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「……あれ? ハンドクリーム、どこにやったっけ」
引っ越しから二週間が経ったある日のこと。
荷造りの際に小物類と一緒に小箱にしまっていたはずのハンドクリームが、忽然と姿を消していた。講義の都合で洗い場のアルバイトを去年の秋に辞めてからぐんと使用頻度が減ったけれど、それでも爽やかな甘い香りがふわりと広がる、気に入っていたハンドクリームだ。ついでに、淡いクリーム色のベースコートも見当たらない。
「えぇー。前の部屋に置いてきちゃったのかなぁ……」
澪はがくりと項垂れる。置き忘れがないようにと部屋を出る前に何度も確認したし、たしかに小箱に入れた覚えがあるというのに、どれだけ探しても見つからなかった。
幸いだったのは、翌日のシフトが夕方までだったということだ。出勤してきた高校生たちと入れ替わるように上がり、間アパートを目指す。部屋の鍵はどうせ最後だから貰っていいという大家の言葉に甘えて、返さずにいた。
暦の上ではすでに秋である。残暑見舞いの時期もすでに過ぎた。九月と言えば気象庁の季節区分でも秋に分類されている。それにもかかわらず、まだどこにも秋の気配がない。木々は紅葉することなく青青としているし、蝉も喧しく鳴いている。まさにうだるような暑さだった。秋を定義した人間に、正気かと膝詰めで問い詰めたい気分だ。
じっとりした汗が背を伝う不快感に顔をしかめながらも、ようやく見えたアパートにほっと息をつく。一〇二号室の住人はまだ残っているらしい。部屋に入っていく後姿が見えた。
階段に足をかけたところで、後ろから大家に声をかけられる。好々爺然とした笑顔でどうしたのかと問われ、澪は眉を下げながら「お隣さんにもらったハンドクリームを忘れてしまったみたいで」と素直に答えた。
途端、大家の眼差しが胡乱なものに変わる。奇妙なものを見るような目を向けられて当惑する澪に、大家は言った。
「二階は榊さん以外誰も住んでいなかったはずだけれど」
氷の手で心臓を握られたような感覚がした。四肢が不自然に強張る。汗を掻くほどの気温なのに、血の気とともに体温まで下がったのか、ひどい寒さが澪を襲う。青ざめた顔で無理に作った笑みは、鏡を見なくても引き攣っていることがわかった。
乾いた喉に張り付いてなかなか出てこなかった言葉でその場を誤魔化し、彼女はのろのろと部屋に向かう。すっかり冷たくなった指先では、鍵を差し込むのも一苦労だった。
大家の怪訝な視線をひしひしと感じながら、キィと蝶番のきしむ音を聞く。一歩、玄関に足を踏み入れたとき、それまでずっと沈黙を貫いていた携帯端末から怒涛のごとく通知音が鳴り響いた。
バタンとドアの閉まる音がどこか遠い。六帖の洋室に向かうまでもなく、緩慢に巡らせた視線の先、キッチンの調理台に、ハンドクリームとベースコートがぽつねんと並んでいた。
靴も脱がずに床にへたり込む。顔を上げないまま手探りにショルダーバッグを漁って、いつの間にか静かになっていた携帯端末を取り出した。動きの鈍い指先で、ぎこちなく通知を遡る。
未読はこの部屋を出たその日から。いつも通りの『ご飯食べたか?』というメッセージが徐々に心配そうなものに変わり、安否を問うものに変わり、焦ったように名前を呼ぶものに変わり、やがて慟哭のような嘆きに変わる。
冷たい画面に触れる澪の口角が上がった。喉を競り上がったものを吐き出すように、温度のない笑い声が零れ出る。何十件もの着信履歴に笑いが止まらない。
「ふふっあははっ、なにこれ」
引っ越してきた当初は気づかなかった隣人の存在。気づかなかったのではなく、本来はいるはずがないだなんて誰が思うのか。
今思えばアパート名がわずかに違って記載されていたのも、布瑠部とアパートの外では一切遭遇しなかったのも、ショッピングモールの様相がすっかり変わってしまっていたのも。全部当たり前のことだったのだ。
──ある程度の生活圏は同じであるはずなのに。
過去にそう思った自分がおかしくてたまらない。生活圏どころか、そもそも文字通り住む世界が違う住人だったのに。
携帯端末が震えて、着信を知らせてくる。軽快なメロディがむなしいだけの空間に反響した。ぴたりと糸が切れたように笑うのをやめた澪は、その音を聞きながらぼんやりとフローリングの木目を眺める。
「……また、ひとり……わたしは、……けっきょく…………」
どこに行っても異物なのだ。
音が止んだ。同時に背後のドアが勢いよく開かれる。ドアノブが壁にぶち当たって派手な音を立て、ひんやりした風が室内に入り込んだ。
おもむろに首を巡らせた澪の眸が、瞠目して玄関口に立ち尽くす男を捉えて初めて焦点を結ぶ。布瑠部の顔が歪んだ。
「っ……今まで、どこにいたんだよ……、なんで急に、連絡つかなくなって、……探しても、探しても見つからないし、…………誰も、お前を知らないって、大家も松田も、知らないって……っ、なんで。なんで。……意味が、わからない。松田に、無理言って、調べてもらったのに、っ、……どこにも、いないとか」
「…………はい」
「戸籍は、さすがに無理だから、っ……でも、戸籍に近い情報は、いろんなルートから探れるからっ、て……でもいなかった。存在してなかった、全部俺の夢だったのかな、って……でも、お前が〝違う〟のは、たぶんずっと、なんとなくわかってて……」
「……うん」
〝こちら〟に布瑠部由良が存在していないように、榊澪もまた〝あちら〟にはいない。
肌寒さを感じるほどの風が、開けっ放しの玄関に流れ込む。だから、と彼は迷子みたいな顔で言った。
「呼んだんだ。……お前が、榊が、俺は布瑠の言だって言ったから。俺が呼んだら、戻って来るんじゃ、ないかって……」
澪はゆっくりと目を瞠る。腕を掴まれて、半ば強制的に体の向きを変えられた。その拍子に視界の隅を掠めたハンドクリームのチューブを愕然と見やる。
「……帰ろう、榊」
「ふるべさん」
「ちゃんといる。やっと見つけた。見つけられた。今度は。だから」
「布瑠部さん」
「大丈夫。戻ってきたから。大丈夫。もう大丈夫。いなくならない。いなくなるわけがない、だっているんだ、目の前に」
錯乱状態にあるのか、まるで自分に言い聞かせるように大丈夫大丈夫とぶつぶつ呟く布瑠部の手に、徐々に力が籠められる。掴まれている部分から先に血がいかない。肉を皮ごと圧し潰し、骨を軋ませるほど強く握られ、澪は痛みに顔を歪めた。
布瑠部は、澪を通して妹を見ている。十年前に目の前から消えた〝みお〟を、澪の向こう側に見て、還ってきたものだと思っている。そして澪も、おかえりとかけられる言葉にくすぐったさを覚えて、食事をしながら交わすとりとめない会話に安堵して、休日になんの気兼ねなく遊びにいく──ずっと羨慕し続けた、九年前の冬に失った家族を、布瑠部の向こう側に見ていた。
互いが互いに、いなくなった誰かの役割を相手に押し付けていただけだった。相手を、身代わりにしていただけだった。
「っ、布瑠部さん。……わたしは〝みおちゃん〟じゃないですよ」
きょとんと、布瑠部が瞬いた。まるで幼子のように首を傾げながら、不思議そうに見下ろしてくる。
「わたしは、……布瑠部さんの妹じゃないんです。〝みおちゃん〟じゃない」
「? わかってる」
「わかってないですよ。わたしは〝みおちゃん〟じゃないから、……布瑠部さんが帰る場所に、わたしのいていい場所はないんだよ」
ふっと、布瑠部の手から力が抜けた。血の通っていなかった指先に小さな痺れが走り、じんわりと熱が戻ってくる。無骨な手からするりと抜け落ち、重力に抗うことなく膝に落ちそうになった手を、しかし布瑠部は離さなかった。
緩く手首を拘束したまま呆然と澪を映し出す眸から目を逸らすと、じゃあ、と彼が視線を落とす。眸に、仄昏い光が宿った。
「榊の帰る場所ってどこにあるんだ」
「え、……」
「榊が帰りたい場所はどこにある? ここがだめで、そこじゃないといけない理由は?」
「っ」
「そこにこだわる何かがあるのか? 親はいなくて、親戚とも疎遠で、家で待ってくれてる家族もいないのに」
「ま、待って、ふるべさん、おねがいだから、まって」
まくしたてる布瑠部が何を言おうとしているのか、本能的に悟った。言わせまいと必死に止めようとする澪を黙殺して、布瑠部は浅い呼吸を刻み始める彼女の眸を覗き込む。どこかぼんやりとしている眸に、薄い水膜が張っていた。まって、まってと縋るように何度も繰り返す口を手で覆って黙らせ、子どもに言い含めるように布瑠部は耳朶に吹き込む。
「榊を待ってる誰かなんて、そこにはもうひとりもいないのに。榊澪を必要としてくれる人間なんて誰もいないのに。どこに行ってもひとりぼっちで、居場所なんてないくせに。……榊は、どこに帰ろうとしてるんだ……?」
ひゅっと細い喉が鳴った。追い詰めるために布瑠部が放った言葉は、澪の心の柔らかい部分を容易く刺し貫く。
感情の堤が決壊したのか、目の表面を覆っていた水が頬を滑って顎に伝った。ぱたりと最初の滴が服に濃い染みを残したのをきっかけにして、見開かれたままの眸から滂沱の涙が溢れる。
それをぬぐってやりもせず、目を細めた布瑠部は纏っていた秋物のパーカーを肩に羽織らせると、腕を引っ張って強引に立たせた。部屋を出た途端に容赦なく吹きつける風を意にも介さず、階段を降りる。
夏物の薄着に布瑠部のパーカーを肩に引っ掛けただけの澪は茫然自失の体で、寒さなんて感じていない。腕を引けば足をもつれさせ、時折まろびかけながらも布瑠部のされるがままになっている彼女は、車に乗り込んでなお、糸の切れたマリオネットのように動かない。
浅い呼吸を胸が刻むたびに、とめどなく涙が双眸から溢れ、頬を濡らして服に落ちて染みをさらに濃くしていた。焦点を失った眸は虚ろで、眼前に広がる景色を映し出すただの鏡と化している。
しゃくりあげることも、嗚咽を漏らすこともない。待っている人間なんて誰もいないという布瑠部の言葉を拒絶するように、ただ静かに涙を流すだけだ。
布瑠部が車を発進させても微動だにしない。
──七日後。取り壊し中のあわいアパートを前に立ちすくむ澪の後ろで、布瑠部は恍惚とした顔で満足そうに、うっそりと笑った。
本編完結です。
お付き合いいただきありがとうございました。