アフターアフター〜軒下で
雨宿りで駆け込んだビルの軒先から、稲葉耕介は恨みがましく暗い空を見上げていた。
千葉駅から徒歩で10分。
とある喫茶店で依頼人に身辺調査の報告を済ませた後、外に出て依頼人と別れると、急に空が曇りだし大粒の雨が町を濡らした。
「あー、傘持ってくれば良かった」
助手のアンナ・クローデルには傘を持っていくよう言われたのだが、荷物になるからと断っていたのだ。間違っていた自分の判断を悔やみ、ハンカチで衣服を拭いながら舌打ちすると、どこからか一人の若い女性が軒下に駆け込んできた。
パーカーに灰色の地味なスカートと、カジュアルな格好でまだ20代前半といったところだと思えた。
あまりチラチラ眺めていると、通報されてしまうご時世なので、耕介は空ばかり眺めていた。雨はいっこうに止む気配がなく、軒下を過ぎる風も冷たい。
困ったなと思い、耕介が懐から煙草を取り出し、火をつけて、空の様子を窺っていると、横から強い視線を感じる。
見ると、女が非難がましい目で耕介を睨み付けている。
「煙草……。やめてもらえます」
「ああ、ごめんなさい。ついね」
やっぱり世間の風当たりは冷たいな。
耕介は慌てて携帯用灰皿を取り出して火を消すと、もう一度、ごめんなさいねと謝った。
「デリカシーなくどこでも吸うとか、探偵じゃあるまいし」
「まあ、それは正解」
「え?」
「俺、探偵やってるの」
女は目を丸くして一歩身を引き、耕介を上から下までじろじろと眺めまわした。やがて、変に感心したような顔つきでふうんとうなずく。
「市役所に勤めている方かと思いました」
「……まあ、よく言われるね」
「探偵さんてことは、警察に協力して殺人事件とか、怪盗と闘ったりするんですか?」
「いやいや……」
耕介は、片方だけ革手袋をはめている左手で振って言った。
「浮気とか素行調査とか、地味であまり世間体の良くない仕事ばっかよ」
地味でないと言えば、秘密結社ジ・アークの残党と戦う仕事もやっているが、こちらは本業ではない。
「なんか、お兄さんに合わなさそうですね」
「……それは、余計なお世話」
「何て探偵事務所なんですか?」
女は一歩詰めて、耕介に尋ねてきた。純粋に興味本位ということは、女のキラキラした目を見ればだいたいわかる。
気軽な気持ちと、怪しい人間とも思われたくなかったので、耕介は内ポケットの名刺入れから一枚名刺を取り出し、女に手渡した。
「……稲葉耕介探偵事務所所長稲葉耕介って、所長なんですか。凄いですね」
「まあ、零細だけどね」
たった2人の事務所とも言えず、耕介は照れたフリをして誤魔化した。
「なんか、トラブルあったらここに電話してよ。格安にしとくから」
「タダじゃないんですかあ?」
「それじゃ、俺が暮らしていけない」
ふうんと女は耕介と名刺を見比べていたが、にこりと笑顔を浮かべると、わかりましたと明るく言った。
「じゃあ、困ったことがあったらお願いしますね」
「無いのが一番だけどね」
耕介がそう言った時、不意に空から眩しい光が射し込むのを感じ、見上げると雨があがり、空はすっかり晴れ上がっている。滴り落ちる雨滴や水溜まりが、陽光をキラキラと反射させていた。
「じゃあ、私行きますね」
名刺を手にしたまま、女はひらひらと手を振ると軒下から足早に出ていった。何度も何度も振り返りながら、手を振る女の笑顔が素敵だと耕介は見送っていた。
「……てなことがあってね」
夕刻になって自宅を兼ねる事務所に戻り、助手のアンナ・クローデルに帰り道に起きた事を話し終えると、アンナは酷く素っ気ない声で「ふうん」と言った。青く澄んだ瞳でじっと耕介を見つめている。
「コウスケ。その女、美人だった?」
「美人ほどじゃないけど、明るくて良さげな女の子だったよ」
歳格好から学生さんかな、と思いながら耕介が言うと、アンナは沈んだ声で明るいと呟いた。耕介が飲み終わったコーヒーカップを持って台所へ向かった。
「どうせ、私は無口キャラで明るさに欠ける」
「何を拗ねてんだよ」
耕介は苦笑いした。
アンナ・クローデルはどんな時でも無口無表情で、感情を表に出さない。しかし、内心では色々と感情が揺れ動き、考えることも多いようで、何か起きればそれなりに反応を示す。
意外と繊細なのも、この2年余りの付き合いでわかっている。
耕介は椅子から立ち上がって、アンナの背後に寄ると、後ろからアンナの小柄な体を抱き締めた。びくりとアンナの金色の長いツインテールが揺れた。
「誤解すんなよ。俺にはお前以外いないって」
「……わかってる」
「いいや、わかってない」
耕介はアンナの首もとに顔を寄せると、深々と息を吸った。アンナが小さな喘ぎ声を出した。
「コウスケ、駄目……」
「何が駄目?」
2年余りの付き合いで、アンナの弱いところも知っている。耕介は突然わき起こった欲情のまま、アンナの体をスーツ越しに触れていると、やがてアンナは甘えるような声を発してきた。
「コウスケ……。もう事務所を閉めるべき」
アンナは小さな舌を出して喘いでいる。その気になっている証だった。
今日は金曜日。
客もいない。
これから、2人きりの土日が待っている。
耕介はじゃあ、2人で戸締まりしようかとアンナに囁くと、抱き締めたままひょこひょこした足取りで事務所の出入り口に向かっていた。
そんな2人の雰囲気をぶち壊すかのように、事務所の固定電話が高らかに鳴り響いた。無視しようかと思ったが、まだ営業時間内である。
「電話……」
アンナの呟きをきっかけに、耕介は抱き締めていた腕をふりほどくと、舌打ちしながら受話器をとった。
“スギハラですけど”
「はい?」
耕介が名乗る前に、不躾かつ横柄な男のガラガラ声に、思わず耕介は苛立ちを感じていた。
「スギハラてどちらのスギハラさんです?」
“何だよ。オレだよ、オレ”
今どきオレオレ詐欺かよと思いながら、間違い電話の可能性もあるため、出来るだけ丁寧な口調に改めた。
「こちらは稲葉コウス……」
“知ってるよ。稲葉耕介探偵事務所だろ?俺だよ。西千葉署の杉原”
西千葉署。杉原……。
そこまで口の中で反芻させて、耕介は急に青ざめた。
「あ、お疲れさまです。杉原刑事。何の用ですか。特にこれといった情報ないんですけど」
電話の主は西千葉署の杉原義弘という男で、刑事課の警部補を務めている。比較的大人しい耕介に目をつけ、情報提供は市民の義務を盾に、耕介を情報源として良いように使っている。
耕介としても、ほぼ騙しに近い形で警察を数回利用したことがあるので、杉原に目をつけられていた。
“稲葉ちゃんさあ。ちょっとウチに来てくれない。聞きたいことあるのよ”
「いや、私は法律に従って、届けもちゃんとしておりますし……」
“そうじゃなくてさ。ミヤハラカナエて知ってるか”「ミヤハラ?誰ですか、それ」
耕介が聞き返すと、受話器の向こうから、杉原が知らねえかあと呻くような声がした。単純に人を信じる男ではないが、耕介の間の抜けたような返事で、本当に知らないと察したようだった。
“これなら心当たりあるか?年齢20前半の若い女。パーカーに灰色スカート。美人ではないけど、笑ったら明るそうな感じかな”
「……」
耕介の脳裏に、午前中の出来事がフラッシュバックした。軒下で出会った若い女。明るい笑顔の記憶は真新しく残っている。
「……何があったんですか」
一瞬、間があった。杉原が打ち明けたかどうか悩んでいるのが、受話器越しでも伝わってくる。意を決したような強い口調が受話器から聞こえた。
“殺しだ”
「え?」
“さっき、千葉港で女の死体があがってな。名前は宮原香苗。財布の中から、あんたの名刺がでてきたんだよ”




