第127話:記憶、戻る
ズチュッ、と。
古い剪定鋏の刃先が、久野原透の右脇の下を深く貫いた、その瞬間。
俺の脳の、一番固く閉ざされていた領域のロックが、ガラスが粉々に砕け散るような音を立てて、一気に崩壊した。
――奔流。
脳裏を覆っていた、あの分厚く、重苦しい灰色の霧が、一瞬にして吹き飛ばされる。
その霧の向こう側から、五十二年分に及ぶ、圧倒的な『生命の色彩』が、生々しい熱と温度を伴って、俺の脳内へと一雪崩に流れ込んできた。
それは、ただの白黒の図面ではない。
中東の乾いた砂の匂い。
夜明け前の塹壕で、凍えながら啜った、泥水のような安コーヒーの苦み。
弾丸が耳元を掠めていったときの、あの、心臓が爆発しそうなほどの強烈な窒息感。
そして、失ってきた無数の仲間たちの、冷たくなっていく手のひらの重さと、彼らの最後の呼び声。
それらのすべてが、単なる他人の読んだ小説の記録ではなく、間違いなく俺自身が、その泥に塗れた手で掴み取り、流し、生き抜いてきた、血の通った歴史として、俺の魂へと定着していく。
五十二年分の、あまりにも重く、あまりにも痛々しい、俺の人生のすべて。
それが、今、この十六歳の、華奢で綺麗な少女の肉体へと、強引に押し込まれていく。
「……あ、が……っ!」
脳が、神経が、肉体が、その圧倒的な質量の情報に耐えかねて、悲鳴を上げた。
俺は、右脇の下に鋏を突き立てたまま、膝から床へと崩れ落ちそうになる。
右肩の古傷が、あの日、バジリスク戦で引き金を引いた瞬間の、骨がきしむような衝撃波をなぞるようにして、脳を直接焼くような生々しい感覚で激しく疼く。
だが、その生々しい痛みの熱こそが、俺に、確かな現実の手応えを返してくれていた。
「主君!」
アーサーが叫び、大剣を構えたまま、俺の肩を抱き起こそうと駆け寄ってきた。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
彼を見つめる、俺の視線。
その視線の重みが、一瞬にして、変わった。
ただの「退院後に教えられた、忠実な旧部下」という記号ではない。
あの朝、新兵だったお前を蹴飛ばして生かしたときの、お前の震える肩の感触。
作戦の翌朝、二日酔いで頭を抱えていたお前の、あの情けない顔。
そして、お前が俺の背中を信じて、その大剣を振り回し続けてくれた、あの三十年間のすべての歩み。
言葉は、必要なかった。
俺は、駆け寄ってきたアーサーの、その太い右肩を、俺の華奢な左手で、静かに、だが、力強く一度だけ叩いた。
ポン、と。
ただ、それだけの動作。
だが、アーサーの動きが、ピタリと止まった。
大剣を握る彼の手が、微かに震え、その濡れた瞼から、一滴の涙が床へと落ちた。
彼には、伝わっていた。
俺の、その手のひらの硬さと、叩いた強さのテンポだけで。
俺が、今度こそ本当に、彼の『主君』として戻ってきたということが。
「……主君……っ」
アーサーの声は、今にも崩れそうなほど湿っていた。
「泣くな、アーサー。……お前は、いつまで経っても泣き虫の新兵だな」
俺が、低く、砂を噛んだように掠れた声で告げると、アーサーは、深く、深く頭を下げた。
アリスもまた、サブマシンガンを構えたまま、俺の顔をじっと見つめていた。
彼女の硝子のような青い瞳の奥に、言いようのない安堵の光が宿る。
「おかえり、ハルト。……やっぱり、あなたは私の知っている『あの人』だわ」
「ああ。……待たせたな、アリス」
俺は立ち上がり、古い剪定鋏を、透の肉体から音もなく引き抜いた。
透は、右脇の下を押さえながら、数歩、後ろへとよろめいた。
彼の全身を這い回っていた青白い魔素の『紋様』は、完全にその流動を失い、ガラスが砕け散るような音を立てて、一気に霧散していく。
「……ば、馬鹿な……。魔素を介さない、ただの物理的な刃物が、私の適応回路を……」
透の、光を通さない硝子玉のような瞳が、初めて、言いようのない敗北感と絶望に歪んだ。
ポケットの中の端末が刻むカウントダウンは、すでに『09:12』を示している。
「久野原。……お前たちの歪んだ天秤の、最後の枝を、今から切り落としてやる」
俺は、古い剪定鋏を握り直し、静かに、彼へと歩み寄った。




