縛られた男
暗い。
目を開けているのか、閉じているのかも、分からない。まばたきをしてみる。何も変わらない。
頭が、重い。こめかみの奥で、鈍い痛みが脈を打っている。
手が、動かなかった。
両手が、背中のうしろで、ひとつにまとめられている。手首に、細くて硬いものが食いこんでいる。ひねると、痛い。プラスチックの、かさかさした感触。結束バンドだ。
足首も、同じだった。口には、ガムテープ。ゴムっぽいにおいがした。
背中に、じゅうたんの毛が、じかにちくちく当たる。
スーツも、シャツも、靴下もなかった。パンツ一枚だった。
最後に覚えているのは、ワイングラスだ。
社長が、自分で注いでくれた赤ワイン。「君には世話になったからな」と笑っていた。妙に苦いと思った。そこから先が、ない。
ここは、どこだ。
*
においをかいだ。
木のにおい。すっとする、いいにおい。ひのきだろう。それに、洗剤の、うっすらした花のにおい。
体を少し動かすと、頭の上で、布がさらさらと揺れた。ハンガーにかかった服のすそだ。肩に触れるのは、手ざわりのいいスーツ。毛皮のコート。
床には、厚いじゅうたん。
ウォークインクローゼット。それも、かなり広い。
*
目が慣れてくると、正面に、細い光の線が見えた。
扉が、ほんの少しだけ、開いている。
俺は、体をくねらせて、少しずつ前へ進んだ。縛られた足で床をけって、肩とひじで、じゅうたんの上をはう。いも虫みたいに。
すきまに、目を近づけた。
向こうは、寝室だった。大きなベッド。間接照明の、オレンジ色の光。右手に、廊下へ出るドア。その奥に、壁一面の窓。
窓の外に、夜景が広がっていた。ずっと下の方で、街の明かりが、ばらまいた砂粒みたいに光っている。
見覚えのある景色だった。
去年の忘年会で、一度だけ来たことがある。湾岸の、タワーマンションの最上階。社長の家だ。
あのとき、間取りを自慢された。玄関から長い廊下がのびて、途中にリビングのガラスの扉、廊下のつきあたりが寝室。
廊下の向こうの、リビングから、笑い声が聞こえた。グラスの触れ合う音。低い音楽。
「――乾杯!」
「いやあ、いよいよですね、社長。来週の月曜でしょう、契約」
「長かったよ。二十年かけた会社だからな。高く買ってもらわないと困る」
北浜冷凍食品。業務用の冷凍食品を、全国のファミレスやホテルにおろしている会社だ。来週の月曜、社長は、その株を全部、大手の商社に売る。契約書にサインする日だ。
リビングのパーティーは、そのお祝いだった。
*
三日前のことだ。
商社に出す資料をそろえていて、在庫の数字が、倉庫の数と合わないことに気づいた。帳簿の上では、倉庫に冷凍食品が、実際の三倍は積んであることになっていた。三年分、毎年、少しずつふくらませてある。
経理部長の俺が、三年間、気づかなかった。気づかないように、作ってあった。
その日の夕方、俺は、資料を持って社長室に行った。
「社長。これって、正しいんですか」
社長は、資料を一枚めくって、すぐに閉じた。
「いいんだよ。俺の指示だ。君に非はない」
それだけだった。社長は、もう次の書類に目を落としていた。
「……そうですか」
頭を下げて、社長室を出た。ドアを閉めるとき、ガラスに映った自分の顔が見えた。
ずいぶん、浮かない顔をしていた。
*
がちゃり。
寝室のドアが開いた。廊下の音楽が、どっと流れこんできた。
俺は、すきまから顔を引いて、暗闇に身を沈めた。
「ちょっと、社長。こっち」
女の声だった。社長の秘書だ。
ヒールの音と、革靴の音。ドアが閉まって、音楽が遠くなった。
「何だ。客が待ってる」
「クローゼットの、あの人。月曜までここに置いとくんでしょ。でも、そのあとは? まさか、殺すんじゃ」
クローゼットの中で、俺は息を止めた。
社長が、鼻で笑った。
「そんなわけないだろう。そのあとは、金でどうとでもするさ」
グラスの氷が、からんと鳴った。
「あいつは、金でなんでもする」
「社長ー! スピーチお願いしまーす!」
廊下の向こうから、誰かが呼んだ。
「今行く」
ドアが開いて、閉まった。寝室にいたのは、ほんの一分だった。
*
たしかに、それは事実だった。
給料のいい会社が見つかるたびに、俺は転職してきた。この会社も、三社目だ。残業代が出るなら、何時まででも残った。金額さえ合えば、たいていのことは飲みこんできた。
だが、これは話がちがう。
いくらで黙るか、聞かれてもいない。値段の話をする前に、物置の荷物みたいに床に転がされて、月曜が終わったら、札束を投げてよこされる。
なめられたもんだな……。
ガムテープの下で、奥歯が、ぎしりと鳴った。
*
手だ。
背中のうしろの手で、クローゼットの中を、手当たりしだいに触っていく。靴の箱。ネクタイの棒。引き出しのついた、低い棚。
引き出しを、体で押して開けた。カフスボタンの箱。腕時計。
指先に、冷たくて重いものが触れた。
丸い穴のあいた、金属の道具。葉巻を切るカッターだ。忘年会の夜、社長が、商談がまとまったときだけ吸うんだと、一本くわえて見せびらかしていた。
刃を開いて、結束バンドのすきまに、こじ入れる。刃が、手首の皮をかすめた。熱い。
何度もこじって、やっと、刃がバンドをはさんだ。
ぷちん。
足首を切って、口のテープを、ゆっくりはがした。くちびるの皮が、少しはがれた。
*
玄関へ行くには、寝室を出て、廊下をまっすぐ戻るしかない。
途中に、リビングのガラスの扉がある。パーティーの真ん中から、廊下は丸見えだ。
俺は、窓を見た。窓の横に、ガラスの扉。バルコニーだ。
忘年会の夜、酔った社長が、バルコニーの端の白い板を叩いて笑っていた。
「こんなペラペラの板一枚で、隣は他人の家だ。おもしろいだろう」
寝室に出て、ベッドの陰を低い姿勢で進む。
廊下の向こうで、拍手が起きた。社長のスピーチが始まったらしい。
拍手にまぎれて、バルコニーの鍵を回した。
かちり。
十二月の夜の風が、裸の体に吹きつけた。息が、白くなった。
*
左の端に、白い板があった。
『非常の際は、ここを破って隣戸へ避難できます』
足を上げて、思いきり蹴った。
ばきっ。
板の真ん中が、きれいに割れた。割れた穴をくぐって、隣のバルコニーへ転がりこむ。
隣の部屋は、真っ暗だった。
窓には、鍵がかかっていた。ガラスを叩いた。もう一度、強く叩いた。
誰も、出てこなかった。
バルコニーの反対の端に、また白い板があった。
*
ばきっ。
二枚目。
窓には、鍵。ガラスを叩いた。何度も叩いた。
誰も、出てこなかった。
うしろで、かすかに音楽が聞こえた。社長の部屋のバルコニーの扉を、閉め忘れてきた。
急げ。
*
ばきっ。
三枚目。
鍵。叩く。叩く。
誰も、出てこなかった。
風が、強くなってきた。足の下は、五十階分の夜だ。下は、見なかった。
窓ガラスに映った自分が、ひどかった。血のにじんだ手首。はがれたくちびる。パンツ一枚の、四十すぎの男。
*
四枚目の板の前で、足が止まった。
寒い。
さっきまで痛かった耳が、もう何も感じない。指先が、白くなっていた。歯が、勝手にがちがち鳴る。止めようとしても、止まらない。
クローゼットに、毛皮のコートがあった。肩に、さわっていた。
着てくればよかった。
うしろを振り返った。割れた板の穴が、三つ。その向こうの、社長の部屋のバルコニー。
もう、戻れない。寝室には、また誰かが戻ってきているかもしれない。
足を上げて、蹴った。
板は、割れなかった。足に、力が入らない。
もう一度、蹴った。ひびが入っただけだった。
ひざが、がくんと折れた。冷たいタイルに、手をついた。
――ここで、死ぬのか。
パンツ一枚で。五十階の、知らない家のバルコニーで。
俺は、手すりにつかまって、もう一度立ち上がった。体ごと、板にぶつかった。
ばきっ。
四枚目。
その部屋だけ、カーテンのすきまから、明かりがもれていた。
ガラスに顔を近づけた。テレビの音が、かすかに聞こえた。
俺は、ガラスを叩いた。
こん、こん。
カーテンが、しゃっと開いた。
パジャマ姿のおばさんが、立っていた。髪にカーラーを巻いて、顔に白いパックを貼っている。
目が合った。
「――ひいっ!」
おばさんは、うしろに跳びのいた。
「ご、ごうとう! ごうとうっ!」
「ちがいます、ちがいます!」
言いながら、気づいた。俺は、葉巻カッターを握ったままだった。手首は血まみれで、くちびるはむけて、パンツ一枚で、五十階のバルコニーでがたがた震えている男だ。
どこからどう見ても、強盗だった。
おばさんは、ソファの横の孫の手をつかんで、ガラスごしにぶんぶん振り回した。
「お金なんかないよ! ないからね!」
「いりません!」
俺は、カッターを足もとに置いて、両手を上げた。
「警察……呼んでもらっていいですか」
孫の手が、空中で止まった。
おばさんは、孫の手を下ろさないまま、窓の鍵を、そろりと開けた。
*
おばさんは、何も言わずに、ソファの毛布を俺に投げてよこした。それから、孫の手をひざに置いたまま、お茶をいれてくれた。パックは、貼ったままだった。
「あんた、どこから来たの」
「四軒向こうです。板を四枚、蹴破ってきました」
「四枚も。ご近所さん、みんな留守がちだからねえ。この階で毎日いるのは、私とあそこの社長さんくらいだよ」
おばさんは、ばんそうこうを貼りながら、そう言った。
遠くで、サイレンの音がした。
*
月曜の契約は、開かれなかった。
商社の担当者は、警察から話を聞いた次の日に、取りやめを伝えてきたらしい。北浜冷凍食品の名前は、それから一週間、ニュースの経済の欄に出つづけた。
半年後、会社は、民事再生を申し立てた。
工場と倉庫は、地方の小さな食品会社が引き取った。冷凍のハンバーグは、袋の名前だけ変わって、今も同じファミレスに並んでいる。
俺は、四社目の会社で、また経理をやっている。給料は、前より少し安い。
(了)
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