Mission 09: the Legendary Sword
足音が病院の廊下に響く。
ここは北海道の小さな病院。と言うより田舎の診療所に毛が生えた程度のもの。本日は日曜日だ。そのため職員も少なく静かである。入院患者もなく、院内に居るのは看護師と医者1名ずつ。なんとも寂しい病院だと、千里は周りを見ながら思う。だが、それでいいのだ。
千里は検知の魔術で建物内に魔力を軽く流す。すると、至る処に結界が張り巡らされていることに気付いた。このレベルの結界なら弱者は入ることすら叶わず、強者なら破壊した時点で直ぐに侵入が分かる。
実はこの病院は監視協会の拠点の一つなのだ。表向きは地域密着型の病院を装っていた。
「セキュリティは万全ですね。」
心配しているのはいのりが持っていた魔術書だ。ビースト達は必ずあれを狙ってまた現れるだろう。この結界なら心配はないと思いたいところだが。
「いのりさん…か。」
一瞬、昨夜の二人の様子を思い出した。
しかし直ぐに頭を振り、その記憶をどこかへ追いやる。
気持ちを落ち着け、千里は病室のドアを開けた。
「いのりさ…あれ?」
昨日保護した錦木いのりの姿がない。ベッドに寝ているハズだったのに。
慌てて振り返る途中、ベッド横のソファが目に入った。楓がそこで毛布を被って寝ていたのだ。
夜通し看病していたのだろうか。チクリと痛む胸に手を当てて、昨晩ずっと考えていたことを思い出す。
自分と楓はまだ知り合ったばかり、仕事上のパートナーとしてこれから上手くやっていけば良い。恋愛感情など二の次だ。新しい世界に飛び込んでいくのだ、もっと学ぶべきことを学び、今目の前の課題をクリアしていかなくてはならない。
その思いを胸に、拳を握りしめ目を瞑り深呼吸をして、声をかける。
「楓さん、起きてください!いのりさんが居ないんですが…。」
そう言って近づくと、その毛布が異様に膨らんでいることに気付いた。
勢いよく剥がす。
ほぼ下着姿のいのりが、楓に抱きついたまま眠っていた。
「あsdfghjkl!!」
真っ赤になり固まる千里。
「…どうした…?」
目を覚ました楓は、張り付く何かに気付いた。
「…!おま…っ、なにやってんだ。」
と引き剝がしにかかるが。
「あ、先輩…。おはようございます。」
より強く抱き着く。
「うぐ…やめ…!」
朝から二人のイチャイチャに当てられ、よろよろと退室しようとする千里に、楓は声をかける。
「千里、ちょっと待て、何か誤解してないか?」
「あ、いえ。お邪魔しました。」
とだけ言って部屋を出た。
千里は気を落ち着かせながら、後ろ手で引き戸をゆっくりと閉める。
だが、その途中でその扉は止まり、凄い力で押し戻された。
「え!?」
開いた扉のすぐそこに、いのりが立っていた。
「あなたが、ちさと…さん?」
こうして目の前にすると、自分よりも頭一つ小さく、小柄な彼女はどこか小動物のようで愛らしいルックスを持っていた。楓の事がなければ抱き着いて撫でたくなるような…。
「…や、めて。」
気づけば胸にうずめて撫でまわしていた。
「は!ごめんなさい。」
自分が離すよりも先に、彼女は突き放すように両腕を伸ばし離れた。
「馴れ馴れしくしないで。」
その表情は敵意すら感じる。楓に向けるものとは全く別だった。
「あなたは、先輩の、何?」
「わ…私は楓さんのパートナ…、バディです!」
それは自信を持って言える。キメラ戦でのコンビネーションはクローネにも認めてもらえている。
「そう、じゃあこれからは私がバディ。
貴女はいらない。」
そう言って扉を閉めようとするが、今度は千里がそれを押さえた。
「そんなっ私は…って、つよ!」
凄い勢いで扉は閉まった。開けようとするが、向こうから押さえられビクともしない。あの細い腕のどこにこんな力があるのか。全く開けられる気がしない。だが、バディの座は譲れないのだ。
顔を真っ赤にしながら必死で開けようとする。
「非力すぎる。やはりあなたには任せられない。」
扉の向こうから声がする。その言葉に心を折られそうになったときだった。
突如扉は開いた。
目の前に立つ楓。その後ろで頭を押さえて両目をバッテンにした少女がいた。
「千里、ちゃんと紹介していなかったな。
彼女は錦木いのり、ピース時代の後輩だ。それからいのり。
嵯峨野千里だ。色々とサポートしてくれる仲間だ。特にこの世界のことは先輩だからな、千里には助けらればかりだ。」
「え、そんなことないですよ!私の方こそ楓さんに助けられてばかりで…。」
「謙遜するな。キメラのときもお前がいなかったらどうなっていたか。」
思いもがけず褒められ照れる千里だったが。
「ガーン。」
気持ちをそのまんま声に出した後、いのりは突如走り去った。
「え?おい!」
しかし、昨日脳を揺さぶられ、結構なダメージだと思ったがあれだけ走れるなら安心だ。と楓は腕を組んで感心する。
「いのりさんっ!」
病室の片付けでもしようかとした矢先、千里まで走り出す。一体何なのだろうと二人の行動を疑問に思うが、特に今後の作戦には影響はないと判断し楓はベッドのシーツを直す。
千里の足でいのりに追いつくことはまず叶わない。とりあえず病院の敷地内を歩いてみるが見当たらず、暫く探していると外周を囲むレンガの壁に小さな隙間があった。そこに細い小道を見つけた。少し茂っているが歩けないことはない。千里はそのまま進むと、突然視界がひらけた。
ちょうど病院の裏手になる位置にちょっとしたスペースが設けてある。洋風のおしゃれな柵があり、その先は崖になっていた。海の音と潮の香り、心地よい風、そして水平線。年に数名、療養に訪れる患者がいると聞いたがそれも納得できる。そして、その中心にある真っ赤なベンチに座っているのは、いのりだった。
「隣、良いですか?」
「嫌です。」
即答。だがめげずに千里は強引に彼女の右側の隙間に座った。
「!」
いのりはベンチの左端へと移動する。
何処かへ逃げられなかっただけでもマシだと千里は話しかける。
「あの、改めまして私は嵯峨野千里といいます。
今は監視協会に身を置いていますが、元々は骨董品店で魔術グッズを集めたり管理してたりしてました。」
いのりは真っ直ぐ海を見つめている。
「そ、それで、魔術師の家系は魔術の方向性は代々決まってまして、私の家はそういうものの鑑定や検知、探索が得意なんですよ。」
他人に興味を持たないいのりにとって全く感情は動かない。
「で、ある時、お爺ちゃんが間違えて大事な魔術品をお客さんに売ってしまったんです!
それがなんと楓さんのお父様だったんですね。」
ピクッと明らかに反応を見せた。ニヤリとする千里。
そこからは、楓との出会い、キメラ事件での楓の活躍を中心に語った。
「ーつまり楓さんはコハク様と融合しさらにお強くなられたんですね〜。
それに加えて仲間思いでいざという時に頼りになって、本当に素敵な方ですよね。でもちょっと無愛想で鈍感で、まあそこが可愛らしいところでもあるんですが…。」
柔らかく赤みがかった頬、嬉しそうに楓のことを喋る千里を無言で暫く眺めていたいおりだったが突如。
「先輩が…好き?」
真っ直ぐこちらを見つめながら問う。そんな彼女に千里は慌てて両手を振った。
「ちっ…!違いますよっ!私はただ…っ憧れてるし尊敬できるな〜と…ただそれだけで!」
その反応にいのりは勝利の笑みとばかりに口の端をあげた。
「ふ、私は先輩を愛している。」
「え、え〜〜!!」
顔が赤くなりつい大きな声が出た。直球ストレートな言葉に心臓が高鳴る。
「わ…私は…。」
「所詮貴女はその程度、ふふん。」
正直、自分は解らない。言ってもまだ出会って間もないし憧れの存在の域を出ていないかもしれない。だが何だろうこの敗北感は。
「そして私と先輩の愛の歴史は長く深い、貴女よりも!ふふん。」
段々腹が立ってきた。
「格闘術、銃の取り扱い等々、毎日毎日くんずほぐれず色々色々教えてくれたあの日々…。」
「わっ!私だって楓さんとはもうあれからずっと一緒で、車の中で一夜を共にしたことだって…!」
「なっ…!」
「それに私の千里眼の術は楓さんのスナイ…パー?のときにも頼られてて、貴女にはない魔術と楓さんの妖力との相性は最高なんです!」
「ガーーン」
と、また遠くを見つめ出した。
(攻撃力高いくせに防御力低いパターンですか…。面倒くさい。)
「あ、あの、その腕の傷。」
と、千里はいのりの腕にそっと手をかざす。先日の任務のときの負傷だった。傷はほとんど治っているが少し痕が残ったままだった。
千里が目を閉じ何かつぶやくと、ほんのりと白く手のひらが光り、腕に暖かみを感じたかと思えば、少しずつ傷痕が塞がっていった。
「これは…。」
「これは簡単な初歩の回復魔術です。私は苦手で治りかけのかすり傷を治す程度ですけど。他にもこんなこともできますよ。」
と、左の袖をまくり、また何か唱える。すると左肘から手首までの間に白い幾何学模様が浮かび上がった。
「ここ、思いっきり殴ってみてもらえませんか?」
「は?」
「どうぞどうぞ。」と微笑む。
いおりは訳もわからず、それなりの力で殴ってみる。すると、まるで硬いサンドバッグの様な感触が返ってきた。千里もちょっとビックリした程度だ。こんな華奢な腕、飛んでいきそうだというのに。
「魔術師はある程度は自分を守るために人体強化ができるんですよ。これも私の家系は
苦手なんですけど、銃弾は流石に無理ですけど、ゴム弾なら前に楓さんに頼んで実験しましたが何とか耐えられました!」
何と無謀な実験してるんだか。
「まあ、その時は鳩尾に入ってしまって朝ごはんを全て戻してしまいましたが。」
「プ。」
左を見るといのりも左を向いていた。
「今笑いました!?」
「笑ってない。」
と、小刻みに肩が揺れる。
そんないのりに少しホッとして千里も笑みを浮かべた。
「…それにしても本当にいい眺めですね、ここ。」
千里は大きく両手を広げ伸びをしながら、柵の方へと歩いた。水平線が本当に美しい。
目を閉じて、波の音に耳を傾ける。
そのすぐ真下、岩が削れるような音も聞こえた。
「今の音は…。」
「ちさと…!」
いのりが自分の名を叫んだ。振り返り目を開けるとベンチから立ち上がって駆け出そうとする彼女、同時に、背後に何かが迫る空気を感じた。
直後、強い力で後ろから抱えられ、冷たく硬いものがこめかみに突きつけられた。
「動くな。」
崖の下から次々とワイヤーが飛び出してくる。その先端の金具が柵にかかり、それを辿って上がってくる男たち。その一人一人は、ダークトーンのミリタリージャケットを着用し、マットな質感が光を吸い込むように無機質な雰囲気を醸し出している。その全員が顔をゴーグルで覆っていた。色合いこそ違うがそれはピースの専用スーツそっくりだ。
「……3、4。」
いのりは冷静にその人数を数える。だが動けない。1人目の兵士が見事な動きで千里を拘束している。少しでも動けば千里の頭蓋骨に風穴が空くだろう。
「お前たちは一体…。」
そう言い終わると同時に4名の中心に大きな音を立てて何かが降り立つ。その巨体に抱えられていた女性が地に足をつける。
「また会ったわね。お嬢さん。」
白衣の女性天音凛花は、首筋を撫でながら首を回す。
「小樽では、やってくれたわね。」
「…!」
彼女の後ろには獣の吐息を漏らす大男。
まさかこんなに早く追撃に来るとは思わなかった。しかも、兵隊まで引き連れてきている。
千里は少し怯えながらも冷静に考える。
(万全の魔術結界が意味をなさなかった。ビースト以外は全てただの人間。だからこそ結界の反応が遅れた…!)
ビーストが侵入した時点で、建物内に警告は鳴った。だが遅い。すでに建物の中からは銃声が鳴り始めていた。別の方向からの侵入者だ。恐らく楓と何名かで戦闘が始まっているのだろう。
千里もいのりも楓が負けるとは考えられなかった。相手がプロだろうが、多勢であろうが誰よりも強くそして異能を得た楓が負けるはずがない。
「始まったわね、でもこの状況でも抵抗できるかしら?」
銃口が千里の側頭部に喰い込み、その男が通信機に向けてだろう「女は拘束した。」とつぶやく。
それから少しの沈黙の後、鈍い爆発音と同時にガラスの割れる音がした。茂みの向こうから、建物の至る所から紫がかった煙が吹き出ているのがみえた。
外に出た煙はすぐに海風に流れていくが、内部は充満したままだった。
「先輩!!」
金切り声をあげて叫ぶ。それがどういう状況かいのりにはすぐわかったのだ。
千里は答えを求める様に無言で天音をみた。
「あれはね、彼らの所で開発した特殊な神経ガスよ。面体なしじゃ数分持つか持たないか…だったわよね。」
兵士の一人に声をかける。兵士は縦に首を振るだけ。
楓がいたはずの病室はちょうど建物の中央。窓はあったがあれは中庭だった。どんなに早く動けても、あの量ではガスから逃れるのは難しいだろう。
「そんな…。」
「と、いうことで、チェックメイト。早かったわね。精鋭…ね。流石といったところかしら。
後は魔術書を回収するだけ。」
「楓さん!!」
千里は抱えられた腕を振り解こうと暴れるが、銃の後ろで頬を殴られた。その痛みを感じる暇もなく、膝の後ろを蹴られ千里は地面に倒される。そしてすぐに銃口を首筋に向けられた。じわりと血の味がする。唇が切れたようだった。
それでも自分の事などどうでもいい、煙に包まれた建物を睨みつける。何も出来ない自分が悔しくて地面の土を強く握りしめた。
「楓さん!楓…さん…!」
そんな姿を、いのりは黙って見ていた。
そこへ、この広場へと通じる通路から人影が現れた。
やはりそう簡単にはやられない、と期待をして見上げるが、それは黒いスーツを着た兵士だった。突撃銃を肩から掛け、右手にキャリーケース、左手には何か光る物をぶら下げていた。
彼のスーツにはいくつか銃痕が残っていた。楓との戦闘の跡だろう。
その彼は天音に近づき左手のものを見せて何か彼女に伝えた。
いのりは、その兵士が持つものをみて、背筋が凍る。
ドッグタグだ。
それは楓がアメリカ軍時代から付けていたネックレス。勿論千里も見たことがある。紛れもない、あれは楓が肌身離さず付けていたものだ。
天音はそれを受け取り、頷いた後、返す。するとその兵士は嬉しそうにそれを首からかけた。そして千里たちの方を向き、自らの首を掴んでバタバタと大袈裟に苦しむ動作を見せたあと、近くの兵士とハイタッチをした。
ゴーグルで表情は見えないが容易に想像がつく。いのりは殺してやりたいと本気で思った。ああいう輩はピース時代から居た。人の命を軽く見ている戦争屋。胸糞が悪い。
そういえば院長と看護師は無事なのだろうか?楓ですら逃げられないのなら、恐らく…。千里は涙を浮かべ、助けられなかった事を悔いる。
これが現実なのだろうか、数分前までのあの穏やかな時間が嘘の様だ。
いや、きっと楓はあの建物の中でまだチャンスを伺っているのだ。もしかしたらコハクの妖力があれば神経毒など無効にできるかもしれない。そう、楓がそんな簡単に負けるはずないのだ。
すがる様に千里は建物を見た。だがそんな彼女の希望など知ったことかと、天音はキャリーケースに触れた。
「?
ロックがかかってるわね。」
見ると鍵が付いていた。そしてその下に黒いプレートが付いている。指紋認証なのだろう。キラなら開けられるのだろうか、と天音は千里に銃を向けている兵士をみた。右肩に赤いラインが入っていた。彼が連絡係なのだ。
すると、その連絡兵は一人の兵士と合図を交わす。その兵士は千里のところへ歩み寄る。そして躊躇なく腹部に銃口を当てた。連絡兵はそれを確認し、交代するように千里の元を離れる。
腰のポケットから取り出した衛星電話を受け取った天音は、早速電話をかける。
千里が見上げると、兵士の首にぶらさがったドッグタグが揺れて光っていた。
「ちょっと、こんなときに何ででないのよ。」
と少々苛つきながら天音は携帯を切る。
千里はそんなやり取りなど気にもせず、憎きその兵士を睨む。ゴーグル越しに目があった気がした。
その頃いのりは全く身動きが取れずに居た。もはや疑いようがない、彼らは恐らくピースだ。5人の兵士がバランスよく配置されている。非戦闘員と思われる人質に1人、3人は戦闘能力が高いと判断したいのりに遠からず近からずの距離で銃口を向ける。残り1人はリーダー天音の護衛。ピースのフォーメーションの一つと一致する。これを打破するには…。
建物からまるでヒーローのように現れる楓に期待したいが、それも難しいだろう。あのガス量だ、生きていたとしても体を動かすのは無理だろう
そして最も重大な問題がビーストだ。銃弾すら弾く規格外の化け物。これを攻略する鍵はバルムンクだとクローネは言った。
活路があるとすれば、バルムンクを手に入れる事。
「そこの貴女、これ貴女なら開けられるんでしょう?魔術書を取り出して、こちらに持ってきて。」
そう言うと護衛兼連絡兵はキャリーケースをいのりの足元に投げた。あくまで近づかないという選択か。小樽での行動でかなり警戒されているようだ。
「近づいたら噛まれるからね。」
ゆっくりと、いのりは屈んでキャリーケースの持ち手を掴む。
唯一策を思いついた。このキャリーケースさえあれば自分だけでも離脱することは可能。だが確実に千里は犠牲になる。この距離で銃を突きつけられている彼女を助けるのは不可能だ。彼女の魔術は銃弾までは防御できないと言っていた。
いのりは首を軽く振りその案を否定する。赤の他人であろうが、楓の知人であろうが、作戦だろうが、人命を優先する。それは絶対に曲げられない。それが錦木いのりだ。
あと一手、あと一手何かあれば…。
キャリーケースを力強く握る。
「さあ、早くケースを開けて。」
反対の手で、黒いプレートへと指を伸ばす。動脈認証。それでこのケースは開く。だがこのケースを開くわけにはいかない。今はまだ。
その時だった。千里が走った。
いのりの動きに気を取られた兵士の隙を突いて、千里は拘束を逃れ、建物の方へと駆けた。
無謀すぎる。これだから素人は…!。
それと同時に銃声が響く。
千里の背中の衣服が弾け、それに押されるように千里は前へと転がり、茂みから生えていた松の木の幹にその体を打ち付けた。
「だからー…!」
素人?いや違う、彼女は人質という相手のアドバンテージを無くすために自らを犠牲にしたのだ。千里が死んだとなると楓はどんな顔をするだろうか。千里の話をするときの楓の顔を見ればわかる。彼女には一番の信頼を置いているのだ。一緒に過ごした時間なら負けていないしかし、死線を潜り抜け培った絆は自分よりも固いのかもしれない。
千里が作ったこのチャンスを生かして離脱する。彼女自身を犠牲にして。
はぁ?そんなこと…。
「…できない!」
いのりは親指をプレートに当てた。
その瞬間。キャリーケースは勢いよく開き、中から持ち手が飛び出た。いのりはそれを握ると同時に連絡兵の方へと一直線に飛ぶ。片手で握りしめたそれは十字を描いたような形状で、その持ち手の反対側は幅10cmほどもある刃のようだった。刃渡り50cmほどの剣。だがいのりが跳躍するその最中に、刃の輪郭は紫色に発光し、それは高いモーター音を鳴らしながら刀身を3倍ほどに伸ばした。
連絡兵の前へと到達したころには、全長180cmにもなる大剣へとその姿を変えていた。
十分に長いその刃は多少の距離の不利を帳消しにする。片手で振るうその一太刀は、確実に連絡兵の喉を捉えた。
「1。」
いのりに銃を向けていた三人の兵士は訓練通り、彼女に狙いをつけトリガーを引く。だがもう一方の手に持ったキャリーケースでその弾丸を受け、それた銃弾はまるでサーカスのように飛び跳ね、避けた。
いのりは着地と同時に銃を向けていた兵士の一人にケースを投げつける。剛腕により投げ出されたそれは兵士の腹部に直撃。巨大な剣を盾にしながらいのりは別の兵へと接近し、その胸部を薙ぐ。
「2。」
さらに別の兵が銃を構えなおすより先に地を這うように駆け、その両足を切断した。
地面に倒れる前にその兵の頭部を蹴り飛ばしたのち、振り返った勢いでバルムンクを投げた。先ほど投げつけられたキャリーケース越しに巨剣が彼の胴体を貫く。
「3、4。」
ここからだ、あとは根性。最後に残ったのは楓と千里を撃った一番憎むべき兵士だ。
ここからダッシュで投げたバルムンクを回収し、千里を背負って離脱する。
が、恐らくその間盛大に撃ち込んでくるだろう。一つ二つ致命傷を受けるかもしれない。
それでもやるしかない。意を決していのりは走り出した。
「死なせない…!」
しかし、何故か弾丸は飛んでこない。お陰で無事にバルムンクまでたどり着けた。
これならー、と希望を見出したのも束の間。
いのりの前に巨体が立ちはだかった。
「…まあ、そうなるか。」
一体、小柄な自分の何倍の体積なんだろうか。
両手を広げ、明らかに戦闘態勢に入ったビーストを目の前に、いのりは臆することなくバルムンクを両手に握りしめた。
「活路はもう…ここしかない。」




