1 平穏な日々の終わり
……どうやら昨夜は、変な夢を見ていたらしい。
夢の世界で自分は、王子と舞踏会でダンスを踊っていた。周りには白薔薇が咲き乱れて、一時幸せな気分を味わったのを覚えている。それがどれほど幸せだったか……。
そう。それほど、随分と現実味溢れる夢だった。
が、そこで、アナスタシアははたと思い出す。
いや――違う。それは、夢じゃない。
何の滞りもなく万事うまくいっていたはずなのに、いきなり王子に求婚された……そこまでは、記憶にある。
だが、そのあとは?
ぼんやりした記憶を必死に取り戻そうとしたが、何も思い出せない。
そんな意識のままふと天井へ目を向けたアナスタシアは、途端にいぶかしげに眉を寄せた。
見慣れない天蓋が、そこにある。
桃色の生地に刺繍やレースがあしらわれたそれは、あきらかにトレメイン家の私物ではない。少なくとも、自分の部屋にはないものだ。
ここ、どこ?
恐る恐る身体を起こすと、そこには見慣れない風景がある。
どう見ても貴族の部屋にありそうな、数々の高級そうな品。
「え、なになになに? まったく話についてけないんだけど」
とりあえず、ここがどこかを教えてほしい。
「おはようございます。昨日はよく眠られましたか?」
寝台で頭痛のする頭をギュッと押さえていると、侍女らしき女性が部屋に入ってきた。
トレメイン家では、母が家の使用人を全員クビにしたせいで、近頃は侍女の姿を目にしたことはなかった。
しかし、彼女のその服装は、以前トレメイン家で着ていたものとは違っている。
頭からつま先まで、すべて高級品で包まれているような――
いや、それより。
「そうだわ。ここはどこ? わたしはなぜここにいるの」
ぐいっと彼女の腕を掴むと、案の定驚いたような顔をされるのと同時に、大丈夫ですか、と逆に心配された。
「昨夜、舞踏会の場でいきなり倒られたんですよ。意識がないようでしたので、ひとまずこの部屋にご案内しました」
「倒れた? わたしが?」
そうだったのか。倒れた記憶まですっかり飛んでしまっている。
しかし次に続いた侍女の言葉に、アナスタシアは目を丸くした。
「ええ。王子殿下とダンスを踊られる前に、ぱたりと」
「そんなタイミングよく!?」
まるであの王子と踊るのが本気で嫌だと身体で訴えたような状況である。まああのまま彼と踊る気なんてこれっぽちもなかったアナスタシアにとってはある意味好都合なのだが、しかし、なぜ自分はこんな場所に……。
「ここはどこですか?」
丁寧な口調でそう聞くと、侍女はかしこまったような態度で続ける。
「王宮にある白百合の宮ですわ」
「王宮!?」
なぜそこで王宮が出てくるのだ。いや、確かに昨夜は国王主催の舞踏会に参加はしていたが……。
いや、まさか。
「あ、王子殿下がここにお連れするようにとおっしゃったので」
そう、慌てたように付け足した侍女の顔を見、アナスタシアは思わず顔を引きつらせた。
「なんですってえ!?」
王子といえば、昨夜エラではなく自分をダンスに誘った、極悪非道のあの男ではないか。その顔を思い浮かべた途端、アナスタシアは頭に血を上らせる。
「ちょっとあなた、その王子は、今どこにいるの?」
「え? ああ、多分今は隣国の侯爵様と茶会を楽しんでおられるかと……」
「茶会ね。今から乗り込みに行くわ。場所を教えて」
「ふぇ!? いえあの、困りますっ」
今にも乗り込んでいきそうなアナスタシアの腕を、侍女が必死に引っ張る。
「離しなさい。今からあの男を一発殴りに行くの。どうしてエラじゃなくわたしを選んだのか、理由を聞くためにねッ!」
「いえあのっ、まさかその格好で外に出られるおつもりですか?」
そう指摘されるのと同時に、アナスタシアは自分の服に視線を移す。いつの間にか、生まれてから一度も着たことのないような寝間着を身につけている。
いやいやいや。問題はそこじゃないわ。ひとまず着替えて殴りに行かないと――!
ぐるぐると部屋の中を駆け回り、その奥の部屋が衣装部屋であることに気づくと、その大量のドレスの中から、最初に目に入ったものを手にとる。
「これでいいわ! ちょっとあなた、背中のチャックを開けてくれない!?」
焦りのあまり敬語がどこかに吹っ飛んでしまったが、今はそれどころではない。侍女ははい、と大きな返事をして衣装部屋に駆け込んでくると、アナスタシアの着ていた寝間着のチャックを下に下ろす。
急いで着替えを終えたアナスタシアは、髪を解かすのもほどほどに部屋を飛び出していく。後ろから侍女が追いかけてきたが、それにも構わず白百合の宮中を駆け回った。
「宮とかいうからてっきり小さいんだと思ってたけど、これ一体どこまで繋がってるの?」
先程からずっと同じ廊下を走っているのに、まったく出口が見えない。もしかしたらもうあの宮を抜けているのかもしれないが、その境目すら分からないほど同じ景色が目に入る。
とそこで、追いついたらしい侍女がアナスタシアの腕をむんずと掴んで引き止める。
「姫様! 宮中を駆け回られては困ります。この辺りには来賓の方々もおられる故――」
姫様、と呼ばれ、アナスタシアはもう何が何だか分からなくなった。
昨夜いきなり求婚されたかと思えば、倒れて気がついたらここにいて、とりあえず王子を絞めようと思ったら侍女に姫様と呼ばれ……。
が、しかし、そこまで考えた時、アナスタシアの思考は停止する。
姫様? 求婚? 王宮?
……自分の勘違いでなければ、もしかして――。
「そこで何をしている」
突如響いた聞き覚えのある声に、アナスタシアはハッとして息を呑んだ。
その声は、たった今自分が捜していた人のものである。
驚いてそちらを向くと、自分が走ってきたのと向かい側の廊下から、その男はこちらへと歩いてくる。
その中で一人、とびきり輝いて見える人物。
綺麗な金色の髪に、紺碧色の深い瞳。端整な顔立ちに誰もが一度は見とれるような、そんな美しい容姿をした彼を、今だけは、ただ腹立たしく思うアナスタシアである。
正直言って、今はときめきよりも怒りと警戒を覚える。
彼はアナスタシアの前まで来ると、その透き通る深い瞳で見つめてきた。
「昨夜はいきなり倒れたけど、身体の具合はどう? まだ悪いのなら医師を呼ぶが」
本人はアナスタシアを本気で心配しているようだが、しかし、今は身体よりも心の調子が悪い。そんな気持ちを前面に表すように、アナスタシアは睨むような視線を彼に向ける。
「いいえ。どこも悪くありません。ただ、わたしは今、あなたに憤りを感じているところです」
姫様、と侍女が窘めるように声をかけたが、そんなことに構ってはいられない。
「いきなりこんなところに連れてこられて、平然としていられるとお思いですか? 第一、なぜわたしがここにいるのか、そこから教えてください」
にらみを利かせてそう言うと、王子はふっと不敵な笑みを浮かべる。
……その笑みを見た途端、アナスタシアはただただ、嫌な予感だけを感じた。
前にも、こんなことがあった気がする。
「そんなの、理由は一つに決まっているだろう」
また、いつかと同じように、彼はその赤い舌を出して、何事もないかのように平然と言ってのけるのだった。
その、アナスタシアが一番聞きたくない言葉を。
自分が一番、望んでいない言葉を。
「もちろん、お前が俺の婚約者だからだよ」
――その日、アナスタシアは何度目かの目眩を覚えた。
アナスタシアの平穏な日々の終わりを告げるベルが、脳内で何度も繰り返された瞬間だった。