マティアスのハンカチ
「人が妖精界に行くなんて、考えられないけれど。でも言われてみれば、ずっと不思議に思っていたの。――どうして守護妖精は異性の主人にしか仕えないのか、って」
「妖精は伴侶にしたい人間に仕えるために、召喚に応じるんだ。だからこそ、より強い魔力を持つ人間に仕えたがる」
シェリィは先ほど教会で会った衛生兵の話を思い出した。彼は、妖精が人をクレバスに落としたと言っていた。
クレバスに何か特別な意味があるのか――シェリィはそこが引っかかっていた。
「ねぇカイル。貴方は私と初めて出会った時『魔獣が湧き出るクレバスを破壊した』と言っていたわよね。あの台詞が今、とても気になっているの」
「よく覚えているな……」
「人は古の皇帝と妖精女王のおかげで、魔法が使えるのよね。だとすれば魔獣が魔力を持っているのは、なぜなのかしら?」
カイルの優しげな顔から、ゆっくりと表情が消えていく。時々彼は、そのような表情をすることがあった。
ほんの短い時間だけれど、シェリィはそういう時のカイルは冷徹で聡明な側面を見せている気がした。おそらく彼の持つ感情や情報が、むやみにシェリィに伝わらないように、感情を遮断しているのかもしれない。そんな気がした。
「帝国の人や、特に前線で魔獣討伐をしたことがあるカイルなら、何か知っているんじゃないの?」
「たしかに戦ってはきたが……」
すぐにカイルの目が逸されそうになったが、今度はシェリィが手を伸ばして彼の頬に手を当て、目を背けさせない。
「他の動物は魔術を使えないし、魔獣は長寿だというわ。これは私の想像だけれど、もしかしたら魔獣はもともと妖精界の生き物なんじゃないかしら」
カイルの目が一瞬だけ逸らされそうになった。だが彼は視線を動かすことで自分の動揺を気取られないようにしたらしく、黙ってシェリィを見つめ返した。
少しの沈黙の後で「なぜそう思う?」と問い返す。
「追い払っても追い払っても、北部山脈から魔獣が出てくるのは、ひょっとすると妖精界に通じる扉みたいなものが、あの地にあるのかもしれないわ。――そしてその扉が、貴方が破壊したクレバスだったのでは?」
カイルは一度目を閉じてから、また真っ直ぐにシェリィを見つめた。
どうやらカイルは言うべきかを迷っているようだったが、父親の失踪と関わる真実を知りたいというシェリィの真剣な眼差しを見ているうちに、その強い想いについに屈服した。
「実は……俺も魔獣討伐に参加しているうちに、同じ疑いを持つようになった。魔獣はかつては全土に生息していたが、今は限られた地にしかいない。だが定住している様子もないのに、北部山脈の魔獣の数は全く減らないからな」
「いつも忽然と妖精界から来て、人を襲っていたんじゃないかしら」
つまりその扉を塞がない限り、人はいつまでも魔獣という天敵に怯え続ける運命にあった。
「おそらく、その通りだ。実は当時、殺しても殺しても、次から次へとクレバスの中から魔獣が湧いてきたんだ。だから俺はクレバスを破壊したんだが。後から兵たちに聞いたところ、その後、魔獣の数が顕著に減ったらしい」
「じゃあ、妖精界と人間界をつなぐ魔獣の出入り口を、カイルは壊すことに成功したのね!」
「とはいえ、全部推測にすぎない。それにしても、なぜクレバスのことを急に思い出したんだ? 俺が紹介した衛生兵から、教会で何か参考になる話を聞いたのか?」
「貴方が紹介してくれた衛生兵は、戦地で妖精が人間をクレバスに突き落とすのを見たのですって」
「妖精が?」とカイルが顔を顰める。異様な行動にしか思えないため、彼は不可解だと言いたげに首を捻った。
「それにね。ユトレヒトは北部山脈で、なぜか私が刺繍をしたハンカチを持っていたの。そもそもあれは彼にあげたハンカチではないのに」
「なんだそれは。そのハンカチは、誰にあげたものだったんだ?」
「マティアス王太子よ。彼は私の婚約者だったから」
カイルは言われたことを整理しようと、何度か瞬きをしてから、ゆっくり話しだした。
「王太子の手から前公爵の側近の手にハンカチが渡る理由が、わからんな。そもそも自分の婚約者がくれたハンカチを、人に渡すか?」
「その頃から王太子殿下とアンジーが既に恋に落ちていて、私のハンカチなんてどうでもよかったのだとすれば、あり得るわ」
口にするには屈辱的な内容だったが、シェリィはどうにか平静を装って言い切れた。王太子が既に彼女にはどうでも良かったからかもしれない。
ハンカチに鹿の模様を刺繍するのは、あんなにも時間と労力がかかって大変だったのに。
ひと針ひと針を刺していたあの時、まさかそのハンカチが他人の手に渡るとは、シェリィはもちろん、想像すらしなかった。
シェリィは俯いて気まずそうに言ったが、カイルはキッパリと首を左右に振った。
「それは違うな。前公爵ならひと目見れば、そのハンカチがシェリィの刺繍したものだとわかるんじゃないか? だからこそ、何らかの目的があって敢えてマティアスはそのハンカチを使ったんだろう。公爵の魔獣討伐隊は不運にも夜中に野営地を襲われたが、日中であれば被害はもっと防げたはずだと言われていたな?」
「ええ。父は見つかっていないから、あの夜何があったのかは正確には誰もわからないの。でも、もしかしたら……みんなが寝込んでいたのかしら?」
口に出すことで、シェリィは父に起きたことを頭の中で整理した。そしてその結果唐突に頭の中に浮かんだ一つのアイディアに、一旦口をつぐんで俯く。
「――というよりも、眠らされていたのかもしれないわ。例えば、睡眠薬で」
シェリィは単なる思いつきを口にしてみたが、カイルは神妙な面持ちで頷いた。
「可能性はあるな。戦場では興奮状態にある兵士が眠りやすくするために、寝酒を飲むものだ。公爵令嬢からの差し入れのーー例えばワインにそのハンカチが添えてあれば、誰もが不審に思わずに飲んでしまうだろうな」
シェリィがハッと息を呑む。
衛生兵の話を思い出したのだ。彼は野営地の酒瓶がカラになっていたと言っていた。
酒瓶に睡眠薬が入っていたことがバレないように、騎士達が寝静まった頃合いで、誰かが中身を廃棄して証拠隠滅をはかったのだろうか。
「つまり、お父様の部隊は眠らされた上に魔獣を誘き寄せられて、故意に殲滅されたってことよね」
シェリィの父が北部山脈で行方知れずとなった時、マティアスは彼女に寄り添って慰めてくれた。その彼が、もしかしたら討伐隊の壊滅事件自体に、深く関わっていたのかもしれない。
シェリィの全身の鳥肌が立ち、彼女は両手で両腕を擦った。首の後ろまでゾワゾワとして、不快感を抑えようと首をひっこめる。
「あの時北部山脈でマティアス殿下とユトレヒトと、お父様の討伐隊に何があったのかしら。ああ、それと公爵邸の暖炉に落ちていた第一皇子の印章もあったわね」
「その通りだ。リンツの王太子による、何がしかの謀があったんだ。だとすれば、立場を考えれば黒幕は、最も立場が上位にあるゴダイバ帝国のステン皇子だろう」
シェリィは自分の側頭部を押さえ、考えた。
(何かが引っかかるわ。思い出すのよ。全部が点と点にしか見えないけれど、繋がりが必ずあったはず……)
魔獣討伐隊が襲われ、シェリィの父が行方不明になったとの一報が入ったとき。――あの時、シェリィは何をしていただろうか?
まだシェリィの立派な婚約者だったマティアスは、愛情深く彼女に付き添ってくれた。もちろん、ずっとそばにいたわけではない。
だが、マティアスは公爵邸にたびたび来てくれた。彼女のために最新の情報を得るために、北部山脈にも足を運んでくれた。
結果的にマティアスは一時的に、王立グランデ学院を長期で休む羽目になっていた。
「そうだわ、マティアス殿下は父の討伐隊が北部山脈に行く少し前まで、丁度公務でゴダイバ帝国に行っていたのよ。その後すぐに父を見送りに我が家まで来てくれて、結局私のためにお休みを取ったから、結果的に長く学院を欠席することになって……」
カイルが青い目を伏せ、思考に耽るように左側に視線を流す。長いまつ毛が瞳を隠し、こんなに近くにいるのにシェリィにとって、ひと時彼を遠い存在のように感じさせる。
再び口を開いたカイルは、感情を抑えた重低音で語った。
「思い出したぞ。たしかにリンツ王国の王太子が、八ヶ月ほど前に帝国に来ていたな。遊びを含めて属国の王子王女は我が国によく来るが……」
「第一皇子のステン殿下は従兄弟だもの。もしかして、彼を訪ねたかもしれないわ」
疑い始めてみれば、マティアスは不審な点がたくさん出てくる。
カイルはシェリィと目配せをして、心得たとばかりに大きく頷いた。
「一理あるな。マティアスの野郎がどこを訪問していたのか、後で調べてみよう」
「できれば、出入国の記録も調べて欲しいわ。もしかしたら、マティアス殿下がおかしな動きをしていたかもしれない」
「ああ、わかった」とカイルが頷く。




