第42章 戻らない分も残す
朝、ユーゴは幕の前で一度足を止めた。
中から呼ぶ声はしなかった。呼ばれないから大丈夫なのだとは、まだ思えない。水を受け取る係に桶を渡し、家族の男が出てくるのを待った。
「眠ってる」
男は言った。手に持つ椀を、昨日のように強く握ってはいなかった。
「夜は?」
「途中で診てもらった。今は、さっきより楽らしい」
それだけでも、ユーゴの肩は少し下がった。
森の治療が始まった翌朝だった。まだ起き上がれない人は多く、新しく寝込んだ家の知らせもあった。エステルも森の治療者も、薬と処置を終えるたびに、次に診る時を確かめていた。
ユーゴは空の桶を受け取ると、使用済みの物を集める所へ運び、手を洗って村へ戻った。
*
朝を重ねるうち、家を回って帰る女の声が変わった。
「昨夜より症状が落ち着いている。また同じ時間に確かめてみる」
白髪を束ねた治療者は、そう言って帳面を置いた。ロゼットは薬と処置の記録へ印をつけ、隣の支援員が食事を運ぶ家を読み合わせる。
新しく加える家の行が、前より少なくなっていた。
「これ、今日は増えてないのか」
ユーゴが尋ねると、ロゼットは首を横に振った。
「今朝聞いた分にはね。まだ聞けていない家もあるからなんとも言えないけど」
ユーゴは村人と一緒に、まだ印のない戸口を回った。寝込む人がいない家では、家畜の世話に出られるかを聞く。動けると言われても、治療者へ確かめてから仕事をお願いすることにした。
フィンは森と村を往復した。必要な薬草を運び、帰る時には使った分と、次に要る物を確かめていく。体調を確認してもらってから、ユーゴが森の境の受渡し場所へ荷を取りに行く日もあれば、村内の運搬に残る日もあった。
「今日は、こちらを頼む」
フィンに渡された包みは、前のものより小さかった。
「足りる?」
「使う量を聞いて持ってきた。少なければいいわけでも、多ければいいわけでもない。残りも確かめてくれ」
ユーゴは包みを勝手に開かず、担当する人へ届けた。荷が小さくなっても、渡す相手がいなくてよい仕事にはならなかった。
王都からの物資も順に届いた。清潔な布が補われ、食事を作る人が、足りない材料の心配をする時間が減った。村内で使える医療のスクロールが限られる中でも、薬と看護は続き、外の治療場所へ移せる人は担当者が選んだ。
森の知識による処置を重ねた患者は、高熱が出ることも無くなってきた。重い状態の人も、夜ごとに急いで呼びに走る回数が減っていった。
それでも、朝の確認はやめなかった。
*
何日か経った午後、木こりが寝床の脇に座っていた。
ユーゴを見つけると、男は片手を上げた。その手が前より高く上がったことに、ユーゴは気づいた。
「材木は、どうなった」
「濡れない所へ動かしておいたよ。全部かどうかは、あとで確認してほしい」
「俺が見れば、すぐ分かるよ」
男は腰を浮かせた。すぐに寝台の縁へ手を戻す。隣にいたエステルが、肘を支えた。
「今日は、ここまでです。座って話せるようになったからってすぐに仕事はできません」
「分かってる。けど、寝て食うだけで……」
男は言葉を飲み込んだ。ユーゴが持っていた荷縄へ目が向いた。
「その端、ほどけてるぞ」
ユーゴは手元を見た。何度も結び直した所から、繊維が出ていた。
「替えた方がいい?」
「見せてみろ。使える所を残せるかもしれん」
ユーゴは渡す前に、エステルを見た。彼女は男の姿勢を確かめてから頷いた。
「少しだけ。疲れたら途中でも置いてくださいね」
木こりは縄を膝に載せた。指がもつれ、結び目を一度やり直す。それでも、引く所をユーゴに指示する声は、材木の場所を尋ねた時よりしっかりしていた。
「そこを押さえてくれ。強く引かずに」
ユーゴは向かいの腰掛けへ座り、言われた所を持った。エステルが認めた短い作業の間、男はゆっくり端を通した。
できた結び目を受け取り、ユーゴは立ち上がった。
「これ、今日の荷に使うよ」
「重い物には使うな。まだ傷んでる所がある」
「分かった。軽い包みだけ」
男は、そこでようやく笑った。
ユーゴは縄をほかの荷へ戻す前に処理してもらい、自分も手を洗った。
*
村へ戻る途中、ユーゴは家畜の囲いに寄った。
戸を直す男が、少なくなった家畜に目をやった。世話が回らず、弱った家畜を失ったのだという。残ったものには餌が届き始めていたが、囲いを直せば数も戻るわけではなかった。
畑では、取り入れに間に合わなかった分を分けていた。ユーゴは使える物を運ぶ籠を引き受け、傷んだ物は別に寄せた。袋を下ろすたび、空のまま残る場所が見えた。
次の家では、村長が入口で待っていた。
「残った家族から頼まれた物がある。一緒に運んでくれるか」
ユーゴは頷き、軒下に置かれた束を持った。中から出てきた人に、どこへ運ぶかを聞く。
「物置へ。今すぐには、片づけきれないから」
村長が声を掛けた。
「急がなくていい。こちらで預かっておく」
家の人は礼を言いかけ、戸の内側へ顔を向けた。そのまま、しばらく戻ってこなかった。
道へ出てから、ユーゴは村長に聞いた。
「ここは、もう病人はいないんですか」
「亡くなった人の家だ」
抱えた束が急に持ちにくくなった。紐の位置を直し、ユーゴは落とさないよう両手で支えた。
木こりが座れるようになったことを、伝えようとしていた。その言葉を飲み込み、村長と物置まで歩いた。
物置で、村長が預かり物の札をつけた。誰の家の物かを確かめ、ほかの荷とは離して置く。ユーゴは途中で緩んだ紐を結び直し、何も言わずに手を離した。
*
ロレへ着いてから、三週間を過ぎた朝だった。
着替えようとしたユーゴは、脇腹の赤い点に気づいた。袖を上げると、腕にも少しある。額へ手を当てても、桶を持てないほどつらいわけではなかった。
いつもなら、荷紐を締めてから考えたかもしれない。
ユーゴは上着を置き、戸口から支援員を呼んだ。エステルへ伝えてほしいと頼むと、使っていた寝床で待つように言われた。
診に来たエステルは、熱と肌を確かめ、森の治療者も呼んだ。
「少し熱がありますね。今日は運ぶ仕事を休みましょう。食事もこちらへ持ってきてもらいます」
「薬は、飲んだんだけど」
「飲んでいても、症状が出ることはあります。軽く済む方は多いけれど、あなたが明日どうなるかは、ちゃんと見ていきます」
ユーゴは入口の脇に置いた荷へ目をやった。
「あそこの包み、今日持っていく分なんです。俺が出ないと、待ってる家が」
「届け先を教えてください。あなたの代わりに行く人へ伝えます」
エステルが紙を広げた。ユーゴは家の順と、渡す相手を言った。最後の一軒まで聞いてから、彼女は紙を持って外へ出た。
次に戸口へ来たのは、ロゼットだった。いつものように荷の横へ座らず、離れた所から声を掛けた。
「包みは、もう頼んだわ。あなたが寝ている間も届く」
「……大げさじゃないか。少し熱があるだけで」
「今は軽い症状でよかった。でも、今日は休んで。本当は顔色もちゃんと確かめて帳面に書いておきたいけど」
返す言葉を探して、ユーゴはやめた。森で聞いた、発疹より前の日数を思い出す。
「昨日、俺が行った所に伝えた方がいいな」
「ええ。一緒に確かめましょう。私も、どこで誰と仕事をしたか聞かれているところ」
彼女が帳面を開く。ユーゴは寝床へ戻り、前の日に運んだ物を順に思い出した。
*
赤い点の幾つかは小さな水疱になったが、数は少なかった。熱も高くはならず、ユーゴは食事を自分で食べられた。それでも、外で桶の音がするたびに腰を浮かせ、その都度、寝床へ戻った。
フィンは薬草を届ける途中、戸口に立ち寄った。
「荷は、届いているぞ」
「先に言うなよ。聞こうと思ってた」
「なら、ちょうどよかった」
フィンは短く答えた。ユーゴが顔を上げると、少しだけ口元が緩んでいた。
「休む方の仕事は、代わってやれんからな」
足音が遠ざかったあと、ユーゴは空の椀を決められた場所へ置いた。いつも自分が受け取っていた椀を、今度は誰かが運んでいく。置く向きを直してから、横になった。
日を重ねるうち熱は下がり、水疱は乾いてかさぶたになった。エステルは肌だけでなく体調の経過も確かめ、すぐに元の運搬量へ戻そうとはしなかった。最初は自分の荷を整えるところから。次は、決められた場所で軽い物を扱うところまで。ユーゴは言われた分を終えると、その日できなかった分をほかの人へ渡した。
体の重さも抜け、別状なく回復したと聞いた時には、外の足音を聞くたびに立とうとはしなくなっていた。
その後もしばらくユーゴとロゼットは村で過ごした。
エステルと森の治療者は、それぞれの記録を見て、最後に感染の可能性がある接触をした日から数え直していた。ユーゴが来て二十一日経った、というだけでは終わらなかった。ロゼットにも毎日の確認が続き、予防薬を飲んだ後も、彼女は手洗いと物の受渡しの順を変えなかった。
やがて、ロゼットにも症状が出ないまま二十一日を目安とした観察が済み、ユーゴも回復後の確認を終えた。
「お二人とも、今の経過なら次の仕事へ進めます。ただ、新しく具合が変わったり、病人との接触があったりしたら、また知らせてください。旅に出る前にも確認しましょう」
エステルが言った。ユーゴは腕を動かし、頷いた。動けるようになったからと、その日のうちに次の村へ向かうつもりはなかった。まだ、ロゼットとここで確かめたいことが残っている。
*
新しく寝込む人が減ったことを、エステルと森の治療者が並んで確認した。
眠れる人、食べられる人、自分で戸を開けられる人が増えていた。重い状態の患者も落ち着き始め、夜の担当を増やしても追いつかない状況は抜けつつあるという。
物置の前で、村長が深く頭を下げた。森からの支援者にも、王都と領都から来た人にも、順に礼を言う。
「まだ、帰れる人ばかりではありません」
エステルが言った。
「薬も看護も、もうしばらく続けます。仕事へ戻る時も、少しずつ相談しましょう」
村長は顔を上げて頷いた。その後ろで、ロゼットが帳面の束を机に並べていた。
ユーゴは、木こりが結び直した縄で、届ける書類をまとめるための包みを用意した。
「何から読む?」
「番号からお願い。医療のスクロールと衛生に使うスクロールを混ぜないで。そのあと、どこで試したかを」
使えなかったスクロールの製造番号と製造元。封を切る前の状態、保管していた場所。村で作動しなかった品が、外では働いたこと。追加の支援品でも同じように止まったものと、使えたものがあること。
リシュアンの試験記録と読み合わせながら、ロゼットは不明な所を不明のまま残した。
「フルーリでは結界だった。今度は、治療と通信まで」
ユーゴは読み上げる手を止めた。
「スクロールが動かない間にも、病人は増えるんだな」
「ええ。どんな暮らしが止まったかも、一緒に伝える。品の数だけでは、伝わらないことがあるから」
別の紙には、森の治療者が確認した病気のことが書かれていた。森では知られた病であること。結界には森の中の病のもとを外へ出さない働きもあり、その働きが弱まっていたこと。
フィンが横から読み、森の事情に間違いがないか確かめた。
「古い魔法が弱っていることも、入れてあるか」
「あります。ただ、スクロールが止まるのと同じ原因とは書いていません。実際に見たことと、私が気になったことは分けました」
ユーゴは、朝の見回りで使った記録を渡した。ロゼットは回復した人の記録だけでなく、亡くなった人と、失われた暮らしの欄も確かめた。
「そこも、消さないんだな」
「消せないわ。これから必要な支援も、変わってくるから」
ユーゴは縄を緩め、紙をもう一枚入れられるよう包みを広げた。
*
状況が落ち着きつつあるという報告と、詳しい経過、スクロールの記録を封じた書類を領都へ向かう支援の便へ預けた。王都のクラリスとレイモンにも同じ内容を共有するように書かれている。
「この詳しい報告も、これまでと同じ宛先でいいですね」
荷を受け取った係が尋ねた。
ロゼットは村の方を見た。開く戸は増えたが、閉じたままの戸もある。
「はい。まずは領主様へ、その後王都のクラリスさんとレイモンさんへ同じものを。暮らしはまだ戻している途中ですし、品が止まった理由も分かっていません。次の報告と、一緒に読んでもらえるように」
係が頷き、運搬の記録へ受け取った包みを記した。
村へ戻ると、物置の前でユーゴを呼ぶ声がした。食事を運ぶ籠を、今日は自分も持てるという人が待っていた。
ユーゴは持っていた籠を一つ渡した。取っ手を握る手を見届けてから、自分の分を持ち直した。




