私の危機と戻ってきた犬
車から降車したアメフト仲間と思しき図体のでかい男たちが、どっと笑った。オークウッド一人が相手でも、十分逃げられなかったが、ぐるりと取り囲まれると、私は完全に埋もれ、周囲から隠されてしまった。
男たちはバカっぽい顔に、粘着質で下卑た笑みを貼りつけている。
私は俄かに慌てた。もがけばもがく程、男たちの腕が絡みついて来て深みに嵌る。悲鳴を上げようとしたら、口を塞がれた。
「ちょっと俺らに付き合えよ。ひとりぼっちのミケイラちゃんに、たくさん友達を紹介してやるからさ。なんなら、君が大好きな犬も用意してやるよ」
私はくぐもった声しかあげられない。でも、悲鳴を上げたとしても、意味はなかっただろう。周囲から笑いさざめく声が聞こえる。
そうだった。私は嫌われ者だ。ここは親父の邸じゃない。私の味方はいないのだった。男たちは私を抱えて、車に押し込もうとする。
車に連れ込まれたら、その後どうなるか。考えるまでもない。ろくな事にならないのが目に見えている。もしかしたら、オークウッドの他の三人も、私にふられて腹を立てている男たちなのだろうか。不愉快なことは忘れる主義なので、顔なんていちいち覚えてない。
例えそうだとしても、女一人に立派な体格の男が四人がかりとは。情けなくないのだろうか。情けないとか恥ずかしいなんて感じる脳みそがあったら、こんなことになっていないか。
私は男たちを嘲った。男たちは男たちで、私を嘲笑っている。
「さぁ、ABCのお勉強だ」
私はバージンじゃないが、こんな汗臭い低能男たちに良いようにされるのは、絶対に御免だ。私は我武者羅に暴れた。ジーンズを履いていたので、遠慮なく足掻く。男どもを容赦なく、引っ掻いたり蹴飛ばしたりした。しかし、あまり効果がない。ピンヒールパンプスでも履いておけばよかったと歯噛みする。一足も持ってないけど。
担架に載せられた死体のように持ち上げられる。手荒く、後部座席に投げ込まれた。
頭をしたたかにドアに打ちつける。しかし、痛がったり苦しがるのは後から出来る。私はぱっと体を起こした。
すると、アメフト男どもの情けない悲鳴が上がる。四人の男が石ころのようにぽんぽんと投げ飛ばされていた。ギャラリーの悲鳴があがる。驚きの悲鳴や、怯えた悲鳴に交じって、黄色い悲鳴も上がっている。
私はわけがわからない。とにかく、この好機を逃すわけにはいかないので、大急ぎで車内から飛び出した。
オークウッドとその仲間たちはアスファルトの舗装道の上で伸びている。それらを踏み越えて、長身の男が近寄ってきた。真っ白な髪が、タンポポの綿毛のようにふわふわと揺れる。
丹精込めてつくられた人形のような顔の中で、動物めいた感情のない緑色の目で私を見つめる。そして、ゆっくりと唇を動かした。
「ミス、ト、レ……ス」
私は目を見開いた。男が握りしめた拳から、血がぽたぽたと滴る。オークウッドの鼻を圧し折った拳の指の間から、灰色の毛皮と、蚯蚓のような尻尾がはみ出していた。
スノーウィだ。肩幅が広く、骨格はがっしりとしていて、腹に響くような低い声をしているけれど、スノーウィに間違いない。この五年間で、見違えるほど逞しく成長した、スノーウィが目の前にいた。
犬だったスノーウィが、人間のように二本足で立って、言葉を話している。
シンクレアと一緒に遠い街に逃げた筈なのに、なぜかここにいて、私の敵をやっつけた。
私が無言でいると、スノーウィは四つん這いになった。長い手足でぎこちなく這い進んで来て、私の足に頬を擦り寄せる。
周囲のどよめきが遠い。ここが五年前の邸の中なのだと錯覚してしまいそうだ。スノーウィは、五年間の空白など最初から存在しなかったかのように、あの頃と同じように、私に擦り寄っている。
私はショルダーバックの肩紐をぎゅっと握りしめる。
「こんなとこで、なにしてんの」
私が軋るような声で言うと、スノーウィは私を見上げた。不思議そうに首を傾げる。私がきつく睨みつけると、スノーウィはきゅうん、とか細く鳴いて後ずさりする。右手が腹部をまさぐり、青いチェックのシャツのボタンを外そうとしている。
スノーウィの垢ぬけない風采は、シンクレアのスタイルを彷彿とさせた。
きっと、シンクレアが選んで、着せているのだろう。二本脚で歩けるように、言葉を話せるように、シンクレアが手をつくしたのだろう。
私以外には決して懐かないスノーウィを、シンクレアは噛まれたり、引っ掻かれたりしながらも、根気強く世話を焼いたのだ。そして少しずつ、人間に戻した。
どれだけの労力を要しただろう。シンクレアはどれだけ、この犬の為に尽くしたのだろう。私は、スノーウィの左手の下で潰れている肉塊を一瞥して、はき捨てるように言った。
「あの、気色悪いギフトはお前の仕業ね」
スノーウィは左手をさっと退けた。周囲から悲鳴が上がるが、そんなのお構いなしに、スノーウィは肉塊を口に咥えて私の足元に寄って来た。その目が期待に満ちている。昔のように、誉めて貰えると信じている。
私はすっと屈みこむと、スノーウィの横面を力いっぱい張った。ネズミの死骸が地面に落ちる。
私は、ふんふんと鼻を鳴らすスノーウィの顎を掴んで、訊いた。
「なぜ今更、私の前に現われた?」
「ミストレス……あいたかった。スノーウィ、いぬ。ミストレスの、いぬ」
スノーウィは拙い言葉を懸命に紡いでいる。言葉を教えたのは、シンクレアだ。シンクレアは優秀な教師だ。狼少女も、シンクレアに育てなおして貰えば人間に戻れたかもしれない。
私はスノーウィの頬をもう一度張った。スノーウィの目が焦点を失い、ぼんやりする。私はスノーウィの前髪を鷲掴みにした。
「お生憎様。お前みたいなバカ犬は、いらない。わかる? 私はお前を捨てたんだ」
「ミストレス……スノーウィ、いぬ……」
子どものようなたどたどしい口調に腹が立つ。私は力任せにスノーウィの顔面をアスファルトに叩きつけた。
スノーウィはされるがままだ。ごつんと重い音をたててアスファルトに顔面を強打した。額が割れたかもしれない。鼻が折れたかもしれない。
しかし、その綺麗な顔がどうなっても、構うものか。これはもう、私の犬ではないのだから。
私は素早く居上がると、スノーウィに背を向けた。
「消えろ。お前は私からあの人を奪った裏切り者だ。二度とその卑しい面を見せるんじゃない」
「ミストレス……」
立ち去ろうとする私の足に、スノーウィがすがりつく。掌や指のはらの皮膚が分厚く、ごわごわしている。手は犬のままらしい。
スノーウィは血塗れの唇で私の足に何度もキスをして、懇願した。
「ミストレス……ください、ばつ、ばつを……ゆるして、おねがい……」
「罰はお前にとって辛いことじゃなきゃいけない。でも、いくら痛めつけても、お前には罰にならない。だから、私はお前を罰しないし、許さない」
私がそう放言すると、スノーウィの顔が真っ青になった。まるで絶望した人間のような表情だ。
私はスノーウィを置き去りにして、その場を走り去った。
スノーウィがどうやって、私のところへ来たのかは、わからない。けれど恐らくは、シンクレアの目を盗んでやって来たのだ。その証拠に、シンクレアは私の前に姿を現さなかった。
シンクレアは私を捨てて逃げた。スノーウィを連れて逃げて行った。私にそうしろと言ったように、シンクレアはスノーウィを大切にしている。
それなのに、スノーウィはシンクレアを裏切ってここに来てしまったのだ。私が喉から手が出るほど欲しいものを手に入れた癖に、平気で手放そうとする。私には、どうしても許せなかった。
スノーウィは追いかけて来なかった。そして、もう二度と、学校には現われなかった。私が捨てた犬は、煙のように消えたのだった。