第125話:透の本気
旧政府施設の地下二階へと続く、冷たいコンクリートの非常階段。
俺たちは、非常用の赤いインジケーターが刻む、血のような明滅の中を、音もなく駆け下りていた。
肺を通る冷たい空気が、走るたびに喉の奥をヒリつかせる。
少女の華奢な肉体は、すでに限界に近い疲労を訴え始めていたが、俺の意志はそれを強引にねじ伏せ、一歩ごとの歩幅を正確に保ち続けていた。
ポケットの中の端末が刻むカウントダウンは、すでに『12:15』を示している。
セナが自らの脳の鍵をフリーズさせてから、すでに二分半が経過していた。
階段を降りきった先。
突き当たりの重厚な防爆扉が、すでに何者かの手によって内側から開放されていた。
その向こうに広がっていたのは、予備の制御室だった。
一階のドーム状の空間よりも一回り小さいが、壁一面に並ぶ予備のサーバーラックが、不気味な青い光を放ちながら、低く唸りを上げて駆動していた。
その空間の中央。
コンソールデスクの前に、久野原透が静かに立っていた。
だが、彼の様子は、先ほど一階で対峙した時とは明らかに異なっていた。
スリーピースの黒いスーツの袖口から覗く、彼の両手。
その皮膚の表面に、青白い魔素の光を放つ、幾何学的な『紋様』が、まるで生き物のように脈動しながら浮かび上がっていた。
彼の瞳は、光を通さない硝子玉のような灰色から、濃密な魔素の青い輝きへと変質している。
「……再構成は完了しました、大尉」
透の声は、先ほどよりもさらに低く、職務を淡々と遂行する機械のような、絶対的な冷徹さだけがそこにあった。
「私は、義父が遺した三十年分の研究成果のすべてを、今、この肉体に直接『注入』しました。……肉体の魔素適応率、100パーセント。私は、人類が到達すべき新秩序の、最初の完成体となったのですよ」
透がゆっくりと右手を持ち上げると、彼の周囲の空気が、キィンと甲高い共鳴音を立てて激しく歪んだ。
「主君、下がれ!」
アーサーが叫び、大剣を構えて前に躍り出た。
「ぬんっ!」
アーサーの全身から放たれた、Sランク冒険者としての圧倒的な魔力が、黄金の光の刃となって大剣の軌道に収束する。
空間ごと敵を逆手に叩き斬る、彼の一撃。
だが、透は、避ける動作すら取らなかった。
黄金の魔力の刃が、透の胸元に直撃した、その瞬間。
キィィィィン――。
耳を劈くような高周波の共鳴音とともに、アーサーの大剣から放たれた黄金の魔力が、透の皮膚の表面に浮かぶ青白い『紋様』へと、掃除機に吸い込まれるようにして、音もなく吸い上げられていった。
「な……にっ!?」
アーサーが驚愕に目を見開く。
「無駄ですよ、ペンドラゴン氏」
透は、平坦な声を響かせた。
「私の防御特性は、魔素回路を経由するすべてのエネルギーを、瞬時に吸収・変換する設計となっています。……魔法、スキル、魔素を帯びた剣技。それらはすべて、私の肉体を強化するための『肥料』に過ぎないのですよ」
アリスが、すかさずサブマシンガンを構え、対魔弾を連射した。
乾いた金属音が室内に響き、弾頭が透の眉間へと正確に吸い込まれていく。
だが、それすらも、透の周囲に展開された青白い魔素の障壁に触れた瞬間、弾頭に込められた魔素成分が一瞬で吸い取られ、ただの歪んだ鉛の塊となって、床へと虚しく転がり落ちた。
「……嘘でしょ。対魔弾すら、無効化するなんて」
アリスの青い瞳に、絶望に近い動揺が走る。
俺は、その一連の攻防を、じっと見つめていた。
(魔素を経由する攻撃は、すべて吸収・無効化される。……ならば、魔素を一切纏わない、純粋な物理攻撃はどうだ?)
だが、通常の鉛の弾頭では、彼の展開する魔素の障壁に触れた瞬間に、弾頭に込められた微細な魔素成分を奪われてただの鉄屑になる。
だが、俺の右手にある、この古い剪定鋏はどうだ。
これは、ダンジョン産の魔石粉も、魔素中和の術式も、一切施されていない。
ただの、昭和期の古い鉄鋼を鍛え上げて作られた、純粋な物理的な刃物だ。
そして、俺の目は、透の身体の表面を這い回る、あの青白い魔素の『紋様』の流動を、静かに捉えていた。
それは、奔放に伸び散らかった、黒松の枝のようだった。
主幹から四方に伸びる、無数の魔素のライン。
一見すると、隙間のない完璧な防護網に見える。
だが、その流動の交差点には、必ず、全体のバランスを維持するための『節』が存在する。
古い剪定鋏を逆手に握り締める。
俺の身体には、その唯一の活路をこじ開けるための、消えない技術の『幹』が、確かに通っていた。
カウントダウンの数字は、すでに『11:45』を示している。
「お前が魔素を吸い上げるというなら、吸うだけ吸っておけ。……俺の鋏が切り落とすのは、お前の首の皮一枚、ただの物理繊維だ」
俺は、古い剪定鋏の刃先を、透の青白い魔素障壁の『極小の隙間』へと、音もなく滑り込ませた。




