砂の大地
某所、11月の下旬。掛け時計が午後9時58分を指し、蛍光灯が照らす部屋の中は四角く茶色の机、白い小型冷蔵庫、しきっぱなしの布団と机に向かった男一人のみだった。その殺風景な部屋の主、吉岡太郎は部屋の中央であぐらを掻いて時計を見ていた。彼の視線は恨めしそうであり、12時の目盛から6時の目盛までを行ったり来たりする。机には赤いケースを着た携帯が白い充電コードに繋がれてぽつんと置かれていた。午後9時59分、瞬きは十回。乾いた唇を舐めて鼻を鳴らした。左腕に嵌めたアナログ式の電波時計はいまだに21時59分を表示していた。長い一分間が過ぎて午後10時バイブ音が机を揺らした。彼は直ぐさま携帯を手に取った。
「もしもし」
「タロちゃん元気?」
母親の声に太郎は渋い顔を作る。彼にとってこれは何時ものやりとりだった。
「元気だよ」
「最近は珍しい風邪が流行っているからね。手洗いうがい。最近動画で見たストレッチ教えようか」
「いらないね」
少し間が空く。太郎はジーパンから糸くずを取りながら意を決し口を開いた。
「もうタロちゃんは止めてくれるかな、恥ずかしいよ。それに、電話も」
「可愛いからいいじゃない。電話はお友達が出来たら止める。どうせ居ないでしょ」
太郎は大げさに笑顔を作った。携帯を持っていない左手は力一杯拳を握りしめている。
「お母さん、あのね」
タロウの母は話し始めている彼の言葉を潰すように話す。
「ごまかさなくても解ってる。昔から引っ込み思案だからね」
母の引くような笑い声が聞こえる。太郎は声を張り上げた。
「もう電話を止めて欲しい!」
母の笑い声は一瞬止まり、更に大きくなった。
「貴方が思い付く訳無いよね?」
電話越しに息をつくような吐息が聞こえた。
「お友達にアドバイスされたの?お母さん安心した。じゃあ土日だけにするね」
太郎の視界が歪み黒く染まった。
「クソババア」
「えっ?」
電話を切った指先の爪下の肉とその両脇の肉が真っ白になっていた。震える吐息を吐き出した太郎は携帯を持ち上げて布団へ投げ捨て頭をかきむしった。
「お前の電話で友達が出来ないんだよ」
血が付いた両手で顔を覆うと生臭い血の臭いが彼の鼻腔に吸い込まれた。暗闇で何度か瞬きすると太郎は玄関入口に向かった。全く使われていない台所には乾いた水の跡が白く残っている。下駄箱の隣には上着かけが置かれ、太郎はベージュのよれた上着を手に取った。その上着は彼が自分で買った唯一の物だった。
赤信号で太郎は立ち止まった。携帯を持っていない彼には時間を確かめようも無かったが車は一切通りを通らず塾帰りの小学生やサラリーマンがポツポツと帰路についていた。彼は車が通っていない横断歩道で立ち尽くし信号を無表情で見上げていた。信号が青に変わると小走りで渡り、渡りきったら歩き始める。カーブミラーに映った自分を見て太郎は笑みを浮かべた。頬が引きつってきた彼は視線を前に向けて歩き出し堤防を上がった。夜の川はマンションの黄色い明かりに薄く照らされ、太郎はぼんやりと眺める。視線は雲一つ無い空へ向き、空にはペガスス座が見て取れた。太郎の唇は震え、目が細められる。星が異様に明るく感じられた。
「俺は何も出来ない屑だ」
気の向くままに太郎は河川敷を彷徨った。足がだるくなってきた頃、金属製の芋虫のオブジェが太郎の目に入った。そこは小さな公園で、白いガードを飛び越えて太郎は芋虫に近づいて平手を当てるとひんやりとした感覚が肘まで伝わってくる。のどの渇きを覚えた太郎は公園内の自動販売機に近づく。財布を取り出して中を確認すると小銭は無く、一万円札二枚と交通系ICカードが入っていた。太郎はため息をついて仕方なく公園内の水飲み場で水をたらふく飲んで近くのブランコに座り込み、地面を蹴ろうとする。しかし、足が曲がりすぎて上手く蹴れない。太郎は自重するように薄く笑った。
「身体ばっかり大きくなりやがって。木偶の坊め」
太郎は自身の太股を叩いた。自動で公園内の明かりが喧しい音を立ててつく。太郎は濃くなっていく自分の影を見つめた。その明かりは次第に強くなり、ナイターのように眩しくなる。違和感にタロウは顔を上げると青々とした空と太陽が頭上に浮かんでいた。続いて吹き上がるような熱気と砂埃が跪いていたタロウを包み込み、彼を白く染めた。顔に当る小石の不快感と急な天候の変化に動揺した彼は咳き込み上着を脱いで頭にかぶった。パニックになったタロウは過呼吸気味に息を吸い込むと喉に乾いた細かい粉塵が張り付き、首元や靴下更には口内も砂の不快感に包まれた。腕の時計を確認すると電波マークには何の表示も無い。ジーパンから引き出したハンカチで口元を覆い薄目で石ころだらけの風化した地面を進む。何時までも続く大地から残酷にくっきりと見える陰と岩と砂の世界はタロウに絶望を与えた。遠くに見える乾燥でひび割れた地面には雲の陰一つ無い。タロウは焦りのあまり情けない声で唸った。砂風と熱風の中で不安に覆われた彼の全身には鳥肌が立ち、胸はせり上がるような圧迫感を覚えており顔は真っ青だった。
日が沈むまでタロウは脚の怠さも感じず必死に歩き続けた。そこで、荒涼とした大地は突如として終わりを告げる。
「こんな事が」
彼が歩いてきた場所は高い岩棚であり遙か眼下にひび割れた地面が広がっていた。
「降りなきゃ俺は」
有りもしない生唾を飲んだ。タロウは上着を羽織るとハンカチを首に巻き付けて背中を岸壁に向けた。
「俺は出来る」
ゆっくりと屈むと熱風が彼の胸を押した。慌ててその場で這いつくばった。
「畜生」
掌は汗で濡れて茶色く染まり呼吸が震える。膝から下は乾いた空中だ。タロウは慎重に腰まで岸壁の際に垂らし、利き手である右手の指先を岩の縁に這わせた。形を確かめながら爪先を岩に引っかける。左手は常に平たい岩の上に這う。右手と両足がしっかりと岩に固定されたのを確認し、タロウは腰から徐々に垂直の壁へ降ろしていく。タロウは左手を右手が食い込んだ岩の隙間に差し込み、右腕は肘まで隙間に押し込んだ。左足から岩の隙間に沿って伸ばし降ろされていく。彼は最中、何度も手汗をジーパンで拭っていた。空の太陽が沈んでもタロウは降りられずにいた。彼は叫びたい気持ちを押し殺して絶望の中ぶら下がるしか無かった。うつらうつらする自分をタロウは月に照らされた地面を見ることで鼓舞した。
「寝たら死ぬ、落ちて死ぬ」
タロウは自らに言い聞かせ岩の隙間に身体を押し込んだ。しかし、長い夜はタロウを蝕んだ。朦朧と意識の中で彼はズボンのオートロック式ベルトを外して自分の手首と結び、岩の亀裂に何度も引っ掛けた。漸く引っかかる場所を見つけた時には空が白み始めており、タロウは再び亀裂に沿って壁を降り始めた。不思議と彼は肉体的には疲れていなかった。思わず掌を見つめたが豆すら無い。タロウは眉をひそめた。頭の中の疑問と戦って居ると2日目の夜が訪れた。今夜は幸い岩の隙間が大きく半身だけは入れられた。タロウは手に結んだベルトの金具を岩の隙間に引っかけて眠りについた。翌朝、タロウが寝ていた亀裂が広がり彼は下にずり落ちそうだった。
「あっと」
慌てて体制を立て直し隙間に戻る。呼吸は荒く、冷や汗に靴下や手は湿っていた。下界には小さな石ころが三粒転がり落ちていく。約6秒後に地面に石が当る音が聞こえ、タロウは絶望に額を岩壁に当てた。
「畜生」
その後も必死に亀裂を降ったが、日没には間に合わず三日目の夜になった。残り何mかはわからないがタロウの足は地面には達していない。タロウは歯を使って左手の時計を外して下に落とし耳を澄ませた。
「2秒、俺はどうなってしまっているんだ?」
音に勇気と余裕をもらったタロウは何とか岩の壁にしがみつき朝を待った。吹き荒れる風がタロウを揺さぶり、
岩が崩れるような大きな物音に起こされたタロウは早朝、壁を下りきりそのまま砂の熱さを気にせず地面に崩れ落ちた。地面に走った亀裂は子供の肩幅程であり、岩が挟まっている場所もある。見えるほどくっきりとした砂の風が走りタロウはその光景に絶望していると遠くに陽炎が見えた。
「おお!」
タロウは久し振りの笑顔になった。その顔のまま大急ぎで落ちて割れた腕時計を身に着けてから上着をかぶってその陽炎目がけて走り出した。
地面の亀裂は唐突に大きな岩盤で止まっていた。2 m程段差をタロウは何気なく飛び降りるとそこは一面、埃っぽい風の浸食跡を残す白と茶の縞々岩石が所々隆起している岩石砂漠であった。タロウは目を細めると遠くにずんぐりとした黒くて円柱状の建物と金属の反射が岩の影から見えた。日差しを見上げたタロウは足早に岩の上を飛び跳ねていく。円柱状の建物にたどり着く頃には太陽は正午を指し、タロウはその建物に近寄った。建物は見上げる程大きく高さは30 m、横幅は8 mに成るだろう。彼は「おーい」と叫んだ。声は岩の隙間を通り、木霊しか彼の耳には返ってこなかった。建物の下からは水が滴り、周囲の熱で熱された水は白い湯気となって立ち上っている。湯気をかき分けて更に建物へ近寄ると機械油のようで何かが違う酸っぱい異臭が立ちこめていた。タロウは目を細めて建物を覗くと彼は叫び声を上げて尻餅を付いた。建物の壁には椅子が何脚か壁に固定され背もたれには小指から人差し指までの爪に青いマニキュアを塗った人間の千切れた右腕が乗っていた。腕の切断面は骨を中心に肉がやや下寄りに垂れ下がり、その上の席には持ち主であろう片腕の無い女の上半身が仰向けに転がっていた。タロウから見えるのは黒い髪の毛と黄色い脂肪に塗れた赤黒い小腸や真っ白な背骨だった。怯えたタロウが見渡すと壁には建物の割れた外壁が突き刺さり中には橙色の大腸が引っかかっているものや何かの肉片がタロウの足元に転がっていた。歯の根が合わないタロウは黒い上着を握って脚に力を入れようともがくが、芋虫のようにその場を這い回るだけだった。十分ほどもがいた後、彼はなんとか立ち上がり、吐き気に顔を真っ青に染めて近くの岩の隙間に顔を突っ込んだ。真っ黒な隙間で口を大きく開いて鼻で大きく呼吸をする。
「あれ、収まっちまった」
タロウは背後を振り返る。目の前の凄惨な光景が何でも無く彼には感じられた。タロウは首を傾げて建物へ首を突っ込み中で首を回した。建物の底は拉げて肉塊が2から3人分はあり、肉の隙間からクロムメッキのような輝きが見える。タロウは肉の海へ飛び降りて肉の中からその輝きを拾い上げた。シリンダー状の何かで切断された骨の断面に5点でネジによる連結がされていた。特に変わった所は先端に人間の顔が彫り込まれていた事である。更に血の海を探るともげたギア付きの舵輪が見つかった。
「船か車?エンジンは何処だろうか」
タロウは独り言で心をほぐした後、その骨を腰に巻き直したベルトに挟み込み座席を足場に上へ登った。登っている最中、タロウは無表情で女の死体を座席から払いのけた。建物の最上部には鉄格子状の檻が一つ置かれ、中には拘束具が取り付けられた金属製の椅子が置かれていた。檻の扉は完全に開いている。タロウがその檻へ手を伸ばすと檻の壁面には樹脂状の透明な板に赤い手形が残った。汚れた掌をしげしげと眺めたタロウは近くの座席に手のひらを強くなすりつけた。すると座席の金具が歪み、持ち上がった床板から別の部屋が見えた。タロウは右手で座席にぶら下がったまま木製の床板を左手で容易く引き剥がす。あまりの抵抗の無さにタロウはぶらりと勢いのまま揺れ、右手で捕まっていた座席ごと底の肉の海へ大きな飛沫を上げて落下した。起き上がったタロウは何度も口から血や汚物を吐き出した。
「風呂が恋しいよ」
タロウは気を紛らわせる為にそう言うともう一度座席を足場に上えい始めると彼は足首当たりに引っかかりを覚えた。彼の履いている靴をマニキュアが塗られた手が掴んでいるのだ。タロウはそのまま身体を起こして建物から出て足首を見た。彼は言葉を失う。上半身だけになった女が口を魚のように開きながら焦点の合った目で彼を見つめているのだった。半狂乱になったタロウは足を大きく縦に振った。デニム地のズボンが膝から下が千切れてその女と共に飛んだ。女は岩へ頭から当り、岩には細い亀裂と円状の大きな血飛沫が広がった。仰向けに倒れた女の顔は充血した目玉が飛び出し唇はうっ血して腫れ、頬からはクロムメッキのような輝きが皮膚を突き破って飛び出した。タロウは裂けたズボンを撫でてため息をつき建物の中へ入った。




