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ある武官の生涯  作者: 大島久嗣
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年譜

生誕(皇族の血統、源朝臣の格式、偉大なる名祖の継承)

1853年(嘉永6年)/数え1歳


華族(公家・大臣家中院(なかのいん)源朝臣みなもとのあそん)の家に生まれる。


幼名と名付けの由来:幼名は益丸ますまる。これは江戸時代中期に中院家第18代当主として右大臣などを務め、家の中興の祖となった中院通躬なかのいんみちみの遺徳にあやかって名付けられた。また、いみな(名)の通博みちひろは、中院家の宗家にあたる清華家・久我家こがけの歴史的な名祖なおやである室町時代の太政大臣・久我通博の名に因み、その一字を配されたものである。


出自・血統の背景:中院本家は本来大臣家村上源氏であるが閑院宮直仁かんいんのみやなおひと親王の男系子孫にあたる閑院宮家から皇別鷹司を経て徳大寺家から、連続して養子を迎えた結果、幕末期の中院家当主の父系は閑院宮家へ遡ることになった。まず25代当主として徳大寺実堅の二男・通富みちとみが中院家の養子となり、さらにその跡継ぎ(26代)として同じく徳大寺公純の三男・通規みちのりが養子に入った。この養子縁組により、通博の父系血統もまたこの皇族の系譜へと遡る。

しかし、中院家は伝統ある村上源氏の家格と誇りを維持し続けたため、公式の本姓は変わらず『源朝臣』である。通博はこの中院本家から明治直前期に庶流として分家(別家)を立て一木を成した(中堂家)ため、本家の持つこの輝かしい血統的・歴史的背景をそのまま受け継いでいる。


初叙しょじょ・任官および戊辰ぼしん戦争従軍

1868年(慶応けいおう4年/明治元年)/数え16歳


初叙しょじょ任官にんかん従五位下じゅごいげに叙され、左近衛府将監さこんえのしょうげんに任じられる

(当時は世間騒擾(そうじょう)の幕末期であったため、初叙としては異例の高さであった)。


戊辰戦争:左近衛府将監として近衛舎人このえのとねりを率い、鳥羽・伏見の戦いに従軍。

戦闘中にこめかみに切創を負う。


戦功による昇叙:若年の軍功を賞され、正五位下しょうごいげじょされ、左近衛府権少将さこんえごんのしょうしょうに任じられる。


御親兵ごしんぺいに志願

1869年(明治2年)/数え17歳

新政府の直轄軍である御親兵ごしんぺいに志願する。


明治軍制発足・近衛歩兵このえほへいへの奉職ほうしょく

1871年(明治4年)/数え19歳

御親兵の改組かいそおよび近代陸軍制の発足に伴い、近代軍人としての道を歩み始める。

任官:陸軍中尉りくぐんちゅういに任官。

補職ほしょく:近衛小隊長にされる(御親兵以来の近衛兵制の延長的呼称)。

その後、近衛歩兵連隊編制の確立に伴い、

近衛歩兵第一連隊第一大隊第二中隊第一小隊長に改めて補される。



華族令発布・男爵叙爵(じょしゃく)

1884年(明治17年)/数え32歳

華族令の発布に伴い、近代華族として男爵の爵位を授けられる。


日清戦争・王殿下の救護きゅうご恩賞おんしょう、子爵昇爵

1895年(明治28年)/数え43歳

戦地での武功:某宮殿下の子息某王殿下が女房奉書にょうぼうほうしょ奉持ほうじして出征された際、中堂が護兵ごへいとし選抜される。戦地で王殿下が危難に陥ったが中堂は護兵として奮戦し、見事に救護を果たす。宮家より感状を賜るが、この激戦で右胸部に被弾、大腿部にも切創を負う。


昇叙しょうじょ陞爵しょうしゃく:日清戦争における負傷および王殿下護衛の功により従四位じゅしいに叙され、子爵に陞爵しょうしゃく

任官・補職:陸軍大尉に進級。宮中における評価を背景として侍従職出仕じじゅうしきしゅっしに補され、勅任官ちょくにんかん待遇を受ける。



侍従武官任官・宮中での舞楽供覧

1897年(明治30年)/数え45歳


任官:陸軍少佐に進級、侍従武官じじゅうぶかんに補される。


宮中舞楽:宮中での宴席において舞楽ぶがくが催された際、演目『納曽利なそり』を舞い、天皇の叡覧えいらんに供する。


日露戦争・決死の臨時指揮(しき)と、特例の海軍将官(しょうかん)礼遇(れいぐう)

1905年(明治38年)/数え53歳


前線差遣ぜんせんさけん陸軍中佐りくぐんちゅうさ(侍従武官長付じじゅうぶかんちょうづき)の時に、勅命ちょくめいほうじて前線へ派遣される。


司令所壊滅からの指揮:おもむいた前線司令所が敵弾の直撃を受け、連隊長以下本部員が一度に全滅する惨事さんじが発生。軍律ぐんりつに基づき最先任さいせんにん者として自ら指揮をり、危急を救って見事な戦功せんこうを立てる。砲弾片ほうだんへんによる全身の切創、左上腕部への銃創じゅうそうを負いながらも指揮を緩めなかった。


勅使ちょくし代理と海軍礼遇:帰途、急病となった勅使を発見し、その代理として連合艦隊へ赴く。聖旨せいし(御沙汰おさたがき)をほうじて連合艦隊旗艦(きかん)に乗艦。この功績と機転により、陸軍将校でありながら「以後一切、海軍将官(少将以上)の礼遇を以て待遇する」という異例の特例措置を受ける。


恩賞・昇進:正四位しょうしいに叙位。勲四等旭日小綬章くんよんとうきょくじつしょうじゅしょう、および功三級金鵄勲章こうさんきゅうきんしくんしょう(連隊臨時指揮の功による)を授与じゅよ。陸軍大佐に昇進し、侍従武官長心得(こころえ)に補される。


密旨:内密に従三位じゅさんみ権中納言ごんのちゅうなごん左近衛府中将さこんえふちゅうじょう宣旨せんじを受ける。



退官・陸軍少将および宮中特権の拝受

1910年(明治43年)/数え58歳


退官:天皇に拝謁はいえつし、辞職を奏上そうじょうして現役を退く。


進級・特旨とくし従三位じゅさんみじょされ、陸軍少将に進級(同日予備役(よびえき)編入)。ただし特旨により「現役将官としての礼遇」を維持される。

勅許ちょっきょ:宮中において極めて高い格式を示す「直衣のうし参内さんだい」「帯剣たいけん参内さんだい」の勅許ちょっきょを特別に得る。

叙勲じょくん勲三等旭日中綬章くんさんとうきょくじつちゅうじゅしょうを授与される。




【新発見史料】大将宣旨の拝受(京都帰還による栄誉)

1911年(明治44年)2月28日/数え59歳


陸軍退官、および「正三位しょうさんみ左近衛府さこんえふ大将軍たいしょうぐん」に擬せられたと伝えられる宣旨せんじ附書つけがきあり)の拝受はいじゅ契機けいきとして、通博みちひろは東京の本邸を離れ、京都の旧邸に居を移したとされる。

これは単なる隠棲いんせいというよりも、近代軍人としての職務を終えた彼が、以後は朝廷より付与された伝統的な格式の保持者としての立場に重心を移した結果であるとされる。すなわち軍務における栄達を経たのち、彼は有職故実ゆうそくこじつおよび雅楽の継承・研究に専念し、宮中儀礼に関しても度々助言を求められる立場にあったことから、京都において半ば制度外的な「生ける参照例」としてぐうされた可能性がある。

なお、該当宣旨に見える「四位壬生朝臣桄夫」(写本により「従四位」「正四位」の異同がある)は、官務壬生家当主(旧儀上の大夫史家)たる壬生桄夫に比定するのが妥当である。

また、同時に発見された附書つけがきの署名者が、近代の軍階級や国家的官位ではなく、明治以前の朝廷古来の官位姓名(参議さんぎ右中将うちゅうじょう勾当内侍こうとうのないし等)により記されている点は注目される。この形式は、当該文書が近代国家の行政文書というよりも、宮中における伝統的儀礼秩序に基づく合議的手続の中で成立した可能性を示唆するものである。

以上の点から、本書編者としては、彼の京都移住を単なる老境の選択としてではなく、閑院宮かんいんのみやの系譜および村上源氏の家格に連なる出自を背景要素としつつ、明治国家における旧宮廷文化の継承構造の中に位置付けられる象徴的な現象として理解するのが妥当であると考える。




晩年・京都での雅楽および有職故実ゆうそくこじつ研究

大正〜昭和初期


退官後は京都の邸宅に隠棲いんせい

もっぱら雅楽および有職故実ゆうそくこじつ(朝廷の伝統的な儀式・決まりごと)の研究に没頭する。


特に龍笛りゅうてきくし、朝夕にこれを演奏した。宮中の雅楽や有職故実の典拠に関しても、度々(たびたび)宮中・政府側から意見を求められる権威として過ごす。また屡々(しばしば)参内さんだいす。


宮内省からの質疑答申

昭和期

宮内省の式部官しきぶかんが京都のやしきを来訪。旧来の節会せちえ(季節の宮中行事)の儀式手順(儀注ぎちゅう)について詳細な質疑を受け、自身の記憶および家蔵かぞうの貴重な記録(古文書)にもとづいてよろしき答申とうしんを行う。



死去・追贈ついぞう

昭和期(没年不詳)


逝去せいきょ


多大な功績により、正三位しょうさんみを追贈され、勲二等旭日重光章くんにとうきょくじつじゅうこうしょうを授与される。


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