シェリィの反旗
シェリィはすぐに庭師小屋を飛び出し、公爵邸に向かった。
庭師小屋と公爵邸の屋敷の間には、噴水や野菜畑、それに大きな人造池まであったが、シェリィは大きな庭園をわき目も振らず走った。
ゼェゼェと粗い呼吸を繰り返し、痛む喉を抑えながら公爵邸の立派な扉を叩く。
数ヶ月前まで「お嬢様」と呼ばれ、使用人達から平身低頭の世話をされていたシェリィだったが、玄関の扉はなかなか開かれなかった。
痺れを切らしたシェリィが待ちきれず、裏口へ回ろうかと扉の前を離れかけた時、ようやく侍女長が扉を開けた。
侍女長はシェリィを一目見るなりハッと目を見開き、気まずそうに言う。
「し、シェリィ様……。お待たせして申し訳ありません。その、お嬢様――アンジー様が急に失神されて、急いで魔術医師を呼ぶ手配を皆でしておりまして」
「それはアンジーが、守護妖精の召喚術を発動させたからでしょう?」
高度な魔術を発動させた後、人は一度に大量の魔力を消費し過ぎたせいで、体内の魔力のコントロールが上手くできず、失神してしまうことがある。
特に召喚術のような一世一代の大技で起こりやすいのだ。
シェリィは震える声で尋ねる。
「教えて。アンジーは、私の守護妖精のバードを召喚したんじゃないの?」
侍女長が顔を強張らせ、さすがにこの事態は説明をするのが気まずい、といった様子でどもりながら答える。
「は、はい。その……アンジー様は間違って近くにいる一番強い妖精を、召喚なさってしまったようです」
「間違って?」
シェリィの剣幕に侍女長が狼狽えて後ずさり、その隙にシェリィは屋敷の中に駆け込んだ。
屋敷の中は騒然としていた。
侍女達がシーツや湯の張った桶を持って廊下を走り、その先で執事が「魔術医師はまだか?」と大きな声を出している。
皆が緊急に発生したそれぞれの仕事に忙しく、彼女達を追うシェリィの存在には気づいていない。
シェリィは悪夢の中にいる気分で、一歩一歩を進んだ。
毛足の長いふかふかの絨毯を踏み締め、三階にある一番大きな寝室の前に辿り着く。
伝統的にこの屋敷の中で、本来そこは公爵夫人の寝室だったが、一際豪奢で見栄えするその部屋は、今はアンジーの寝室となっている。
森の中のコマドリの彫刻が施された瀟洒な両開きの白い扉は、片方が大きく開け放たれたままとなっており、侍女達が忙しなく出入りしていた。
焦燥感に駆られながらも、シェリィは扉の向こうを覗き込んだ。
(ああ、そんな……。本当に私のバードが!)
広い寝室に置かれた木製の寝台には、青白い顔のアンジーが横たわっていた。
その枕元に立っているのは、長い黒髪の長身の妖精だ。
失神から目が覚めた直後なのか、アンジーは潤んだ大きなエメラルド色の目で傍に立つバードを見上げ、桃色の艶やかな唇を振るわせた。
「ごめんなさい、バード。私は妖精界から妖精を呼んだつもりだったの。一番強くて美しい妖精を、私の唯一の守護妖精に、って……」
瞬きと同時にアンジーの目から涙が溢れ、目尻を滑り落ちる一滴が枕を濡らす前に、バードの指先がそれを優しく拭う。
「まさかシェリィの守護妖精を召喚してしまうなんて、思ってもいなかったの。本当よ?」
許しをこうアンジーを見下ろし、バードが淡々と言う。
「貴女がた人間にとって、守護妖精はご自分の魔力の大きさを誇示するための存在です。誰もこの結果を責める者はいないでしょう」
扉に手をかけ、今しも寝室に入ろうとしていたシェリィの足が、ピタリと止まる。
バードは胸に片手を当てて頭を下げ、寝台の横で跪いた。
「この私、バード・シュタインベルクは貴女様の魔力に屈服し、ここに召喚されました。この瞬間から、私はアンジー様の守護妖精です」
「バード……! そんな、いいの? 私、全然こんなつもりではなかったのに」
「もちろんです。ご主人様」
バードはたしかに、アンジーを自分の主人だと宣言した。それは不可逆的で決定的な、そしてシェリィとの絆を完全に断ち切る一言だった。
扉のノブに掛けられていたシェリィの手が、するりと滑り落ちる。
打ちのめされたシェリィは、踵を返して扉を離れた。
シェリィが物心ついた時から彼女のそばにいた守護妖精は、彼を欲した者ーーアンジーに召喚されたのだ。
元公爵令嬢のシェリィは、アンジーに完全に敗北したのだ。
シェリィは絶望のあまり、何時間も床に突っ伏して泣いた。涙とはこんなに出るものなのかと自分でも驚くくらい、泣き続けた。
朝まで泣いては放心していたが、ついに涙が枯れた。
泣きすぎてショボショボする目を上げると飛び込んできたのは、居間の壁にかかる父の肖像画だ。
初代のキャドベリー公爵は軍人として活躍し、国を支えた。シェリィの叔父は軍務大臣でもある。
キャドベリー家の男は武勇に秀でていなければならず、いざ国王に命じられれば、勇ましく剣を握って火の中水の中に飛び込む気概を持つことが、代々の当主の美徳とされた。
だから父も、北部の魔獣討伐に赴いたのだ。
魔獣は動物の中で、人間以外に唯一魔力を持つ生き物で、獰猛で残忍だ。
長い灰色の体毛を持ち、獅子と狼を足して割ったような姿形をしている。
かつては大陸中に生息していたが、十年前にゴダイバ帝国の皇太子率いる討伐隊が帝国領土から魔獣を追い出すことに成功し、今は大陸北部のどこの国の領土でもない、雪に閉ざされた北部山脈にのみ、存在している。
だが魔獣は人間の血肉が大好物で、度々山を下りて辺境地域の住民たちを襲った。だから各国は長い歴史の中で、順番に討伐隊を北部山脈に派遣してきたのだ。
シェリィの父の剣の腕前は抜群で、あの日魔獣に深夜、急襲される直前までは順調に追い詰めていたという。
父の遠征は「キャドベリー公爵の世紀の失敗」と非難され、彼の名声は地に落ちた。
だが公爵率いる討伐隊のあまりの死者の多さに、シェリィは現地で何が起きたのかを捜査するよう、再三王宮に訴えてきたが、国が出した結論は変わらなかった。
それでも、シェリィは父を信じている。
遺体が見つかっていないのだから、父はきっと生きているし、父は世間に後ろ指差されるような失敗はしていないはずだ、と。
「どこにいるの、お父様」
シェリィが涙に濡れた手で、父の肖像画に縋る。
シェリィの父は勇猛果敢な軍人だったが、部下思いでシェリィには優しい父だった。
母は物心ついた時には他界していたが、父は貴族にしては珍しく、再婚をしなかった。
そのためシェリィのそばにはいつも、父がいた。
ダンスの練習では毎回相手になってくれて、何度シェリィが足を踏んでも文句を言わなかった。
楽器の練習ではシェリィがバイオリンを弾くと、父がピアノで伴奏をしてくれた。
プロ並みに刺繍の腕前を上げたシェリィが、刺繍入りのハンカチをプレゼントすると「どんな高価な贈り物より嬉しい」と出来栄えを讃えてくれた。誇らしげに微笑みながら。
「お父様に、もう一度会いたい……」
濡れたまつ毛を手の甲で拭い、今は肖像画でしか見ることができなくなった父を、シェリィが見上げる。
(全部奪われたまま、アンジー達の前から都合よく消えるのは真っ平よ。せめてひとつだけでも、この手に取り返さないと)
こんな姿は恥ずかしくて父に見せられない――シェリィはそう思った。
シェリィは窓辺に差し込む朝日の眩しさに目を細めつつ、痺れた脚を震わせてノロノロと窓辺に立つ。
全てを闇に隠していた物寂しい夜に別れを告げる朝焼けが、室内を明るく照らす。
ただ泣いていても、地上の誰も惨めなシェリィを助けはしない。
自分の両手をじっと見下ろす。
しっかりしろ、と自分を叱りつける。
「私にだってできるはずよ」
シェリィも貴族の一員だ。何より、学院で魔術の授業を真面目に学んできたつもりだ。
公爵だった父がいなければ何の価値もない女だなんて、言わせるものか。
「本気を出せばできるはず……」
シェリィには、怖いものはもうない。
だからシェリィは、自分の全魔力をかけて、初めて自分自身で守護妖精を召喚する大技に挑戦してみることにした。
自分で召喚術を行い、アンジーからバードを取り戻すのだ。
――だが、シェリィが呼び出してしまったのは、彼女が期待していたものとは、全く異なるものだった。




