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プロローグ 初めましての、その前に

 配信開始まで、あと三分。


 画面の中央で、カウントダウンの数字だけが淡々と減っていく。


 それを見つめながら、僕は何度目かわからない深呼吸をした。


「……大丈夫」


 声に出してみる。

 返ってきたのは、まだ少しだけ聞き慣れない、高くて柔らかい声だった。


 この声になってから、もうしばらく経つ。

 それでも静かな部屋でひとり呟くたびに、ほんの少しだけ胸の奥がそわつく。


 僕の声なのに。

 まだ時々僕の声じゃないみたいに感じる。


 机の上には、手書きのメモが一枚。


 ・ゆっくり話す

 ・自分の名前を間違えない

 ・コメントを全部読もうとしない

 ・噛んでも止まらない

 ・謝りすぎない

 ・水を飲む

 ・深呼吸


 最後の「深呼吸」だけ、二重線で囲ってある。

 書いた時の僕がかなり追い詰められていたことがよくわかる。


 いや、今も十分追い詰められている。


 モニターには、待機画面が映っていた。

 赤と黒を基調にした背景。小さく揺れる炎のような装飾。

 中央には、今日から僕が名乗る名前。


 紅音エリス。


 まだ、その名前を見るたびに少しだけ胸がざわつく。


 綺麗な名前だと思う。

 強そうで、少し冷たくて、でもどこか寂しそうで。

 僕には、少し眩しい。


 画面の隅では、すでにコメントが流れはじめていた。


『待機』

『新人ちゃん楽しみ』

『声どんな感じかな』

『ナギちゃんが言ってた子?』

『緊張してるかな』


「……緊張、しています」


 誰に返したわけでもないのに、つい答えてしまった。

 もちろん、まだ配信は始まっていない。

 誰にも聞こえていない。


 それなのに、言葉にした瞬間、少しだけ恥ずかしくなった。


 僕は、人前に出るのが得意じゃない。

 大きな声で笑うのも、誰かの中心に立つのも、昔から苦手だった。


 できれば、部屋の隅で静かにしていたい。

 誰にも気づかれず、誰の邪魔にもならず、ただ好きなことだけをしていられたら、それで十分だった。


 …そのはずだった。


 人生という道は、たまに信じられない方向へ曲がる。

 しかも曲がり角に標識がない。


 せめて「この先、TSしてVtuberデビューするよ」とか書いておいてほしかった。


「……いや、書いてあっても困るか」


 小さく呟いて、少しだけ笑う。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 配信用アプリのプレビュー画面には、ひとりの少女が映っている。


 黒を基調にした、少しゲーマーらしい現代風の衣装。

 赤いラインと小さなアクセサリーが、控えめに彼女の印象を引き締めている。

 長い黒髪は左右で軽く結われ、ツーサイドアップの毛先が、画面の中でふわりと揺れていた。

 幼さの残る顔立ちに、赤い瞳。

 表情は少し無口そうで、クールに見えるのに、どこか放っておけない危うさがある。


 紅音エリス。


 画面の中の彼女は、僕のまばたきに合わせて静かに目を伏せる。

 僕が息を吸えば、ほんの少しだけ肩が揺れる。


 他人みたいなのに、確かに僕だ。


 少し小さくなった手で、マイクの位置を直す。

 指先は冷たい。


 …怖い。


 この名前で呼ばれたら、僕はちゃんと返事ができるだろうか。

 この姿で笑ったら、誰かは笑い返してくれるだろうか。

 僕の声は、画面の向こうまで届くだろうか。


 わからない。


 わからないことばかりだ。


 でも、ひとつだけわかっている。


 僕は、自信があるからここにいるわけじゃない。


 ただ、誰にも知られない場所で続けてきたものを、見つけてくれた人がいた。

 僕のプレイも、声も、誰かに届くかもしれないと言ってくれた人がいた。


 だから、少しだけ信じてみたくなった。


 僕の好きなものが。

 僕の声が。

 僕自身が。


 この画面の向こうにいる誰かへ、届くかもしれないということを。


 配信開始まで、あと一分。


 心臓の音が、ヘッドホン越しにも聞こえそうだった。

 マウスを握る小さな手が震える。


 …でもここまで来たらやるしかない。

 

 これまでだって、どんな不利な試合(ゲーム)でもこの小さな手で勝ち切ってきた。


 だから、大丈夫。


 たぶん。

 きっと。

 …できれば。


 画面に新しいコメントが流れる。


『初配信がんばれ』


 たった、些細な一言。


 それなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「……ありがとうございます」


 まだ届かない声で、そう返した。


 開始十秒前。


 僕はメモを伏せた。

 水を一口飲む。

 マイクの位置をもう一度だけ直す。


 画面の中の紅音エリスと目が合う。


 この先に何があるのかは、まだわからない。

 うまく話せるかもわからない。

 笑われるかもしれない。

 何も残せずに終わるかもしれない。


 それでも。


 この小さな声で、最初の一言だけは言わなければいけない。


 3。

 2。

 1。


 待機画面が消える。


 コメントが、一気に流れ出した。


 僕は息を吸う。


 そして、できるだけ丁寧に、世界へ向けて声を出した。


「はじめまして。たまゆらプロジェクト二期生、紅音エリスです」


 その瞬間。


 誰にも知られていなかった僕の物語が、初めてみんなに届いたんだ。

続くかは反応次第です

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