「まさか、屋敷の坊ちゃまが助けに来てくれるとは思いも寄りませんでした」

「間に入っただけじゃないか。事実、その通りだ」

 そう。格好よく猪を追い払えたと言うのならそれで良かったが、当時も変わらずレックは子どもだった。

 獣を倒す方法なんて知らず、ましてや追い払う方法も知らない。ただひたすらに、猪に襲われ続けることしかできなかった。それが当時のレックだ。

「あの頃から、体だけは頑丈だったから、抵抗し続けることはできたけど……大怪我だった」

 襲われ続けて、猪が別の餌を見つけた方が良いと判断するまでには、骨も幾らか折れていたと思う。隠しきれるものでは無く、母なんて卒倒しかけていた事を覚えている。

「ええ、助けに来ていただいたことは分かりましたけれど、あまりにもボロボロで……助けられた側であることは理解していましたけれど、どうにもみっともなく……」

「ああもう! 僕だってそう思ってるよ! だから思い出したくない記憶の上から何番目かには入ってるしさ……」

 そうだ。なんとなく、気になる子の前で格好つけようとした。けれどできなくて、周りからの反応も散々で、すごく痛い思いもした。

 だから、少しでも強くなろうとして、体の動かし方なんかを学んだりもしていたのだ。が、それもここに来てメッキが剥がれてしまった。

 今、この場にいるのは、情けない、女の子一人守り切ることができない、ただのお坊ちゃまだ。

「けど、私はどうしても坊ちゃまを忘れられなくなりました」

「情けない姿が?」

「ええ、情けなくて、みっともなくて、それでも頑張っている坊ちゃまの姿を、あの時に見ましたから……今さら、何か失敗したと言われても、私も思いは少しも変わりません。たぶん、これからも」

 ソウカのその表情は、蔑んでのものではなかった。うっすらと笑っているが、それは嘲りのそれでは無かったのだ。

 その表情を見た瞬間、レックの中で、大きな感情の変化があった。自らを情けないと思い、また、現れた敵を恐ろしいと思う心の中に、また別の、今まであった感情すらも飲み込んでしまいそうな、新しい感情が生まれてくる。

 心の中に、光が差すような気がした。

「ですので坊ちゃま。今は坊ちゃまの命が最優先ということで、すぐに街を離れる身支度を……坊ちゃま?」

 レックはうなだれる様に座った状態から立ち上がった。何時の間にか、先ほどまで抱いていた、逃げたいという感情から体が解放されていたのである。

 すべてから背を向けたいという感情は勿論ある。それは未だ強く、心の中に渦巻いていた。だが、体を支配するまでには至らない。今、レックの肉体を支配しているのは、もっと別の思いだった。

「ソウカ、ごめん」

「何故に謝って?」

 まずは彼女に謝罪しなければならない。散々愚痴を言っておいて、急に態度を変えてしまった事が一つ。そうして、これから、きっと彼女をより心配させる事になるだろうから、その事についても一つ。

「やっぱり、戦う事にした」

「ええ!? ちょ、ちょっと、坊ちゃま!? だから危ないって言ってるじゃないですか! なんでそんな!」

「なんでだろうね。逃げないかって言われれば、逃げようって言いたくなるくらい弱気だったけど、今はそうなってないんだ。あ、それとさ」

「なんですか!? あのですねっ。私、やっぱり、坊ちゃまが危ないことをするのは反対で―――

「絶対に生きて帰って来る。きっちり決着つけて」

 それだけをソウカに伝える。今できるのはこれっきりだ。




 ウインドエルフが告げられたその時まで一週間。時間は一週間しかない。有る様でいて、もしかしたら無いかもしれない。この時間を何のために使うかが、レックにとっての課題だった。

 何もせず、無為に過ごすつもりなんて毛頭も無かった。この時間は、実力の差を詰めるために使うべきなのだ。

(敵が自分よりあらゆる面において上位なんだとしたら、それを覆せるものは準備しかない)

 もしかしたら、ウインドエルフはそれを見越しての期限を示したのかもしれない。先日、戦った時もそうだった。

 手札を見せると、確かあの老人はそう言っていたのだ。

(圧倒的な差……あの人と僕では、埋めても埋めきれないくらいの戦闘経験の差がある。技能も、精神力も、判断力もだ。それを向こうは理解して、あえてこちらに差を詰めさせるつもりなのかもしれない)

 手札を見せる以外にも、レックを試すのだとも言っていた。何を試し、何のために差を詰めさせるのかは分からないが、どうやら敵は、レックとの対等な戦いを望んでいる様に見えた。

 だから、少なくとも対等になるために、レックは一週間、ひたすらに行動していた。

 装備をどうするべきか。どの様な時間に行動すれば良いか。敵の弱点は? むしろ敵の長所は? ひたすらに考え、対処の方法を準備する。そのために、指定した場所へも向かった。その場所であの老人に襲われれば一溜りも無かっただろうが、その様な事は無かった。やはり、あの老人はこちらに猶予を与えていたらしい。

 結果、揃ったものはと言えば、飛び道具に対抗するため、こちらも短弓を用意した。弓の扱いについて、まったくもって自信が無かったものの、それでも用意できるものは何でも。という考えからのこれだった。

 用意できるものと言えば、腰に下げた短剣もそうである。厚手で頑丈。切れ味はさておいて、兎に角鈍器にはなるだろうというそういう武器。こちらに関しても、使い方をそれほど熟練しているわけではない。

 さらに言えば、街中での武器の売買は許可が無ければ禁止されているため、手に入れる事自体、随分と苦労した。

 服装はブルーの衣装だった。元々、十分に動き、戦うための衣装であるため、一週間以内に用意できる中で一番上等なものが、既に所有していたこれだったのである。

 覆面となる青色の帯は巻き付けていない。一瞬の油断も許されぬ今の状態であれば、邪魔になるかもしれないと思ったからだ。だが、何の未練か、ポケットの中にはしまっている。

 勿論、その他には、いろいろと工夫はさせてもらっている。衣装の下には歯止め用の繊維を、行動を邪魔せぬ程度に縫い付けており、いくらか、矢の刃先から身を守ることができる。

(衝撃まではどうしようも無いけどさ。無いよりマシ……かな)

 壁に隠れても追って来る矢を相手にするとなると、避ける事よりも、当たった際のダメージを最小限にすることを考えるべきだ。一番繊維を厚くしているのは両腕部分。この部分だけなら、下手な鎧よりも防御が出来る……と思いたい。

 一週間の期間で用意できるものと言えばこれくらい。そうしてただ、その日が来れば目的の場所へ向かうだけ。

(王都の中で、まだ敷設途中の区画。利権が絡んで中々建物の建設が進まず、中途半端に放置されている様な場所。うん。戦う場所と言う意味なら、丁度良い場所になるんだろうさ)

 レックは目に映る景色を見上げる。古風な石造りの建物もあれば、木造やレンガ造りで、比較的新しい意匠の建屋もあった。

 恐らくは、区画の建築を担っている業者が複数存在するのだ。それぞれがそれぞれの趣向と技術で勝手気ままに作るから、ちぐはぐな印象を持つ景色となり、さらには迷路染みた街並みが出来てしまう。

(隠れる場所が多くて、繋がる道も多い。土地を良く知っている人間が有利に戦える場所だ。一週間は多分……そのための期間でもある)

 レックが、この地区を良く見聞しているかどうか。それも試されているのだ。この場所を有利な場所とできるか、それとも不利な場所としてしまうか。そこでもまた、レック自身の命が掛かっているのである。

 そんな場所に、レックはいる。今日、この日こそが指定された日でありながら。

「昼でも人がいない。本当に、おあつらえ向きだ」

『できれば、無関係の者には危害を加えたくないと思ってな』

「……!」

 風の音が聞こえた。その音はまるで人の言葉の様で、レックの独り言に答えた。こんな魔法染みたものであっても、もう動揺したりはしない。ただ身構える。

 ウインドエルフ。あの老人は、どうやら風に喋らすこともできるらしい。いや、風に言葉を乗せる。と表現するべきだろうか。

「あなたのテストのスタートってところですか……」

 構えたまま、周囲を見渡す。老人の影は見えなかった。まずは見つけることから始めてみろと言うことか?

『そうなるが……目に恐れがあるな。それを意思で抑え付けている。良い具合だな、少年よ。恐れ知らずの無防備か、考えなしの愚か者か。そのどちらかだったら失望するところだよ』

「脅して呼び出して、次には値踏みですか」

 会話を続けるフリをしつつ、レックはさらに周囲の警戒を強める。老人は目と言った。こちらの目に恐れがあると。

 老人は風の動きによって、目に見えぬ相手を捉えることができるかもしれないが、少なくともこの瞬間は、レックの目を直に見ているはずなのだ。

 あちらから見える以上、こちらからも見えるはず。

『そもそも、その値踏みが目的なのだよ。君の……その恐れを抑え付けたその理由はなんだね? 良ければ聞かせてもらえないかな。やけっぱちになったのか、それとも……』

 そこまで話す義理も道理も無い。そう言い放ちたかったが、まだ老人の姿を発見できていなかった。ならば話を続ける事にしよう。

「格好つけたくなったんだ」

『ふん……?』

「好きな相手に格好つけたくなるものじゃない? 男ってのはさ。あなたが僕の周囲の人間に危害を加えるっていうのなら、そこから逃げるのは、格好悪い姿をその人に見せることになる。それだけは……絶対に嫌だ」

 結局、レックがここへやってきた理由はそれなのだ。好きな女に格好悪い姿を見せたくない。その相手が、嫌いにならないなんて言っていたとしても、それでも、彼女には格好良いところを見せたかった。

 そんな馬鹿らしい感情が、恐れすらも凌駕する。そういう事もあるのだ。

『男の意地……か。それもまた良い。恐怖を克服できるのならばな。なんとも前向きではないか。そうして、こちらが不躾な質問をしたことも思い知った。すまんな』

 何を今さらだとレックは思う。質問の謝罪として、今、この瞬間にも向けているであろう矢の先を、レックから逸らしてくれるのか? いや、きっと、そんな事は無いはずだ。謝られたところで、この先が良くなるということも無い。

「で、これで話は終わりかな?」

『君の話を聞かせてもらった。ならば今度は私の話をするべきじゃないかね?』

「僕を殺す理由の話か」

『違うな。私は真に君に生き残って欲しいと思っている私の力に対して』

 やはりだ。あの老人はレックを試し、その試しが成功することを望んでいる。だが、そこに手抜きは無いだろうとも感じる。

 あの老人は全力で、レックの命を何らかの天秤に掛けるつもりなのなのだ。その理由を聞けるというのなら。

『私は……戦場を渡り歩いていた。そうしてその度に、風と矢で多くの相手を殺して来た』

「とんだ大迷惑だ」

『が、命令に背いたことは無い。私はただ、仕事をしていただけなのだ。生まれた頃からあった風を役立てようと、世のためにと歩み続けた。その結果がこの有様だ』

 老人は災害だった。突然やってきて、死をまき散らす、嵐のような破壊的風の権化。立ち寄る戦場では、時に敵指揮官を矢で貫き、時に闇夜のうちに、音も無く死者を増やして行った。

『私は老いた。戦いの腕が衰えることを嘆いているのではない。私が戦場を渡り歩いたのは、世のためであり、自らの生活のためだった。そのためだけのはずだった。だが、ふと気が付く。私は……風と共に死しか運べなかった私は……何かを残せたのかと』

 嘆く様な風の音色が聞こえる。そこにあるのは、超然的な傭兵の声で無ければ、達観した老人の言葉でも無かった。

 ただ、死を前に怯える、ただ一人の人間の様な、そんな音でしかない。

『私には今、何も無い。弓も矢も、風も、戦場で流された血でさえも、私に何かを与えることはできなかったのだ。なんという無為か。なんという寂寥か! 私の耳にはただ、何も生み出さぬ冷たい風の音ばかりが聞こえ続けている……』

 そうして、老人は見つけてしまった。いや、そう思い込もうとしている。これまでの行動も、レックを付け狙う理由も、結局はそこへ帰結する。

『誰かに……誰かに何かを託したいのだ。私の力をこれまで歩んだ軌跡を。この、私の身に吹く風の音色を』

「あなたは……もう気が付いてるはずだ。そんな行動こそ意味が無いと。戦場では仕事をしていただけなんでしょう? 傭兵としての生き方があったはずだ。そんなあなたが、僕なんかを狙って、ましてや僕の関係者まで狙うなんて事を仕出かして! あなたは、何も無いと言うあなた自身の人生まで汚そうとしている」

 そうだ。あの老人は、初めて会った時のこの老人は、今、ただ一人の少年を付け狙う様な老人では無いはずなのだ。

 何かが狂っている。何かに混乱している。でなければ、こんなことをするものか。

『かもしれんな。だが、この歳になって分かることがある。私には、もう寿命が無いとな。長く生き、長く風を吹かせて来た。もう、後戻りもできん。君が……そう、私の何かを託せる者であれば良いのだが……いや、だが、それでも言っておかなければなるまいな。すまないと』

 謝罪。本当に何の意味も無い謝罪だった。ただ一人の、類稀なる才覚を持ちながら、何かを残そうと足掻く老人の謝罪は、レックの心に何ももたらしはしない。

 そうして話は終わってしまう。話が終われば、後に残るのは戦いのみ。破壊の風の権化である老人がもたらす、戦場だけがここに残る。

 それを示す様に、レックの耳には老人の声が届いた。風にまき散らされた、悲痛な叫び声が。

『さあ! 風の音を聞け! 戦場に吹く忌むべき風の音色を!』




 レックは走る。縦横に入り組んだ道を、道なりに進むことすらせず、無理矢理に障害物を掻き分け、壁をわずかな足場で乗り越え、坂に手を掛ける勢いで、ちぐはぐな街並みを駆け抜けていた。

 道なら分かる。ここら一帯の構造は、屋内に至るまで把握している。いや、把握する様にこの一週間を努めた。

(やっぱりあそこか!)

 老人との話の中で、レックはこちらを見る人影を発見していた。かなり遠く、それが狙いの老人であることはまだはっきりと分からなかったが、こうやって駆け寄って見れば当たりだと分かる。

『なるほど、前回の失敗を反省したかね?』

 老人の声がまた風の音色となって聞こえて来たが、無視する。会話の時間は終わったのだ。今はレックも、戦いの場にのみその感情を置くことにした。

 自分が愚手を打っているかもしれない。最善の行動をしていないかもしれない。可能性は十分にあるが、もっとも悪い選択肢は選ばぬ様にと、ただひたすらに老人へと接近するのだ。

(最悪の手は戸惑いだ。あの矢は、風は、どこでだろうと立ち止まる人間を射抜く。そういう類のもののはず……立ち止まるな。準備はしてきた。あとはこの一瞬一瞬の判断にすべてを賭けろ!)

 老人は矢を構えていた。その矢は自分を狙い、実際に届く矢だと理解はするが、むしろその矢に向かって走っていた。

 老人が以前に言っていたことだ。飛び道具を持つ相手と戦う方法は、自分も飛び道具で戦うか、意を決して接近するかだと。

 前回は接近する機会を逃したが、今ならできる。あの老人の矢は、弓から放たれた瞬間から縦横無尽に動き回るのだろうが、まだ一本だけだ。

 一本だけ飛んでくる矢ならば、防げるかもしれない。そんな希望的観測の中で走り続けていた。

 老人の影が、矢を放つ動作をする。矢は突風と同じ速度で飛来し、旋風の様な縦横無尽さでレックを狙い付けて来た。

 そうして、レックの頭部へと矢は狙いを付けた。速度と勢い。それは完全にレックの命を狙ったもの。

 先日の、ただ力を見せつけた時とは違う、本当の一矢。だが、それがレックに突き刺さることは無かった。

「……っ! まだ……やれる! まだいける!」

 頭を狙ってくるんじゃあないかと思っていた。直感という言葉は嫌いだ。だから、老人の性格と感情から、なんとなく察することが出来たのだと思いたい。

 レックは頭部に矢が飛来することに賭けて、その手で矢を防いだのだ。もっとも防備を固めた腕で、矢を耐えた。

 突き刺さることは無かった。ただ衝撃だけがレックの両腕を襲う。骨にヒビでも入るんじゃあないかとすら思う痛みと衝撃と、じんじんとした痺れを感じる。確かに感じた。感じている以上、レックは生きていた。意識もしっかりしており、足もまだ動く。

 レックは防刃繊維によって阻まれた矢が、腕より滑り落ちる前に手で受け止める。その動作だけでも腕が痛かったが、それでもと矢を根元から握りつぶした。

「まずは一本! 一本だ!」

 レックは老人へ宣言する様に叫び、さらに老人へと近づく。どんな方法だろうと、幸運に賭けた行いだろうと、矢を防ぐことができた。ならばまだ戦えると吼えるのだ。行動するのだ。

 さらに近づく。老人はまた矢を番えようとしている。したいならしてみろ。その度に防いでやる。防いだ上で、矢も握りつぶしてやる。

 手は幾つもある。手は幾つも用意した。そのすべてが通用するなんて、これっぽっちも思っていないが、そのどれか一つでもあの老人へ届けば御の字だった。

「肝がさらに据わったな。どこか切れたと言った姿だ。良いぞ、その昂揚感こそが戦場の興奮だ。時々、それを忘れられなくて、必要も無いと言うのに戦場に立つ人間がいるほどのな」

 そんな感情は真っ平御免だ。もし、ここで喜ばしいと思える感情を抱いたとするならば、老人の声が、風に乗ったそれではなく、直に聞ける距離まで近づけたことに対してのはず。

 レックは腰に下げた短剣を抜き去り、老人が第二射を放つ前に、その刃先を老人に向けようとした。

 自らの歩幅と速度を合わせ、姿勢を低く。だらりと下げた右腕の先に持った短剣は、老人のすぐ近くまで来たその瞬間、振り上げた。

 下から上へ。これまで老人への接近に費やして来た速度を止めて、右腕の前へ進もうとする勢いだけをそのままに。

 老人は弓の腕こそ凄腕だが、接近したこの状態であればどうだろうか? 彼には近接下での戦闘技能はあるのか?

 できれば無いことを祈りたい。ただ、この短剣が老人の体に届くことを期待して―――

(そんなっ!?)

 驚愕した。これまで機能的に体を動かすことに専念していたと言うのに、驚きの感情がそれを覆す。

 老人は、こちらが振るった短剣の軌道から外れ、そのすぐ横に立っていた。老人の視線はただこちらをじっと見ており、値踏みする様な目をし続けている。

「そうか……なるほど、なるほどな」

 何かを納得したらしい老人。彼がそれだけを呟くや否や、辺りに風が吹いた。

(駄目だっ! 逃げられる!)

 慌てて老人の体を、どこでも良いから掴もうとする。が、吹き荒れる風に動作を阻害される。風は土埃を巻き上げ、レックの目を塞いで来た。

 一度のチャンスを逃した以上、二度目のチャンスは与えない。そんな無慈悲さで、老人が視界から姿を消して行く。

 重くなっていく心。チャンスを逃した事についてもそうだったが、それ以上に違う事について、心に手痛い衝撃を与えていた。

「嘘だろ……こんな……非常事態じゃないか。いちいち感傷に浸るなんてこと」

 右手に握った短剣を見る。外れてしまった短剣。確実に、老人を捉えていたはずの短剣は、どうしてか外れた。

 それは老人が特殊な動きをしたわけでも、ましてや魔法の様な技術を使ったわけでも無い。

 そも、老人に原因は無い。あったのはこちら。レック自身にこそある。

『そうだな。君は子どもなのだ。考えてみれば、当たり前の事であったな』

 老人の声……いや、風の音が聞こえる。既に距離を離しているのだろう。それとも距離を偽るためか。兎も角、直接聞こえていたはずの老人の声は、再び、風に乗せられた音へと変わっていた。

『これは私のミスかな。君の動揺が一時収まるまでは、狙わずに置くべきか……だがしかし、あれだな。何時だってそういう人間はいる。これもまた戦場の常だ』

 優しさか? いや、そんなものではない。これもまた、老人にとってのハンデなのだ。狙っていたこちらに対して、思わぬ瑕疵があったため、状況にやや修正を加える。それだけの行為である。

 だが、その行為のおかげで、自身に生じた動揺をレックは受け入れることができた。そうして冷や汗を掻く。

「ははっ。僕自身、思いつきもしなかったよ。こんな事を」

 あの瞬間。老人を切り裂こうと短剣を振るった瞬間、レックはその勢いを自分で止めたのである。

 勢いを無理やり止めた結果、右手の筋をやや捻じってしまったらしく、痛みが走っていた。この痛みこそ、自分自身が躊躇してしまったことの証明である。

 老人に慈悲心を抱いたのではない。それは分かる。もっと単純な理由があった。単純過ぎて、気づかなかった感情。

『そうだな。君みたいな子どもなら当たり前だ。当たり前過ぎて抜け落ちていたよ』

 老人はただ告げて行く。レックの戦いが、さらに困難になるであろう事実を。

『人を初めて殺すとなると、躊躇するものだ。大概はな』




 矢の風切り音が聞こえる。微かなもので、それが実際の音なのか、それとも恐れを抱く心が聞かせる幻聴なのか、レックはほんの少しばかり判断を迷った。

「いや、本物だ」

 身構える。今、レックは建屋の屋内へと入り、その中心に立っていた。恐らくは何かの酒場か食堂のために用意されているのだろう。だが、調度品は用意されておらず、木張りの床だけがそこにあった。

 事前の調べで、ここでなら戦いやすいなと判断した場所だった。

 部屋の広さは、人間が数人並んでまだ余裕がある程度。それが縦横同じくらい。踊り場と言えるくらいの広さは十分にある。

 出入口は二つ。窓も二つだ。つまり、そこから矢が飛んでくるということになるだろう。

(きた……!)

 風の音と共に矢が飛来し、レックはそれを腕で防ごうとする。入口が数えるほどなら、警戒するべき状況もそれだけ限られるからこその屋内だった。

 視界で捉えた矢。いい加減、痛さも麻痺してくる頃の腕で防ごうとするものの、それは急に軌道を変える。腕にぶつかるその寸前に、腕を掻い潜る様にレックの脇腹へ―――

(驚くな! こんなのは小手先だ!)

 軌道を変え、進む方向を変えた矢に体ごとぶつかる。こちらが立ち止まった状態での攻撃を想定していたためか、こちらからより近づくという行動に対応できず、矢は十分な勢いが無いままにレックの体を叩く形となった。

 矢じりも完全にこちらを向いてはいなかったため、レックの体に少しの衝撃とダメージを与えた程度で矢は床に落ちる。間髪いれず、レックは落ちた矢を踏み抜いた。

「これで11本目っ」

 床には折れた矢が幾つも転がっている。こうやって、さきほどから飛来する矢をへし折り続けて来たのだ。

 老人は今回、何本の矢を持っているだろうか? 前回は撃った矢を風により回収するなどという離れ業をされてしまったわけだが、今回は落ちた矢をすべて破壊させてもらっている。

 こうやって一本ずつ壊していけば、回収できる矢も無くなり、老人の攻撃の手は止むかもしれない。だからこそ、矢を捉えやすい屋内を利用していた。

 ただ、本音を言わせてもらえれば、兎に角、落ち着きたかったというのもある。心を落ち着けて、状況を立て直さなければ、勝てる可能性は零になってしまうのだ。

(そうだ……僕は動揺している。人を殺すって事に。あの人相手に手加減なんてできないのは絶対にそうだ。それはつまり……やるしかないってことのはず……)

 奥歯を強く噛む。相手を倒す肝心な一手を、自分は持ち合わせていなかった。格上の相手に、明確な弱点を見せつけてしまっている。

(考えろ……この状況はどうしようもない事実だ。受け入れて、どうするか考えないと……)

 人死にをすぐに受け入れられるか? いや、それが出来るのであれば、そもそも動揺しない。ならばどうすれば良い? 自問自答を繰り返していた。

『持久戦は君にとって不利だと思うが……心はまだ決めかねているのかね?』

 矢の代わりに老人の声が部屋に流れ込んでくる。この老人の囁きも、また破滅しかもたらさない様な物に思えた。悪魔の囁きだ。

 囁きの招きの結果、こちらの勝利に終わって、自身の心に陰惨な思いを残すのならまだ良いが、こちらの安易な行動を促されて、矢の餌食にさせられる気がしてならないのだ。

「僕はただ……あなたの心臓に、刃先を食い込ませる方法をずっと考えてる」

『ままならないものだな。だが、思考は大切だ。何もかもを考えず、心を無にして行動だけで戦えという輩もいるが、結局それは、死ぬべき時に死ねと言っているに過ぎない。ほら、もう一本向かったぞ、どうする?』

 また矢の風切り音が近づいて来る。どこからか。窓からか出入り口からか。気を張り巡らせ、既に全体がズキズキと痛みの走る肉体を稼働させた。

 風の音に耳を研ぎ澄ましていく。見えてからの反応では遅いのだ。五感で感じ取れ。そのすべてで対処して、やっと追い縋れるのが今の敵だ。

(ここか!)

 塵が落ちる様な音を聞き、レックは天井を見た。二階の床板。まだ十分に補修されていないその板の隙間から風が流れた。

 レックは体を飛び退かせ、すぐに天井の隙間から侵入してきた矢に向けて腕を振るった。矢の特徴として、複雑な軌道を描けば描くほどにその勢いは減じる。

 屋内の、限られた隙間を進む様な軌道は、当たり所さえ悪くなければ致命傷に至らない程度までその速度を落とすのである。

 予期さえできれば、それを握ったり殴ったりもできる。レックは矢の破壊が目的だったので、そのまま力を込めて殴った。

 カランという軽い音と共に、矢が床を転げ回る。まだ破壊が足りないと、転がるそれを足で踏みつぶした。

「不意打ちが多くなってきてるじゃないか……」

『矢にも限りがあってな。君のその手段。何だかんだで効果は生まれている。ああしかし、驚くべきは、君のその肉体だな』

 そうかもしれない。これまで12本の矢を無力化させてきたわけであるが、その度に体の各部位にダメージを蓄積させて来たというのに、まだ音を上げていなかった。

 総じて疲労と傷と痛みは蓄積こそしているものの、幾らか回復している部分まである始末だ。もし、レックのこの肉体が常人と同等だったとしたら、とっくの昔に矢により射殺されていただろう。

 そもそも、最初に一本目の時点で、飛び来る矢を腕と防刃繊維だけで防げたのは、レック自身の並外れた頑丈さがあったからだ。

「僕の最初の敵は、やっぱり僕自身の体ってことか」

 考えてみればこの肉体があったからこそ、今の状況があるとも言える。

 ブルーなんてマスクを被るに至ったのだって、この、どうしようも無く頑丈な体を、如何にして人社会に活かすかという感情から始まった事だった。

 そうして、危ない相手にこの肉体に目を付けられもした。それが今、戦っている相手だ。疫病神以外の何物でもない。

『敵……か。君はその肉体を何だと思う? 以前、私に語ってくれたな。人とは違うほどに頑丈な肉体であり、他者との差異であり、心のわだかまりの原因だと』

「……」

 また何でもない様な会話が始まるらしい。いい加減、限界に近い体を休めるには良い機会かもしれないが、それ以上に怪訝に思う。

 これは、こちらの隙を作る手じゃあないかと。

『私は、その才が何であるかを知っているぞ。君の様な者を私は見たことがある。長く生きてきた故の知識だ』

「なっ……それは!」

 動揺しない。相手を伺う。そう心に命じたいたのに、その言葉を耳にして、心のバランスを崩してしまう。

 致命的な隙であることは事実だろう。何せ老人の言葉は、レックの人生の命題に関わることだったから。ずっと探していた答え。それを老人は持っていると言う。

 もしこれがこちらの油断を誘うものであったのなら、まんまと誘いに乗ってしまった事になるかもしれない。

 だが、それも仕方ない。命の危険があるとは言え、レックにとっては命と同価値の悩みでもあったから。そうして幸運な事に、老人はレックの油断を突くのでは無く、その人生に対する忠告を始めたのである。

『君の肉体に秘められたもの。それは戦士としての才だ。私と同質のな』

 風を操り、多くの戦場を渡り歩いて来た男と、同じ才能だと老人は言葉にする。

 そんな馬鹿なと言いたくあったが、それでも、相手の立場と存在を思えば、単なる冗談とも思えなかった。

『戦場で、おかしな才を持つ者が偶にいる。私の様な者以外にもだ。彼らはいずれも、戦場を渡り歩き、常人とは些か違った結果と、大きな変化をもたらす』

 多くの場合、それは最悪の方向なのではないかと思う。あの老人を見ればわかる。幾つもの死を発生させてきたとか、そういう類の方向性だ。

「僕も、そんな人間だと言うのか」

『戦場において、もっとも危険な状況とは何か分かるかね?』

 答えない。答えが分からないというより、答える気分ですらない。だが、老人は話を続けて行く。これからにとって重要な事だと言いたげに。

『経験が無き時の油断だ。戦場に初めて立った人間は、どれほどその身に才覚を秘めようとも、運さえ悪ければ死が待っている。が、君の才はそれすらも減じさせることができる』

 体が頑丈ということは、死に難いということなのだろう。例え油断したとしても、余程の事が無ければ生き残り、その油断すらも経験とすることができる。

『体だけの話ではない。君は……他者より聡いと言われたことが無いかね? 体の頑丈さは時に行動へ大胆さを生む。結果、人より多くの経験を積むこともあるだろう。単純な才かもしれないが、知力体力共に、他者よりも秀でて行くのだ。最初の時点で人より先を行き、その差を刻一刻と広げて行く。君の才はそういうものだ。そうして……』

「……!」

 老人の長話の合間に、別の音が聞こえた。また風切り音。音の方角からして、出入口の一つから矢が侵入してくるだろう。

 予想し、的中し、慣れた仕草でその矢を叩き落とす。肉体は追い詰められているというのに、これまで以上に容易くその行動を取れたことに驚く。

『もう……慣れて来たみたいだな。もっとも恐ろしきはその慣れだよ。既に私の矢でさえも、君を仕留めるは難しくなってきている。一で十も百も学び、それを反映できる肉体を持つ。君の脅威はそれだ。そうしてその才をもっとも活かせる場所こそ……』

「戦場だって言うのか」

 それは聞きたくない言葉。理解したくない話だった。自分の身は、そんな血生臭いものの才能だというのか。

『そうだ。その通りだ。流転し、瞬き一つ一つで変化していく戦場こそ、君の肉体がもっとも活かせる場所なのだよ。因果かもしれないがね……なあ、レック・フォーリング。貴族としての君にとっては』

「どうやってそこまで……」

 正体こそバレたものの、名前まで明かした覚えは無かった。いったいこの老人は、どこまでが化け物染みているのか。

『情報屋などというのはどこにでもいる。君の身体も身分も特徴的だからな。君が活動する地域で君の特徴を聞き出せば、すぐに身分は知れる。ああ、ブルー云々とは繋がらないから安心したまえよ』

 安心できるものか。今、不安を覚えているのは、老人に何もかもを見透かされているのかという危機感からなのだから。

『因果なものだと思わんか、少年。貴族としての地位も、生まれも、戦士としての才は必要としない。持て余すだけだ。だから君は悩んだのだ。貴族としての人生の中で、その才は戦場にいるよりも違和感を覚えさせるものだ。今に至ればもっとではないかな?』

「何の事だ」

『ふむ? 一つ尋ねよう少年よ。君は……今、この場において、昂揚感を抱いてはいないかね?』

「そんなこと……そんな事はない!」

 違う。嘘だ。命を賭けているというのに、どう考えても自分の不利な状況が続いているというのに、レックは胸が高鳴っていた。

 激しい運動をしたからではない。恐怖によってでもない。ただ、自分の体がどこまでこの場所に対応できるか、どれほどの事が自分にできるか。それらを試すことに興奮している。

『では試そう。次は二本だ。一本だけはもう慣れたろう?』

「くそっ!」

 肉体を、休息を意識した状態から、すべてを緊張状態にさせる。感覚もだ。張り詰めて、今にも割れそうな紙袋みたいに。

 そうして袋に二つ穴が開く。二本の矢が、それぞれ別の窓から飛び込んできたのだ。どう対処するべきか。レックは思考と体捌きを肉体の内で同機させていく。考えは間違わぬ様に、間違わぬ考えをすべて実行できる様に。ただそれを行うだけの機械になっていく。

(まったく同時の攻撃じゃない! 数瞬の差がある!)

 そう考えた時点で、まず右腕が動いていた。片方の窓から侵入してきた矢を、左から右側へと叩き落とす。これまでにないベストなタイミング。迫る矢の勢いをほんの少しばかりズラした程度で、手に大きな衝撃を与えずに回避できた。

 矢の破壊は……二手目の矢に対処してからだ。

(次も……同じ側からだって!?)

 矢はまた、初手と同じ軌道で近づいて来た。一手目を避けたその隙間を拭う形で迫る矢は、右手を動かしてまた叩き落とすことができない。左手はどうか? 角度と力加減的に、防ぐのは難しいだろう。

 が、足ならまだ動く。やや傾いた姿勢のまま、無理矢理に左足を振りぬく。タイミングは右手の振りから数秒も経っていない。右手左足と、まるで大きく体を回転させるような動きで、二本の矢を防ごうとした。

 結果、左足は二本目の矢を捉え、部屋の壁へ矢を叩きつけることに成功する。

「ぐっ―――はぁっ……」

 体を無理に捻じり過ぎた。反動が最初に振るった右腕へとやってくる。鋭い痛みが走り、その後、力が入らなくなる。

(筋を痛めたか……骨までやられたか? なるほど……今の時点の僕の体は、さっきの動きが限界……)

 芯まで通る様な痛みが右腕を襲っているものの、何故かそれを激痛に感じない。むしろ冷静に状況を見られている様な……いや、どこか興奮していた。自分の限界を試せる機会だと。次に同じ様な状況に陥れば、もっと上手くやれると叫びたくなる自分がいる。

「どうなったってるんだ? 僕は……」

『君は急速に戦士へと覚醒しているということだ。肉体の才がそれを活かせる場所へとやってきて、初めて生き甲斐を感じている。これまで違和感を覚えていた部分が、今になって妙な居心地の良さとなっている。違うかな?』

「僕は……あなたみたいな化け物じゃあない!」

 否定しかできない。少しでも肯定すれば、レックのこれまでの人生すべてを否定してしまうような気がしたから。

『本当か? 本当にそうかな? 今の感覚にしてもそうだ。君は二本の矢の軌道を正確に把握し、それへの対処を的確に行動することができた。常人ならできん。そう、もっと具体的な話で言えばだ……』

 老人の声はレックもまた同類な存在であることを証明すると言う。それは矢よりも大きく、レックの大事な部分を削っていく様に思えた。心に抱えていた、何か大事なものを。

『君は……私の操る風ですら、自分の者にしようとしていないかね?』

 風の音が聞こえた。いや、そうじゃない。ずっと聞こえている。この戦場に立った時から、耳障りな風の音がずっと聞こえていた。

 その音が大きくなるわけじゃあない。けれど、戦いの中で実体を増していくような、そんな感覚がずっとあった。

 風の音はその流れを伝え、風の流れは立体感を作り出す。音だけでそんな事が分かるはずが無い。レックの経験則はそう語っているのに、鋭敏な感覚は、レックに周辺の構造物の輪郭、物の動きを伝えて来た。

 集中すれば、もっと遠くのものまで見通せそうな気がして、慌てて思考を中断する。

(やばい……そんな事が出来てしまえば、本格的に僕は……)

 化け物の仲間入りを果たしてしまう。これまでの人生で悩み続けて来たその答えが、自分は人間から外れた何かである。というものだとしたら……それが恐ろしかった。

『悩むか。それも良い。だが、私にとってはやはり正解だったよ』

「正解だって? こんな……僕みたいな存在がか?」

『ああ、そうとも。君は私の後継者に相応しい。今、全身全霊を持って私は君に矢を射かけよう。そうして君はそれに贖うのだ。贖い続け、成長し、私の力を継いでくれ。そうすることで、私はこの命を終わらせることが―――

「そんなのはごめんだ!」

 レックは老人の声に反発し、今までいた建屋を出た。閉じられた部屋だから、風が伝える情報を妙に過信してしまっているだけだ。

 大きな世界、大きな空間に出てしまえば、風の力に左右されることも無いと、そう思う。そう思いたい。だが……。

「あなたは……そこに」

『私の居場所が分かるかね? 外は良く風が吹く。与えられる情報は処理しきれなくなるかもしれないが、それでもより遠くを見通せる様になるのだよ。例えば、人の場所だとかは』

 老人は、少し離れた場所にある建屋の屋上に立っていた。弓を構えながら。こちらの視界には映らぬ様に。

 そう、レックの視界に老人はいない。見渡してみても、ちらりと映ることも無かった。だと言うのに、風が教えてくる。老人がそこにいると。その体の動きも正確に。

『鍛え上げれば、さらに精度が増す。情報量が多いとなれば、それを一時的に途切れさせることもできるだろう。意思と訓練で操れるのだよ、我々の力というのは。そうしてさらに、多大な結果を引き起こせる様になる』

 それはやはり化け物への階段だ。力を制御できるほどに、階段を登ることへ繋がり、さらに人から離れて行く。

 老人の言葉を借りるのであれば、戦士となっていくのだ。戦場で死を振り撒く戦士に。

「……本当にそんな事ができるのか。試してやろうか?」

 レックは、腰に無理矢理下げていた短弓を取り出す。矢はこれまでの戦いで落としてしまったが、代わりに一本、老人が撃った矢を拝借していた。

『……』

 静まり返った風の中で、レックは弓と矢を構える。老人の矢は長弓用であり、レックが持ってきた短弓とは不釣合いだ。酷く歪に見えるだろうが、そんなものは関係ない。もし、レックに戦士の才があるのだとしたら。

(風を……ただ風を感じる。思う)

 五感に風が触れる。触れた風はレックの新たな感覚となり、辺りへと流れて行く。

 まず風は無秩序に広く、多くの場所へ、隅々へと流れて行った。そうして捉える。触れるのだ。レックの敵である老人へと。

(そうだ。あなたはそこにいる。そこに立って……僕の行動を待っている)

 老人は弓を構えていなかった。ただ、風を通してこちらを見ていた。風はただ、老人へレックの意識を導くのみ。

 構えた矢を老人へ向ける。死角にいる老人に矢じりを向けることなどできはしないが、それでも、風を通して、その向かう先へ矢を向けるのだ。

 風よこの矢を運べ。あの敵のいる場所まで。そう願い、矢を放った。矢は、レックの拙い射撃技術では、それほどの距離を飛ばせないはず。

 いやしかし、矢は風にのり、遠くへと飛んで行く。それだけでは無い。空気中で有り得ざる軌道を取りながら曲がり、老人のいる場所へと近づこうとしていた。

「それは……それだけのことだ」

 矢は……そうして老人には当たらなかった。それどころか的外れの場所へと落ちて行く。結果はと言えば、普通に撃つよりかは老人の近くへ矢を届かせることができた。程度の事でる。

 老人が撃つ矢の如く、まるで生きているかの様な動きをする事は無い。レックの全身全霊はここまでの力しかない事の証明。

『矢を操るには鍛錬が必要だ。才があろうとも、一朝一夕に何でもできる様にはならない』

「そうだ。その通りなんだ。あなたがどう言おうが関係ない。僕はただ……ここにこうして、僕として立っている。どれほどの才があろうともだ。何かが急に変わるわけじゃあない。あなたの……言う通りにはならない」

 あの老人の何かを受け継ぐ? そんな事が簡単にできるはずがない。どれほど老人が準備し、意思を強くしたところで、レック自身に限界がある限り、レックは戦士としての道からはひたすら遠い場所にいる。そのはずだ。

『ならばどうする? 私は君をさらに追い詰めるだけだ。その先に、君の成長があると信じて』

 風が伝えてくる。老人が再度、弓を構えた事を。矢はまだ余裕があるらしく、そのすべてを落とすことは困難に見えた。

「……」

 右腕を確認する。矢を幾度も落とし、無理を繰り返し、そうしてトドメに先ほどの矢を放ったことで、完全に感覚が麻痺していた。この腕では、満足に矢を叩き落とすことは難しいだろう。

「僕は……」

『何だ? 何と言った?』

「僕は……格好を付けるためにここに来たと言った」

 老人に宣言する様でいて、この言葉は自分に言い聞かせてのものだった。ここに来た理由を思い出せ。

 戦士の才も、血みどろの世界も、この場へとやってきたレックには関係の無い事だったはずだ。

 あの老人が最初、こちらの身内を狙うと言ったのだ。レックはその言葉をただ恐れ、レックが一番狙われたくない身内は、そんなレックの無事を一番に気にしていた。

 そんな状況で、格好良い姿を見せつけてやりたいと思った。思ってしまった。今のレックはそのためにいる。老人の意思も、自らの肉体に存在する才能すらも関係ない。それがレックの意思だ。この場にいる確かな意思なのである。

 だから、高らかに叫ぶのだ。

「風と弓矢を操るウインドエルフよ! お前の狙いもそこまでだ! 血と戦いに塗れたお前の道を、今ここで閉じさせてもらう!」

『なんだ? 何を……』

 突然のレックの叫びに、老人は困惑していた。だが、そんな感情は関係ない。相手の考えなど知った事ですらない。

 ただレックは、格好つけるためにレックを止めた。左手で、腰に下げていた短剣を取り出し、無理矢理、力の入らない右手に握らせる。

 そうしてポケットから、ずっとしまっていた青い帯を取り出す。それを顔にではなく、短剣を握る右手に巻き付ける。短剣を決して落とさぬ様に。

 そうして無理矢理、右腕を上げて名乗りを上げる。

「僕は王都の怪人ブルー! この王都と平和と治安と、僕の意地を守る正義の使者だ!」

 ブルーはそれだけを宣言して目を閉じた。これから自分はどうすれば良いか? 何を持って行動するか。それをブルーとしての思考に切り替える事にしたのだ。

 老人の言葉に怯え、自分の才に恐れを抱くレックではなく、王都の怪人として格好だけを付けるブルーとして何が出来るのか。それが肝心だった。

 そうして、恐れさえ抱かなければ、出来る行動が一つだけあった。

「僕の矢はあなたの元へは届かない。それは僕の未熟だ。風とはあまり、仲良くできないみたいだね」

『ではどうする? 私の矢の餌食になることを甘んじて受けるか? ブルー?』

 老人は、こちらに合わせる事にしたらしい。こちらの意地を感じ取ったか、単なる慈悲か。どちらでも構わなかった。ブルーはやることをとっくに決めたのだから。

「僕自身なら、僕自身を自由に操れる。風に乗せる必要も無い。風はただ、あなたの居場所さえ教えてくれればそれで……構わない!」

 また走り出した。矢を使うのも、矢を叩き落とすのも、今のブルーの性には合わなかった。ブルーはただ走る。もう一度、最初に老人へと行った様に、老人へと接近していく。

 走り、すべての障害物を足場にして、さらに前へ。

『迷いが無くなったか。ただ突き進むだけの道を行く事にしたのか。だが、その道は愚かな道かもしれないぞ? 戦士としてよりもっとな』

 老人の動きを風が伝える。老人は矢を既に放っている。矢は風に乗ってブルーへと向かってきた。

「愚かな事なんて知ってる! 馬鹿なことを仕出かしてるなんてのは百も承知だ! それでも……生きて帰るとも格好つけた!」

 風が矢の動きを教えてくれる。建屋を抜け、小道を走り、ブルーを狙う矢から逃げ続けた。逃げ続け、さらに老人へ近づいて行く。老人が放つ矢が増える毎にブルーを追う矢も増え、一方で進める道の選択肢は減っていく。

 矢が自分に追いつくか、それともこちらが老人に追いつくか。嫌な競争だと思い、そういう想像はしない様に努める。

 矢に追いつかれた時点で自分の負け。それだけを理解できれば、あとは必死になって体が動く。

(もっと早く走れ。これっきりだ。後でどれだけ反動が来たって知るもんか)

 戦えなくなっても良い。既に自分は賭けに出てしまった。それも自分にとって酷く不利な賭けに。そんな状況で、勝負の後の事なんて考えられない。考えてはいけない。

 ブルーという存在は、ただ格好つけて、馬鹿で愚かな事をし、それでも勝利をもぎ取る。そんな荒唐無稽な存在のはずだ。

「見えた……! けど……!」

 老人の姿を、漸く肉眼で捉える。風が伝えるその輪郭では無く、しっかりとそこに立つ老人の姿を。

 だがしかし、どうにも老人に近づくまで、追ってくる矢から逃げのびる術が無いことに気が付く。

 疲労した両足で地を駆けるしかできない不自由な身では、風に乗り自由に飛び回る矢から完全に逃れる術は無いらしい。

「なら……仕方ないか……」

 負けを認めよう。だが、勝利は手放さない。

 傷を負わずに勝利するなんてそんな上手い話は無いのだ。

 道は……一本だけ矢を喰らう覚悟があれば開かれる。ブルーは向かう先を変えて、徐々にブルーを追い詰めつつある矢の内の一本へ自ら走っていく。そうしてすぐにそれを真正面に捉えた。

(今は……左手は……必要ない!)

 左腕を前に突き出し、捉えた矢に合わせる。歯も食いしばった。痛みにうろたえるわけにはいかなかった。

「ぐっ……うっ……!!」

 突き刺さった矢。手のひらを抜けて甲まで達した刃先だが、なんとかそこで止まってくれた。抜き去る余裕は無い。流れる血の蓋となってむしろ都合が良い。

 痛みはある。ひたすらに痛かったが、それでも止まらない。もう何本も矢が刺さればやせ我慢すらできなくなるのだから、止まるわけにも行かなかった。

「道は……ある! あなたに届く!」

「よくぞ。と言ったところか……! さあ、今度は躊躇わずに私を捉えられるか!?」

 老人の肉声をまた聞くことができた。それは風の守りを越えて、再びブルーの届く距離に老人の命がやってきたと言うこと。

 また、ブルーが老人の命を奪う覚悟を示さなければならない場所でもあった。

(戸惑い……命を奪う……殺人を犯すという覚悟が僕には……!)

 老人が立っている建屋の屋上へと足を踏み入れる。老人は弓を構えているが、矢をまだ番えていない。

 躊躇しなければ、右手に巻き付けた短剣を届かせることができるだろう。だが、少しでもこちらが動揺し、動かす手を止めれば、また老人に逃げられてしまう。

 振り出しに戻るなんて生易しい状況にはなるまい。既にブルーの体力はありったけをつぎ込んでおり、これ以上の矢への抵抗は不可能となっている。つまり、老人をここで倒しきらなければ、ブルーが死ぬのだ。

(自分の死……その事実を、恐れを、覚悟に変えることができるか!?)

 老人はさらに近くなっていく。ブルー自身が近づいているのだから当たり前だ。攻撃の機会まであと5歩。

「さあ! 示してみるが良い! 君の……覚悟を!」

 老人は、きっとブルーが覚悟して自らを殺すことを望んでいる。それが彼の望む、戦士の才の在り方だからだ。

 だが、やはりブルーは戦士では無かったらしい。あと4歩、3歩と近づき、右手の短剣を振りかぶり、2歩、1歩と短剣を振るったその瞬間、前回と同じ様に、命を奪うという事実に戸惑ってしまったのである。




「がっ……ふっ……」

 血が流れている。大した量ではないが、それでも地面を赤く濡らしていた。

 胸に深々と刺さる短剣が一本。それはブルーの右腕に巻き付けられた短剣であり、染みる鮮血で服を汚しているのは、ウインドエルフと呼ばれる老人だった。

 老人は立っているが、それはブルーの短剣が胸に刺さったままであるからに過ぎない。だがそれも、力の出ない腕では支えきれず、徐々に胸から抜け、それと同時に老人は膝を突いた。

「躊躇した様に……見えたのだけどな……」

 老人は口元からも血が出ている様に見えたが、同時に声を振り絞り出していた。

「躊躇は……した。今だって、仕出かしたことに震えてる。けど……短剣を振るうことだけはできたから」

 ブルーは、殺人へのショックを克服なんて出来なかった。老人へ致命的な攻撃を仕掛ける時、必ず自らに戸惑いが生じると覚悟していた。

 だから、戸惑いが生まれても仕留められる方法を取ったのである。

「僕の右腕は……もう殆ど力が入らない状態なんだ。体全体の動きで無理矢理動かして、短剣を振るわせれば、それを止める力すら入らない……それだけの事なんだ」

 ボロボロだった。体のどの部分も痛みを訴えており、立っているのもやっとの状態だった。そんなボロボロの体を利用したのである。

 腕を振るうまではできるのだから、あとはすべてを流れに任せるしかない。力の入らない右腕は、ただ世界の法則に従って振るわれるのみ。そこにブルーの意思は介在しない。

 だから……老人に短剣を突き刺したという事実に、酷く動揺してしまっていた。今さらだ。やってしまった以上、認めなければならない。ブルーは老人の命を奪った。

 今ここで話しているのは、消え去っていく老人の命の、その残骸だ。

「そうか……覚悟が無くとも、度胸さえあれば……できる事だな。素晴らしい……」

 老人は膝を突き、そうして力なく倒れた。うつ伏せであったが、それでも顔は空を見上げようと横を向く。だが、そこで止まっていた。

「それでも……それでも、何時だって避けることができたはずだ。あなたは、逃げもせず、僕の短剣に向かい合っていた。それは……」

「君の意思を受け止めたかった……。それだけだよ。だがまあ……意思すらも無視して行わせるとは………大した行動力だ。それにな……案外、単純に避けることが出来なかっただけかも……しれん」

 老人は笑っていた。胸と、口元を赤く濡らしながら、それでも笑い、空の青を見つめようとする老人。だが、彼の目に映るのはブルーの足元くらいだろう。

「私は衰えた……。もうずっと……力が衰え続けて……いた。だから継がせたかった……失われていくだけの……私のすべてを………ほんの少しで………良いから」

 老人は……そうして狂っていったのかもしれない。受け継がせる相手を見つけた時点で、死闘を通じて何かを伝えようなんて考える程に。

「僕はそれでも……あなたの様には生きることはできない。そんな生き方はごめんだ」

「それで良い……生き方まで決めつけさせるのは………傲慢だ。君が……少しでも……風の音を聞いた時点で……私は……満足するべきだった………のだ」

 老人は微かに自らの手を動かして、流れだした血に触れる。溢れ出す赤き血に触れて、老人の手も赤く染まった。それはまるで今の状況が、老人にとっての報いだと言いたげだった。

 それは事実そうなのであろうが、それでも、ブルーは後ろめたく思う。老人を殺したのはブルーの行動だ。だがその行動を庇って貰っている様な、そんな気分になる。

「僕は……あなたから風を受け継いだかもしれない。だけど……これをどうしたら……」

 せめて、確かに風を受け継いだと言いたかった。だが状況が、感情がそれを許さない。不安に自らの手を見つめることしかブルーにはできなかった。刃物を介して伝わって来た、老人の血にまみれた自らの手を。

「私に……宣言したではないか。ブルーだと……怪人……ブルーか。ああ………良いな。戦士としての……才。だが……君は………それを違うことに使うと………宣言したのだ」

 老人の顔は、驚く程に安らかだった。その表情を見て何か悔しくなる。この老人は好き勝手をし、そうして、勝手に満足して死んで行くのだ。

 その事が悔しくて、それでいて、どこか心が軽くなった。

「あんなのはただの強がりだった。格好付けだったんだ。それを……」

「私も……格好つけるべきだったのだ。君みたいに………生まれ持った力で……格好を付けるべきだったのだよ………。すべては遅かったが………君は選べる……。いや……私もそう生きてみたい……ものだ………戦士ではなく………ヒーローとしての……生き様を……」

「ヒー……ロー……?」

 英雄とか戦士とか、そんな言葉よりもっと陳腐な言い方だった。そうだ。その通りだ。ブルーはそんな生き方をしたかった。

 他者とは違う才を持ってしまい。それでも世の中を、大手を振って生きて行きたい。だけれど、その才は到底、穏便に済ますことができないものだった。そういう類のものだと思っていた。

 ヒーローとしての生き方。才能を、手前勝手に、けれども人のために使うという選択肢を思いつかなかったわけじゃあない。しかし、荒唐無稽過ぎると切って捨ててしまっていた。

 そんなのは馬鹿らしい考えだと、自分で自分の考えを嘲笑っていたのだ。だがここに来て、倒れている老人は選べると言う。

 ブルーと同じく、何か、手酷い才能を持って生まれてしまった老人は。

「僕は……ヒーローとして……いや、僕がブルーと名乗ろうとした事がそもそも……」

 自分でも気づいていなかった願望を、ここに来て認めることができた。そうだ。レック・フォーリングは怪人ブルーとなり、そうしてヒーローになりたかったのだ。

 正体を隠す。貴族としての責務。それすべてが付け足しの願望。本質の、根本の部分にあった願いは、ただ、ヒーローになりたいという素直な思い。

「ふっ……若さとは……本当に………良いものだ。嫉妬してしまいそうだよ………。だが……迎えが来たらしい」

 老人のその呟きの後、風の音が聞こえた。どこかから聞こえる風の音。その音は強くなっていき、嵐の様な激しさにまでなる。

「………っ!」

 激しい風に、ブルーは目を塞ぎそうだった。風は倒れる老人の周囲に集まっており、その激しさに、ブルーは2、3歩。老人から距離を空けた。

 砂ぼこりを巻き上げた風は、竜巻の様な円柱となり、老人を包み込んで行った。舞い散る粉塵のせいで、視界から老人が見えなくなる。

 だが、風の中から老人の声が響く。これまでの弱弱しい声でなく、叫ぶような、そんな声で。

『ああ……風よ……激しき戦いの風よ! 私を連れていけ! 戦いの中で、戦いのためにしか生きられなかった私という風を! そうして若く生きる者と歩め! 若く、新たな風を吹かせる少年と共に!』

 叫びは老人の声だったのか、それとも集まった風音が聞かせる幻聴かは分からない。だが、声が収まり、風も収まったそこには、まるですべて幻だったかの様に、老人の姿も消え失せていた。

「………」

 ブルーはその光景を見ていることしかできなかった。風は……すべてを連れ去ったのだろうか? 老人の命も、肉体も。

 ただ、老人が生きて、行って来た事の証明は、ここに残っている。ブルーの全身に残る痛みや血と共に。

「ヒーローか……」

 老人は遺言を残して行った。その遺言に、どう答えれば良いかは分からない。答えを返すべき相手は、風に連れ去られてしまったのだから。

 だが、それでも、言葉はブルーの心に残り続けていた。




「んっ……あっ、くそっ。あいたたた……」

 全身の痛みに目を覚ます。

 戦いを終えたレックは、こっそり自室に戻り、自らの手当てをしていた。

 医者に行くことも考えたが、とりあえずは応急手当である。矢が刺さっていたり、骨になんらかのダメージがある様な状態で、すぐさま医者に行くとなると、やや怪しまれるかなと思っての行動だった。

 だが、疲労のせいだろうか。自分なりの応急手当を終えた後に、つい眠ってしまったらしい。傷もそうだが、疲労も酷かった。血だけは止めたので、命に別状は無いとは思ったが、それでも迂闊だったと思う。

「まったく。ちゃんと後でお医者様に見ていただきますからね。理由はどこかで転んだとか、そういう物で」

「刺し傷とかあるんだけどなぁ」

「なら、司書をしていらっしゃいますから、紙で切ったなどはどうでしょう?」

 レックが寝転がっているベッドの横で、レックをずっと見ているソウカの姿があった。

 そうだ。戦いの後、真っ先に行ったのは部屋へ帰ることではなく、ソウカに無事を知らせる事だったのだ。

 勿論、彼女は傷だらけでボロボロの主人を見て驚き、ショックを受けていたが、まずは負傷の手当てをと、レックの応急手当を手伝って貰っていた。

 彼女を見るに、目の下に隅が出来ている。もしかしたら、ずっと眠っていなかったのかもしれない。それはかなり申し訳ない事だった。

「………紙は無茶なんじゃない?」

「では? 他に矢で手のひらを突き刺された傷についての言い訳が、他にあるのですか?」

「い、一応、薄皮が張り始めてるから、そこをなんとか……良し、本棚から大量の本が突然降って来たって事にしよう」

 そんな冗談を口にしながら左手を見る。表と裏に傷があるが、その二つは一つの傷なのだ。普通の傷では無い……はずなのだが、既に治り始めた様に血が止まっている。包帯すらもう必要ないのかも。

「もう……こんな傷を負う様な事はしないでくださいと、そう言葉にしても無駄なのでしょうか?」

 ふと、ソウカがこちらの目をじっと見て尋ねてくる。もう無茶はしない。そう答えたかったのだが、喉の辺りまで出たその言葉を飲み込む。

 そうしてまた左手を見た。普通なら縫うくらいしなければいけない傷痕が、治り始めている、普通とは違う自分の体を。

「心配してくれることは嬉しいし、申し訳ない事だと思ってる。本当ならこれに懲りて、ブルーなんてのにはもうならないって言いたい。言えたはずなんだ。昨日まではさ……」

 自分の……人とは違う自分の使い方を見つけてしまった。いや、教えられてもらったのだ。もう、止まるという選択肢は無かった。

 受け継いでしまったというのもある。生き様を、何か深い意思を、あの老人から受け継いだ。今でもまだ、風の音が聞こえ続けている。

 立ち止まってはいられなかった。

「前にも言いましたが、私はそんな坊ちゃんを止め続けます。こんなに傷だらけになって、それでも無茶をするなんて、見ていられませんから」

「うん。だから……ごめん」

 ここまで来ても、謝ることしかできない。ソウカ相手には、何時も頭を下げっぱなしな気がしてくる。

「けれど、もし、それでも坊ちゃんがずっと無茶をし続けるのでしたら、それを多少なりともお手伝いをさせていただくかもしれません。いえ、ちゃんと止めはするんですよ? しますけど……それでも坊ちゃんは無茶をしますし」

 なら、むしろ力になって、レックの負担を減らすのも懸命かもしれないと、そう考えてくれているらしい。

 有り難い話だった。正体を隠しての活動なんてものを、手伝ってくれる人間なんてそうは居ないだろうから。ましてや、ヒーローをするなんて馬鹿らしい話を。

「ソウカがさ、ちょっとは僕を手伝ってくれるっていうの……もしかして、ちょっとは格好良いって思わせることができたのかな?」

「はい? 変なことを言わないでください。むしろ、格好付けられるくらいに無事な姿を見せてくださいって言いたいですよ。私」

「そっか……そうだね。精進しなきゃだ」

 今回は、彼女に格好良い姿を見せることはできなかったらしい。当たり前と言えば当たり前だ。やられてばっかりの姿を、彼女に見せることしかできなかったのだから。

 ヒーローとしてのレックは、まだまだ未熟だ。だからこそ、せめて、彼女には格好良いところを見せるまではヒーローを目指し続けよう。そう強く思う。




 夜闇が街を包んでいる。多くの人々は寝静まり、明日の朝日を待つ時間。しかし眠らぬ少年がいた。

 少年は青い服装に青い覆面を顔に巻き付けた姿で、夜の街を見つめている。

 少年はヒーローだった。しかし、少年は物語のヒーローほど万能では無かった。少年は自分がやりたいと思う事のすべてを出来るわけでは無かった。少年の心は、強くありたいと思える程に強くは無かった。

 だが、それでも、少年はヒーローとして生きてみようと考えてしまったのだ。誰かから受け継いだ思いかもしれない。自分の心の中の黒い部分から生まれた思いかもしれない。ただ、異性に格好つけたいと思う、格好の悪い思いからかもしれない。

 けれど、一歩を進んでしまった。ならば止まらない限り、振り向かない限り、その道を前に進み続ける事になるだろう。

 物語の中のヒーロー程に、逞しく、強く、格好良い事は無いだろうが、道を進んでいる以上、少年はやはりヒーローだった。

 ヒーローたる少年は夜の街に耳を澄ます。風が誰かの悲鳴を届け、少年はその悲鳴の元へと走った。

 誰かがどうやら悪さをしている。だからそこへとやってきて、少年はヒーローとして名乗りを上げる。

「僕の名前はブルー! 王都の怪人ブルーとは僕のことさ!」

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