メアリ・ブライトウェルの安息
メアリ・ブライトウェルはクロード・ガラナベートが嫌いではなかった。
それは間違いない事実であるが、同時に、過去形でしか語れないことだった。
付け加えると、『好きだった』と言ってしまえば、それは過去形でも嘘になる。
二人の婚約は十年前のことだった。純度百パーセントの政略婚約である。
当時も今も、王国は難しい状況にある。内政は安定しているが、他国との外交はかなり不安定だ。具体的な紛争があるわけではないが、多くの国が虎視眈々と王国の隙につけこもうと狙っている。
魔物と呼ばれる未知の敵の存在が、その原因だった。共和国の悲劇は各国に広く知られている。王国は水際で侵攻を食い止めているが、果たしてそれもいつまで保つものか……。支援すべきか、混乱に乗じるべきか、はたまた静観すべきか。諸外国の思惑は今なお複雑に入り乱れている。
それゆえに、王子の婚約を結ぶにあたり、現国王は国内の安定を第一とした。
王国を支える貴族たちも、その決定に異論は無かった。第一王子であるクロードの婚約者として国内有数の大貴族の令嬢であるメアリが選ばれたのも、王と貴族たちの会議を経て決定されたことである。クロードとメアリの意思は、そこに存在しなかった。
繰り返しになるが、メアリはクロードが嫌いではなかった。
嫌う理由が無かった、とも言える。同い年だし、とりわけ彼の容姿に不満があるわけでもなかった。
当時からメアリは年の割に大人びたところがあって、婚約が決まったときも、まず最初に公爵家の責務を意識したほどだった。燃えるような赤髪の少女は、王を、そして王国そのものを支える立場になったのだ、と小さな胸の奥に決意の炎を灯したのだ。
婚約者であるクロードのことは、恋愛対象というよりも、国を支える同志のように思っていた。もちろん、これから先、互いに交流を深めていけば、いつかは二人の間に恋や愛が芽生えるかも、なんて少女らしいささやかな展望はあったけれど。
少なくとも、十年前の彼女はそう考えていた。
さて、歯車が狂ったのはいつからか。いや、それとも食い違いは最初からだったか。
メアリは性根の真面目な少女だった。婚約が決まってからというもの、通常の学業の他に、王妃としての勉強にも熱心に取り組み始めた。ときに苦しく、ときに辛いこともあったが、非常に学びがいのある授業の連続だった。
そこまでは、いい。
違和感に気づいたのは、十二歳のころだったろうか。
王妃の勉強の中に、さりげなく、国王の専権事項に属するものが加えられていた。真面目なメアリは「越権では?」と質問してみたが、気まずそうな老教師にさっと目を逸らされてしまった。似たようなことが何度かあり、さすがにメアリもおかしいと気づいた。
自力で情報を集めてみてわかったのは、クロードの勉強の進捗が芳しくないということだった。いや、多少の進捗の遅れが問題なのではない。そんなものは時間を掛ければいくらでも取り戻せる。問題なのは、へそを曲げたクロードが、授業そのものをサボりがちになっているという点だった。
それを知ったとき、可憐な少女に似合わない特大の溜め息がこぼれ落ちた。どうやらクロードの勉強の遅れによってできる穴を塞ぐために、メアリの学習の範囲がいつの間にか少しずつ広がってしまっていたらしい。
手法としては間違いとも言い切れない。
事実、メアリとクロードが揃って出席するパーティーでは、クロードの知識不足をメアリがカバーすることが増えつつあった。王族の参加するパーティーには他国の有力者が出席していることも多い。危ういところではあるが、それで王国の外面を保つことができたのだ。そこは教師陣の思惑通りと言えるだろう。
しかし、だ。
メアリは真面目で優秀な少女だが、超人的な天才ではなかった。
はっきりいってキャパシティの限界だった。しかも、このままクロードのサボりが続けば、メアリがサポートしなければならない範囲も際限なく広がっていくわけである。パンクするのは時間の問題だ。
メアリも、教師も、ときには国王さえも、クロードに苦言を呈して彼の行動を諌めた。しかし、それによって彼の態度がますます頑なになってしまったというのだから、メアリとしては頭を抱えるしかない。
挙句の果てに、王立学園に入学してからというもの、クロードはそこで知り合った子爵令嬢に首ったけになってしまった。最初のうちはこそこそと隠れて逢い引きを楽しんでいたようだが、そのうちに人目をはばからずにイチャコラを繰り広げるようになる始末である。
当然、メアリはキレた。
鍛え抜かれた表情筋で氷の微笑を維持しつつ、自室に戻って渾身の右ストレートをベッドの枕に叩き込んだ。そのまま気が済むまで両拳のコンビネーションで枕をボッコボコにする。
十分ほどそうした後、唐突に、メアリは冷めた。おそらく、クロードに対する『嫌いじゃない』が明確に過去のものになったのは、このタイミングだろう。
大暴れした左右の拳が真っ赤に腫れていたが、物音を聞きつけて部屋を覗きに来た軍務大臣の御令嬢がよく効くという軟膏を塗ってくれた。中性的な彼女の顔にほんのりとドキドキしつつ、メアリの頭脳は今後の展望を猛スピードで計算し始めていた。
婚約の白紙化は……難しいだろう。
いくらクロードでも、おおっぴらに公爵家を敵に回すような愚は起こさないはず。例の子爵令嬢を妻にするつもりだとしても、メアリとの婚姻を維持しつつ第二夫人あたりにねじ込むに違いない。(と、このときは本気でそう考えていたのだ)
王国を割るような事態を引き起こすのはメアリとしても本意ではない。
……となると、もういっそのこと、結婚したあとでクロードを政務から遠ざけてしまい、メアリ自身が実権を握って国政を差配するしかないのでは? 過激なようだが、しかし、クロードがこのまま王の責務を放棄するというのであれば、それもやむなしなのでは?
「……よろしい。ならば私も覚悟を決めましょう」
そう言葉にしてみると、なんだか肩が軽くなった。
久しぶりに仮面ではない笑みを浮かべられた気がする。軟膏を塗り終えた軍務大臣の御令嬢が目をぱちくりさせていた。
必要なのは、味方だ。目の前で不思議そうな顔をしているミシェル・トラヴァースを皮切りに、メアリは王立学園での交友関係を広げるために奔走し始めた。
たぶん、ちょっぴりハイになっていたのだろう。下級生から上級生に至るまで、様々な人と顔を合わせ、言葉を交わし、友誼を結ぶのは、想像以上に楽しかった。(この繋がりが、本来の目的とは別のところで国王の判断を動かすことになるのだから、人生わからないものだ)
そうやって着々と味方を増やしつつ、迎えた卒業パーティー。
卒業後の派閥形成に準備万端だったメアリの斜め上から、クロードのやらかしが炸裂したわけである。
「では、そのように。殿下のご采配、しかと承りましたわ」なんて、クールに去ってはみたものの、メアリの心の中は南海のタイフーンもびっくりな大荒れである。
同時に、メアリの優秀な頭脳は、軌道修正のための演算に必死であった。その頭脳が最優先事項としたのが、王家やクロードへの逆襲ではなく、むしろ王家の立場を守ることだったのだから、彼女の真面目さと故国への愛は推して知るべしといったところだろう。
メアリはシャーロット・ターナーがジョナサン・ノースエッジの婚約者であると知っていた。ゆえに、クロードとシャーロットの行いが王国を土台から揺るがす愚行であることも認識している。
考えてもみてほしい。王家とノースエッジ子爵、そのどちらもが銀嶺山脈の魔物に対抗するための武力を保有する存在なのだ。両者の関係が悪化したら、王国の守りはいったいどうなってしまうのか、想像するだけでも恐ろしい。
メアリは事態を軟着陸させるために必死で考えた。
ついでに、自分も絶対にタダでは転ぶまいと、執念じみた思考も加速させていた。十年間の青春を捧げた王妃教育が無為と化したのだ。その損失に代わるだけの利益は、絶対に手に入れてみせると。
『未来の王妃』という枷から解き放たれた少女は、過去最高の思考力を発揮してひとつの結論を導いた。
後日、王宮に招聘されたメアリは、国王の謝罪を受け入れ(当事者であるクロードとシャーロットは最後まで現れなかった。顔も見たくなかったので、別にいいのだけれど)その代わりに、ひとつの要求を叩きつけた。
要求は即座に認められ、メアリはとある権利を手に入れた。
彼女がそのとき浮かべた笑顔は、後の世で語り種になるほど晴れ晴れとしたものだった。
◆
「はあぁあ……。なんて幸せなのかしら……」
「気持ちはわかるけど、ほら、もっとシャンとしないと」
全身全霊でだらけるメアリの様子に、向かいの席のミシェルが苦笑している。
真っ白で可愛らしい小さなテーブルを挟んで、これまた真っ白で丸みを帯びた椅子に座っていた。テーブルには美しいガラス細工の小皿と磨かれた銀のスプーンとが並んでいる。
テーブルは屋外に置かれていた。真夏の王都はカラッとした熱気に満ちているが、今はその暑ささえも愛おしい。むしろ、この暑さこそが、究極の贅沢を味わうための前提条件と言っても過言ではないかもしれない。
「お待たせ致しました。こちら、教国の黄金林檎のソルベです」
パリッとした制服のウェイターが、空になった小皿を下げて、新しい皿を二人の前に給仕した。先ほどとは形の違うガラス皿の上で、黄金の氷菓が神々しく輝いている。夏の熱気に反発する冷気が、幻想的な霧のようにも見えた。
「うわぁ、すごいね、これ。教国の黄金林檎? あんな遠くの国からよく仕入れられたね」
「そこのところは、ちょろっと実家の伝手を頼りまして。ささ、溶けないうちにいただきましょう」
「これで三皿目だよ。美味しいけど、ちょっと食べ過ぎじゃない?」
「いえいえ、今日は視察を兼ねているのですから。これも立派なお仕事です」
にっこりと満面の笑みを浮かべて、黄金のソルベをひょいとひと口。
冷たく、さらりと溶けた爽やかな林檎の甘みが、舌の上で至高の幸福を弾けさせた。ほわぁ、と思わず口が開く。向かいのミシェルも、なんだかんだ言いつつ、ぱくりと食べて同じような表情になっている。
なんて素晴らしい。
自身の出資したアイスクリーム店の仕事ぶりに、メアリは大いに満足していた。大枚をはたいて王都の目抜き通りに出店させた甲斐があるというものだ。
この幸福を味わえるのも、卒業と同時に手に入れたあの権利のおかげ。当時の自分の判断を大いに褒めてやりたいメアリである。
メアリが婚約破棄の対価に要求したもの。
それは、ターナー子爵家が握っていたノースエッジ領の魔物の素材の優先買取権である。
ターナー子爵家がなぜ隣国との交易で名を馳せることができたのか。
それは、銀嶺山脈の魔物の素材の特殊な性質に由来する。スノーウルフにホワイトベア、さらにはフロストドラゴン……。彼の地に跋扈する怪物たちは、『冷気』にまつわる不思議な力を持っていることが多い。そして、その性質は彼らを屠った後の素材にも同じように秘められていた。
ターナー子爵はそれを利用して『冷蔵輸送』や『冷凍輸送』の手法を確立したのだ。これは武力に特化したノースエッジ子爵では思いつけなかった発想だろう。
これらの手法は商品の鮮度を保ったまま遠隔地への輸送を可能にする点で画期的だった。自身の令嬢の婚約をきっかけとして、ターナー子爵は非常に大きな利益を生み出すことに成功していたといえる。
……もっとも、素材の卸元であるノースエッジ領に関しては、雪上輸送のコストやら道中の安全確保やらの問題が山積みで、いまいち流通の改善には寄与できなかったようだが。
ともあれ、その手法の前提である『冷気』を放つ魔物の素材を、メアリはごっそりと手に入れることに成功したのである。
卒業後、婚約者を失ってフリーになったメアリは、多国間の交易路の開拓を推し進める旗頭として、みるみるうちに台頭していった。学園を卒業してそれぞれの領地や任地へと向かった友人たちの協力がそこにあったことはもはや言うまでもないだろう。
アイスクリーム店の開店も『冷気』の有効活用の一環である。
真夏でも冷たいアイスが食べられるという物珍しさもあって、開店から間もないというのに、メアリの店はすでに王都でも有数の観光名所となりつつあった。教国のような遠方の国の果物を鮮度を保って仕入れられるのもこの店ならではの強みである。
「はぁあ……美味しい……幸せ……このままずっとダラダラしてたい……」
「そんなこと言っても、キミ、本心じゃないでしょ」
「……そうですわねぇ。色々と手を広げて、その分忙しくなって、けれど、充実してますからね。面倒なことを部下に投げる方法も覚えてきましたし、今のところは楽隠居って気分でもありませんわ」
金色のソルベをぺろりと平らげ、メアリは柔らかく微笑んだ。
学園の頃よりも元気そうだな、とミシェルは静かに安堵する。オーバーワークみたいだったら無理にでも休ませようと思っていたのだが、どうやら要らぬ心配だったようだ。
「あとは、そう、結婚もそろそろ考えるべきかしらねぇ」
「へえ……。相手はもう決まってるの?」
「決まっているというか、選り取り見取りですわ。婚約してる間は気づかなかったのですけれど、私、結構モテる女だったみたいなのよね」
「あ、そう。いや、納得ではあるけれど」
ふふん、と胸を張ったメアリに、ミシェルはちょっと呆れ気味。
メアリがこういう感情表現をするようになったのも、学園を卒業してからのことだ。
「というわけで、私はこれから良い人を探すつもりなの。だから、心配しないで。卒業式のことだって、いつまでも引きずっていられないわ」
「そっか。うん、わかったよ。良い旦那さんが見つかるといいね」
「私のことより、心配なのはあなたよ、ミシェル。もうすぐ騎士叙勲が決まりそうなのでしょう?」
「う、うん……一応、予定だけど」
「独身のまま騎士の任命を受けたら、どこの任地に飛ばされるかわかったものではないでしょ。狙ってる任地があるのなら、今のうちに行動しておかないと」
ずずい、とメアリの指がミシェルの鼻先に突きつけられる。
その迫力に、ミシェルは思わずお手上げポーズ。
「えっと、狙ってる任地って?」
「あなたね。まさか、バレてないとでも思っているの? 私、あなたとノースエッジ子爵令息が一緒にいるところを見たのは卒業パーティーが最初で最後ですけれど、はっきり言って一発でわかりましたわよ」
「……マジ?」
「大マジです。いいですこと、騎士にしろ軍人にしろ、配偶者なり婚約者なりがいる場合は任地の選定もきちんと考慮されますわ。想い人と離れ離れになりたくないのなら、さっさと行動することよ。おわかり?」
「そ、そうなんだ。へー……」
頬を赤く染めたミシェルが、メアリから視線を外す。
その先を追いかけると、彼女の目は遠く北の彼方を見つめていた。
こやつめ。メアリは口元を緩めつつ、わかりやすい友人に優しく語りかけた。
「ミシェル。私、あなたには感謝しているの。ちょっとしたきっかけだったけれど、私がやってやるぞ、って思えたのは、あなたが私の話を真剣に聞いてくれたからなのよ。ねえ、私は幸せになるから、あなたもちゃんと幸せになってね」
「……うん。ありがとう、メアリ」
王都の暑い夏の日。
ミシェルがジョナサンを訪れる、しばらく前のことだった。