表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/3

【クラリッサ編】夜会翌日の労働損失72日分を帳簿で証明したら、300年の慣習が崩れた

母のクラリッサ編を勢いで書いてみました

朝の4時。


シャンデリアの蝋燭がまだ3分の1も残っている。あと2時間は燃える。つまり、このパーティはあと2時間は終わらない。


バルトハイム伯爵邸の大広間。120人の貴族がまだ踊っている。楽団の演奏は4時間前から同じワルツの変奏を繰り返しているが、誰も気づいていない。あるいは気づいていて、気づかないふりをしている。社交界はそういう場所だ。


クラリッサ・ルーベンス。23歳。侯爵夫人。結婚して1年。


視界がわずかに暗転した。


脳が熱を持っている。


処理能力の限界を超えたとき、脳は強制的にアイドリング状態へ移行する。短時間の意識遮断による熱分散。これは睡眠ではない。防御機構だ。


「クラリッサ」


隣で夫のアルフレートが言った。30歳。真面目な顔。真面目な声。真面目な話題。


「今年の北部の税収だが」


「はい」


「前年比で3パーセント減だった」


「はい」


「原因は春先の長雨だと思うんだが、麦の先物取引の動向を見ると——」


「はい」


3回目の返答で、クラリッサは自分が立ったまま処理停止していたことを認識した。


「クラリッサ。目が閉じているぞ」


「閉じていません。脳のオーバーヒートによる一時的な処理停止です」


「それを一般には睡眠と言う」



17歳の夜を思い出す。婚約の席で、1度だけ父に言った。「この方とは合わないと思います」。父は微笑んで答えた。「慣れるよ」。慣れなかった。慣れたふりが上手くなっただけだ。


あの夜、本当は走って逃げたかった。大広間を横切って、扉を蹴って、コルセットを引きちぎって。でも走れなかった。ルーベンス家の女はいつか自由になるが、この世代の私には、まだその道が見えなかった。



ワルツが新しい楽章に入った。アルフレートが手を差し出した。


「踊ろうか」


「はい」


踊った。アルフレートのリードは正確だ。拍子を外さない。足を踏まない。回転の角度が毎回同じ。正確すぎて、踊っているのか、同じ場所をぐるぐる回っているのか分からない。


「この間の収穫高の報告書だが」


ワルツ中に収穫高の話をする男。天気と狩りと馬しか話さない王家の男たちとは退屈の方向が違う。あちらは趣味の退屈。こちらは仕事の退屈。どちらがましかは判断が難しい。


(この男の語彙には『効率』と『収穫高』と『税収』しかないのかしら)


「クラリッサ。目が閉じているぞ」


「閉じていません。瞬きが長いだけです」


「3秒以上の瞬きは、一般に睡眠と呼ぶ」


ルーベンス家の男は、こういうところだけ鋭い。



翌朝。9時。


領地の執務室。机の上に帳簿が積まれている。昨夜——いや、今朝の4時まで踊っていたので、5時間しか寝ていない。目の下にクマがある。コルセットの跡が肋骨に残っている。深呼吸すると痛い。


帳簿の数字がぼやけている。


北部の灌漑。

南部の道路。

東の麦畑。


すべて重要。


すべて、処理できない。


目が閉じた。

額が帳簿に落ちた。

3秒後、跳ね起きる。インクの染みが額に移っていた。


夜会は月6回。

翌日は機能しない。


年間換算。


72日分の労働損失。

全体の約20パーセント。


「……致命的」


これは疲労ではない。


デバフだ。


領地全体にかかる、慢性的な性能低下。


夜会のために用意するドレスの新調費用。

装飾品の維持費。

馬車と従者の待機コスト。


そして何より——翌日の領主館全体の機能不全。


徹夜明けの事務官が犯す計算ミスは、修正に通常の三倍の時間を要する。

伝達の遅延。

判断の停滞。

意思決定の鈍化。


すべてが連鎖する。



退屈は、感情ではない。


退屈は、構造的な損失だ。


——夜会は、領地にかかる恒常的なバグだ。



書斎の棚から、曾祖母エリザのノートを見つけた。


400ページの記録。


その末尾に、一行。


「ルーベンス家の女は、退屈な運命の文を、自分で書き換える。」


……曾祖母。あなたも退屈な男に当たったのね。


ページをめくる。


碑文の写し。

文法メモ。

動詞の活用表。


その合間に、エリザが書き足したメモがある。領地の祭事に関する覚書。古い儀式の記録。


1枚のメモに目が止まった。


「豊穣神の本来の祭礼は、夜明けの踊り。日の出とともに踊り、朝日を浴びることで豊穣を祈る。現在の夜通し舞踏の慣習は、300年前に当時の宮廷楽長が『夜の方が蝋燭代で儲かる』と進言したことに端を発する」


蝋燭代。


300年間、貴族が朝4時まで踊り続けてきた理由が、蝋燭の売り上げ。


「……埋没費用」


回収不能な投資。

だが支払いは続く。


慣習。

利益構造。

固定化。


理由は——「昔からそうだから」。


理由になっていない。


慣習という名のバグ。

国家の資金を蝋燭の煙に変換し続ける、構造的損失。


修正する時が来た。


曾祖母は「朝の踊り」の存在を記録していた。けれどエリザ自身はそれを実行していない。碑文の解読と制度の条文を書き換えるのがエリザの仕事だった。「朝に踊る」のは、次の世代の仕事として残されていた。


——私の仕事だ。



ただし、曾祖母の記録だけでは足りない。

「朝の方がいい」と言うだけでは、誰も動かない。


数字がいる。

数字と、もう1つ——人を動かす「体験」がいる。



夕食の席。アルフレートが向かいに座っている。


「提案があるの」


「何だ」


「夜会をやめて、朝のパーティにしたい」


アルフレートのフォークが止まった。


「朝?」


「朝。日の出とともに。庭園で。軽い朝食とダンス。1時間で終わる」


「根拠は」


この男は「根拠は」しか言わない。本当に便利な変数が1つあれば世界は回ると思っているのだろう。


帳簿を出した。夕食の席に。


「夜会翌日の領地作業効率が平均32パーセント低下しています。月6回の夜会で年間72日分の労働損失。金額に換算すると——」


「データの期間は」


「直近3ヶ月です」


「3ヶ月か。季節変動を考慮すると、最低1年分の対照データが欲しい」


突き返された。


アルフレートの目が帳簿を見ている。数字に対してだけは妥協しない目。この人は感情では動かない。データが不充分なら、どんなに理にかなった提案でも保留にする。


(この男の心にも『効率』という列しか存在しないのだとしたら、そこに書き込んでやればいい)


「……わかりました。1年分集めます」


「頼む。あと、朝に変えた場合の費用対効果の見込みも。楽団の手配、食材、庭園の使用——全部入れてくれ」


フォークを戻して、アルフレートは食事を再開した。話は終わり。データが揃うまで、この件は存在しない。


退屈な運命の文を、自分で書き換えたいなら、まずは根拠を書き換えなければならない。



3ヶ月後。


1年分の対照データを揃えた。夜会がある週とない週の作業効率比較。領民の健康記録。麦の収穫量と夜会頻度の相関。全部帳簿にまとめた。


紙の束は重い。けれど、これがルーベンス家の武器だ。


アルフレートの机に置いた。


2日後、返事が来た。


「データは充分だ。やっていい。ただし、まず小規模に。効果測定ができる形で」


勝った。3ヶ月かかったが、数字で殴り切った。



退屈は、感情ではなく数値に変換すればいい。

数値になった退屈は、改善すべき損失になる。



翌月。ルーベンス領の庭園。朝5時。


招待状を15家に送った。「日の出のガーデンパーティ。ドレスコード:動きやすい服装」。


来たのは、3人だった。


隣領のマルガレーテ夫人。寝癖がついている。目の下にクマ。上着のボタンが1つ掛け違っている。


あとは、マルガレーテの妹と、その友人。合計3人。15家中3人。


「クラリッサ、来たわよ。他に誰かいるの?」


「……これから来ると思います」


来なかった。


朝5時に庭園。普通の貴族夫人にとって、それは「正気の沙汰ではない」ということらしい。


楽師が3人、所在なさげに楽器を構えている。テーブルに焼きたてのパンとハーブティーが並んでいる。


パンは今朝、クラリッサが自分で焼いた。ルーベンス領で獲れた最良の小麦。製粉所に特別に頼み、粒度を通常の1.3倍まで細かく挽かせた粉。


マルガレーテがパンを見て、眉を上げた。


「……普通のパンに見えるけれど」


「普通ではありません」


クラリッサは即答した。


「小麦の粒度を1.3倍まで細かく挽いています。これにより表面積が増加し、消化時の糖分吸収効率が約18パーセント向上します」


「……そうなの?」


「加えて、水分含有率を2パーセント単位で調整しました。含水量が多すぎると胃内滞留時間が延び、少なすぎると吸収効率が低下します。今の配合が最適値です」


「最適値って何……」


「さらに発酵温度を0.5度刻みで変え、計12回の試行を行いました。気泡構造を均一化し、咀嚼回数を平均より6回増やす設計です」


クラリッサは焼き上がったパンの断面を切り分け、気泡の入り方を確かめた。ついでに定規を取り出し、気泡の直径を数ヶ所で測る。


「設計……?」


「咀嚼回数の増加は脳への血流を促進します。計測では、摂取後30分で脳内血流量が約12パーセント増加しました」


マルガレーテはパンを見た。

次にクラリッサを見た。


「……それ、食べ物の話?」


「燃料の話です」


クラリッサは迷いなく言った。


「朝の活動時間を最大化するための、高効率エネルギー供給体です」


「パンよね?」


「はい。パンです」


マルガレーテは一口ちぎった。

薄く香ばしい表皮が指先でぱり、と音を立てる。内側はしっとりと温かく、湯気と一緒に小麦とバターの匂いが立ち上る。


口に含んだ瞬間、ほんのりとした甘みと塩気が舌の上でほどける。軽い歯ざわりのあと、細かい気泡がふっと潰れ、空気と一緒に香りが鼻に抜けた。


噛むたびに、顎のあたりがじんわり温かくなる。耳の奥で、自分の鼓動と噛む音が同じリズムで重なっていく。寝不足で霞んでいた視界のピントが、ゆっくりと合っていく。


「……なにこれ、頭が起きていく……」


マルガレーテが思わずこぼした。


目の奥の重石が外れ、額の内側を冷たい水が流れたような感覚。さっきまで鉛のようだった手足が、自分のものとして戻ってくる。


「美味しいだけじゃなくて、変な言い方だけど……頭に電気が通ったみたい」


「想定通りです」


クラリッサは満足そうに頷いた。


「効率と嗜好性は両立可能です。むしろ、継続摂取を考えれば必須条件です」


「継続摂取……」


「なお、焼成時間は標準より47秒短縮しています。外殻の硬度を保ったまま内部水分を維持するためです」


「秒単位で?」


「当然です」


クラリッサは静かに言った。


「誤差は効率を損ないますから」


朝日が昇る。

空気が軽い。

呼吸が深い。


コルセットを緩めた。

胸郭の圧迫が消える。

酸素摂取量が増える。

血中酸素濃度が上昇する。


思考が軽くなる。

判断速度が上がる。

判断ミスが減る。

誤差が減る。


呼吸が1分あたり2回増えている。

脈拍も、昨夜より安定している。


「……計算精度が、少なくとも3パーセントは改善している」


クラリッサは静かに結論づけた。


これは体感ではない。

差だ。



これを装飾と呼ぶ文化は、非効率だ。


「何?」


「いえ」


踊る。

3人で。

朝の光の中で。



2回目、7人。

3回目、12人。

4回目、18人。


理由は明確だった。


燃料。


——パンという名の、精密機械。


人数の推移を帳簿の端にメモする。3→7→12→18。曲線の形が頭の中で描かれていく。



そうした変化を、快く思わない人々もいた。


ある夜会で、バルトハイム伯爵夫人が扇を鳴らしながら笑った。


「朝からパンを齧って踊る? 飢えた野良犬の集まりかしら。貴族たるもの、夜に舞踏会で優雅に過ごすのが本来の姿でしょうに」


取り巻きの夫人たちが、くすくすと笑う。


クラリッサはグラスを置いた。


「野良犬でも、昼間に働きますわ」


「まあ?」


伯爵夫人が眉をひそめる。


クラリッサは扇を傾けたまま、相手のドレスを一瞥した。胸元から裾まで宝石が縫い付けられた、重く、きらびやかすぎる衣装。


「伯爵夫人。そのお召し物、とてもお美しいですね」


「当然ですわ。特注ですもの」


「存じています。そのドレスの維持費を年間で三着分削減すれば、我が領の街道は三キロ延伸可能です。物資の輸送時間が短縮され、税収は推計で七パーセント増加します」


微笑みは崩さない。


「その装飾品、もはや不良債権ですね」


伯爵夫人の扇が止まった。まわりの空気が、すっと冷える。


「……冗談がきついですこと」


「いいえ。数字です」


クラリッサは淡々と答えた。


「夜通し舞踏という文化的資産が、三百年かけてどれほど国家の資金を蝋燭に変換してきたのか。今、計測しているところです」


伯爵夫人はなにも返せなかった。


(慣習という名のバグは、感情ではなく数値で殴るに限る)



半年後。


「効率が32パーセントから9パーセントに改善した」


アルフレートが報告書を読み上げた。


「知っています。私が計測しましたから」


「風邪が15パーセント減」


「それも知っています」


「……お前が全部計測しているのか」


「ルーベンスの女は記録を取るのです」


アルフレートが書類を出した。


「予算承認」


そこに書かれている。


「最重要人的リソースの稼働率維持」


クラリッサは一瞬止まった。


これは愛ではない。


評価だ。


最大効率の肯定。


「……ありがとうございます」


「合理的判断だ」


アルフレートは視線を逸らした。

耳が、やはり少し赤かった。


退屈な男だ。

でも、数字だけは誤魔化さない。



数日後の早朝。厨房。


「ストップ」


アルフレートの声が飛んだ。


クラリッサは窯の前で振り返る。アルフレートが砂時計と小さな懐中時計——即席の「計時装置」を両手に持って立っていた。


「今の焼成、45秒短かった。誤差2秒だ。もう一度だ」


「誤差の許容範囲は±5秒のはずですが」


「今のデータだと、47秒短縮が最も気泡構造が安定する。なら、そこを目標値にするべきだ」


真顔で言う。


「……あなた、いつからパン焼きの監査官になったのかしら」


「効率の話だ」


アルフレートはきっぱりと言った。


「お前のパンは、領地全体の処理速度に影響する。ならば、誤差は最小限にすべきだ」


(この男の口から『美味い』という単語が出る日は来ないのだろう)


(代わりに『処理速度』と『誤差』で愛情を表現しているのだとしたら——)


「了解しました。再試行します」


クラリッサは笑いそうになる口元を引き締めた。


「問題ありません」


ルーベンス家の女は、数字で愛される。



クラリッサは帳簿を開いた。


蝋燭費。

膨大。

300年分。


ペンを走らせる。


「削減分を街道整備へ転用」


即時計算。

輸送効率。

利益増加。

人流改善。


「……回収完了」


300年の無駄が、1行で消えた。


数日後、王都の蝋燭商会から問い合わせが届いた。


「最近、貴領での注文数が急減していると伺いまして……何か不備がございましたでしょうか」


不備はない。

需要が消えただけだ。


さらにその翌週、宮廷楽長の一族が主催する夜会の規模が縮小したという報告が上がった。


理由は、蝋燭代の高騰。


因果は明白だった。



朝の会は広がった。


最初は3人。

次に7人。

12人。

18人。

26人。

34人。


最初に変わったのは、参加者の顔色だった。


夜会明けの青白さが消え、朝の光の中で血色が戻っている。

午前中の執務時間に居眠りする者がいなくなったと、皆が同じことを言い出した。


それだけで、十分だった。


理由は、もう説明するまでもない。


人は、効率の良い方に定着する。

夜に戻る理由が、消えただけだ。



ある日、隣領から手紙が届いた。


「貴家の朝食会について、詳細を伺いたい」


次の日、もう1通。

その次の日も。


内容はほぼ同じだった。


時間。

規模。

食事内容。

楽師の人数。


そして——パン。


「……来たわね」


クラリッサは帳簿を開いた。


需要の発生。

拡張の兆候。


これは偶然ではない。


再現性がある。


返信は簡潔にした。


「朝5時開始。1時間で終了。食事は軽量かつ高効率であること。パンについては別紙参照」


別紙。

パンの仕様書。


粒度。

含水率。

発酵温度。

焼成時間。


すべて数値で記した。



1ヶ月後。


隣領で朝の会が開かれた。報告書が届く。


「参加者14名。満足度高。パンの評価、極めて良好」


さらに1週間後。別の領から。


「朝の集まりを試験導入。夜会出席率が減少傾向。翌日の病欠率も減少」


数字が動いている。


確実に。



「……拡張完了」


クラリッサは呟いた。


個人の改善ではない。


慣習の書き換え。


300年続いた夜の構造が、崩れ始めている。



アルフレートが書類を持ってきた。


「近隣5領で朝会が導入された」


「知っています」


「蝋燭の消費量が減っている」


「当然です」


「街道利用量が増加している」


クラリッサは顔を上げた。


「……それは想定より早いですね」


「朝の移動が増えたらしい。輸送も含めて」


アルフレートが書類を差し出す。


「街道整備の効果が前倒しで出ている」


数字が連動している。


夜の削減。

朝の活動。

人の流れ。

物流。


全部、繋がる。


アルフレートは一枚の書類を机に置いた。


「追加予算を承認した」


そこに書かれている。


「朝間活動の増加に伴う人的資源の稼働率向上、および広域的経済活動の活性化を確認。よって、街道整備計画の前倒し実施を決定する」


クラリッサは静かにそれを読んだ。


これはもう、個人の試みではない。


領地を越えた変化だ。


「……ありがとうございます」


「合理的な判断だ」


アルフレートは視線を逸らした。

耳が、やはり少し赤かった。



書斎。


エリザのノートを開く。


空白のページ。


ペンを取る。


「曾祖母エリザへ。朝は広がっています。夜はまだ残っていますが、減っています」


1行空ける。


「パンは、燃料として機能しています」


さらに1行。


「ルーベンス家の女は、退屈な夜を、輝く朝に書き換える」


ペン先を止めたあと、もう1行だけ足した。


「——そして、その朝の光さえも、私は演算の資産にします」


ノートを閉じた。



翌朝。


パンを焼く。

粉を量る。

水分を調整する。

温度を測る。

秒単位で管理する。


誤差は許さない。

効率は積み上げるものだ。


まだ薄暗い時間から、城門前には馬車の列が伸びている。

到着時刻が前倒しされ、取引開始時間も繰り上がっている。

かつて夜会へ向かっていた灯りが、いまは朝の街道へと向きを変えていた。


庭園に光が差す。

人が集まる。

笑う。

踊る。

働く。

流れる。


すべてが、朝に向かう。


朝が変われば、1日が変わる。

1日が変われば、領地の流れが変わる。

領地の流れが変われば、人生の手触りが変わる。


退屈な運命の文は、一気に破り捨てる必要はない。

行を足し、数字を書き換え、バグを修正するみたいに、少しずつ上書きすればいい。



暖炉の上に、来月のバルトハイム伯爵邸の夜会の招待状が1枚、まだ残っていた。


封蝋を指でつまむ。

蝋燭屋の紋章が、ぱきりと音を立てて二つになった気がした。


返事は出さなかった。

爽快感は薄くなるかもしれませんが、どうしてもパンの材料費を認めさせたかったんです...!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
元々冷静な彼女が、ロボットみたいな旦那と結婚した結果、彼女も冷静どころか、どんどんロボットみたいになっていったような印象でした 感情表現を意図的?に消してるのがより一層そういう風な印象を抱かせるのかも…
王子と父親、行動は似てるのに結果は反対。 退屈な会話の中に、心を入れて心に気付いた父母は円満に。 王子は王家で俺様だし、娘も自分なりに頑張ったけど、無理だった。 そういう同じなのに正反対な結果、面白か…
ラジオ体操って書こうとしたら同じ意見の人がいた。 素朴な疑問なんですが、夫人、その結婚生活幸せですか? 割れ鍋に綴じ蓋でも、合う合わないは有ると思うの
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ