第二部 73
放課後の流れとしてそのまま全員下校と相成った。空は明るく、真っ白い雪だけが輝いていた。教室に戻りそのまま荷物をまとめ、それぞれが教室を出る中美里をすぐに捕まえた。
「美里、行くぞ」
「そうね」
素直に美里は従った。「なによ、自分のものみたいな扱いするんじゃあないってば!」とか突っかかってこないところみると、相当参っているのだろうと伺えた。どっちにしろこれから先どうするかは歩いて話してみないとわからないってことでもある。
「それとだ、南雲」
もうひとつ、片付けておきたいことがある。同じくかばんをぶら下げてのほほんと出て行こうとする南雲を呼び止めた。一緒にいる東堂も立ち止まった。
「さっきのあれ、何考えてるんだ?」
「だって、そうじゃん、なあ?」
軽く、何も考えていない風に南雲は答えた。東堂のいきり立ちそうな様子を肩動かして止めるようなしぐさをする。まだ教室には男女ともに数人が残っている。
「なあにが『告白したんじゃねえの』だ? 立村が廊下に突っ立ってただけだってのに勝手な妄想して話を無理やり終わらせてどうするっていうんだ」
「だってさあ、そういう雰囲気だったよなあ? どう見ても。俺のささやかな人間関係の経験からしてもそうだよなあ」
貴史よりも東堂メインで話しかけているのがさらにむかつく。近づいて、真正面から睨みすえてやる。美里が追いかけてきて、
「やめなよ、つっかかるの。南雲くんに悪気ないんだから」
「お前は黙ってろ。俺は南雲としゃべってるんだ」
「あっそ」
あっさり美里も引いた。幸い古川こずえはいない。邪魔する奴はいない。
「俺が言いたいのは、なんで追っかけなかったってことなんだ! わかるか、立村の奴、わざわざ学校に来ておきながらなぜかE組にこもっちまい、そのまま逃げ出したってそういうわけだ。もちろんそのきっかけ作ったのは俺だし、俺が悪いってのは承知してる。けど、なんでお前らあのまんま、脳天気な結論で収めようとした?」
「どうすればよかったってやつで」
南雲が無言のまま見返してくる。返事をしたのは東堂だった。からかい口調。
「あったりめえだろ! 誰かひとりおっかけてあいつをとっ捕まえて、一対一で話をしろってそう言うべきだったろ?」
「じゃあなんで、羽飛行かなかったんだ?」
「行くつもりだったぞ! お前らがわっけわからねえこと言い出すまでは!」
その通りだった。
いくら菱本先生に制されていたとしても、貴史は突っ走るつもりだった。
言葉が出なくても、美里が叫んでも、誰がなんと言っても本当だったらあそこで人掻き分けて立村をとっ捕まえるべきだった。なぜ足が動かなかったのか、なんで意味不明なつぶやきしかできなかったのか、自分でもわけがわからない。ただ一番よいことというのは教室に戻って初めて気づくこと。どんなことがあっても、
──立村を三年D組の教室に連れてくる。
これだけだったはずだった。
「あのさ、羽飛」
ブレザーのポケットに片手を突っ込み、上目遣いで軽蔑視線を送ってくる南雲に身構えた。まったくもって南雲は貴史に本気でかかってくる気がなさそうだ。三年間、ほとんどそうだった。貴史が正論でもって勝負をかけても、へらへらした顔で流されるだけだった。こいつとの勝負をつける必要は感じてきたけれども、タイミングを失っていたとしかいいようがない。
「りっちゃん捕まえてどうするの」
「この前二時間語っただろうが!」
「語った結果、もしかして忘れたの。トップシークレットだってこと、忘れたのかなあ」
さらりと、きっぱり言い放つ南雲。
「俺が思うに、清坂さんも言ってただろ。『立村くんには絶対に言わない』ってことをさ」
美里に目線を向ける。当の本人も馬鹿正直に頷いている。満足げに南雲は貴史に目線を戻した。
「つまりそういうこと。今この場でりっちゃんが教室に戻ってきてみなよ。仰天するよ。いつのまにか二時間も延々と自分の個とネタにされて議論されて、しかも自分の隠したいことを全部暴露されていて、極め付けがさ、自分はとことん女子に嫌われていた現実を目の当たりにするだよ、自分がもしそうされたと考えてみたら、答えってあっさりでるんじゃないのかな」
「だけどな、あいつ戻ってきただろ? 菱本先生が何言ったかわかんねえけど、とりあえずは反応しただろ? そこからなんとかしないとまずいだろが!」
「あのさあ、先生の話、聞いてた?」
あきれた風に南雲は言い返す。
「りっちゃんは戻ってくるけど、時間が必要だってこと。そりゃあそうだと思うよ。いくら羽飛が土下座しようが他の連中が生暖かい微笑みで迎えたって、はいそうですかと受け入れられるとは、俺、思えないんだよね。それこそ、ゆっくり様子見が必要なのは、ごくごくあったり前のことだと思うんだわ」
言い返せないことを南雲ばびしばしと続ける。
「それにさ、こういっちゃなんだけど、俺たちもまだ心の準備ってもん、できてないと思うんだ。まだ一週間も経ってないのにどうすりゃいいって感じだよ。俺ももちろんりっちゃんには戻ってきてほしいよ。けど、向こうがまだ落ち着いてないのにいきなり引っ張り出すってのは人間としてどういうもんかなと、まあ、つい、そう思うわけ。どう思います、東堂大先生?」
貴史ではない、東堂に再び問う。
「もちろん同意でさあ」
「だったら話は早い、ってことで悪いけど俺も東堂もそれぞれ委員会ってのがありますんで、お先に!」
女子殺しのさわやかな笑顔を野郎連中にも見せ付けて、南雲は腰巾着の東堂を連れさっさと教室を出て行った。委員会が葵の御紋、勝手にしろって言うんだ。
しばらくざわついていた教室も、これ以上関わりたくないとみな判断したのか人があっさりいなくなった。南雲ではないが、まだ二月だと委員会関係のイベントもいろいろ忙しいらしい。難波が話していた通り評議委員会と生徒会との話し合いもまだついていないようだし、帰宅部の貴史にはまったく割って入れない内容ではあった。
さっきまでずっと黙ったままの美里が声をかけてきた。
「貴史、気がすんだ? 行こうよ」
「お前、評議委員会どうするんだよ」
「そっちなんだけど、今日は私、抜けさせてもらうことにしたんだ。先生たちからも許可得てるんだけど」
美里は襟元のマフラーを肩にかけ、毛糸の帽子をしっかりかぶり直した。
「これから、近江さんのうちに行くの」
「近江って、あのA組の評議の、例の」
言葉が詰まる。ちょうど話題最高潮とも言える、「青大附中視聴覚室傷害事件」の被害者、近江紡のことを言っているに違いない。美里は頷いて、そのまま廊下に出た。
「生徒会のことは天羽くんたちががんばってるし、女子はご存知の通りこのざまだし。だったら同じ評議仲間の近江さんのフォローをしてもいいかなと思って、昼休みに狩野先生へお伺い立ててきたの」
そんなの気づかなかった。
「そしたら、『お友だちとしてぜひ、紡ちゃんのところに来てもらえるとうれしいですよ
』だって。お嫁さんの妹なんだもんね。ちゃん付けで呼んでるね。かわいがってるんだよ」
「あの狩野先生が、『ちゃん』付けで呼ぶのかよ」
意外だ。公私混同とはまったく縁のなさそうな狩野先生だが、正直その言葉を発する場面が想像つかない。
「そう、私もびっくりしちゃったんだけどね。だから、ちょっと待ってて。これからまっすぐ行くから、うちに電話入れておかないとお母さんたちまた心配するし。貴史も悪いけど、そういう事情があるから今日私は遅くなるんだっておばさんにも伝えてね」
「なんで俺が母ちゃんに言う必要あるんだあ?」
美里はあっさり答えた。
「当たり前じゃないの。うちの母さんがまた私のことを不良化の兆しじゃないかって心配してあんたのお母さんに連絡するのは目に見えているでしょ? 私もそれ避けるために電話かけるけど、娘の言うこと信じない可能性だってあるじゃなあい? だから貴史の方からもちゃんと言ってもらえれば、あとは余計な心配しないでもらえるしね」
確かにそうではある。互いの娘・息子のことを心配するあまり、親友同士の母ちゃんズは想像をたくましくしすぎてとんでもない発想をしでかすことがある。経験者としては当然の行動とも思える。
「けど今日は、ちゃんと近江ん家に行くって話にしてあるんだろ? 別にお前不良化の兆しのプリントみたいな格好してディスコで踊るとかそういうつもりじゃねえし、それならな、むしろ、近江の家の電話番号伝えといてそこにかければ絶対いるって言っておきゃ、すべて丸く納まるだろ?」
生徒手帳から美里はテレホンカードを取り出した。ロビーの緑電話に向かいながら、
「そうだね、それが一番いいかも。連絡してくるようなことなんて、ほとんどないと思うんだけどね。ほんと、中学になってからうちの親たちなんでよけいな心配したがるんだろうね」
肩をすくめ、背を向けた。
美里が電話をかけている間、貴史はその脇にあるベンチに腰掛け、両手を組んで目を閉じた。話し声が聞こえる。
「お母さん? 私。あのね、今日私、近江さんっていう友だちのうちにこれから遊びに行くんだけど、遅くなるかもしれないの。それでね、貴史にも伝えてあるんだけど、ちゃんとその子のうちにいるから、もしなんか連絡があったら、近江さんのうちに電話ちょうだいな。ええっと、電話番号なんだけど」
生徒手帳を取り出し、番号を読み上げている。
「市外局番? そんなのないよ。市内だもん。それじゃあね、あ、今側に貴史いるけど、心配だったら確認する? いいっか。わかった、じゃあ」
意外とあっさり終わったようだった。
「市外局番なんて聞かれたのかよ」
「なんでだろ、ばっかみたい。そんな遠くの友だちなんていないのにね。品山だって市外局番変わらないよね」
触れた。いつか触れざるを得ない一点に。
「変わらねえだろ」
ぼそっと答えてやった。
「そうだよね。そんな遠くないよね。けど、大丈夫かな」
「ああ?」
「杉本さん、無理やり立村くんに引っ張られてたけど、すごく困った顔してたね」
そんなの見てないから知ったことじゃない。貴史は首を振った。
「たぶんなんだけど、立村くん、杉本さんに会うためにだけ、学校に来たような気がするんだ」
小声で、貴史にしか聞こえないようにつぶやく美里を、横目で見る。
「立村くん、私たちになんて会いたくなかったのかもね」
「そんなこたあねえだろ。いきなり俺たちが襲ってきったからあいつのことだ、おじけづいただけに決まってるだろ」
「違うよ、きっと」
美里はすっと真正面を見た。一年の教室廊下に続くその奥を見据えていた。
「今の立村くんには、杉本さんしか信じられる人がいないんだよ。私じゃないし、うちのクラスの誰かでもない。味方、あんなにたくさんいるんだよってこと、どうやったら伝えられるだろうね。あんただって、南雲くんだって、こずえだって、それに」
「お前もな」
「うん」
そのまま美里は立ち上がった。貴史に振り返り、無理に作った笑顔で招いた。
「じゃあいこっか! あと一ヶ月あるんだもん、なんとかなるよね!」
美里が無理をしているのは見え見えだ。南雲のど顰蹙としか思えない発言でもって、一応は現行の恋人であるはずの美里の立場がひっくり返ってしまったわけだから。立村が杉本とかいう二年生の女子に告白をかましたとしたら当然美里は振られる立場となる。別れた彼氏彼女といったつながりを、これまでのいざこざをそのままひっくるめたまま続けていくのは非常に無理がある。
──けど、ありゃあ南雲の一方的妄想だろ?
証拠なんてひとつもない。
生徒玄関で靴を履き替え、美里と一緒に外へ出た。真っ白い雪が、硬く光り輝いている。まったく溶ける気配がなかった。
「近江の家ってどの辺なんだ? お前、知ってるのか?」
肝心なことを確認するのを忘れていた。とりあえずは「市外局番」の異なる地域ではない、それだけはわかっているのだが、実際どのあたりに住んでいるかは聞いていない。
「ううん、行ったことないんだ。いつも近江さんと会う時は喫茶店ばかりだったから」
「金持ちだなあ。じゃあどうやって待ち合わせするんだ?」
「たぶん、駅前。電話してみるね。狩野先生も前もって私が行くってこと連絡してくれるって話してたけど、忘れてるかもしれないもんね。学校で気づけばよかった」
「いったん戻るか?」
貴史がそこまで話を進めた時だった。左手の職員用駐車場入り口に紫色の小型車が留まり、クランクションを鳴らしているのが聞こえた。
「あれ、どうしたんだろ」
美里も立ち止まり、その車を見据える。
「私たちへの合図?」
「たぶんな」
もう一度鳴ったのを合図に、美里が小走りに近づいていく。この道沿いにいるのは今のところ美里と貴史しかいない。合図が必要とすれば自分らしかいない。紫色のど派手な車を乗りまわす大人との付き合いは今のところない。
「貴史、ごめん、このまま私、あの車に乗ってくね」
「どうした?」
紫色の車助手席の相手と話をし、そのまますぐに戻ってきた美里は、少しだけ笑顔を見せてささやいた。
「怪しい人じゃあなかったよ。あの中にね、近江さんがいたの。迎えに来てくれたんだって!」
「近江、まさか無免許運転してたのか?」
頭を叩かれた。
「アホなこと言ってるんじゃあないの! 近江さんのお姉さんがわざわざ車出してくれて、おしゃべりするならいらっしゃいって案内してくれるんだって!」
「近江の姉さんって、つまり、あれか? 狩野先生の?」
「そういうこと。近江さんも一緒にいるけど、すっごく元気そうだったんで安心したよ。しばらく学校休むことになるので狩野先生のうちに居候するんだって。タイミングいいよね。私もちょっと、行って見るから」
誰もいないのを確かめるように、さらに美里が貴史の耳元に近寄る。誤解招く格好だ。キスシーンに見えそうでぞくっとする。
「狩野先生は立村くんのこと、目をかけてたから、ちょっと私も何気なく話題に出して見る。もしかしたら菱本先生よりも、立村くんの力になってもらえるかもしれないしね」
──そこまで考えてたのかよ。
言葉が出ないまま、貴史は美里を見送った。後部座席に座り、反対側の出口から出て行くのを見守りつつ、貴史はひとり青空を眺めやった。
「