取り調べ
杉原刑事から電話のあった翌朝8時、稲葉耕介は千葉西警察署の取り調べ室にいた。
横向きの鉄格子が入った窓を背に座り、奇妙な圧迫感に身をすくめていた。室内は狭くて埃っぽく、陰気で無機質。事務机以外は何もない、寒々とした空間が広がっている。
――何度来ても馴れないなあ。
などと思いながら、ぼんやり宙を眺めていると、突然、鉄製の扉が開いた。
「悪いな。こんなところしか空いてなかったんだ」
陰気な空気をかき消すように、気さくながらがら声で杉原刑事が室内に入ってきた。片方の手にはお盆にどんぶり2つに灰皿一個載せている。
「……俺はやってませんよ」「まあ、俺の奢りだ。ここのカツ丼は不味いけど、量だけはたんとあるぞ」
耕介一流の冗談を無視して、杉原は正面の席に座った。食え食えと促しながら、杉原は座ると箸を割って、もさぼるように飯をかっこみ始める。
「……良いんですか」
奢ってもらっていいのかという意味もあるが、利益供与にあたらないかという意味も含めて耕介は尋ねている。
杉原はいいんだいいんだと、口をもごもごと動かしながら、顔の前で箸を振った。
「今日はお客として来てもらったんだ。遠慮せず食ってよ」
「じゃあ、遠慮なくいただきます」「昨日、仏さんの通報があってから、ろくも飯も食ってねえんだよ。やっと休める口実ができた」
「はあ、そうなんですか」
耕介は箸を割り、静かにいただきますと手を合わせて、カツに一口つけた。
「……」
一口つけただけでお腹が一杯になりそうなほど油っぽく、びちゃびちゃとした不快な感覚が口に残る。
――駄目だ、こりゃ。
これはたしかに不味いと思いながらも、せっかく奢ってくれたものだからと、耕介は杉原に聞こえないくらいの小さくため息をつきながら、重い手つきで箸を進めた。空腹からか、上手そうにがっつく杉原が羨ましく思えた。
「それで、その仏さんの話なんだけどさ。宮原香苗。アンタ、本当に関わりないの?」
「これ、取り調べじゃないんでしょ?」
「そうだよ。単なる雑談。場所がたまたま、取り調べ室なだけだ」
でもよ、稲葉ちゃんと杉原はニンマリと笑みを浮かべた。細めた目だけが笑っていないのが不気味だった。
耕介の言葉の端から、杉原に対する反発を感じとったらしく、“千葉の蛇”という異名を持つ杉原義弘の本性が、わずかに顔を覗かせたようだった。
「雑談で“任意”だの“拒否権”だの、野暮なことは言わねえでしょ」
「……」
先手を打たれたと、耕介は苦々し気にカツを口に運んだ。油の塊のようなネバネバした肉片に、ますます表情に苦みが増す。
「もう一度聞くけどさ。宮原と関わり無いんだよな?」
「ないっスよ。偶然、出会っただけです」
「こいつで間違いないか?」
念を押すように言って、杉原は懐から三枚の写真を取り出すと、無造作に机に並べ始めた。
写真には、わずかに口を開いた女性の顔が写し出されている。正面からのもの一枚の他、左右側面から撮影されたものだ。
まぶたが閉じられ、それは一見、眠っているように耕介には思えた。だが、顔色には生気はなく、肌は乾燥しきった女は明らかに死んでいると写真からでもわかった。
写真の女は間違いなく、ミヤハラカナエと呼ばれるあの女だった。
「死亡の原因は窒息死。つまり、喉を絞められている」
「……」
「どうだ?」
「宮原香苗……、とかいう女の子ですね。俺が会った子です」
「稲葉ちゃん、この子と何か話した?」
「まあ、他愛もない話でしたけど……」
耕介は首を傾げて、宮原の死に顔を見つめながら呟き、当日の様子を杉原に話し始めた。
自分の記憶を確認するように、仕事終わりに雨に降られ、軒下で宮原香苗と出会って別れるまでの詳細を杉原に伝えた。思い出しながら事の顛末を口にしてみても、やはり耕介には警察に情報を提供できるほど引っ掛かるようなものがない。
耕介の話が終わると、それまでじっと耕介を注視していた杉原は、かなり失望した様子で重いため息をついた。
「何だ。本当に偶然に会っただけなんだな」
「だから、そう言ってたでしょ。俺に何を期待していたんです」
「あの子、稲葉ちゃんの依頼人かもしれないと思ってたんだよ。何かトラブルに巻き込まれて稲葉ちゃんとこに相談に言ったが、失敗して依頼人が殺されちまったとか、ひとつの可能性として、考えていたんだがな」
「……そんなことなら、俺は自分から警察に話をしてますよ」
「そうか?探偵業の連中は、変に警察に対抗意識や不信感を持っている奴ばかりだからな。さっきだって、稲葉ちゃんは“取り調べじゃないんでしょ”なんて聞いてきただろ。聞く必要もないのに」
「……確認したかっただけですよ。良いように使われるのは、嫌ですから」
耕介は箸を置いて、じっとどんぶりを見ていた。杉原の鋭い視線を感じていたが気がつかないふりをしていた。やがて、杉原はまあいいやと言って、話題を切り替えてきた。
「宮原香苗。千葉中央大の大学生3年生。実家は長野で資産家らしい。周りの友人からも明るくて、人に恨まれるような性格じゃないらしい」
「……」
「物も盗られていないし、暴行を受けた痕も首以外にはない」
「彼氏はいないんですか」
「それなんだよなあ」
既にカツ丼を綺麗に平らげた杉原は、口の端を歪ませたまま、内ポケットから煙草とライターを取り出して火をつけた。白い煙が狭い室内に充満し、靄がかかったようになった。
「彼氏はいる。中里貴史て野郎だ」
杉原の口調から、中里という男に好感を持っていないのはすぐにわかった。
「同じ大学生なんだが、しょうもない野郎でな。ロック歌手目指しているらしいが、競馬に酒、三年寝太郎状態でまともに大学も行ってないらしい。要は宮原のヒモだな」
「……」
「サークルで知り合ったらしいが、悪い男に引っ掛かったもんだ」
「その中里がどうしたんです」
「そいつ、容疑者のひとりにあげているんだが、死亡推定時刻にアリバイがあってな。調べると、その頃は友人と東京で遊びに出掛けていた」
「……」
「最近では喧嘩が絶えなくて、別れ話も度々出ている。中里としては別れたくないらしくて、宮原は友人にも相談していたらしい」
「じゃあ、そいつが犯人じゃないですか」
だからアリバイがあるて言ってるだろ、と杉原は少し苛立って言った。
「……で、俺と親しく付き合っている稲葉ちゃんの名刺が、宮原の財布から出てきた。きちんと稲葉ちゃんに会って、話を聞きたくなるのは当然だろ?」
そこまで言うと、杉原はため息とともに濃い煙を吐き出した。大して収穫もなかったことに、一気に疲労が噴出したように見えた。
「朝早くから時間取らせて悪かったな。ま、何か気がついたら連絡ちょうだいよ」
杉原は立ち上がると、一向に耕介の箸が進んでいないのを見て、「どうしたの。全然減ってないじゃない」と怪訝な顔をした。
「いや、死体みたら食欲がなくなっちゃって……」
「へえ、稲葉ちゃんなら大丈夫と思ったんだがな」
「……すんません」
耕介は力なく笑って誤魔化したものの、油まみれのトンカツなど、これ以上胃に入る余地などなかった。
じゃあ、俺が食うわと言う杉原の申し出が、この上もなくありがたく思えた。




