この世界は
――――人類が最も恐れるモノとは、一体なにか。
失敗。
裏切り。
老い。
死。
個々によって、恐れるモノは異なることだろう。
しかし、正解は先に挙げた四つに共通する。
人類が最も恐れるモノは、それは——――
――――"未知"である。
人は、初めて見るもの、知識のないもの、経験のないもの、理解できぬものに直面すると、ひどく恐れる。
歴史というのは、"未知"との戦いによって紡がれてきたのだ。
では、今この世界で人類が最も恐れているモノとは、一体なんだろうか。
"未知"であるからこそ、手元に、支配下に置こうと躍起になっているモノ。それは——
——――異能力者である。
―――
(機密百科事典より引用)
〈異能力者〉
通常の人間では人知を超える力を発現した者のこと。能力の種類は多種多様で、強さもバラつきが大きい。種類によっては、科学技術に勝る強力な武器となる。
*
鋭く響くサイレンが部屋を貫くと、回転灯の赤い光が無機質な壁を不気味に染めた。
少女は異常事態に心臓をはね上がらせると、訓練で疲れ切った痛む身体を起こし、隣の少年の腕の中へ飛び込む。
「兄さんっ……!」
そう呼ばれた少年は、筋張った痣だらけの腕で慌てて妹を強く抱き寄せた。ヘーゼル色の目で、辺りを忙しなく見回す。
部屋の薄暗い隅で息をひそめていた二人と同様、同じ年頃の少年少女も起き出し、うろうろと部屋を不安げに歩き始めた。
少年は腰を浮かそうと脚に力を入れたが、小さく呻き、視線を落とした。薄汚れ、包帯の隙間から見える脚。諦めたような色が、少年の顔に出た。
訓練——という名の拷問が日常的に行われるここでは、紫色に変色し曲がったその脚は、さして珍しくはない。ただ、明らかに、まともに歩くことができないその脚を、この異常事態に抱えているのは、不利である。
部屋の外からは、慌ただしい人々の足音や、機械の稼働音が聞こえる。
起ころうとする何かに、不安が大きく膨れ上がるのを誤魔化すかのように、少年は妹の肩を強く抱き寄せた。
少女もまた、怯えた目をしながらも、これから起ころうとしている大波に耐えようとするかの如く、少年の腕に強くしがみつく。
ハウリング音が鳴り響き、部屋におびえた悲鳴が上がった。
『緊急事態発生。反世界政府組織〈アポクリファ〉が来襲』
研究所のスタッフの低い声が鳴り響く。
そして、アナウンスは無情にも続けた。
『高等級異能力者を速やかに移送。γランク以下は即時処分せよ』
「処分………?」
アナウンスの言葉に、部屋の空気が一瞬で息が詰まるほど重いものに変わった。
「処分」とは、即ち死を意味する。
部屋は火がついたように騒ぎ出した。
兄妹はひきつった顔でお互いを見合わせる。
怪我で歩くこともできず、処分対象の自分たちに状況を打開する能力はない。この部屋の全員が処刑を言い渡されたのだ。
廊下から、発砲音が響くと同時に、足音の近づく気配が迫る。
死への恐怖が頂点に達したところで、悲鳴を上げながら誰かが廊下に飛び出した。
それを皮切りに、扉になだれ込むようにして皆、部屋の外へと消える。
兄妹は呆然と、我先にと逃げ出す様子を身を潜めて眺めていたが、その直後に、先よりも近い場所で響く銃声音と悲鳴に、びくりと肩を震わせた。
外に出れば殺される。留まっていても、いずれは見つかる。
足音がすぐ側で鳴ったことに気づいた瞬間、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。武装した、複数人の研究所のスタッフが、兄妹に目を留めると、小銃を構えた。
「こいつらは?」
「どっちもδです」
「じゃあ、やるか」
「はっ……腰でも抜けたのか。まあ、やりやすい」
軽く鼻で笑う彼らに、怒りと悔しさが湧いたのか。少年は唇を引きつらせたが、立場の差を逆転させることはできない。
せめてもの抵抗といわんばかりに、半ば覆い被さるように妹を抱き締めた。
(神様、俺たちに何か恨みでもあるんですか?)
カチャリという音に、少年は目を強く瞑り、神を呪った。
(人が落とした小銭を盗んだ罰ですか? それでパンを買った罰ですか? そこで飢え死にする、シナリオ通りにしなかったから、こんな目に遭っているんですか?)
銃口が、額に近づけられた。
ただ殺すためなら、こんなことは必要ない。反応を面白がるために、突きつけられたのだ。
(……こんな一生を送るために、生まれたんですか?)
神に問いかけながら、自分の粗末で短い一生を嘲るかのように、少年は笑みを浮かべた。
(俺たちは、ただ、生きることさえできないんですか?)
——――銃声、ではなく、風を切るような音が鳴った。
その直後、小銃が床に転がる音とともに、鈍い音が床を揺らした。
銃声以外の音が聞こえてくるなどと、誰も思っていなかっただろう。
少年は恐る恐るまぶたを持ち上げると、ついさっき自分たちを鼻で笑った人間たちが、うつ伏せに倒れているのを目にした。
その代わりというように——漆黒のミリタリースーツに身を包んだ白い女が立っている。何処からか湧いて出てきたかのように、そこに立っていた。
真っ白な髪に、透き通るほどに白い肌をしており、その冷たい美しさが場の空気を一変させている。パーツを丁寧に作り込んだ、人形のような女だった。
「誰……?」
妹が、小さく呟いた。
扉から新たにスタッフたちがなだれ込み、女に気づくと、銃口を慌てた様子で彼女に向ける。少なくとも、研究所の人間側ではないことは、確かなようだった。
女は眉一つ動かすことなく、兄妹をただ静かに見下ろす。自分に向けられている銃口が見えているはずだが、全く脅威に感じないどころか、存在しないものであるかのようだった。
少年は、女の一挙一動を見逃すまいと、食い入るように見つめる。希望か絶望か、目の前の女がいったいどちらなのか、見極めなければ生に活路を見出すことは出来ない。
磁器彫刻のような表情のない顔で、女はしばらく、ただ二人を見下ろしていたが、静かに口を開いた。
「目を瞑り、耳を塞ぎ、大きな声で十秒数えなさい」
細いが、静かで冷静。どこか命令めいていた声に、二人は言われた通りに耳を塞いだ。そうしなければならないと、突き動かされた。
「一、二、三…」
耳を塞いでくぐもった音と、自分たちの声で分かりにくいとはいえ、目の前で何かが起こっていることに怯えるかのように、二人は身を縮こませた。
物が倒れる音、数発の発砲音。
目を見開けばどんな光景が見えるかを悟っているのだろう。きつく目を閉じ、聞こえぬよう声をより大きく数を数え続ける。
「八、九、十……」
数を数え終わると、既に物音は収まっており、しんと部屋は静まり返っていた。
「目を開けてもいいよ」
女の声が再び響いた。
少年は片目のみを開く。会ってまだ数十秒の女を、信じるべきか否か、間で揺れているのだ。
ゆっくり顔を上げ前を見ると、目線に合わせるようにしゃがみ込み、じっと見つめる女が映った。
十秒の間は何もなかったかのように、先と同じような表情のない端正な顔。
その不気味なほどに静かな様は怖くもあったが、彼女の表情には嘘や偽りが感じられなかった。
「すぐここを出る、時間がないから。あなたは歩けないようだから、私が背負う。あなたは悪いけど歩いてもらう」
女は淡々と話すと、少年が何かを言う前に、素早く背負った。
女は傍らの妹を見ると、少し、躊躇いがあるように片方の手を差し出した。先ほどまで彼女がしていたであろうこととは、不釣り合いなほっそりとした白い手だった。
彼女の顔と手を、妹は何度か見比べていたが、すがるようにその手を掴む。
女は、そっとそれを握り返し、歩き始めた。
女と歩む先に、どんな運命が待っているのかは分からない。だが、少なくともこの冷酷な研究所に来てからというもの、初めて信じられる存在が現れたように思った。
怪我のせいで熱が上がり始めていた少年は、希望の光を感じ、緊張がほぐれると同時に意識を失った。
こんにちは! 伊月檸檬です。
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