外れ
押し倒されたあの少年が、体の倍ある大きなライオンに肩や腹にかけて噛みつかれる。
首を振って噛みちぎろうと、砂が舞う。
しかし、あの少年の身体は引き裂かれることも、弾け飛ぶこともない。
ライオンの咆哮が上がると、獣は唸りながらあの少年を離し、後退りを始める。
口元を片足で掻きむしるように暴れる。
ライオンの口元から血がだらだらと流れ出しているが、口の中にいたはずのあの少年の体に穴は空いていない。
彼は、わずかに体を起こそうとするだけで、ひどく他人事のように獣を見ているようだった。
ライオンの口から、何か塊が飛び出る。
(牙……か)
その犬歯の形状をまとう赤が、砂地をゆっくり染め始める。
恐らく、折れた後に口の中で暴れて刺さったのもあるだろう。
ライオンは上の犬歯を欠けさせながら、再びあの少年に向かって飛びかかる。
三日、食っていないという。痛みより飢えの方が勝っているのだろう。
あの少年は緩慢に、拳で獣の顔を殴る。
一部からの野次が、彼の反撃にわずかに盛り上がるものの、開始の銅鑼がなった直後よりずいぶん盛り下がっている。
攻撃意思が高いライオンに反して、人形のように無反応な少年。しかし、ライオンの猛攻が効いておらず、無抵抗の方が優勢に傾いているという、奇妙な闘い。
どちらかの一方的な試合ならともかく、なんとも言えない展開が繰り広げられていることが、観客の中で不満が静かに溜まり始めているようだ。
牙を失ったせいか、ライオンの動きが鈍り始めた。攻撃とも言い難いあの少年の拳に、翻弄されているのだ。
いや、緩慢だが、能力によって硬化された拳は、速さはなくとも相当堪えるものになっているのかもしれない。だが、端から見れば八百長のように見えるような動きの鈍さだ。
ライオンの足が、急にもつれる。
大きな足は、砂を踏み損ね肩から崩れる。
観客から戸惑うような声が漏れる。
しかし、片方の牙を見せて少年に唸るが、がくりと頭が倒れ、口の端から白い泡が溢れ出した。
「……おい、どうなってるんだ」
近くの席から、声が上がる。
「何だ、この試合は。何にも面白くないじゃないか!」
「とんだ、外れ試合だ!」
声を上げているのは、一部。しかし、すかしたような反応をしている客たちも、不満げにため息をついている。事の真相を知っている俺たち三人を除いて。
『血なまぐさくならないと、満足できないんだね』
グレンの蔑んだ笑いを含んだ声が、チョーカー越しに聞こえた。
(ガラス向こうに、血なまぐささを見ているだけの、知ったかぶりどもだけどな)
あの中に入れば、よく分かるだろうから、入ってみれば良いのに。
「け、決着がつきました! 防衛者の勝利! 時間は六分二八秒! 十分以内予想の方の勝利でございます! おめでとうございます!」
モランディの声が響いたが、数人分の拍手がかろうじて聞こえるだけ。
「……なんだよ。賭けた額と、いくらも違わねえじゃないか」
「面白くもないし、金も変わらない。時間の無駄だったな」
防衛者票がほとんど。時間の枠も恐らく、あの選択肢の中であれば、『十分以内』に賭けた客が多いことだろう。
当然、同じ目に賭けて、皆が当たれば、戻ってくるのは自分が出した金とほとんど変わらない。
外れた分の金が多く生まれて初めて、利益が上がり成り立つのだから。
目の前に戻る金にしか、目を向けていない者ばかり。
死にかけの獣にも、牙で何度も貫かれたはずの子どもには見向きもしない。
泡を吹いて横たわっている体が、団員たちの手で引きずられ、砂に長い跡が残る。
ちなみに、ライオンが泡を吹いたのは偶然でもない。
簡単なことだ。あの少年を守るために、薬物を打ち込んだのだ。カリンとアシュリーの役回りのため、いつ、どのタイミングで打ち込んだのかや、薬物効果についてなどは知らないが。
立ち尽くしたままのあの少年の肩を触ろうとして、団員が顔をしかめる。彼の体はライオンの唾液や血でわずかに濡れている。
まるで汚いものを見るかのように一瞥すると、首輪の鎖を拾い上げ、家畜のように引きずり始めた。
これで刺激を最低限に抑えつつ、あの少年はお役御免にさせることができた。
「さ、さて、皆様。お待たせいたしました」
砂を均す団員たちの後ろで、モランディが両手を打ち合わせる。砂地の奥の幕が、下に降りた。
奴は観客の反応に焦りを感じているのか、顔がわずかにぴくぴくと、ひくついているようだ。
「気を取り直して、第二演目に移りましょう」
モランディは、微妙な空気を振り払おうとしているのか、大きく咳払いをした。
「挑戦者はカルロ・コンテ。四十六歳。身長一六八センチメートル程度、やや肉付きのよい体格の男性でしたが……」
もったいぶるように言葉を切り、モランディは観客を見回した。
「なんと、少年を代理に出演させることを交渉してきました。そのため、挑戦者は代理者となります」
失笑が、あちこちから漏れた。どこかの席から、短い笑い声も聞こえる。侮蔑の色が濃い笑いだった。
それを娯楽にしているのは自分たちということを忘れているのだろうか。
モランディの口元が、わずかに持ち上がる。
空気が動いたことに、安堵したのだろう。さっきまでの焦りが、嘘のように消えていた。
「挑戦者の代理者。十四歳ほど。身長は一五〇センチメートルほど、痩せ型でございます」
読み上げる声が、やけに楽しげだった。
「対する防衛者は、レア・コンティ。十五歳。手指の一振りで、風で物を斬ることができます。……戦績は三十七戦中、完全勝利二十一、通常勝利十五、引き分け一となります」
カードを引き抜く音が、あちこちで鳴る。
「さあ、ご思案ください。今度は、三項目すべてでございます」
『そろそろ、あちらは移動できたのかな』
グレンが呟いた。
確かに、時間的にはこちらへの合図が来ても良い頃合いではある。
「あまり、こちらを長引かせたくないですからね」
ふと、モランディの目と合う。
カードが集まる間の時間、先ほどから落ち着きなく客席を歩きながら、視線をよこしてくるのだ。
"オリヴィア"がどんな顔をしているか、相当気になっているのだろう。
(なんにも変わってねえよ)
彼女は、静かに前を向いているだけで、まばたきをするだけだ。
「——やだ、やめて」
幕の奥から、少女の声が聞こえる。
「やだ、離して、やめて、やめて!」
悲痛な叫びに特に気にする素振りもなく、カードと金を団員に渡していく観客ばかり。
「さて……準備が整いましたので、第二演目を開始いたしましょう。挑戦者、防衛者の登場です!」
幕が持ち上がるとともに、赤毛の少女が転がるようにして出てきた。
「出して、出して! やだ、やだ……っ!」
砂に足を取られて転ぶ。
下手には、黒髪を後ろに一つで結んだ挑戦者が、立ち尽くしていた。
「出してよ! 嫌だ、嫌だ!」
レア・コンティはふらふらと立ち上がると、ガラス塀を叩き始める。
「出して、出して!」
泣き叫ぶ防衛者と、立ち尽くしたまま動かない挑戦者。
動かない試合に、再び観客の空気が盛り下がっていく。
「早く動けよ!」
「また無駄な時間かよ! ふざけるな!」
「早く殺し合え!」
相変わらず、一部の観客からのみ野次が飛ぶが、モランディの顔は苛立ちと焦りからか、足を床に打ち付けている。
そばに控えていた団員の胸ぐらを掴むと、何かをささやく。
団員は頷くと、ガラス塀によじ登り、レア・コンティの鎖を手繰り寄せた。
「いやっ、やめて、やめて——」
彼女は激しくもがいたが、抵抗する腕を押さえつけ、団員は注射を首に刺した。
「ただいま、興奮剤を防衛者に打ちました」
レア・コンティの体が、その場に崩れ落ちる。
「お楽しみいただける展開が待っていること、間違いございません。少々お待ちください」
観客は、今か今かと彼女の覚醒を、待ちわびる空気が漂い始める。
レア・コンティが、再び大きく体を震わせる。
すると、立ち尽くしていただけの挑戦者が我に返ったように、後退りをし————
————次の瞬間、血飛沫がガラス塀に鋭く飛び散った。




