(3)
ゆっくりと瞼が持ち上がり、少女が目覚めた。ぼんやりと焦点の合わない様子の少女は、最初、此処がどこだか分かっていないようだった。
瞳の色は、空を溶かしこんだ様な透き通る青。その瞳でラルフをぼうっと見つめた。
「気分はどう?」
ラルフに声をかけられ、ようやくハッとしたらしい。ラルフを見とめて目を見開き、頭や顔にぺたぺたと触れて、あっという間に青褪めた。素顔が顕になっていることが一大事なのだろう。素早く布団を頭にかぶり、ガタガタと震えだした。
「勝手に着替えさせたのは、ごめん。あのままじゃ風邪をひきそうだったから」
「………………っ」
「それで、気分はどう? 辛かったら薬でも持ってくるけど」
布団を被ったままの少女に優しく語りかけるが、反応はない。無理もないだろう。つらい思いをしていたのは間違いないのだから。ラルフは1つ息を吐き、腰を上げた。
「とにかく、なにか温かいものを食べないとね。持ってくるから待ってて」
そう言い、見るも無残な台所へと向かう。ここから、ラルフの看病生活が始まった。
死闘の末、かろうじて料理の体をなしたスープを手に部屋に戻ると、案の定少女は熱をだしていたのだ。高熱にうなされ、意識も朦朧としていた最初の晩。意識が戻り、かろうじて自分で動けるようになった翌朝。トイレにも行きたいだろうと布団ごと抱きかかえると、少女は布団の中で大暴れしたが、精霊たちの力を借りてどうにか大人しくさせ、トイレの中へと放り込んだ。抵抗しても無駄と悟ったのか、ベッドへ戻る時からは何の抵抗もしなくなったが。
薬を飲ませ、栄養のあるものを食べさせ、良く眠らせる。一言も言葉を返さない少女相手にそんな生活を3日も続けた頃、変化は訪れたのだった。
「それじゃ、夕飯はここへ置いておくね」
最初はスープから食べさせたが、だいぶ回復した今では固形物も食べさせている。はたしてラルフの料理が食べ物と言えるのかは謎だが、今のところ少女は食事を残すことはなかった。
ベッドサイドのローテーブルにいつも通り食事を置き、踵を返したラルフの視界の端で、もぞり、と布団が動いた。
「………………あ、の…………」
消え入りそうなほど小さな声だったが、それでも確かに布団から聞こえた。驚きつつ、ラルフは足を止めて布団に向き直った。
「喋れるのかい?」
驚きすぎて、実に変なことを聞いてしまった。
「…………しゃ、喋れます……いままで、すみませんでした……。助けていただいた、んですよね……」
思いがけず言葉が返ってきて、ラルフは目を見張った。話しかけたものの、まさか返事があるとは思わなかったのだ。
「ふ、布団を使わせて頂いて……ご飯まで……今すぐ出ま…………出たい、のですが、その……」
「無理をしなくてもいいよ。生憎、僕の服にはフードが付いているものがないんだけれど、君の服をすぐに持ってくるから」
「……ありがとう、ございます……何から何まで……」
おどおどした声音ながらも、少女からは一応返答がある。ずっと怯えたままか、黙ったままか、はたまた逃げ出すか、少女の反応はそのどれかかと思っていた。どうやらラルフの予想とは違い、随分律儀な性格のようである。内心驚いたまま、ラルフも言葉を続けた。
「具合はどう? 随分な目に合っていたみたいだけれど」
「お、おかげさまで…………もう大丈夫です」
「そう。それはよかったよ」
少女の声音からも、無理をしている様子は伝わってこない。どうやら虚勢でもなんでもなく、きちんと回復したようだ。とりあえず一安心だと、ほっと息をつく。
ついたところで、ラルフはずっと気になっていたことをようやく口にした。
「それで、ずばり聞いてしまうけど、君のその呪いはいつからかけられているの? 原因は分かる?」
「の、呪いだと分かるのですか……?」
「勿論。僕は精霊術師だからね」
布団が動いた。どうやら中で少女が驚いたらしい。
てっきりラルフが精霊術師と分かって転がり込んできたのかと思ったが、この様子では違うようだ。
「……原因は、不明なのです。生まれた時に、なぜか呪われてしまったようで」
少女の声音には、苦々しさと少しの諦めが混じっていた。この呪いによって、どれだけ苦しめられてきたのかは聞かずとも分かる。
着替えさせた時に見えた傷だらけの手足は、少女が長距離を歩いてきた証。衰えた体は、十分な栄養が行き届いていなかった証。
所持品らしい所持品も無い少女が、ぼろぼろの姿でこんな嵐の日に1人で外を歩いていたことからして、どんな経緯かも大体推測できるというものだ。
「そうか……。となると、解呪は少し時間がかかるかもしれないね」
「解呪……?」
「君の呪いは、水精霊の女王、マナ=レナによるものだからね。彼女さえ捕まえれば解呪は可能だよ」
「…………そ、そんな……」
「うん?」
「解呪…………解呪が、できる……解呪……」
解呪解呪と呟きながら、ふるふると布団の山が動く。ラルフは思わず口元を緩めた。こんな時にあれだが、先程からあれこれと動く布団がなんとも可笑しかった。
目は口ほどに物を言うと言うが、この少女の場合は体が口ほどに物を言っている。布団に隠れていても、姿の見えない少女がどんな反応をしているのかが手に取るように分かった。今は恐らく、解呪できるという事実の衝撃に打ち震えているのだろう。
これは、放っておけない。
出会って数日どころか、僅かしか会話していないけれど、ラルフの心は決まった。精霊術師としてももちろんだが、そうでなくとも放っておけるわけがない。そう思わせる何かが、少女にはあった。
「ねえ君、行くあては? 無いでしょう?」
「…………あります」
「無いんだね」
図星をつかれ、布団が大きく跳ねた。分かりやすすぎて笑みが溢れる。何とも面白いものを拾ったものだ。
「そうだね、じゃあ、解呪できるまでここにいるといい」
「そんなっ…… 私と一緒にいては、呪われてしまいます……!」
「呪われないよ」
「のっ呪われます!」
「呪われないって。精霊術師が言ってるんだから大丈夫」
「の、呪われますよう……」
布団から聞こえる声は半泣きだ。
もうだめだ。とうとう堪え切れずくすくすと笑いながら、ラルフはぽんぽんと少女の布団を叩いた。
「紹介が遅れたね、僕はラルフ。君を助けてあげる」
少しの沈黙の後、布団がまたふるふると震えだし、小さな嗚咽が聞こえ始めた。ラルフは優しく布団を叩く。少女が落ち着くまで、ひたすらそうしていた。
やがてその嗚咽が止まったとき、少女は小さく、自分の名前を名乗ったのだった。
*****
「ラルフさま、ご飯が出来ました」
ドアが開き、ブランシュが顔をのぞかせた。真っ暗な室内を見て眉を寄せる。
「こんなに暗くては、目が悪くなってしまいますよ?」
ブランシュが手を叩くと、ぽうっと光が灯る。火の子の力だ。普通の人では手を叩くだけで火を灯すことはできないので、一般家庭では精霊の力に頼らない光源が設けられているが、この家は違う。精霊術師が住むために作った家だ。
ラルフならば言葉や動作1つで思いのままだが、一般人のブランシュが此処で生活していく上で必要不可欠だということで、彼女の一定の動作に反応するよう、精霊たちに頼んである。例えば今のように、光源の前で手を叩けば火が点いたり消えたりするのだ。
慣れた動作で火を灯したブランシュは、部屋に入ってカーテンを閉めた。窓際に移動する際には、あちこちに散らばった本やペンを拾い上げて元の場所に戻すのも忘れない。放っておけば際限なく散らかすラルフと暮らすうち、自然と身につけた術だ。すっかり手慣れたものである。
この家にやってきた当初は、ラルフに近寄るだけで怯えていたのに。なんとも感慨深く、ラルフはじっとブランシュを見つめた。
「…………ラルフさま?」
ラルフに見つめられていることに気づいたブランシュは動きを止め、ただでさえ俯いている顔をさらに下に向け、フードを深くかぶり直した。そうしてしまうと、もはやブランシュの顎の先ですら見えない。
働き者で、いじらしくて、気立ても良い。こんなすばらしい少女が、もっと堂々と陽の光の元に立てるようにしてあげたい。
いつの日か、フードを取り払って、明るい色の衣服を纏って。満面の笑みを浮かべる彼女を、まっすぐに見つめることができたら、なんて幸せなことだろう。
「…………ラ、ラルフさま……どうかしましたか……?」
いまだ見つめ続けるラルフに対し、おどおどと所在なさげにするブランシュを見て、思わず苦笑する。ラルフは仕方なく、少しだけ視線をずらした。
「んーん、なんでもないよ」
ほっと肩の力を抜いたブランシュに近寄り、フード越しに優しく頭を撫でる。
「呪いを早く解いてあげたいな、と思って」
それはブランシュのためでもあり、自分の願いでもあるのだ。そう、改めて思った。