全てはエロスのために-3
「開けろ。警察だ」
兵藤はこの日、数名の警察官たちとともに一軒のアパートを訪れていた。
彼は右手に捜索差押許可状の入ったファイルを携え、彼の部下たちは押収した証拠品を持ち帰るための折りたたみボックスをいくつも抱えていた。
そして兵藤が身につけるのはねずみ色をした最上等品の羊毛製コート。
彼が妻から贈られた人生最高の一品の一つであり、かつて刑事部にいた頃から殺人や強盗、薬物組織の摘発など、重大な事件に臨む時だけ袖を通してきた勝負服。
裏を返せば、兵藤はこの事件をそれほどまでに重大な、法が揺るぎかねないという観点においてはそれらをも凌駕するほどの重大事件として扱っていたのだ。
しかし、そんな彼の中にも一抹の不安があった。
それは数日前、捜索差押許可状を取得する前の検察との事前相談の時から続いていた。
「……やるしかないでしょう。それが現行の法運用です」
検察官へ「立件……もっと言えば起訴できるか。おそらく、これ以上証拠は出んぞ」と尋ねた兵藤は、確かに可能であるという返答をもらった。
それに伴い、令状が発付されるだろう。
しかし、その言葉にはどうにも自信というものが欠けていた。
「やはり今回の件、ただ事でないことは気付いておられますか」
「ええ、もちろん。明確にチャタレー夫人を狙い撃ちにしてきている。法理解が無ければできないやり手が、我々へ宣戦布告してきているのです」
しばらくの間、口を噤み黙り込む両者。
検察官がハッと気が付いたように瞼を上げると、先ほどの発言へ訂正を加えた。
「いや……法理解だけでは、このような行為には及べませんね。判例を読み込む知性。なんとしても無修正のポルノを解禁せんとする狂気的な信条。そして、それが社会のためであると信じ切る、原義での『確信犯』的思考。その三つが揃った者にしか、このような真似はできない」
あの検察が。刑事事件において、起訴する以上は99.9%の確率で有罪へ持ち込む検察が、ここまで弱気なことを口にした。
これは検察からしても「勝てるか確証はない」裁判。堀野から見れば「勝てる可能性のある裁判」。
しかし、検察の起訴後の有罪率99.9%に傷を付ける可能性があるとしても、これ以上の模倣犯の出現を防ぐため、検察に起訴しないという選択はなかった。
兵藤の内心に起こる不安には、そんな背景があった。
彼の身につけた勝負服は、検察にそこまで言わせた彼への宿敵としての警戒と敬意も込められていた。
兵藤がドアへ声をぶつけた僅か数秒後、そのドアノブが音を立てながら回る。
「……お巡りさん、ですね。お待ちしておりました」
ドアの奥から出てきたのは、長くカールした茶髪に垂れ目、人畜無害な外見をした一般的な大学生。
あろうことか、彼は歓迎の言葉を口にする。
警察官として二十五年以上働いてきた兵藤も、さすがにガサ入れへ入った容疑者に歓迎されたことはなかった。
この歳になって初めての局面へぶち当たるとは、この仕事も捨てたもんじゃない。
兵藤はこんな難敵を相手にしても自らが仕事へのやり甲斐を覚えていることに、思わず口角を上げる。
「埼玉県警の兵藤です。あなたに捜索差押許可状……俗に言う家宅捜索の令状が出ています。ご確認ください」
「ええ、もちろん。どうぞお入りください」
「失礼する」
堀野は大きく後ろへ下がるとともに、余裕をもった歩調で部屋の奥へと向かう。
靴を脱いで揃え、あとを落ち着きのある歩き方でついていく兵藤。
その様子を見て、兵藤の数名の部下たちは互いに目を合わせ事態の異常性を確信した。
元々、兵藤は荒っぽい人物ではなかった。
このような緊急性の低い捜査へ乗り出す時は、最低限の礼節を伴い捜査するのが彼なりの姿勢であった。
それであっても、その日の兵藤は所作や言葉の端の一つ一つが柔らかであった。
そして、部下たちは予てより今日の捜査にあたる上でこのような指示を受けていたことも、確信へ至る手助けをした。
「今回に限ってはもしもがある。いつも以上に丁重に、しかし確実に、そしてより多くの証拠を引き出せ」
こうして、堀野蕁尋の家宅捜索が始まったのだ。




