第九十話 乗馬初心者(矢島玲香)
「ちょ、ちょっと待って! 行かないで!」
完全に予想外だった。敵は、正真君と私を狙っているとシャドウさんが言っていたから、まだ出発するはずがないと考えていた。
手を伸ばし、懸命に追いかける。あの中にいるであろう、彼を連れて行かせまいと、全速力で走った。
けれど、そんな私の思いなど無視するように……馬車は町から勢いよく飛び出してしまった。
「そんな……正真君……」
どんどん小さくなっていく馬車を見て、私の足は止まってしまった。
もう、追いつけない。正真君を……取り戻せない。そう思ってしまったから。
頭が真っ白になる。どうすればよいのか、どうしてこうなったのか。焦燥、不安、後悔、絶望……ありとあらゆる負の感情が押し寄せて、私の頭をかき乱す。
「や……だ。待って。連れて……いかないで……」
懸命に願っても、正真君を乗せた馬車は止まらない。
高速で走り続けて……地平線の向こうに、消えた。
「レイカ殿! 馬に乗るで御座る!」
「え……?」
「急ぐで御座る! 今追いかけなければ、逃げ切られてしまうで御座る!」
呆然と立ちすくんでいると、シャドウさんが二頭馬を引き連れて私に手綱を握らせてきた。
そして突然私を持ち上げて、持ってきた馬に座らせた。
「ちょ、ちょっと、シャドウさん!?」
「拙者はもう一頭の方に乗るで御座る! さあ、追いかけるで御座るぞ!」
「あの、お客さん!? その馬の代金がまだなんですけれど!?」
「喧しいで御座る! 後でいくらでも払うゆえ、今は見逃してほしいで御座る! ほら、レイカ殿! 急ぎ、馬を走らせよ!」
「ま、待ってください! 私は乗馬の経験が……」
「トウッ!! 行くぞ、レイカ殿!」
まだ何が何だか分かっていないうちに、シャドウさんは馬に乗って走り出してしまった。
「って待って待って! 落ち着いて!」
「ブルル! ブルルル!!」
「きゃあッ! 暴れないで! お願い、落ち着いて!」
そして私の方はというと、気質が荒いのか、それとも私の乗り方が悪かったのかは分からないけれど馬が暴れだし、振り落とされないように手綱に摑まるのが精一杯だった。
右へ左へ、前へ後ろへ、馬は私を引き剥がそうと激しく動く。
既にこの馬の持ち主であろう御者もこの暴れ馬から逃げて遠巻きに私の事を見ていた。
「ちょ……っと! いい加減にしなさい!」
馬の制御なんて出来るわけがない。乗ったことが無いんだもの。
けれど……グズグズしていたら、正真君を取り返せなくなる。
だからちょっと荒っぽいけれど……こうするしかなかった。
「カームタッチ!!」
「ブルッ!?」
魔力を込めて、馬の首元を叩く。
先程まで私を振り落とそうと激しく暴れていたのが嘘みたいに、馬は動きを止め、おとなしくなった。
精神を落ち着かせる魔法、カームタッチ。直接触れなければならないけれど、今は役に立ったみたいだ。
「さあ、早く走って!」
「あ、あの……お代の方を……」
「引っ込んでいてください! 今それどころじゃないんです!」
「ヒッ……!? す、すいません……!!」
「行って! えいッ!!」
さっきの御者がまた出てきたけれど、構っている余裕はない。
私は手綱を打ち鳴らして馬に合図を送る。シャドウさんは確かこうやって走り出していた筈なのだけれど、私の馬は嫌そうな顔をして私を睨むだけで走ってはくれなかった。
「え!? 何で!?」
「お、お腹を軽く蹴ると……その馬は走り出して……」
「そうなの!? ありがとうございます!! ていッ!!」
まだ近くにいた御者が親切にも走り方を教えてくれた。
彼の言う通りに馬のお腹を蹴ると、上半身を大きく上げた後に猛スピードで走り出してくれた。
「ちょ……いや……揺れが激しすぎ……!?」
そう、走り出してくれたのは良かった。
けれど、さっきも言ったように私は馬に乗った事は一度として無い。
だから当然、馬の走行がこんなにも体の重心がブレるものだという事も知らなかった。
「う……ねえ、お願い……もうちょっと私に優しく走って……?」
「……ブルッ」
手綱を握りこんでなんとかしがみついている状態でそんな風に馬に声をかけてみた。
するとスピードこそ僅かに落ちたけれど、先程よりも安定性が増した気がした。
「う、嘘だろ……!? あの馬が言う事を聞いた……!?」
後方で何やらこの馬の持ち主が驚きの声を上げていた。
成程……、元々荒っぽい性格の馬だったみたいね。この子。
でも今はそんな事を気にしている場合ではない。一刻も早く、シャドウさんに追いついて馬車を追いかけなければならなかった。
「すいません! この馬借りていきます! お金は後で絶対に払うので!!」
私は後ろを振り向いて、持ち主の男性にそう声を張り上げた。
男性は呆けた表情をしていたけれど、私の言葉に嫌々ながらも承諾してくれたみたいだった。
それを確認してから再び前を向き、馬を走らせた。
「いた! シャドウさんだ!!」
町を抜け、数百メートル程馬を走らせると遠くでシャドウさんの姿が見えた。
急がなければならない。馬車どころかシャドウさんまで見失ってしまうと、今度こそ正真君を取り返すのが不可能になってしまうから。
「よし、スピードを上げられる? お馬ちゃん?」
「ブルンッ!!」
今度は元気よく声を鼻を鳴らすお馬ちゃん。
絆を深められているなあと感じた次の瞬間、馬が急加速した。
まるで矢のように流れていく周囲の景色。
しかし、私は乗馬初心者。そんな速度で走られると……
「無理無理無理!! 待ってゆっくり、ゆっくり走って!!」
「む? レイカ殿。ようやく追いついて……」
「やああああああぁぁぁぁぁ!!!! 助けてシャドウさああぁぁぁぁん!!!」
「レイカ殿!? 待つで御座る! レイカ殿おおおおぉぉぉぉ!?!?」
シャドウさんを遥か後方へと置き去りにして、お馬ちゃんは走り続けた。
何とかシャドウさんが追いついて止めてくれるまで……私は半死半生の時間を味わう羽目になってしまった。
けれど……そのおかげで、正真君を乗せた馬車の後ろ姿をようやく捉えられる距離まで近付く事が出来た。




