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夜明

栗色の髪が揺れる。くすくすと、楽しそうな笑い声が聞こえる。

懐かしく愛おしいその光景に、私は思わず振り返る。


ふっと、鼻をくすぐったのは母の匂い。頰を撫でたのは、父を思わせる優しい風。

くすくす、くすくすと、柔らかな笑い声が私を満たす。大好きな、今はもうこの手にない過去への憧憬は私を惹きつけてやまなくて、私は掴みとろうと手を伸ばす。


伸ばした私の手を、風はふっとすり抜けた。まるで優しく宥めるかのように名残惜しみ、あっという間に吹き抜けていく。


——幸せにおなり。


父の言葉が、蘇った。







ふわりと、風が吹く。

柔らかな日差しに目を開けた私は、眩しさに瞳を細めた。


「——……」


どこだろう、ここ。

身じろぎしようとして、走った激痛に顔を歪める。


「いっ……っぅ」

「おかーさま!?」


痛みに悶える私の視界に映り込んだのは幼い朝焼けの瞳だ。


「……姫?」

「おかーさま!!」

「いっ……ちょっ……姫、痛……!」


抱きつかれて、体に痛みが響いた。なにこれ、痛い。どういうこと。


「おかーさま……っ」


だけれど、縋り付く姫があまりにも悲痛な声をしていて、私はその頭を撫でた。安心させるように背中を叩く。


「どうしたの、メルヴィナ」

「おかーさまっ、ずっと、ずっとねてて……わたし、わたしがよんでも、おきてくれなくて……っ」


一気に記憶が蘇る。そうだ、祝賀会。

そういえば私は刺されたのだったか。でもこうして痛みを感じているということは、死ななかったのか。


「——ごめんなさいね、姫。心配させちゃったわね。ごめんね、怖かったでしょう」


涙を零しながらもぶんぶん首を振る姫は、私に縋り付いて離れない。


「ごめんね……ごめんね、姫」

「〜〜っ」


しゃっくりをあげる姫をひたすら宥めながら謝っていれば、人の気配がした。


「……レラ?」


皇帝が——彼が立っていた。

当たり前だが、どこか怪我をしている様子はない。ほっと息をつこうとしたところで、ずかずかと彼は凄い勢いで近寄ってきた。


「この……馬鹿が!!」


きんっ、と耳に響く。


「あれくらいのやつ、騎士ならすぐに取り押さえられた!俺だってあれくらいなら相手取れる!それなのにどうしてお前は飛び出すんだ!!」


ごもっともなお叱りに、私はしかし反論した。


「だ、だって危ないって……」

「飛び出す方が危ないだろう!」

「で、でも死んじゃうかもって」

「それでお前が死んだらどうする!」

「じゃ、じゃあどうすれば良かったのよ!黙って見てれば良かったの!?」


逆ギレしたら傷に響いた。っ、と身悶える私に姫と彼が揃って焦り出す。


「お、おかーさま!!」

「レラ!?どこだ、どこが痛い!?」

「へーかだめ!おかーさまおこるならちかずかないで!!」


バッと私を庇うように両手を広げて彼を遮った姫に目を見開く。


「おかーさまいたいいたいなのよ!!」

「姫……!」


感動した。あんなにも彼に懐いていたのに、私を庇ってくれる小さな背中に胸が震える。彼も何か思うところがあったのか、うっと黙り込んでいる。


すると話し声に気がついたらしい侍女達が飛び込んできて、医者だ診察だと部屋は俄かに騒がしくなった。


やってきた老医師に笑顔で叱られ、乳母にも泣き腫らした目で叱られ、侍女達には泣かれ。三日間眠り続けていたらしい私は、とても心配をかけていたらしいと思い知らされた。一時は危なかったものの今は落ち着いていること、とはいえ傷はまだ塞がっていないのでしばらく安静にすることを厳命され、老医師たちは去っていった。姫は少し渋ったものの、侍女たちに何を言い含められたのか連れられて出て行き、あとには彼と私、二人だけが残される。


しんとした室内に、深く息を吐く音がした。


どかっと寝台横の椅子に座った彼が、不機嫌そうにこちらを見る。


「……悪かった。さっきは気が高ぶった」

「……いえ、こちら、こそ」


意外な謝罪に目を瞬く。


「えっと……ここは」

「本宮の一室だ。後宮は遠いうえ人手が限られるからな」

「そうですか……ところで、祝賀会は」

「問題ない。少し騒ぎにはなったが既に収まっている。後始末も終わった。お前は気にするな」


あの後どうなったのか気になっていたのでその言葉に少しホッとする。


「あの気狂いは取り調べ中だ。……俺に怨みのあるもので間違いはないだろう」

「ほかに怪我人は……」

「お前が刺されてすぐに捕らえられたからな。他に被害はない」

「よかった……」

「よくない」


彼がこちらを睨め付ける。


「もしあの男が腹でなく他を狙っていたら確実に死んでいたぞ。分かっているのか」

「……」


分かっては、いなかったかもしれない。あの時は必死だったから。

でも、仕方ないじゃないか。

だって結局、私はこの人を失いたくないという結論にしか辿り着かない。


「なら、どうしてお前は自分を大切にしない……お前を失って悲しむ者がいると、何故わからない」


顔を見上げた。朝焼けの瞳は、泣きそうに歪んでいる。


「火災の時だってそうだ。お前は安全な場所にいたのに、火の中まで飛び込もうとした。離宮の時も、夏のときも、お前は人のことばかりで、自分のことを考えない」

「……それは」


この人も、悲しんでくれるということだろうか。


「お願いだから……もっと、自分の身を大切にしてくれ……」

「……」


顔を伏せた彼に、私はぽつりと呟く。


「……やっぱり火災の時は私を逃してたのね」


顔を上げた彼は明らかに渋い顔をした。


「……何かあるかとは思っていた。でもまさか、火をつけるとは思わなかったんだ。言い訳だ、これは。自暴自棄になった奴らに常識なんてあるわけがないのに、甘い考えをした」

「それならあの時否定してくれれば良かったのに」

「……きっかけになったのは、否定のしようもない」

「でもあなたが火をつけたわけじゃない」

「だが」

「あなたは悪くない。……あなたが悪くないことで、私に罪悪感なんて抱かないで」


火災の時も、離宮の時も、夏のときも。そうでないときも。


「あなたはずっと、守ってくれていたんでしょう?」

「……レラ」


夏の妊娠騒動の時。私の提案に彼はいくつか条件をつけた。

一人にはならないこと。

警備を常にそばに置いておくこと。

危ない行動は決してしないこと。

あの時の私は怪訝な思いで聞いていたけれど、なんてことない。彼は私の突拍子もない行動を心配して、ただ身を案じてくれていた。


「アルベルト。私、知らないことばかりだわ。だから教えて。あなたが何を考えていて、何を思っているのか。教えてもらえないと、分からないから」

「レラ……」


彼を見つめて、私は微笑む。


「——ところで。そもそもあなたが話してくれないからこうも拗れたということは理解していて?」

「……」

「アルベルト」

「……わかって、る。悪かったとは……思ってるんだ」

「なら、よろしい」


偉そうに私は笑って、寝台の上に置かれた彼の手を掴む。


「ごめんなさい……心配かけて」

「……無事だったから、いい」

「メルヴィナも見てくれていたのね」

「泣かれるときついな……。何もできなかった」

「当たり前よ、子育てなめないで」


くすくすと笑った私を、アルベルトが見つめる。


「……レラ」

「なぁに?」

「妃たちをな、後宮から出すつもりでいる」


目を瞬いた。


「そもそもあれは、まだ俺の足場が固まっていなかったが為にとった処置で……こないだのあれで随分と状況も落ち着いたから順次適当な者に降嫁させていくつもりでいる。そうはいってもまだ出せない奴らもいるが……」

「……それは」

「お前にいちいち絡んでくる奴らは出来るだけ即急に片付ける」

「あなたが片付けるというととても怖い感じがするから、穏便に平和な方向で」

「祝賀会の時は男にも絡まれていただろう」

「えっ、あ、そうね?」


見てたのか。嘘だろう。この分だと目があったのも気のせいでなさそうだ。それにしても絡んできていた妃とか知っていたのか。


「でも私、実は失礼なことにあの方達の名前も覚えていないから、別に気にしなくてもいいわよ?」


アルベルトは明らかにギョッとした。


「……は?覚えてない?」

「顔は流石にね、覚えてるのよ?でもね、こうお互いに名乗りあったわけでもないしね、」


後宮に入ったばかりの時はそんな余裕なかったし。しれっとした私の言葉にアルベルトは引き気味だ。


「……お前、結構いい性格をしているよな」

「誰かさんのお陰で鍛えられたわ」

「割と出会った時からそうだったぞ」

「うら若き乙女に失礼な」

「そんな柄だったか?」

「本当に失礼!!」


アルベルトが笑った。私もつられて笑ってしまう。


「……なぁ、レラ」

「なぁに」

「後宮を……片付けたら」

「……」

「皇后に、なってくれないか」


言葉を失った。

目を見張る私に対して皇帝の目は真剣だ。冗談を言っている様子はない。だから、私も真面目に返答した。


「嫌です」


数拍の間。


「えっ」

「え?」

「なんで」

「なんでって」


私は小首をかしげる。


「一介の妃でも重いのに皇后とか冗談でもやめて欲しいわ。本当無理」

「レラ、うるさい奴らなら黙らせ……」

「あなたがやろうと思えば無理が通ることは分かりますけど、流石に無茶です」


そもそも。


「私、あなたのこと信用していないもの」

「……」


とってもいい笑顔を浮かべたであろう私に、アルベルトは黙り込む。


「逆にどうしたら信用できると?許すとは言ったけれどそれは信用とは別の話よね?」


彼が私たちを囮として使ったことは間違いようの無い事実であるし、たまたま無事であっただけで危険にさらされたことも事実。でも大丈夫だったなんて所詮結果論だ。


「あなたの立場を理解しないわけではありません。それが一番効率的であっただろうことも理解はしましょう。でも、それとこれとは別問題」


きっと今、私は目の笑っていない笑みを浮かべている。


「あなたが、姫を、危険な目にあわせたのは許してませんから」

「……」


黙り込んだアルベルトに笑って、私は悪戯っぽく微笑む。


「どうしても私を動かしたいなら、まずは信用させてくださいな」

「……お前」

「隠し事をなくすことから始めましょう、アルはあまりにも秘密主義がすぎるわ」

「……」

「返事は?」

「…………」

「アルベルト」

「……わか、った」


にこっと私は笑う。ちょいちょいと手招きして、怪訝な顔をしたアルベルトを側に呼び寄せた。やってきた彼を、ぎゅっと抱きしめる。


「私、あなたのこと好きよ。割と酷い目ばかりあってきたけれど、懲りてないみたい」

「……それは、レラの懐の深さに感謝しないとな」

「二度目はないと理解してね。で?あなたは?」

「……」


黙ったアルベルトをニヤニヤと眺める。開き直った私はとてもすっきりとした気分だ。開き直るって素晴らしい。やっぱり人生気の持ちようだ。

ふふん、と鼻で笑った私はアルベルトを離した。離したのに、ぎゅっと抱きしめられる。


「……好きだよ、愛してる」

「——」


かあっと赤く染まった頰に、皇帝は意地悪く笑った。













ルセア帝国第8代皇帝アルベルトは父帝を殺し帝位につき、多くの首を刎ねたが為に血濡れの皇帝と呼ばれ恐れられた。しかしその政治手腕は確かなものであり、崩壊しかけていた国をまとめ上げ、帝国は最盛期を迎える。

アルベルト帝を語るにおいて外せないのは、あるひとりの妃である。平民であった妃をアルベルト帝は見初めたった一人寵愛した。身分を超えた二人の恋物語は民へと広がり今なお愛されている。


さて、多くの子にも恵まれ、身分を超えた愛を手に入れた妃であるが、ついぞ生涯皇后となることはなかった。多くの民に望まれながらも、自分には恐れ多いと一歩引き、その謙虚な姿勢がまた好かれたという。







……夫が退位したあと、ようやっと頷いたとか頷かなかっただとか。

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