第三十二話 あの日から
「――あれ? 高崎君、帰らないの?」
いつの日の事だっただろう。俺が一人でいた時、矢島さんがそう言いながら教室に入ってきたことがあった。
その日は、俺の家には叔父夫婦が来ており、両親にも早く帰って来いと言われていた。けれど、俺は昔からそういうのが嫌いだった。
叔父夫婦や、両親と仲が悪いというわけではない。会えば普通に会話は出来るし、笑いあうこともできる。それでも、大勢で集まったとき、自分の立ち位置というものを強く意識してしまい、その輪の中に入り込めないような気がしていた。
そんな風に考えていたから、その日は帰る気が起きず、一人教室からグラウンドを見ていた。グラウンドで部活動に参加する生徒たちが、互いに笑いあっていたのをよく覚えている。
その時に、矢島さんに話しかけられた。
「珍しいね。いつもは、友達と一緒にすぐに帰るのに」
「……今日は、皆用事があるらしい」
ぶっきらぼうにそう答える。矢島さんとは、特に仲が良いということは無かった。たまに班活動なんかで話すくらいだから、自然とそっけない態度をとる。
当然、本当の理由なんか話さない。
「お前こそ、今日はどうしたんだ?」
「えっと……忘れ物しちゃって……」
矢島さんは、自分のロッカーの方に歩き出す。。
案外、抜けている所があるな。いつもはもっとしっかりしてそうなのに。
「高崎君ってさ……」
「ん?」
「時々、そんな風に一人になる時あるよね」
ロッカーの中を探りながら、矢島さんが俺にそんなことを言ってきた。
ぐさり、と何かが心臓に打ち込まれるような感覚があった。
「……そうか?」
「うん。よく校舎裏とか、屋上とか、人が来ないような場所に行くよね。……どうして?」
「……」
答えることが、出来ない。いや、正確に言えば、答えたくない。
見られていたのか。誰かと一緒にいるのに疲れた時に、そこにいるのを。
教室内が、静かになる。矢島さんはロッカーから体操着の入った袋を取り出した。どうやら、忘れ物とはそれの事だったらしい。
「あ……、ご、ごめんね! こんなにズケズケと……失礼だよね……」
彼女は、急に慌てた様子で俺に謝り出した。多分、俺が黙ったことで、それが触れてほしくない部分であることを理解したからだろう。
ようやく、息苦しい話から抜け出せる。そう思って、俺は息を吐く。
しかし、でもね、と矢島さんはその後に付け加えた。
「何か……困っているならさ、いつでも力になるよ」
「……え?」
「せっかく一緒のクラスになったんだし、何かあったら、お互いに助け合おうよ。案外、話してみたら楽になるかもしれないよ?」
矢島さんは、そう言い残すと笑顔を見せながら教室から出て行った。
その言葉を、俺がどう感じたかは、よく覚えていない。でも、俺の中の世界に、彼女を目にするようになったのは、確かにその日からだった。
――赤い『霧』が矢島さんを包み、体内に入り出した。醜悪で気味の悪い笑顔が、耳を鳴らす。
『ケケケケケケケケ!!!!!!』
「あ……ああああああッッ!!?!? い……いやあッ……!!!!」
両腕を掴み、苦しみだす矢島さん。涙を流し、俺を見る。
「クッ……クソッ……」
「高崎君! 矢島さんから離れて! ……残念だけど、入り込まれたら……!」
白川さんが俺に離れろと叫ぶ。
分かっている。あの『霧』に入り込まれたら、どうなるか。
西田さんと三原のように、血が噴き出し、死ぬ。助ける方法は、俺達にはない。
「ッ……! だがッ……!」
あの日見せた笑顔を見せてくれた、そして西園寺を救えなかった俺を励ましてくれた彼女を、見捨てる事なんて出来ない。
俺は、彼女から一体いくつ、もらっただろう。今だって、彼女に命を救われた。
俺は、まだ一つも返せていない。だから……。
「そいつに入り込むんじゃねえ!! このクソ野郎!!」
「ちょっと!? 高崎君!?」
ランプを床に落とし、ただ駆ける。救えることを信じ、苦しむ彼女に近付く。
ランプは砕け、中の火が小さく燃える。
「あ……た……か……崎……君。来ちゃ……ダメ」
矢島さんは、諦めた目で俺を見る。間もなく、自分の命が終わることを確信している。その間際であっても、彼女は必死に俺を遠ざけようと、手を掲げる。
ああ、どこまで馬鹿なんだ。お前は。人を、助けてばかりじゃねえか。死ぬ寸前でも、それは変わらない。とんでもない、大馬鹿だ。
「絶対に、助ける!」
大して、俺は誰も救えない男だった。仲間を信じる、生き残るなどと言いながら、伸ばされた手一つも握り損ねる。
そんなのは、もう御免だった。今度こそ、救う。何度だって、やり続ける。何だって、やる。これ以上、大切なモノを失わないために。
「そいつから……離れやがれえぇぇぇぇ!!!!!!!!」
俺は叫び、彼女に触れた。
「!?」
『!? ケ……!? ケケケ……!? ケ……ケアァァァァ!!!!!!』
突如、妙な感覚が、俺を襲った。何だ、今のは……?
言葉では言い表せない。だが、矢島さんに触れた瞬間、彼女の奥深くにある何かにも触れた気がした。
そしてそれは、彼女の体内にいたこの『霧』についても同様だった。
こいつの存在、それ自体を掴むような感覚。それを感じ取ったのか、『霧』は彼女の体内から悲鳴のようなものを上げて出てきた。




