王子の三日間(王子視点)
あと書きのような王子視点です
フィオナが走り去った。
大広間の全員が、開け放たれた扉の向こうを見ていた。靴を脱いで全力疾走する令嬢の足音が、大理石の廊下に反響してだんだん遠くなっていく。
誰も動かなかった。僕も、動けなかった。
†
エドワード・アシュフォード。第一王子。二十一歳。
婚約破棄の宣言は、三日かけて準備した。侍従長に文言を確認してもらい、セリーヌの聖女認定の書類を整え、大広間の式次第を組んだ。完璧な段取りだったはずだった。
宣言の途中でフィオナが「ありがとうございます」と叫んだとき、僕の頭は真っ白になった。
台本にはない。フィオナは泣くはずだった。跪いて許しを請うか、せめて沈黙で受け入れるか。貴族令嬢はそうするものだ。婚約破棄は恥辱であり、泣くか黙るかの二択しかないのだから。
喜ぶ? 走る? 裸足で? バラの生垣を飛び越える?
どの教科書にも書いていない光景だった。
「殿下」
侍従のハインリヒが声をかけてきた。
「……何だ」
「大広間の皆様が、お待ちです」
振り返ると、百人の貴族が僕を見ていた。誰も笑っていない。誰も泣いていない。全員が困惑に包まれていた。
セリーヌが隣に立っている。長い金髪、碧眼。教会が認定した聖女候補であり、僕がフィオナの代わりに選んだ女性。
「エドワード様……」
セリーヌの声が震えていた。フィオナが放った「ありがとうございます」の声量に、完全に負けていた。
†
一日目。
朝、執務室。婚約破棄の事後処理に追われ、書類の山と向き合う。
ハインリヒが持ってきたのは、ルーベンス家への正式な通達書、貴族院への届出、教会への聖女婚約の申請、そしてフィオナ宛の私信の草案だった。
「私信?」
「慣例でございます。破棄された側への慰めの書状を」
「慰め? フィオナは喜んでいたぞ」
「……慣例ですので」
ハインリヒの目が泳いだ。四十年仕えた老侍従が困惑している。慣例に従えば慰めの手紙を書くべきだが、喜んで走り去った相手に送るのは、あまりに滑稽だ。
「書かなくていい」
「しかし」
「必要ない。フィオナは慰めなど望んでいないだろう」
なぜそう断言できるのか。三年間の婚約期間中、フィオナの「嫌がること」は何一つ理解できなかったというのに。「喜ぶこと」だけは、昨日はっきりと思い知らされた。
自由。フィオナが切望していたのは、自由だったのだ。
午後、評議会。大臣たちが居並ぶ。
「ルーベンス家の反応は」
外務卿が報告した。
「特段の抗議はございません。侯爵からの返書は一行でした。『承知した。娘は元気にしている』と」
「一行か」
三年間の婚約を破棄されて、たった一行。ルーベンス侯爵はフィオナに似ているのか。それとも、最初からこの婚約に価値を見出していなかったのか。
「セリーヌ嬢の聖女認定の進捗は」
教会からの書類に目を移す。セリーヌ嬢の聖女認定の根拠、魔力測定値、教義審問の記録。形式上は問題ない。だが、一つだけ気になる点があった。
「ハインリヒ。この魔力測定の日付、三ヶ月前になっているが。測定は通常半年に一度ではないか」
「はい。通常は半年ごとです」
「なぜ三ヶ月前に追加測定が行われている」
「……確認いたします」
気のせいかもしれない。だが、フィオナの「ありがとうございます」が耳から離れない。あの声の力、あの走りの速さ。三年間、フィオナはこの瞬間を待ちわびていたのだ。
僕は三年間、一体何を見ていたのだろう。
†
二日目。
朝の庭園を一人で歩く。バラ園には、フィオナが飛び越えた生垣があった。枝は折れたままで、庭師が手を入れた形跡がない。
「ハインリヒ」
「はい」
「この生垣、直さないのか」
「庭師に確認しましたところ、『伝説の生垣だから触れるな』と他の使用人に止められたそうです」
「伝説?」
「裸足の令嬢が跳び越えた生垣として、すでに城内では語り草になっております」
「……語り草」
フィオナの脱走劇は、わずか二十四時間で城内のレジェンドと化していた。使用人たちが笑いながら噂しているのを、すでに三回は耳にしている。
「令嬢が靴を脱いで走るなんて」
「しかもあんな笑顔で」
「殿下の顔、見た? 完全に固まってたわよ」
僕が固まっていたのは事実だ。否定する言葉もない。
そこへセリーヌがやってきた。白いドレスに日傘を差し、金髪を陽光に輝かせている。フィオナとは対照的な、静止した美しさだ。フィオナが走る美しさなら、セリーヌは立つ美しさ。動と静。昨日のあの瞬間から、僕はずっとその対比の中にいる。
「エドワード様。お散歩ですか」
「ああ。少し、頭を整理したくて」
「昨日のことですか」
「……うん」
「お気になさらないでください。フィオナ様は変わった方ですから。あんなに喜ぶなんて、普通は泣くものですわ」
「普通は……そうだな」
「私なら泣きます。殿下に見捨てられたら」
セリーヌの目が潤んでいた。大粒の涙が頬を伝う様子は確かに美しい。
だが、僕の脳裏に蘇るのはフィオナの笑顔だ。全力疾走。生垣を跳ぶ躍動感。涙と笑顔、どちらが本当の感情なのか。
「セリーヌ。フィオナは、僕との婚約が嫌だったのかな」
「嫌だったのでしょう、あの反応を見れば。でも、それは殿下のせいではありません。彼女が変わっているだけです」
セリーヌは断言する。だが、本当に変わっているのはどちらだ? 三年間一度も不満を漏らさず、解放された瞬間に爆発した彼女か。それとも、隣にいた人間の不幸に気づかなかった僕か。
「セリーヌ。一つ聞いていいか。三ヶ月前の追加測定、あれはなぜ受けたんだ?」
セリーヌの目が一瞬、泳いだ。左上。記憶を探す動き。
「教会の定期測定ですわ。特に理由は」
「定期測定は半年ごとだ。三ヶ月前は時期が外れている」
「……あら。そうでしたか。私、日程には疎くて」
聖女候補が、自身の命運を左右する魔力測定の日程を把握していない。そんなことがあるだろうか。
「わかった。気にしないでくれ」
「エドワード様」
「何だ」
「私は殿下のそばにいます。フィオナ様のようには逃げたりしませんわ」
完璧な微笑みだった。しかし、その目は笑っていなかった。
†
三日目。
夜の執務室。ハインリヒが調査結果を持ってきた。
「殿下。追加測定の申請者は、セリーヌ嬢ご自身でした」
「自分で申請した?」
「はい。理由欄には『数値向上の確認のため』と」
「数値が上がったか確認したかった、と」
「はい。ただし、測定結果は前回と変わっておりません」
数値が変わっていないのに追加測定を望んだ。その真意はどこにある。
「ハインリヒ。もう一つ。フィオナは婚約期間中、僕に何か言っていなかったか。不満でも要望でもいい」
「……殿下に直接ではございませんが」
「誰かに?」
「侍女のミリアムに。一度だけ。一年前です」
「何と言っていた」
「『殿下のお話は、天気と狩りと馬の三つしかない。何を話しても、その三つのどれかに戻る。会話が循環する』と」
天気と狩りと馬。心当たりがありすぎた。
「ミリアムはどう答えた」
「『我慢なさいませ。王族とはそういうものです』と」
フィオナは三年間、僕の退屈な話に耐え続けていたのだ。僕はあんなに楽しかったのに。彼女と歩き、馬の血統を語る時間が。
楽しかったのは、僕だけだった。
ペンを取り、紙を広げる。フィオナに手紙を書こうとして、手が止まった。
「退屈させてごめん」と、三年分の苦痛を一行で済ませるのか。「戻ってきてくれ」と、再び鎖に繋ぐのか。それとも「僕が変わる」と誓うのか。天気と狩りと馬以外に、僕は何を語れるというのか。
インク壺の蓋が開いたまま、時間だけが過ぎていく。
フィオナの母、クラリッサ侯爵夫人からの手紙にあった一節が胸を突く。
『娘を自由にしてくださり感謝します。ルーベンスの女は退屈では死にませんが、退屈に殺されることは許しません』
僕は、彼女を殺しかけていたのだ。
窓の外には、月明かりに照らされた「伝説の生垣」が見える。
明日になっても、手紙の一行目は書けないだろう。正直に綴るなら「僕は退屈な人間だった」となる。だが、その先を知らない。退屈な人間が退屈じゃなくなる方法を、誰も教えてくれなかった。
セリーヌの笑わない目。不可解な魔力測定。何かが狂い始めている。
けれど今は、フィオナのことだけを考えていたい。
彼女が去ってから三日。世界は何一つ変わっていないように見える。大臣は仕事をしている。使用人は掃除をしている。セリーヌは微笑んでいる。
変わったのはバラの生垣が折れたことと。僕の中に、名前のつかない空洞ができたこと。
フィオナがいた場所に。
閲覧ありがとうございました!
転職してようやく距離を置けた上司を題材にしてみました。
「直接は言えないけど、物語形式で成仏させたい何か」があればリクエストいただけると嬉しいです。




