第1章 祭りの朝の仕事
木剣を受け流した手に、ほとんど重さが残らなかった。
ユーゴは踏み込んだ足を軸に、切っ先を返した。師の脇腹へ届くはずの一打が、半歩の先で空を切る。すぐに足を送り、構えを戻したときには、ベルナールの木剣が肩の前にあった。
「今のは、入れると思ったか」
「はい。受けたとき、右側が空いたので」
「そこへ誘ったからな」
ベルナールが剣を下げた。短い髭に白いものの混じる師は、こちらの息が整うのを待っている。ユーゴは自分の立っていた場所を見た。後ろ足の跡は乱れていない。それでも、踏み込みの終わるところで待たれていた。
「もう少し深く入れば、退がる前に届きませんか」
「やってみろ」
同じ間合いに戻る。今度は受け流す動きから、足を止めずに入った。肩と肘を緩めたまま、木剣を走らせる。
師は退がらなかった。
内側へ入ってきた木剣を咄嗟に外し、ユーゴは体を開いた。肩への一打は避けた。だが、逃がした足を置くより先に、喉元へ切っ先を向けられた。
「同じようには来ませんね」
「お前が変えたのに、俺だけ変えないわけにはいかんだろう」
言われて、少し笑った。二十歳になるまで繰り返してきた型は、考えずとも体が動くほどになった。けれど、師を相手にすると、届きそうな場所はいつも少し先へ移る。
「受けたあとの足はよかった。今の位置を覚えておけ。次は、打つところを決めてから相手を見るな」
ユーゴは短い茶髪をかき上げ、もう一度構えた。
ベルナールの手元だけでなく、胸、肩、足の置かれた場所を見る。開いた脇へすぐには向かわず、師の前足が土を踏むまで待った。
木剣の触れ合う音が、朝の道場に続いた。
道場を出るころには、フルーリ村の屋根を越えて日が差していた。高い空を、羊の群れに似た雲がゆっくりと流れている。畑から吹く風は涼しいのに、広場のほうではもう火を使っているらしく、薪の煙が細く上がっていた。
今日は収穫祭だった。
ユーゴが腰の布を結び直していると、ベルナールが袖をつかんだ。
「ここがほつれている」
「あとで縫います」
「昨日もそう言ってたぞ。裂けてからでは、縫うところが増えるだろう」
親のいない自分を、村の人たちと一緒に育ててくれたこの人は、木剣を持っていないときでも、こちらの隙をよく見つける。
「祭りが終わったら直すよ」
そう答えて、ユーゴは足早に逃げた。
だが、逃げた先ですぐに呼び止められる。
「おう、ちょうどいい。北の森へ入るか」
声をかけた猟師は、縄の束を肩にかけていた。荷車には空の籠が重ねてある。
「祭り用の肉の準備ですか?」
「イノピッグを三頭とシガゼルを三頭くらいあれば十分だろう。お前が仕留めてくれたら、俺たちが拾って運ぶから仕留めた場所を知らせに戻ってこい」
「分かりました。そろったら呼びに戻りますね。大きいのまで一人で運ぶと、昼を過ぎそうだし」
「森の浅いところで狩りをするんだぞ。逃げたからって奥へ追うなよ。肉を取りに行って、お前まで探しに行くのは御免だからな」
言いながら、猟師は北を見た。畑の向こうの森は、朝日に照らされた縁だけが明るい。その先には大きな獣も出るらしい。祭りの肉のために入っていい場所ではなかった。
ユーゴはうなずき、いったん家に戻って狩猟鉈を取った。稽古の木剣とは違う、短く厚い刃だ。鞘を確かめてから腰に吊るす。
*
森の縁には、湿った葉と土の匂いが満ちている。
イノピッグは、豚に似た丸い胴で落葉を押し分け、鼻先で土を探り、落ちた木の実や土の中の虫を食べる。人を見つければ逃げる獣だ。
ユーゴは風を頬に受け、風下へ回った。落ち葉の厚いところを避け、根の張り出した地面に足を置く。木々の間から見える一頭が、顔を上げた。
息を止める。まだ動かない。
獣がまた鼻を落としたとき、木の陰から間合いを詰めた。踏み込み、短く振り獲物の首元へ鉈を下ろす。手応えを確かめてから、刃を引いた。
二頭目を見つけ回り込もうとすると、風が変わった。鼻を上げた獣が、林の奥へ走り出す。ユーゴは踏み出しかけた足を止めた。
追えば間に合うかもしれない。だが、頼まれたのは三頭だ。あの一頭でなければならない理由はない。
遠ざかる背を見送り、風下へ向きを変えた。浅い林の、まだ草が食まれている場所を探す。
イノピッグを三頭そろえるまでに、朝露はすっかり消えた。倒した場所に印として倒木を立て、次は草地に沿ってシガゼルを探す。
鹿のようなすらりと伸びる細い脚と、緩やかに湾曲した太い角が草の上に見えた。こちらはもっと逃げ足が速い。走って追いつこうとしても無理だ。
低い灌木の陰にしゃがみ、獣道を通るのを待った。虫が手首を這っても、払えない。ふくらはぎが張り、膝を少し開いたとき、ようやく角が近づいた。
獲物の胴が藪の獣道に入る瞬間に踏み込み首元へ一気に振り切る。
それから場所を変え、待つことを繰り返した。頼まれた数がそろうころには、広場の料理が頭を離れなくなっていた。
戻り道で猟師に六頭分の場所を伝えると、彼は仲間に声をかけ、荷車の向きを変えた。
「北の曲がった木の先に一頭。倒木の手前に二頭。シガゼルは草地沿いです」
「分かった。解体はこっちでやる。お前は広場へ行け。朝から探されてるぞ」
「俺、何かしました?」
「今日はまだ朝から何もしてないからだろう」
*
酒屋の戸口に、樽が並んでいた。
主人はユーゴを見ると、待っていたと言う代わりに、一番手前の樽を指した。ユーゴは縁を持ち、膝を曲げて抱え上げる。中身が揺れて、腕に重さが寄った。
「大事に頼むぞ」
「樽は落としませんよ」
「お前の腰だ」
「じゃあ、そっちを持ってください。戸口を出るところだけ、横に」
反対側に主人が回る。腕にかかっていた重さが軽くなった。樽を少し傾け、先に出た主人の足に合わせて敷居を越す。広場へ向かう途中、祭りの飾りを結んでいた子供が、通り道に落とした紐を慌てて拾った。家々から持ち出された台は高さがばらばらで、低すぎる一台には薪が噛ませてある。
樽を置いたとたん、向かいの屋台から手が上がった。
「お兄ちゃん! 次、こっち!」
年下のリネットだった。薄茶の髪を後ろで結び、緑の服の上から前掛けをつけている。幼いころ兄妹同然に村で育った。血のつながりは無いが兄と慕ってくれる。そのよく知る顔に、今日は粉がついていた。
「鼻」
「何?」
「白くなってるぞ」
彼女は手の甲で鼻を拭いた。粉の範囲が広がった。
「顔はあとで洗うから、先にこっち持って。父さん、一人でできるって言ったのに、さっきから板を押さえる人を探してるんだから」
屋台の板を押さえると、その下からマルタンが釘をくわえた顔を出した。リネットの父親は片手で待てと合図し、釘を抜いてから口を開いた。
「もう少し右。そう、そこでいい」
「父さん、曲がってない? これで皿が滑ったら、拾うのは私なんだけど」
「地面が曲がってるんじゃないか?」
隣で鍋をかき混ぜていた母親のアンヌが、顔も上げずに笑った。
「じゃあ地面ごと直してちょうだい。お客さんが来るまでにね」
ユーゴも笑いそうになったが、板が動きかけたので慌てて握り直した。
マルタンが留め直す間、リネットは皿を並べていく。端に置いた一枚が滑ると、無言で父親を見た。
「……もう一本、釘を」
「はい」
ユーゴが渡すと、今度こそ板が落ち着いた。皿は動かなかった。
アンヌが小さく切ったパンを差し出してきた。鍋の汁を吸わせた端が、指に熱い。
「朝から何も食べてない顔ね」
「顔で分かります?」
「返事の前に食べたでしょ」
もう飲み込んでいたので、反論できなかった。
焼けた肉の匂いが、広場の反対側から流れてくる。猟師たちの仕事も進んでいるらしい。ユーゴはもう一切れに手を伸ばし、リネットに皿ごと遠ざけられた。
「先に水」
「そうだな、のどが渇いた」
「屋台で使うのを運んでくるの。私が皿を並べてるあいだに、桶をいっぱいにしてきて。飲む分も汲んでいいから」
空の桶を渡された。
井戸で水を汲み広場へ戻ろうとすると、村の道に見覚えのある大きな荷物が現れた。茶色い革のリュック。その横から、青緑の布と赤茶の髪がのぞいている。
「ロゼット!」
呼ぶと、荷物の下から片手が上がった。
「おはよう。お祭り、間に合った?」
「まだ始まってない。今回はどこから来た?」
「南の集落から。森の道はかなり荒れていて、三回も休んじゃった。売れれば軽くなるはずなのに、直してくれって品物を預かると、また重くなるのよね」
二か月ぶりに来た行商人は、空いた場所へリュックを下ろした。地面に着く音が、見た目どおりに重い。
ユーゴは汲んだばかりの水をロゼットに渡す。
ロゼットはユーゴと同じ二十歳で、魔法を仕込んだスクロールや道具を売り、定期的に調整や修理で村を訪れる行商人だ。彼女が来る日に合わせて、相談をためておく家も多い。
ユーゴが肩紐を外すのを手伝うと、彼女は首を回し、指で髪の花飾りを直した。
「もう少し水を汲んできて、店を広げたら動けなくなるから」
「その水筒に入れてくるよ」
「助かる。あと、いつも使わせてもらっている木箱をお願い」
「分かった。酒屋の親父から借りてくる」
ロゼットはリュックの留め具を開けていた。巻物を入れた箱、布に包んだ道具、見本らしい小さな器具が順々に出てくる。
その前に、早くも村人が一人立ち止まった。
「待ってたよ。前にもらったやつなんだけどね」
「どうだった? 使えなくなったのか、使えるけど不便なのか、そこから聞かせて」
ロゼットは手を止め、相手の顔を見た。
ユーゴは桶を持ち直した。帰ってきたころには、このあたりにも列ができていそうだった。




