アンジーの幸福
モクモクと上がる湯気とともに、甘い薔薇の香りが立たちのぼる。
ピチャン、と水飛沫が飛ぶ軽やかな音を立てて、アンジーは湯気の中に持ち上げた自分の左手を見た。
薬指には、王太子マティアスからプレゼントされた、大きなルビーの指輪が煌めいている。
アンジーは満足げに指輪を見つめ、その大粒の赤い石に唇をそっと寄せた。
「なんて、なんて満たされた生活なのかしら」
午前中からゆったりと入れる風呂は、最高だ。
見上げる天井には隅々まで精緻な模様の描かれたタイルが貼られ、猫足のバスタブの隣には、指紋一つついてない姿見が開かれている。
浴室の隣では絞った果実入りの冷たい水を準備した侍女が控えているはずだ。
キャドベリー公爵邸はとても広く、父である公爵とも滅多に顔を合わせる必要はない。
半年前、公爵位を継いだ父と共にここに越して来るまで、アンジーは王都郊外の屋敷に住んでいた。
キャドベリー家の本家である公爵邸をアンジーが訪れることができたのは、毎年一回だけ。
年に一度、リンツの王宮では建国記念の祝賀会が開かれる。その際に多くの上級貴族が王宮に招待されるので、キャドベリー一族は本家に集まるのが習慣となっていた。
アンジーが父に連れられて、公爵邸に初めてやってきたのは、五歳の時だ。
(うわぁ、すっごく大きなお屋敷! お城みたい)
このお城にはどんなお姫様が住んでいるのだろう。
そう思ってドキドキ胸を高鳴らせて出会った公爵家の一人娘・シェリィは、見間違えたかと思うほど、平凡な容姿の女の子だった。
ありふれた茶色い髪に、特に目立たない顔立ち。華やかさのない茶色の瞳に、ごく平均的な長さの手足。一目見た瞬間に、アンジーは無意識に「勝った」と思った。
アンジーはドレスの裾を綺麗に広げて「初めまして。仲良くしてくださいませ」と挨拶をしつつも、大きな窓に映る自分とシェリィを見つめた。
(私の方がずっと可愛いし、手足も長いわ。私の方がよっぽど、お姫様みたい)
初めて会った公爵令嬢は、すごくパッとしない子だった。
驚いたのは当時の公爵が立派な武人だったことだ。アンジーの父は背が低く腹も出ていたが、公爵は鍛え上げられた長身をしていた。正直なところ、アンジーは自分の父と同じ兄弟なのに、公爵の方がずっとかっこいいと感じた。
更に驚いたことに、シェリィはまだ子どもながらに、素晴らしく美しい守護妖精まで侍らせていた。
父が祝賀会に参加する間、アンジーはシェリィと遊んで過ごした。
祝賀会が終わり、自分の屋敷に帰宅すると、アンジーは毎年この時期に父がなぜ不機嫌になり、帰宅した後に荒れるのか理解した。
昨年、父は公爵邸から郊外の屋敷に帰宅するなり、怒りを抑えられずに玄関に置かれていた壺を手で払って割った。
「くそっ、いつも兄貴ばかりが優遇されるよな! 同じ血を分けた兄弟なのに、領地も爵位も、家も何もかも兄貴が継ぐなんておかしいだろっ」
アンジーは感情を自分だけで処理できず、周囲に当たり散らして解消しようとする精神的に幼稚な父が嫌いだった。だが、シェリィに初めて会ったこの時ばかりは、彼女も父に同調した。
「なんでシェリィばっかり何でも持ってるの? あんなにつまらない子なのに。ずるいよ」と。
だから王太子マティアスに近づいたのは、もしかしたら従姉妹への嫉妬があったのかもしれない。
リンツの王都でロングランを続ける演劇舞台「白鳥と王子様」を観に行った時。
アンジーは感動してロビーで侍女と泣いてしまった。そして偶然、同じく観劇に訪れていたマティアスと出会ったのだ。後で聞いたところ、「白鳥と王子様」はマティアスが後援する脚本家が作った劇だったらしい。
マティアスはこの脚本執筆にも、かなり意見を出したとのことだった。
「僕はね、ゴダイバ帝国の第一皇子のステン殿下に、深く同情しているんだ。皇子として一番最初に生まれ、ゴダイバ帝国の属国七王国の中で最も歴史ある我が国の王女を母としているのに、弟皇子のバシレオスに煮え湯を飲まされているんだから」
アンジーは日陰者のステンに心を寄せるマティアスの稀有な優しさに、感動した。
「正統な皇太子は、バシレオスではなくステン皇子だと、僕はそう思っている。皆にも気づいて欲しくて、この信念を演劇に昇華させたんだ!」
「王太子殿下は、芸術家としての才能もお持ちなのですね。素晴らしいですわ」
パトロンとしての才能もあるマティアス。
(あの時は、ただ単に演劇に心揺さぶられて、マティアス様とおしゃべりがしたいだけだったわ。友人以上の関係になるつもりなんて、私にはなかった)
マティアスはアンジーが純粋に劇に感動したことを喜んでくれたが、アンジーはマティアスの多才ぶりに驚いた。
鮮やかな金髪に、スラリとした体躯。華やかな会話と甘い碧色の瞳。陽気で友人も多く、身分と地位は完璧だ。マティアスは異性として、とても魅力的な存在だった。
つい、従姉妹のシェリィの話をネタに、マティアスと長時間会話を楽しんでしまった。
その後は、夜会で会うたびに人目を盗んで、こっそり二人で夜の庭園を散歩して交流を深めたのだ。
最初は、単なる興味本位から。けれど気がつけば、マティアスは完全にアンジーに夢中で、彼女にとっても彼より下位互換の男性は、もう選びたくなくなっていた。
アンジーとマティアスの出会いから、しばらくして。
幸運にもアンジーの伯父である前公爵が亡くなり、後を継いだ父が公爵となった。今やアンジーは、公爵令嬢だ。
天は彼女に味方したのだ。
もはや何も恥じることなく、アンジーは王太子と婚約ができる。
マティアスには弟の第二王子がいるが、リンツ王国の現国王と王妃は明るく人懐こい第一王子のマティアスを、第二王子より明らかに可愛がっており、マティアスに弱い。第二王子は寡黙で頭がかた過ぎて、両親のお気に入りではないのだ。
国王夫妻はマティアスが「本当に愛する女性と結ばれたいのです。僕の尊敬する父上、母上。アンジーとの真実の愛を貫かせてください!」と熱心に訴えると、国のために戦ってきた亡き前公爵とその遺児を気にしつつも、二人の仲を認めてくれたのだ。
「びっくりするほど、何もかも上手くいくことがあるのね」
思わず、うふふふと幸福の笑みが喉から転がり出る。
バスタブの近くには、移動式の棚が置かれていた。そこに手を伸ばしてガラガラと引き寄せる。
アンジーは棚に載せていた今朝の新聞を人差し指と親指で摘み上げ、一面を飾るニュースにざっと目を通した。
この記事はもう何度も読んでいる。だが、何度読んでも気持ちがいい。
今朝の誌面を騒がせているのは「王太子マティアスの婚約者、変更の可能性が濃厚か」という記事だ。新聞記者はどこから聞いたのか、流石情報が早い。
新聞を床に放り、バスタブの中に深々と体を預ける。
水面いっぱいに撒いた赤や薄紅色の薔薇の花びらの中に埋もれる自分に、酔いしれる。
うっとりと湯に浸かるアンジーに、衝立の向こうに控えていた侍女が声をかける。
「お嬢様、そろそろ湯からお上がりくださいませ。昨夜、魔術医師の先生が、当分疲労は禁物だと仰っていました」
アンジーは昨日の夜、人生で初めての守護妖精の召喚術に挑んだ。
民間から王室に嫁ぐ際、ほとんどの女性が守護妖精を従えて入宮すると聞いている。だがら、アンジーも自分が持てる魔力の全てを使って、妖精を召喚をした。
最も強く偉大で、高尚で美しい妖精を。
そう強く願って魔法陣を発動させたつもりだ。
結果はあまりにも意外なもので、彼女の召喚術に応えたのは、従姉妹の守護妖精のバードだった。
これも狙った結果ではない。
いつだって、アンジーが魅力的すぎて「何者かの自慢の誰か」が吸い寄せられてしまうのだ。
(私のせいだなんて、とんでもない。誤解だわ)
ザバッと水音を立てて立ち上がり、バスタブからゆっくりと出る。
姿見には頭のてっぺんから爪先まで、どこをとっても美しい肢体が写っている。滑らかな柔肌をつたい落ち、大理石の床に水溜りができる。
だが気にすることはない。どうせ床を拭くのは、侍女たちの仕事だし、ここにはたくさんいるのだから。
長湯のせいで白い頬は上気し、桃色に染まっている。
アンジーは自分の人差し指で頬に触れた。
血色の良いぷっくりとした唇が、弧を描く。
(誰もが欲しがるはずだわ。私は、もっと自分に自信を持っていいに決まっている。この国の王太子妃に相応しいのは、やっぱり私だったのよ)
水音を聞いた侍女がやってきて、アンジーの長い髪に巻くタオルをおずおずと手渡す。
渡されたタオルはパイルがふっくらとしていて、分厚く極上の感触だ。そこへアンジーは微笑みつつ息を吐いて顔を沈めた。
何もかも、素晴らしい。
ついに自分はここまでのし上がったのだと、勝利の喜びに酔いしれる。
アンジーにとって、自分の人生の成功はもはや神に約束されたようなもの。
侍女に手伝ってもらい、濡れた髪を頭上にタオルで包み終えると、アンジーは廊下に控えているであろう守護妖精に命じる。
「バード、私のバスローブを持ってきてちょうだい」
扉はすぐに開き、バードが浴室にやってくる。
アンジーは下着すら身につけず、髪をタオルで包んだだけの姿だったが、バードは一切遠慮することなく、まっすぐに彼女と視線を合わせた。
(いやぁね、面白くないわ。少しは恥ずかしそうにしてくれたり、もしくは目のやり場に困ってくれたりしてもいいのに)
アンジーの妖艶な姿に動じることなく、嫌味なほど冷静さを保つバードの涼しげな顔と冷めた反応にいたずら心をくすぐられ、アンジーはまだしっとりとした右手でバードの長い髪を一房手に取り、毛先まで手をすべらせた。
黒い髪は冷たく重たげで、けれど滑らかだ。長い髪がサラリとアンジーの手を離れ、バードの肩を打つ。
アンジーはそのまま右手で、差し出されていたバスローブを押し返す。
そうして彼女は天使のように微笑み、命じた。
「お前が着せなさい」
バードは感情のこもらない声で、「仰せの通りに」と言った。
予想通りとはいえ、バードの動揺しない反応がつまらない。世間には主人に媚を売る使い魔も、愛想のいい使い魔もたくさんいるというのに。
アンジーはどうせなら、もう少し感情表現の豊かな使い魔が欲しかった。
バードは他の妖精と比較しても、冷静沈着過ぎる。
こうなったら、あの面白みのない従姉妹のシェリィを焚き付けて、バードを使って敗北感を煽って楽しんでやろう。ーーアンジーはそう思った。
そしてそれは想像してみると、なかなかの娯楽になりそうだった。




