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第100話 怪物

 氷河の地下に沈む静寂を、ノアから放たれる圧倒的な殺気が容赦なく侵食していく。

 赤い髪を微かに揺らし、軍服の襟元を正した彼女は、そこに対峙する俺たちに対して言葉を交わす必要性など一切感じていないようだった。彼女にとって、この場にいる全員が「処理」されるべきタスク、あるいは「回収」されるべきサンプルに過ぎないのだ。


 濁った赤い瞳が、スッと細められる。  

 一瞬、その視線がオリジナルであるセイラと、Master_Eyeとしての俺を射抜いた。

 だが、ノアの真の狙いは、そのどちらでもなかった。


(――しまっ、そっちか!?)


 アガートラームのバイザー内。俺の『真贋鑑定』のロックオン表示が、ノアの標的を捉えた。

 赤い破線が真っ直ぐに伸びていたのは、俺たちの後方――中央制御室のコントロールパネルの前に立っている酒井凛だった。


 この中で最も戦闘力が低く、魔力の波長が弱い者。  

 ノアの合理的な思考回路は、敵の戦力を確実に、そして最も容易に削るための標的として、凛を瞬時に選び出したのだ。


「排除する」

 

 ノアがその場から消えた、と錯覚するほどの超神速。

 大理石の床を踏みしめる音も、空気を切り裂く風切り音すらも、彼女の速度は置き去りにしていた。


「え……?」


 凛が、掠れた声を漏らす。 彼女の視界に、突如として忽然と現れた赤い髪の少女。

 ノアは無表情のまま、その白い、しかし鋼鉄以上の硬度と赤黒い魔力を纏った掌を、凛の胸元へと真っ直ぐに突き出した。

 極限まで練り上げられた暴力。当たれば、凛の肉体は細胞レベルで消し飛ぶだろう。


「――っ、ナメんじゃないわよ、バカ!!」


 死の淵に立たされた、極限の瞬間。  凛の左腕に嵌められたプラチナの腕輪が、持ち主の凄まじい生への執念と魔力に呼応し、かつてないほどの輝きを放った。


『聖女の反逆盾イージス・リフレクト』の自動防御システム、が発動したのだ。


 カァァァァァァァンッ!!!!


 鏡のように磨き上げられた、純白の巨大な光盾が、凛の目の前に文字通り一瞬で展開される。 ノアの放った凶悪な掌打が、その光盾の真正面へと激突した。


 広間全体を揺るがすような、甲高い金属同士の激突音。  衝撃波が同心円状に広がり、周囲の鉄骨や壁が飴細工のようにへし折れ、めくれ上がっていく。

 攻撃の威力を倍化して跳ね返す『反転反射カウンター』。

 障壁に激突したノアの魔力が、その倍の質量となって、彼女自身の身体へと一気に逆流した。


 だが。


「……非効率な防壁。出力でねじ伏せる」


 ノアは眉一つ動かさなかった。

 逆流したはずの倍の衝撃波を、彼女はただの肉体の強度だけで真正面から受け止め、強引に無効化してみせたのだ。

 彼女の突き出した掌から放たれる赤黒い魔力の圧力が、さらに一段階、跳ね上がる。


 ミシミシ、ピキ、ピキピキ……!


「あ……っ、あぁぁぁぁぁッ!?」


 凛が悲鳴を上げた。

 神話級に進化したはずの『聖女の反逆盾』。その膨大な魔力貯蔵が、ノアのたった一撃の暴力を受け止めただけで、底が抜けたように一瞬で空っぽにされていく。

 純白の光盾に、一瞬で無数のひび割れが走り、次の瞬間にはガラス細工のように儚く砕け散った。


「防衛機能の消失を確認……今度こそ、処理する」


 ノアは、魔力枯渇によりその場に崩れ落ちそうになる凛を見下ろし、容赦のないトドメの手を再び振り上げた。

 間に合わない。数秒もしないうちに、凛の命は失われる。

 誰もが絶望した、その刹那――。


「凛から離れろッ!!」


 黄金の閃光が、横から割って入った。  セイラが『エクスカリバー・アヴァロン』を全力で振り抜き、ノアの突き出された腕を強引に斬り払ったのだ。


 ガガシィィィンッ!!!


 創世級へと至った聖剣と、ノアの赤黒い腕が衝突し、凄まじい衝撃波が中央制御室の防弾ガラスをすべて粉々に吹き飛ばす。

 さすがのノアも、その魔力圧には耐えきれず、床に深く爪痕を残しながら数歩後ろへと後退した。


「凛、大丈夫!?」


「え、ええ……なんとか。でも、魔力が、たった一撃で……空っぽよ」


 セイラが凛を背後に庇いながら、剣を構え直す。


「……嘘だろ」


 アガートラームのヘルメットの中で、俺は凍りつくような戦慄を覚えていた。  いまの、ノアの初撃。 セイラは、ノアが動き出した瞬間には『反応できていなかった』。

 凛の『聖女の反逆盾』が、数秒の時間を稼いでくれたからこそ、セイラの介入が辛うじて間に合ったのだ。


 あの剣聖であるセイラが、初撃の起こりすら感知できないほどの速度。

 間違いなくあの時よりも数段強い。

 俺は警戒しつつ、右目に意識を集中させ、後退したノアに向けて『真贋鑑定』を発動した。


 ====================

【名称】ノア(魔物因子暴走形態・不完全)

【ランク】神話級(※創世級に極めて近い領域に到達)

【状態】生命維持リミッター解除。全細胞の超活性化。

【詳細】『剣聖』神宮寺セイラの遺伝子をベースに、適合率の高い魔物の細胞を融合させて造り出された生体兵器。エデン・グループの最高傑作。

【危険度】測定不能(※極大の脅威。接触を推奨しない) 

 ====================


(創世級に、迫っている……!? だから、セイラと互角以上の速度が出せるのか!)


 これまでの相手とは、完全に次元が違う。 俺が唇を噛み締め、アガートラームの出力を上げようとした、その時だった。


「加勢するぞ、セイラ!」


「ノン、トオル! 一人で突っ込むのは危険だ! シルヴィ、私たちも――」


 シャルルが黄金のオーラを纏い、シルヴィと共にセイラの援護に入ろうと一歩踏み出す。 だが、ノアは濁った赤い瞳を冷ややかに光らせ、額の角に魔力を集束させた。


「……目標以外以外は、分断する」


 ノアが小さく、白亜の床に両手を突き立てる。 次の瞬間、床の大理石を突き破るようにして、ドス黒く濁った魔力のゲートが幾重にも広がった。


 ズズズズズンッ!!!


 ゲートの奥から這い出してきたのは、アルプスの過酷な魔力環境で変異したと思われる、氷の装甲を纏った巨大な魔物たち。

 フロストギガント、アイススパイダー、そして氷の皮膚を持つオークの群れ。

 その数、およそ数百。


「くっ、仕方がない! トオル、セイラ! ここは私たちが引き受ける! リンはこちらに任せて、君たちはあの子を――」


 シャルルが叫びながら、襲い来る魔物の群れに向けて黄金の蹴撃を放つ。 だが、ノアが召喚した魔物の壁は、あまりにも分厚かった。

 一瞬にして俺とセイラ、そして倒れ込んだ凛を守るシャルルとシルヴィの間に、巨大な魔物の壁が築き上げられ、戦場は完全に二分された。


「……これで、邪魔者は消えた」


 ノアがゆっくりと立ち上がり、その赤い瞳を、俺とセイラへと向けた。  広大な地下空間の一角。  残されたのは、俺とセイラ、そして創世級の力に迫るバケモノ、ノア。

 極限の死闘の幕が、静かに切って落とされた。


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