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さよならの予感

 目覚めるなり視界に入ったのは、天蓋から垂れ下がるビロードのカーテンだった。

 目が乾燥している気がして、何度か瞬きをして潤わせた後、バシレオスの視界が明瞭になっていく。その天蓋は、彼が皇太子宮殿で毎晩見上げていたものだ。

 つい今し方、シェリィと飲んで食べて、庭師小屋に帰宅したばかりだった。

 カイルは休もうとして居間のソファーに寝転んで目を閉じるなり、意識がゴダイバ帝国の帝都に戻ったらしい。

 頭を整理しようと額に手をやろうとするが、手の感覚が今ひとつ戻っておらず、バチンと額の真ん中を手のひらで打ってしまう。

 その音に気が付いたのか、ゴードンがバタバタと駆け寄ってきて、バシレオスをのぞきこむ。

 次いでゴードンが息を呑み、「殿下! 意識がお戻りに⁉︎」と叫ぶ。彼はバシレオスの両方の頬をパンパンと叩いた。

 その容赦ない痛みにバシレオスは顔を顰めたが、同時にゴードンの揺れる瞳と強張る顔つきが視界に入り、その必死さが分かった。 


「殿下、呼吸をなさってください。口を開けて、息を吸うのです!」


 全身が目に見えない何かに縛られるような苦しさを感じたが、ゴードンに指摘されて初めて、それが自分が息をしていないからだとバシレオスが気づく。

 持って生まれたこの体を生かすため、バシレオスはゴードンに言われるがまま口を開けた。そして酸素を取り込もうと肺を動かそうとし、はたと気がついた。

 直感にすぎないが、今息を吸ったら、自分の魂が再び体を出ていくことはないように思える。

 本当は息を吸うべきだ。でも。


(だめだ。まだだ。もう一度リンツ王国のあの小さな家に戻って、シェリィに伝えるべきことがある。もう一度だけ……)


 バシレオスの視界が急速に曇っていき、瞼が閉じられていく。

 彼の意識が、魂が再び体を離れようとしているのを阻止しようと、ゴードンが野太い声で叫ぶ。


「ダメよぉおおッ! どうしてまた行っちゃうの。行かないでください、殿下!」


 バシレオスの肺が膨らんで息を吸う前に、彼の魂は再び体を離れて、皇宮の外へと飛び出していった。

 広い寝室には、「ああああん、これで逃すの三回目ぇぇぇっ!」とゴードンの野太い雄叫びが響き渡った。




 よく晴れた、美しい朝だった。

 窓辺の木に止まる小鳥が、澄んだ声で美しくさえずり、爽やかな朝の到来を告げている。

 だがシェリィは清々しさを味わえる心境からは、ほど遠かった。

 ベッドから起き出したシェリィは、居間にあるソファーにカイルがいないことに気がついたのだ。視線をめぐらすが、見える範囲にはどこにもいない。

 妖精なら、夜間に妖精界に戻るものだ。だが、カイルは人間だと分かったばかりだ。

 ドクンドクン、と嫌な胸騒ぎがする。

 以前も似たようなことがあった。あの日のカイルは納戸で見つかった。

 でも今朝例え彼の姿が見つからなかったとしても、あの日のようにパニックになりたくない。


(落ち着いて。落ち着くのよ。だって、カイルは私が召喚した妖精じゃなかったのよ。だから、きっと)

「もう本体の方に魂が戻った……ということよね?」


 半信半疑で家中を見て回り、外に出て庭師小屋の周囲も確認した。念のため、朝靄の庭園も隈なく歩いた。

 だがカイルはどこにも見当たらない。

 とうとうその時が来たのだろうか。

 やはりカイルの体が回復して意識が戻り、彼の魂は体に帰ったのだ。

 遠い帝都に。


「あっけないわね。こんなに急にその時が来るなんて。……挨拶も出来なかった」


 カイルのために喜ぶべきだ。そう分かっているのに、安堵はおろか喜ぶ気持ちは少しも湧いてこない。

 誰もいない庭で空っぽの家を背に、シェリィは心の中にポッカリと穴が空いたのを感じた。

 バードを失ったものの、すぐにカイルがきてくれたお陰で庭師小屋の中は賑やかになったのに、今度はカイルがいなくなって、今またシェリィは猛烈な孤独を感じていた。

 玄関前の木を見上げれば、陽気にさえずる小鳥達が枝の上で身を寄せ合っている。小鳥ですら、共にいる相手がいるというのに。


(今は小鳥達の姿すら、直視するのが眩しいわ……)


 地面が崩れるのではないかと思うほどに、支えなく一人で立っているのが辛かった。


「――もしや俺を探しているのか?」


 急に後ろで声がして、シェリィがビクリとしつつも背後を振り返る。庭師小屋の中にいなかったはずのカイルが、なぜが玄関の前に立っているではないか。

 そこに立っているのが当たり前だとでも言いたげに、ごく自然に扉に手をかけ首を傾げてシェリィを見下ろしている。

 目があうとカイルはニッと笑った。


「カイル⁉︎ いつの間にそこに?」

「心配をかけて悪かったな。実はちょっとの間だけ、体に意識が戻っていたんだ」

「じ、じゃあ、どうして……?」


 なぜまた戻ってきたのか、もしや魂と体が分離しやすくなってしまったのだろうか、と懸念するシェリィの前で、カイルは両腕を広げて朗らかに笑った。


「シェリィにちゃんとお別れの挨拶をしてから、体に戻りたかった。何も言わずにいなくなるのは、やっぱり寂しいからな」


 シェリィは縋るようにカイルに一歩近づいた。


「ありがとう。戻ってきてくれて嬉しいわ。こんなに迷惑をかけたのに」

「俺はなんだかんだで、結構楽しかったぞ。ここに戻るのはこれを最後にしたいから今日は一日、悔いのないように過ごそう」


 最後、との言葉にシェリィの胸がぎゅっと苦しくなった。

 だがもちろん、そんな素振りを見せるわけにはいかない。なにしろ二人が一緒にいるこの状況が異常なのだ。

 正常な状態に戻るべき時がきている。

 これ以上の贅沢やわがままは、口が裂けても言えない。

 今はとにかく、カイルといられる大事なこの一日を、最高の思い出にすべく一分一秒たりとも無為に過ごしたくはなかった。

 カイルが玄関を開け、一緒に庭師小屋の中に入ろうと左手をシェリィに差し出す。

 シェリィはやはりその手に触れることはできなかったが、彼の手にしっかりと添わせて小屋の中に入った。


「今日はバイオリンの練習をやめておくわ。せっかくカイルといられるのに、時間がもったいないもの」


 シェリィは小さな家の中を見まわし、何をしようか考えた。居間の壁には腕に掛けられるバスケットが掛けられている。

 王立グランデ学院では、友人や使い魔と緑豊かな校庭でピクニックをするのが流行っていた。シェリィもコレッタとよくピクニックをしたものだ。


「どうかしら。今日の朝食はピクニックにしない? 今から急いでサンドイッチを作るから、公園に行きましょう」

「おう、いいな。そうしよう。丁度腹も減っている。おかしな話だと思わないか? 魂だけなのに、ちゃんと腹は減るとは」


 お腹を押さえて苦笑するカイルを見て、シェリィは楽しそうに笑った。 

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