還っていくカイル
バスケットを持って二人で近所の公園に向かうのは、それだけで楽しい。
おしゃべりをしながら歩いて十分ほどの道のりを歩き、公園では木のテーブルにバスケットを載せ、向かい合わせのベンチに座った。
天気にも恵まれ、家族連れや夫婦で公園は賑わっている。
「ピクニックは王立グランデ学院では人気の娯楽だったのよ。仲良くなったカップルは、お休みの日に必ずピクニックデートをしていたわ。だから、目撃すると『今日は誰と誰がピクニックしていた』っていう話題で持ちきりになるの」
テーブルの上にクロスを広げ、バスケットから出したサンドイッチやハム、果物を並べていく。
シェリィだけでなく、カイルもきちんと手伝っている。外部の目がある場では、意識的に使い魔らしく振る舞っているのだ。
「魔力の高い人ほど貴族の女子にはモテるから、王立グランデ学院の女生徒と、王宮の魔術騎士の集団ピクニックも人気だったわ。ええと、世間では合コンと言うのかしら。まぁ、私は有名な婚約者がいたから、流石に参加できなかったけれど」
「じゃあ、シェリィもピクニックデートをしたことがあるのか? 例のマティアスとやらと」
「いいえ。マティアス殿下とは一度もピクニックをしたことがなかったの。何度かお誘いしたんだけれど、王族は狩の時に森の中で食事をとることはあっても、わざわざ公園でピクニックをする風習がないんですって」
「だろうな」
「あら、帝国の皇族も同じなのかしら?」
向かいに座るシェリィがじっとカイルを見ると、彼はスッと目を離して答えた。
「まぁ、そんなものだと聞いている」と言った直後、カイルは小さく息を吐いてから肩をすくめていたずらっ子のようにニヤリと笑った。
「とはいえ、婚約している女性から誘われたのなら、男は自分がどの身分にいようと、その誘いを断るべきじゃないな」
「そう? そう思う? 私はてっきり、殿下に無知な誘いをしてしまったと、反省したのだけれど」
カイルがフォークとナイフをシェリィの前に綺麗に置いてくれながら、言う。
「勇気を出して誘ってくれたのに、その勇気に応えないのは少なくとも俺の流儀ではない。リンツの王太子は、間違っている。婚約者なら、女性に恥をかかせるべきじゃない」
シェリィはカイルが置いてくれたフォークの柄を人差し指でそっとなぞりながら、つぶやいた。
「カイルの婚約者は、幸せものだわ」
「そ、そうか?」とカイルが少し動揺した様子で、既に綺麗に並んだ自分のスプーンとフォークを何度も並べ直す。
もしや気持ちの悪いことを言ってしまっただろうか、とシェリィはカイルの表情を窺ったが、彼は口角を少し上に上げており、満更でもなさそうだった。
ホッとしてシェリィが呼びかける。
「遅くなっちゃったけれど、朝ご飯をいただきましょう」
両手でサンドイッチをつかみ、パクッと頬張る。口に入れた瞬間、パンの甘みと小麦の芳醇な香りが口いっぱいに広がり、幸福な気分になる。
柔らかなパンに挟まれたチーズと胡瓜の歯応え。
それに加えて塩分が絶妙なハーモニーとなり、噛むほどにその美味しさに頷いてしまう。
「美味しい!」
うふふと笑うシェリィを見ながら、カイルが目を細める。
「実に美味そうに食べるな。見ている俺まで幸せいっぱい、といった気分になれるぞ」
「カイルも食べて。私もカイルを見て幸せいっぱいな気分になりたいから」
「よし、任せておけ」
そういうなり、カイルは大きく口を開けて口いっぱいにサンドイッチを頬張った。
「うぅ〜ん、フハイハ(美味いな)!」
シェリィがお腹を抱えて笑い、二人は互いを見つめ合ってサンドイッチを食べ進めた。
夕飯は二人で一緒に準備をした。
市場まで一緒に買い物に出かけ、食材を選んだ。
野菜を売る露店の前で、カイルが両手にネギを持ち、後ろから覗き込んだシェリィが「こっちの方が長いからいいわ」と助言する。
買い物客でごった返す市場を、はぐれないように歩き、何を買おうか相談をする。
シェリィの持っている財布は薄くて軽かったが、カイルと過ごせる最後の夜はケチらず好きなものを食べたかった。
これまで庭師小屋では、シェリィが料理をするのをほぼ観察しているだけのカイルだったが、今夜は違った。
カイルも一緒に料理をしたのだ。
鍋に鶏肉や野菜をたくさん入れ、ぐつぐつと沸騰させて、目指すは具沢山のスープだ。十分ほど煮込んだところで、鍋の蓋を開けると台所中に鶏肉の出汁の香りが漂う。
シェリィはニンニクをすりおろし、バターと一緒に薄く切ったフランスパンに塗ると、オーブンで焼いた。食堂で食べたツマミを、再現したつもりだ。
今度はオーブンからニンニクの香りが立ち上り、シェリィが満足そうに仕上げにパセリの微塵切りを散らす。
カイルはカリカリに焼けたパンを指差しながら、台所の調理台に肘をかけて寄りかかり、シェリィに提案する。
「このパンを食べてニンニク臭でいっぱいになったまま、ニンニクがご法度だという王太子マティアスに話しかけてやりたいな」
「それは殿下に嫌がらせをしたいってこと?」
「もちろん。奴が帝国に来ることがあれば……、いや来なくても、俺は絶対に奴を一度痛い目にあわせてやろう。シェリィに奴がしたことを思えば、胸がスカッとしそうだ」
ただの冗談だと思ったからこそ、シェリィは笑い飛ばした。
パンに具沢山のスープ、それに市場で買ってきたナッツのタルト。
二人で賑やかに食べる夕食はとても美味しく、暖かで楽しい二人の空気感が、何よりのご馳走だった。
お腹ばかりか心まで満たされると、カイルは気を抜いた拍子に、意識が遠くへ運ばれそうな感覚を覚えた。
ゴダイバ帝国にある体が、魂に戻れと訴えている――。
シェリィはシェリィで、薄ら発光していたカイルの全身の光が弱まっていく一方で、体自体が透け始めたことに気がつく。
カイルの体で死角になっていたはずの居間の本棚が彼の体越しに見え、見間違いではないことを確かめようとシェリィは何度も目を擦った。
そうしてどう見てもカイルが透け出したことを確信し、タルトを食べ終えたフォークを白い皿に戻す。
皿に当たるカチャリと小さな音が立ち、シェリィは姿勢を正すと穏やかな声で言う。
「カイル……。もしかしたら、これでお別れになるのかしら。あの……さっきから貴方の体が透けてきているみたい」
「うん。そうだな。本当にこれで最後かもしれない」
カイルがナプキンで口元を軽く抑えてから、静かに席を立つ。
そのままシェリィの席のすぐ横まで歩いてくると、カイルは片膝をついて両手でシェリィの手をとる真似をした。
実際には二人は触れ合えないため、シェリィが自分でカイルの手の動きに合わせて両手を動かしている。
カイルがシェリィを見上げる。
そのアクアマリンのように美しい瞳に、シェリィの胸がドキッと高まる。
この瞳をもう見られないことが、どうしようもないほど悲しい。
シェリィにとってゴダイバ帝国は、遠かった。
こんなにも近くにいて心を通わせたのに、カイルはシェリィから去り、おそらく今後は交わることのない全く別々の人生を歩んでいくはずだ。
「シェリィを一人にしてしまうことが、実に心残りだ」
「私が勝手に貴方を呼んでしまったんだから、気にしないで」
「それでも、俺はそなたのことが心配だ。俺がいなくなったら、孤独を感じるだろう?」
「ええ。そうね……。また一人ぼっちになってしまうもの」
シェリィを見上げるカイルの目は、どこまでも優しかった。彼が本当にシェリィのことを案じているのだとわかり、胸の中が温かくなる。同時にこんなに良い人と別れなくてはいけないのだと、実感する。
一人は寂しい。
昼間もそうだが、特に夜は堪えた。
風が窓をガタガタを鳴らすたび、シェリィは泥棒がきたのではないか、と生きた気がしない。
厳格だが頼りになる父に会いたかった。
バードの温もりが恋しい。
その寂しさを見透かしたカイルが、シェリィに尋ねる。
「そなたは決して一人じゃない。コレッタもいるし、荘園もまもなくそなたのものだ」
「ええ、わかっているわ。私よりずっと貧しい暮らしをしている人はたくさんいて、むしろ私は恵まれている方だと」
それでも。例えこの手に持っている価値あるものがまだたくさんあるのだとしても。
それでもシェリィは満たされなかった。
賑やかで熱い世界の中で、自分だけが誰からも見向きもされず、寒々しくポッカリと空いた空間の中で、一人ぼっちで生きている気がして仕方がない。
何を持っていようと、シェリィは身を切られるほど寂しい。
喉元を迫り上がるものがあり、彼女は絞り出すようにして言った。
「誰かに触ってほしいわ。誰かに、私のことが大事だと言ってもらいたい。――誰かに、抱きしめてほしい……」
熱い涙がシェリィの茶色い目に溢れ、ゆっくりと頬を伝い落ちる。
カイルはシェリィの表情に釣られたかのように、辛そうに顔を歪ませた。
「俺が――、俺がシェリィを抱きしめてやることができれば、どんなに……」
シェリィが頬を濡らした涙を、手の甲で拭う。
「泣き顔なんて見せたくなかったのに。ごめんね、忘れて。十八歳にもなってメソメソするなんて、みっともないわよね」
「そんなことはない。決して。年齢なんて関係ない」
カイルがシェリィの目をひたと見上げたまま、懇願する。
「シェリィ、約束してくれ。もっと自分に自信をもって、強く生きると」
それは今のシェリィには少し難しそうに思えたが、カイルが来る前に比べれば、自分は強くなれそうな気がした。
だからシェリィは目を一度ぎゅっと閉じて涙を流し切ると、静かに頷いた。
「約束する。貴方を心配させなくていいくらい、強くなるわ」
「心強いよ、シェリィ。俺も必ず、帝国から手紙を出そう。絶対に、そなたにいい知らせをしてやる」
シェリィが見下ろす青い瞳が水色になり、まるで朝霧の中の湖面のように薄い色となり、カイルの姿がどんどん透けていく。
「必ずよ、カイル。私、貴方からの手紙をずっと待ってるから」
カイルの笑顔が背景に滲み、ついに背景しか見えなくなった。
薄っすらとした光も、精悍な輪郭も。
カイルの存在の証だった何もかもが、静かに跡形もなく消えた。
テーブルの上の完食した二人分の食器だけが、そこに確かにカイルがいたことを物語っていた。
シェリィはカイルがいた証を、長いことじっと見つめていた。




