第118話:偽取引、潜入
作戦決行の夜。
学園都市の北西端に位置する、旧政府施設跡地。
錆びついた鉄条網の向こうにそびえ立つコンクリートの巨体は、深夜の魔素嵐に打たれ、まるで闇の中にうずくまる巨大な墓標のように見えた。
叩きつけるような風が、鉄条網をキィキィと軋ませている。
俺は防寒用の黒いタクティカルジャケットの襟を立て、闇の中に視線を走らせた。
隣には、漆黒のタクティカルベストを身に纏い、背中に巨大な大剣の柄を覗かせたアーサー。そして、手慣れた手つきでサブマシンガンのボルトを引き、薬室に初弾を送り込んでいるアリスが静かに佇んでいる。
「本当に、この三人だけで行くのね。……まるで、自殺志願者の遠足だわ」
アリスが、銃口を下げたまま、皮肉混じりの低い声で呟いた。
「大部隊を動かせば、それだけ首魁の警戒を招く。……それに、これは取引だ。俺たちが『降伏』の意思を示して潜入する以上、少人数である方が都合が良い。田中の突撃部隊とハッキング班は、俺たちが最深部をこじ開けた瞬間に、外周から一気に突入させる手はずになっている」
俺は、懐から取り出した小型の通信端末に視線を落とした。
画面の向こうでは、学園の臨時防衛司令部に残った田中と、そこで医療モニターに繋がれた如月セナの脳波データが、並列で表示されている。
セナは現在、田中の手配した特殊な魔素シールドルームの中で、脳の『鍵』が暴走した際のバックアップシステムと同期している。
首魁、久野原透がセナの脳に仕込んだ受信器。
その解除信号を送信するためには、俺たちがこの施設の最深部にあるメインサーバーへ直接、物理的なアクセスキーを差し込まなければならない。
そして、その処理を開始した瞬間から、セナの脳が強制同期の負荷に耐えられる限界時間は、正確に三十分。
それを一秒でも過ぎれば、彼女の脳波は過剰な魔素の逆流によって、完全に焼き切れる。
「セナちゃんの同期準備、完了いたしました」
通信の向こうから、田中のカサついた声が聞こえてきた。
彼の背後からは、かすかに学園の防衛警報の音が漏れ聞こえている。地上でも、すでに敵の陽動と思われる共鳴現象が始まりつつあるのだろう。
レオたちが、あそこで学園を守っているはずだ。
「主君。……いつでも、行けます」
アーサーが、静かに、しかし鋼のような決意を秘めた声で告げた。
記憶を失った俺を、彼は今も変わらず『主君』と呼ぶ。
その呼び声の響きだけが、俺の胸の奥に、言葉にならない確かな錨を下ろしてくれていた。
「よし。……これより、潜入を開始する」
俺は端末をポケットにしまい、旧政府施設の錆びついた防爆扉へと近づいた。
首魁から提示された取引の条件は、俺の『戦闘最適化データ』の完全提供。
そのための簡易接続デバイスが、扉の横にあるコンソールに配置されていた。
俺は、そのデバイスを手に取り、自分の首筋へと近づけた。
デバイスのセンサーが、俺の生体魔素波形を読み取り始め、ランプが青から赤へと変わる。
これで、俺の生体データが首魁のサーバーへと送信され始めた。俺たちが『取引に応じた』という、偽りの証明だ。
重厚な防爆扉が、みしみしと錆びた音を立てて、ゆっくりと左右に開き始めた。
奥へと伸びる、無機質なコンクリートの通路。
照明はすべて落とされており、非常用の赤いインジケーターだけが、血のような光で闇を染めている。
「……歓迎されてるみたいね」
アリスが、暗視ゴーグルを下ろしながら呟く。
「油断するな。……ここからは、一歩ごとに命の値段が変わる」
俺は、ポケットの中で、古い剪定鋏の冷たい柄をそっと指先で確かめた。
指先に馴染む、使い古された金属の冷たい重み。
その感触だけが、俺の失われた五十二年が、確かにこの身体に刻まれているという、唯一の証明だった。
通路の奥から、かすかに電子的な駆動音が聞こえてくる。
セキュリティドローン、あるいは潜伏するウロボロスの構成員。
俺の『危機察知』――長年の戦場で培われた、ただの経験則に過ぎない異能が、闇の奥に潜む無数の『不要な枝』の気配を捉えていた。
俺は、手元の端末のカウントダウンボタンを親指で押し込んだ。
ピ、と短い電子音が響き、画面に『30:00』の赤い数字が浮かび上がる。
次の瞬間、数字は『29:59』へと滑り落ちた。
「三十分か。……戦場じゃ、お釣りが来るほどの時間だな」
俺は、大剣を構えたアーサーと、サブマシンガンを構えたアリスに、短く顎で合図を送った。
俺たちは、闇の中へと、静かに滑り込んでいった。




