死んだアイドルと佐伯直人の推し活の場合
あの日、彼女は死んだ。僕たちは奇跡と、うまく付き合うことが出来たのだろうかー
それから、数か月が経った。
直人は、美咲のXをほとんど見なくなっていた。
意識して我慢しているわけではない。通知もずいぶん前から切ったままだし、朝起きて最初に見ることもない。昼休みに時間が余っても、昔のように習慣でプロフィールを開くことはなくなった。
たまに、誰かの投稿から美咲の名前が流れてくる。
その時に「ああ、まだやってるんだな」と思う。
それくらいだった。
ある週、美咲が何日か投稿しなかったらしい。
直人がそれを知ったのは、健太から連絡が来た時だった。
> 美咲最近いないらしいな
仕事帰りの電車で、そのメッセージを見た。
直人は少し考えた。
そういえば、最近見ていない。
自分が見ていないだけなのか、美咲が本当に投稿していないのかすら分からなかった。
> そうなの?
と返した。
健太。
> 知らんかったのかよ
> 最近見てない
> へえ
それで会話は終わった。
直人は、そのままXを開かなかった。
次の日も、その次の日も忘れていた。
三日ほどして、タイムラインに誰かの引用が流れてきた。
> 心配させてごめん!普通にいます!笑
美咲の投稿だった。
直人はそれを読んで、
「あ、戻ったんだ」
と思った。
それだけだった。
以前の自分なら、ありえなかった。
一日更新が遅いだけで気にしていた。
二日なら何度もプロフィールを開いた。
三日も何もなければ、理由を考えて、誰かの反応を検索して、勝手に二度目の死まで想像していたかもしれない。
今は、本人が戻ってきたことよりも、自分が三日間ほとんど気にしていなかったことの方が少し不思議だった。
ある土曜日、健太から飲みに誘われた。
待ち合わせたのは、昔ライブ帰りに何度か使った居酒屋だった。
狭い店だった。隣の席との距離が妙に近く、壁に貼られたメニューは端が油で少し丸まっている。
「ここまだあったんだな」
健太が席に座りながら言った。
「お前が指定したんだろ」
「そうだけど、写真見たら懐かしくなって」
「そんな来たっけ」
「来たよ。三回くらい」
「三回じゃん」
健太は笑った。
結婚してから、健太は現場へ行く回数がずいぶん減った。
メメント・キミの曲は今も聴くし、美咲のXもたまに見るらしい。でも生活の中心にはもうない。
直人も今は似たようなものだった。
「今度ライブあるらしいけど行かない?」
二杯目を頼んだ頃、健太が言った。
「メメント・キミ?」
「うん」
直人は少し考えた。
「いいよ」
「軽いな」
「何が」
「昔だったら日程から何から全部調べてただろ」
「美咲いないし」
言ってから、自分でも妙に自然だった。
健太も特に反応しなかった。
「まあ、今の五人も結構いいよ」
「この前見た時よかったし」
「じゃあ決まりな」
話はすぐ別のことへ移った。
店を出る頃には、少し酔っていた。
駅まで歩きながら、健太は奥さんの話をした。家具を買い替えるらしい。直人は仕事で最近入った新人の話をした。
途中、犬が電柱の前から動かなくなり、飼い主が困っていた。
健太が「あれ絶対帰りたくないやつだな」と言って、二人で笑った。
その間、美咲の話はもう出なかった。
数日後。
直人は健太とメメント・キミのライブへ行った。
会場へ入ると、以前より若い客が増えていた。美咲がいた頃から来ている人間もいるのだろうが、直人にはもう見分けがつかない。
五人がステージへ出てくる。
歓声が上がった。
真帆が一曲目から汗をかいていた。
途中で一人が振りを半拍遅れ、隣のメンバーと顔を見合わせて笑った。MCでは真帆が言葉を噛み、客席から笑いが起きる。
直人も笑った。
そういう瞬間が好きだった。
ステージにいる人間が、その場で失敗する。
息を切らす。
声を外す。
笑う。
その日の、その時間にしか存在しないものが積み重なっていく。
美咲がいなくなった穴を埋めている、とは思わなかった。
五人は五人だった。
それでちゃんと楽しかった。
ライブが終わり、外へ出る。
耳の奥にまだ低い音が残っていた。
健太が、
「よかったな」
と言った。
「うん」
「また行こうぜ」
「いいよ」
それも、軽く言えた。
駅へ向かう途中、健太がスマートフォンを見た。
「あ、美咲も見てたっぽい」
「そうなんだ」
「感想聞いてる」
健太が画面を見せてくる。
> ライブ組どうだったー?
美咲の投稿だった。
直人は一度だけ読んだ。
「元気そうだな」
「だな」
それで終わった。
家に帰る途中、コンビニでアイスを買った。
昔なら、美咲に何か返していたかもしれない。
ライブが楽しかったとか、新曲がよかったとか。
今は、その必要を感じなかった。
楽しかったことは、自分の中に残っている。
健太とも話した。
それで十分だった。
家に着いて、テレビをつけた。
洗濯物を畳む。
アイスを食べる。
明日の天気を確認する。
スマートフォンは机の上に置いたままだった。
直人は、ふと昔のことを思い出した。
美咲が死んでからしばらくの間、自分は毎日のように彼女が消えることを怖がっていた。
そして、いつからか逆に、消えてくれたら楽なのにと思うようになった。
新しい美咲が増え続けるせいで、忘れられない。
美咲のアカウントがなくなれば、ようやく自分も前へ進めるのではないか。
そんなふうに考えていた。
でも、美咲は消えなかった。
直人が離れただけだった。
それは、思っていたよりずっと地味な変化だった。
ある朝突然、何かを決意したわけではない。
最後の返信を送った日も覚えていない。
いつの間にか見る回数が減り、見ない日が増え、そのうち見ていないことすら気にならなくなった。
それでも嫌いになったわけではない。
美咲がいなくなってほしいとも、今は思わない。
ただ、毎日会いに行かなくなった。
それだけだった。
数週間後。
朝、駅へ向かう途中でXを開いた。
仕事の連絡に関する投稿を探していて、たまたまおすすめ欄に見覚えのある名前が出た。
中川美咲。
> おはよー!
直人は足を止めなかった。
投稿時間を見ると、十分前だった。
返信欄にはもう何百件も付いている。
「ああ」
声に出してから、自分でも少し笑った。
「まあ、そりゃいるか」
そのまま画面を閉じた。
横断歩道の向こうから学生の集団が歩いてくる。
子どもを乗せた自転車が通り過ぎる。
どこかの家の犬が吠えている。
信号が青になった。
直人は歩き出した。
美咲は二十一歳の姿のまま、今日もどこかで誰かと話している。
直人は年を取る。
健太も、真帆も、悠斗も、遥香も、それぞれの生活を続けていく。
それでよかった。
中川美咲は死んでいる。
今もXで話している。
その二つは、最後まで一つにはならなかった。
直人はもう、どちらかを選ぼうとは思わなかった。
駅へ着く。
改札を抜ける。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
誰からの通知なのかは確認しなかった。
今日もまた、一日が始まる。
美咲も、たぶんどこかで今日を始めている。
佐伯直人にとっての推し活は、もう終わったのかもしれない。
あるいは、たまにライブへ行き、偶然流れてきた美咲を見て「まだいるな」と思うことまで含めて、まだ続いているのかもしれない。
その違いは、もうどうでもよかった。
直人はホームへ降りた。
電車が来る。
人の流れに混ざって乗り込む。
その頃、美咲の投稿には、また新しい返信が付いていた。
> 今日もいる?
少しして、美咲が返した。
> いるよー!
死んだアイドルは、今日もいた。
直人は、それを知らなかった。




