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皇太子の陣営にて

 北部山脈の麓から一番近い小さな村には今、普段の人口の倍以上の人々が滞在していた。

 皇太子率いる魔獣(まじゅう)討伐隊の天幕が、この村にたくさん張られているためだ。

 とりわけ大きな皇太子の天幕の中は、重苦しい雰囲気に包まれていた。

 辺境地域には不釣り合いなほど豪奢な、天蓋付きの寝台に横たわる皇太子は、北部山脈に積もる雪と同じくらい白い顔をしていた。

 まるで冬眠中のように体は冷たく、呼吸は異常に遅い。もちろん、その目が開くことはない。

「百年に一度の偉大な魔術師」との呼び声高い筆頭魔術師・ゴードンがその筋骨隆々とした体を折り、悔しげに拳をサイドテーブルに打ち付けた。


「なんでなのよぉおおお! どうして殿下がこんな目にっ!」

「やめてくれ、ゴードン。サイドテーブルが壊れる。自分の筋肉量を考えてくれ」


 ゴードンの背後から近づき、彼の手を素早く振り払ったのは、皇太子バシレオスの側近のブルーノだ。


「乙女に筋肉量だなんて失礼しちゃう!」

「ゴリラ並みの筋肉量のくせに、何を今さら」


 肩にかかるマントを後ろに払いながら、ブルーノはバシレオスの頬に触れた。その冷たさに顔を歪め、唇を噛む。


「こんなにお冷たいとは。殿下は今、どれほど苦しまれていらっしゃるのか、想像を絶するな」

「その点は大丈夫よ、ブルちゃん」

「その呼び方やめろ」

「殿下は完全に意識を失ってらっしゃるから、苦痛もお感じではないわ。そこは不幸中の幸いね。凍傷と小指の骨折は治癒術を施したから、今週中には完治するの。問題は、殿下に掛けられたこの妙な術よ!」


 バシレオスが魔獣の術で凍りついてしまっただけならば、たとえ彼の体が凍って動かないとしても、バシレオスの溢れんばかりの強い生命力を内側から感じるはずなのだ。戦闘中に魔獣の氷の攻撃を受けた、他の騎士達と同じように。

 だがなぜかバシレオスの体はまるで「空っぽ」のような状態だった。

 他の魔術師であればわからなかったかもしれないが、筆頭魔術師であるゴードンはバシレオスの身体に魔獣ではない何者かによる、魔術の痕跡を感じとっていた。

 ゴードンは持っていたバラ模様のレースのハンカチを、ギリギリと噛み締めた。


「何者かがアタシの目を盗んで、不敬なことに殿下に魔術をかけたのよ。そのせいで、殿下の魂が今、お体を離れていらっしゃるの!」

「齧りながらよくそんなに話せるな」


 ブルーノの冷静な指摘に、頬を赤らめてゴードンがハンカチを丁寧に畳み、コソコソと胸ポケットにしまう。


「殿下にかけられたその魔術は、まだどんな術なのか分からないのか?」

「悔しいことにね……」


 ゴードンは腕組みをして唸った。

 帝国の筆頭魔術師として、あらゆる術に精通しているつもりだ。魔術師としてのキャリアは三十年を超える。使ったことがない魔術は、もちろんある。だが魔術書に掲載されている術は全て頭の中に入っている。

 そもそも人を生きたまま、体から意識を分離する術など、魔術書にありはしない。似た術式すら、思い当たるところがない。


「要するにこれは全く新しい術か、もしくは既に廃れて忘れ去られた術なのかもしれないわ。ただ、不思議なことに術者の悪意は感知できないのよね。一体どんな魔術なのかしら」

「確かなのは帝国の皇太子を狙い、なおかつ筆頭魔術師すら知らない怪しい術を操る、手練(てだれ)の魔術師がどこかにいるということだな」

「ええ。この痕跡に触れる限り、アタシが出会ったことのあるどの魔術師でもないわ。いずれにせよ恐ろしい知識を持つ魔術師ね。絶対に正体を突き止めて、このアタシがとっ捕まえてやるわ!」


 ゴードンがそう言いながら拳を握りしめる。腕の筋肉が盛り上がり、ブチッと袖の縫い糸が切れる音がした。

 腹立たしいことに伝令使によれば、皇太子の怪我をいいことに、先日から帝都の皇宮では「地方にいる第一皇子様に、宮殿に戻ってきてもらってはどうか」という提案をする宮廷貴族達もいるという。

 思い出してゴードンが歯軋りをする。


「第一皇子のステン派の奴らが、チャンスとばかりに皇太子の座を狙っているのよ」

「殿下の魂が行方不明だなんて知ったら、もっと勢いづくんだろうな」

「絶対に漏らさせないわよ! 大体、殿下は子どもの頃も第一妃のせいで死にかけたというのに、またこんな危険な目に遭われてしまうなんて。なんて残酷な運命をお持ちなのかしら!」

「第一妃の話は殿下の前では禁句だろ。口を慎め」

「いらっしゃらない時くらい、いいでしよ! アタシの小さな胸が痛むのよ!」


 ブルーノの目線がゴードンの分厚い胸板に移動した直後、彼は「小さな?」と首を捻る。

 ブルーノとゴードンの父親は共に、生前バシレオスの重臣だった。だが、二人はバシレオスが十二歳の時、誕生日を祝っていた船から火が出て沈没し、命を落とした。

 自分から口にすることはないが、バシレオスが彼らの死に責任を感じて、暗殺未遂事件の際に死んだ家臣たちの子息をそばに置き重用していることは、宮殿の誰もが知っている。

 当時、バシレオスと船上で火に追い詰められた家臣達は、彼を生かすために積んであった水のほとんどを彼に掛け、彼を守ることを優先した。不運にも、魔術師は同乗していなかった。

 まだ子どもだった彼は部下を守る義務を果たせなかったことを、今も後悔しているのだ。

 バシレオスは自分を抱きしめて海の中に飛び込んだゴードンの父が、何度も船体に叩きつけられても彼を庇い続け、そのたびにゴードンの父の屈強な体から骨が折れる衝撃と鈍い音を感じ取っていた。

 ゴードンの父は、最後の力を振り絞って救助に来た船の方角を指差し、波間に消えたのだという。

 ゴードンは目に涙をため、食いしばる唇の隙間から絞り出すように言った。


「お気の毒な殿下。殿下は贖罪のお気持ちでアタシ達をそばに置いて下さっているけれど、アタシ達の方こそ、恩返しをしたいのに」


 ブルーノがゴードンの腕を、少々乱暴に小突く。


「感傷的になるのはそれくらいにしろ。殿下はこれしきで挫けたりなさらないはずだ。お前は殿下をお連れして、今日中に魔法移動陣で皇宮に向けて発て。俺は他の隊員達と一緒に、馬で帝都に戻る。それで、この――魔獣の氷の術が解術できれば、殿下はお目覚めになるんだよな?」


 ブルーノの不安そうな質問を受け、ゴードンは無言でバシレオスの頭の上に手をかざした。

 そのまま目を閉じ、心を無にして魔術の痕跡を探す。

 バシレオスに掛けられた謎の魔術は、彼が倒れた直後以降、徐々に弱まっていた。最初は魔獣の氷の術よりも強かったのだが、今は懸命に痕跡を探そうとしないと、見つけられないくらいだ。


「そうね。この不届きな魔術師は、知識はあっても能力が術の大きさに比して、足りていなかったのでしょうね。術は多分、持って一ヶ月くらいじゃないかしら」


 ブルーノは安堵のため息を吐いた。

 魔獣の氷の術が解術できるまでに、三週間ほどかかる予定なのだ。全身が凍る体にバシレオスの意識が戻るよりも、体が元に戻った状態で目を覚ましてくれる方がずっといい。

 ややあってからブルーノはぽつりと言った。


「でもなんだか殿下の表情が穏やかに見えるのは、気のせいか?」

「……凍っているのよ。そんなはずないでしょう。でも、もしかしたら枕元にずっとアタシが侍って、声をおかけしているからかしら。きっとアタシの美声に、アルファ波的な効果か何かがあるのね」

「まったく、この状況でよくそんな冗談が言えるな」


 そう言うなり、ブルーノはカツカツと足音を響かせ、天幕の出口に向かい垂れ幕を引き上げた。


「他の騎士達の様子も見てくる。お前はお側を離れるなよ」

「もちろんよ」


 ゴードンが端的な相槌を打つや否や、ブルーノは天幕の外へ出て行った。音もなく閉じた垂れ幕に向かって、ゴードンが一人呟く。

「冗談のつもりじゃなくて、あくまでもアタシは本気よ」と。



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