ep.694 耳障りの善い言葉と同義か?……爪痕を残すとは成果をあげる事である
この世は誤字が溢れている。だから……一人残らず間違つてしまへ。
2026年4月23日
●爪痕を残す
先ずは例文をお読みください。
「新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必しも一爪痕を残すことではない、僕は未だに『死者生者』は『芋粥』などの比ではないと思ってゐる」
芥川龍之介の『続文芸的な、余りに文芸的な』より
恥ずかしいとは思わないが、初めて読んだ言葉の文章が出て来た、それが……「大事な商談だから爪痕を残してこいよ」である。はてな?
爪痕とかはニュース記事で見る「台風の爪痕・災害の爪痕」だな。「爪の垢を煎じて飲む」とは凡人向けの比喩としては滑稽すぎる。
浮気の相手に「背中に爪痕を残したい」みたいな歌詞があるも、だから爪跡を残せば己にも跳ね返ってこよう。
共に、善い意味では使われていない。
爪痕を残す……成果をあげる。この用法は正しいのか、いや、断じて否を突きつけてやりたい。実に……耳障りのいい言葉と良く似ているのである。
誰も「人狼と少女」という題目で小説なんて書いていなかった。人狼についても、題名としては多くはないと思われる。そんな隙間を突いて書き出したスイカズラの「人狼と少女」は、少しは世間にインパクトを与える事が出来たであろうか、いや、断じて否を突きつけられた方か。う~ん……出来が悪すぎて佳作にもなりはしない。
一爪痕……いちそうこん……と読む。
芥川龍之介の「続文芸的な、余りに文芸的な」を読んだ限りでは、「読者に印象づける」や「作家の仲間入りを果たす」というような意味には取れなかった。
「死者生者」……正宗白鳥氏の短篇を、己の同時発表の「芋粥」と対峙させた評価のようだ。そこに「芋粥よりも洗練された作品なのに、どうしてか全く評価を受けていない」と、感想を述べている。
新しいジャンルの作品を書けば作家になれる、そういう意味で「世の中をかき乱す」みたいな事を言いたかったのだろう。
「お前、得意先に行ってう~んと売り込んでこいよ」
「先輩、任せんしゃい」
それから後輩が戻れば取引先から苦情が舞い込んできた。
「お前……あの取引商談を散々と引っかき回したらしいな」
「だって……先輩が約束をすっぽ抜かして俺を行かせたからですよ」
「俺の所為なのか?」
「いいえ……先輩の悪口三昧を聞かされたので、」
「それでどうした」
「ハゲチャビンと言ってきました」
「あの社長はな、自分で言うからな~参るわ」
「なんでですか?」
「俺が受話器を取れば、彼奴……なんて言ったの思う?」
「あ~……ハゲ?」
「まさしく正解だよ。良い勉強になっただろう」
「はい、胸がスキッとしました」
「お前はやはり転勤だな」
「わ……か?」
「……ハゲだ」
とにかく正宗白鳥氏の「死者生者」を読んでみないと解らないな。
少なくとも芥川龍之介は、「世の中をかき乱す」みたいな事で印象を受けたのではなくて、己の心にだけ深く印象に残った……台風の爪痕のように心が乱れた……と。
一爪痕とは、少人数だけにいや……己の心だけが「乱れたような」印象を残す、そういう意味だろうか。だから営業に行って「お前の印象を残してこい」とは、意味は大きくかけ離れていよう。
最後に芥川龍之介の面白い文章がありました。ここで紹介しておきませう。芥川もかなりの中二病だったらしいと思へるよ?
七 語彙
「夜明け」と云ふ意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云ふ意味に変り、「死んだ父」と云ふ意味の「先人」はいつか「古人」と云ふ意味に変つてゐる。僕自身も「姿」とか「形」とか云ふ意味に「ものごし」と云ふ言葉を使ひ、凄すさまじい火災の形容に「大紅蓮」と云ふ言葉を使つた。僕等の語彙はこの通り可也混乱を生じてゐる。「随一人」と云ふ言葉などは誰も「第一人」と云ふ意味に使はないものはない。が、誰も皆間違つてしまへば、勿論間違ひは消滅するのである。従つてこの混乱を救ふ為には、――一人残らず間違つてしまへ。




