犬の狩り
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一週間後の三月二十二日は、一年三百六十五日の中で、最も意味のある日だ。ミケイラの誕生日であり、スノーウィが彼女の犬になった日である。
そして、彼女が俺のものになる、運命の日だ。
俺は豚と打ち合わせをして、段取りを決めた。犬に指示を出し、何時何処でいなくなっても、誰も気にも留めないようなクズ男を三人、金で雇った。
俺の筋書きはこうだ。
まずは犬が、ミケイラを呼び出す。豚はミケイラに電話をして、犬をスノーウィだと思いこませる。そして、ホステルの部屋で待機しているクズ男たちが、ミケイラを凌辱する。
俺は犬とクズ男どもにそれぞれ、計画を伝えた。
犬は唇を噛みしめ、物言いたげな目で俺を見つめた。犬の意見になど、端から耳を貸すつもりはない。ましてや、お説教なんて聞くわけがない。俺は札束を入れた分厚い封筒を、犬の胸に押しつけた。
「この分の前金だ」
喉から手が出るほど欲しい大金で頬を叩かれ、犬が戦慄いた。葛藤で震えながらも、手が受け取ろうとして跳ねあがる。
ちょろいもんだと、俺は心の中でほくそ笑む。踵を浮かせ、体を四十五度倒した犬の背を、とっておきの呪文で押してやった。
「妹の手術がうまくいくことを、俺も祈っている」
犬の天秤は、狂っている。妹を片皿に載せれば、もう片方に地球が丸ごと乗ったとしても、妹の方に傾く。
札束を受け取った犬に背を向け、俺は嘲笑った。
犬の妹は手術を受けられるだろう。それだけの金を、俺は出した。犬の命と引き換えだ。犬には伝えていないが、文句はないだろう。何せ、犬にとっての妹は、俺にとってのミケイラと同じらしいから。
それだけではない。あの犬畜生は、俺のミケイラの恋人になって散々、甘い蜜を貪った。命のひとつやふたつ、擲つ覚悟があって当然だろう?
一方、クズ男たちは乗り気だった。ミケイラの写真を見せると、悪童のようにはしゃいだ。
「こんな美人をヤって、金まで貰えるのかよ!」
「うっひょー! こいつはツいてるぜ!」
ハイタッチする男たちを傍目にかいた俺は、深呼吸を繰り返し、怒りを堪えていた。ミケイラを視姦する、クズどものいやらしい目を抉り出して、汚いケツ穴に詰めてやりたい。股間の悪い腫瘍を切除して、卑猥な言葉ばかり飛びだす下品な口に突っ込んで、黙らせてやりたい。
しかし、我慢だ。あとのお楽しみだ。
はしゃぐ仲間たちを尻目に、ゴーレムのような大男は俺を凝視している。疑い深い小さな目だった。
「美味しい話だ……怖いくらい、な」
俺は感心した。当然の猜疑心を働かせる程度には、薬をセーブしてキメる理性を残しているらしい。
しかし、その程度の疑念を向けられることは、想定内である。俺はうろたえず、淡々と言った。
「クライアントには特殊な事情がある。だがその分、金は出し惜しまない。前金で半額、うまくやれば、即日で残額を払う。撮影した写真をネタに彼女をゆすって得られる金は全額、お前らのものだ。ただし、ことを子細に知らせるつもりはない。詮索するなら他をあたる。この好条件だ。お前らがこの依頼を蹴れば、喜んでかわりをする奴が五万といるだろうな」
踵を返そうとすれば、屑どもは卑屈に媚びて俺を引きとめた。
所詮は、金とミケイラの魔性に目が眩んだ、爛れた脳味噌が下半身と直結したクズ野郎どもだ。掌でころころ転がる。
準備を整えた俺は、最後に豚に電話をかけた。豚は黙って俺の話しを全て聞いた。そして、出しぬけにこう言った。
「おセンチになってるな。この期に及んで、忠犬根性が抜けきらねぇか?」
返答に窮する。ある意味、図星をつかれてしまった。
俺は懊悩している。迷いをふっきれたとは言い難い。生れ変わり、ミケイラを俺のものにする為とは言え、ミケイラを傷つけることを躊躇ってしまう。本当に、これがベストな方法か? 他に方法があるのではないか? 守るべき、愛するミケイラを傷つけるしかないのか?
このところ、毎晩のように悪夢を見る。ミケイラの美しい肢体に、黒い手が無数に這いまわり、悪魔たちがミケイラの体を貪り食う。ミケイラは綺麗な涙を流しながら、心が死んでしまったような目で俺を見る。
俺は気も狂わんばかりなのに、硝子一枚隔てた場所から、ミケイラの苦しみを見ていることしか出来ない。
まんじりとしては、魘されて跳ね起きることを繰り返す。ろくに睡眠がとれない。
豚はすべてをお見通しなのか。豚には、俺の心の中が読み取れるのだろうか?
俺は口中に溜まった唾液を飲み込んだ。
「買い被りだ」
「だといいがな。スノー。君はもうこれ以上、辛いことを我慢するべきじゃない」
豚の真剣さは過たず伝わった。俺は返すべき言葉を見つけられなかった。結局、話題を変えるしかなかった。
「最後に、頼まれてくれ。あんたの口座に金を振り込む。それを、フィリップ・ターナーの妹に渡して欲しい」
俺は必要最低限の情報だけ伝えた。豚は何も聞かずに引き受けた。
「わかった。あとのことは任せろ。君は幸せになれ」
いつもなら、用件が済めば即座に通話を切る。しかし今回だけは、俺はそうしなかった。ゆっくりと五つ数えるくらい間を置いた。豚は何も言わなかったので、俺は通話を切った。
その後、俺はしばらくの間、携帯電話を耳にあてていた。
「さようなら……ケイン」
俺はとっくに通話の切れた携帯電話に向かって言った。そして、一通のメールを送り終えると、登録していたケイン・シンクレアの電話番号とメールアドレスを削除した。今頃、彼も同じようにしているだろう。
彼とはもう、連絡をとらない。これでお別れだ。
俺なんかの父親になりたいと言う男はきっと、この俺の人生で、彼だけだろう。あんな男は、彼以外にいない。
俺は得体の知れない後悔にとりつかれた。何に対する後悔なのかは、ついにわからなかった。
***
とうとう、三月二十二日がやってきた。
俺は開店時間きっかりに、ゴールデン・アップルを訪れた。まだ陽があるうちに来店するのは初めてだ。そもそも、ここは店も客も夜行性だから、早い時間はがらんとしている。
クソジジイこと支配人は、早い時間の俺の来店を意外に思ったのだろう。目をしばたかせたが、次の瞬間には、いつもの食えない笑みで俺を歓迎した。
「いらっしゃい、スノー。随分早いお越しだ。仕事をお探しかな? お誂え向きなのがきてるんだが?」
支配人はカウンターの端の、俺の指定席の前に移動している。俺はスイングドアの前で店内を見渡した。カウンターの陰になった、奥まった席にも目を配る。客が俺しかいないことを確認して、ゆっくりと店の中央に移動しながら、言った。
「待ち合わせをしている。二時間後、長い黒髪の綺麗な女性が来る。俺の席の隣に座らせて、待って貰ってくれ」
支配人はひょいと眉を持ち上げて、食いついてきた。
「ほほう、綺麗な女性? お宅に、恋するハートがあったとは、驚きだ。崇拝者たちが涙の川に落ちるオフィリアになってしまうね」
俺は買ったばかりのサングラスを胸ポケットから取り出して、かけた。濃い色のレンズの奥からでも、俺に睨まれたことがわかったのだろう。支配人はひょいと肩を竦めて、ホールドアップした。
「構わないよ。そうそう混み合う店でもない。愛しの君を待ち詫びる間に、一杯どうだい?」
支配人の手許には、オレンジジュースとマンゴージュースの瓶が用意されている。シェイカーの蓋は既に開けられており、ぴかぴかに磨かれた空のグラスが隣に置かれていた。流れるような手際だ。俺は小さく溜息をつく。この老人とは必要以上の会話をしないに限る。レールの上を走らされ、老人があらかじめ設定した感情に落としこまれるだけだから。
「隅のテーブル席に運んでくれ」
そう言うと、俺はさっさとカウンターを回って、奥のテーブルに着席した。伸びあがった支配人が、胡乱気に声をかけてくる。
「こっちで待つんじゃないのかね?」
「少し込み入った事情の二人の逢瀬だ。ここは、客の事情を詮索する下品な店じゃないだろう」
あてこすると、支配人は微苦笑の表情で恭しく一礼した。
「これは失礼いたしました。仰る通りに致しますよ、お客様」
支配人がシェイカーを振る小気味良い音を聞きながら、俺は腕組をして背もたれに凭れ、目を閉じた。
昨夜は一睡も出来なかった。休息が必要だ。眠るわけにはいかないし、眠れないだろうが、目を閉じて体を休めるくらいは、しておいた方がいい。いざというときに、素早く判断し、動けるように、
今宵、ついに俺はミケイラに会う。




