第一部 16
息を止める。
白線に足をかけ、そのままスタンディングスタートだ。
──負けるわけにはいかない。
隣にはなぜか、水口がスタンバイしている。あくまでも授業の一環だという証拠でもある。
南雲はインコースに腕を軽く振りながらスタート準備に入っている。
四人同時スタートで、改めてタイムを計る。
──悪いが、この前みたいな無様なとこはさらさねえぜ。
白黒はっきりつけてやる。
「位置について。よおし」
間抜けな声は体育教師のもの。明日の球技大会……違和感が大有りなのだが、その中でのクラス対抗リレー大会……に向けてのアンカー最終決着勝負だということを知らないわけではないだろうに。グラウンドには下級生の男子たちしかいなかった。同学年の女子たちはみな、体育館に篭ってバレーの練習をしているはずだ。
当然、声援は全くなし。ただ、興味のみ後輩たちが目線を向けてくるのみ。
──あれだけ女子どもぎゃあぎゃあわめいていたくせにな。
肝心要のアンカー本番勝負には顔を出すことすら許されない。なんだか典型的な三年D組の事情に似ている。
遠くを見る。ぬるい風が吹きぬけた。台風が近づいてくる気配がさらりとした空気に混じっている。
「スタート!」
毎日練習はした。立村の事情と陰の努力も理解した。陸上部の近衛もこまめに顔を出しては練習に付き合ってくれた。ただ南雲だけはちんたらふらふら委員会最優先主義でほとんど顔を出さない。それでいて、アンカーの座には拘っているようで、自分から降りようとはしない。
──じゃんけんでもいいとか抜かしてたくせにな。
カーブでスピードを落とす。身を内側に寄せる格好になる。すでに水口は脱落し貴史と南雲との一騎打ちだ。最初からそのつもりだったにも関わらず、横で呼吸ひとつ乱さずにすいすい走る南雲には本気のエネルギーを感じない。むしろ、そのまま曲がらず校門を出て行き、その辺の女子連中といちゃついている方がお似合いにも見える。
──そんな奴に負けてたまるか!
靴の中が燃えるようで、熱い。駆け引きなんか関係ない。貴史は自分の思うまま、先延ばしにされた勝負に決着をつけた。残り百メートル、隣の南雲の姿など振り捨てて勢いで追い抜いた。南雲はついてこれなかったようだった。
──勝ったか?
勝っただろう。勝ったはずだ。白い線を先に踏み越えたのは貴史だった。
南雲がのろのろと、途中でジョギングに切り替えたかのように走りこんできて、
「あーあ、こんなもんっしょ? 当日しくじったらしゃれにならねえし、ねえ」
などと、駆け寄ってきた男子連中の一部に話し掛けていた。
「おいおい、南雲おめえ全然本気出してねえじゃねえかよ」
「だってさ、本番、明日だよ。ここでアキレス腱切るよりも、当日かっこよく決めた方がいいじゃん。そうだろ、東堂先生?」
何が同級生を相手に「先生」などとほざくのか。いやなによりも、今の発言聞き捨てならない。体育委員が手を振って、
「な、今日はタイムなしでもいいだろ?」
言い訳がましいことを口走るのを無視し、貴史は南雲に近づいた。おちゃらけていた南雲とその仲間五名ほどが黙った。
「おい南雲、今の話、本当か?」
「本当だよ、それがあ?」
南雲は前髪をかきあげて、額を出して「そうだけど?」また繰り返した。
「巷ではアンカー勝負だ羽飛と俺との勝負だとかわけのわからないことで騒がれてるけどさ。立村にも言われただろ? そんなのほんとだったらじゃんけんでいいじゃんってな」
「ふざけんなよ!」
火が点いたのは靴の中だけではない。脳天の真中だ。手が思わず南雲の胸倉に飛んでしまう。体育の授業なんて限りなく休み時間に近い。駆け寄ってくるクラスの連中が邪魔くさい。ポロシャツの襟を引っつかんだまま、
「なんとか言えよ!」
怒鳴ったとたん、強引に引き離された。先生にやられたのかと思ったが、南雲本人だった。
──あいってえ……。
優男とは思えない、自分の手首に残った赤い指跡。
「ほお、本気だしゃあ出せるじゃねえかよ。今までちゃらちゃら逃げ回ってたくせにな」
「失礼だな、何考えてるんだか」
顔をよそ向けたまま、南雲は言い放った。口調は軽薄そのものなのに握りこぶしをこしらえて片手でさすっている。
「あのねえ、俺、前から話してるけど、本番は明日だろ? 明日やりゃあいいことを、なんで前日で全力投球して疲れはててしまう必要あるわけ? なあ、そう思うだろ?」
「けど、クラスに対しての義務ってのがあるだろが! お前、菱本先生だって」
「あのさあ羽飛、なんで自分の価値観は自分で決めちゃあ、だめなわけ?」
動じることなく切り返す南雲。襟元を直すでもなく、
「言っとくけど、俺は勝ちたいよ。そりゃあねえ、勝ったら菱本先生なんかおごってくれるって約束、とある筋から聞いたしさ。なあ、そうだろ?」
南雲の取り巻き連中、代表・東堂に同意を求めている。
気がつくと貴史の後ろにそっとくっついている誰かがいる。立村あたりだろうか。金沢が側で貴史の顔を見上げているのに気付く。
「そのために、どの順番で走った方がいいかってことは、性格およびデーターでさっさと決まっちまうもんだと俺、思うわけ。ま、俺と羽飛が三番かアンカーかってのは、決まりになると思うけどさ。立村が二番目で走りこんできた時にかーっとなっちまったお前がバトン受け取るのと、俺がちんたらほげほげといただいてお前に投げ返すのと、どっちがいいと思うかなあ。確率統計的に言っちまうと、後者の方がいいと、思うんだよなあ」
今までざわめいていた連中が口を閉ざした。
「確率、統計?」
「そう、俺ね、へましでかさないいいパターンってどれかって考えた時、羽飛がアンカー取ったほうがいろいろと問題ねえかなとおもったわけなんだよね。第三走者でうまく差を詰めてその上で、つっ走った方がいいんじゃねえのかなあって、思ったわけ」
片手を腰にやり、南雲が振り返った。誰かを見つけたらしく手を振った。
「あ、先生、りっちゃん、来た来た」
立村は貴史のうしろにいなかった。なぜか体育の先生とふたり連れ立って現れた。
「なあ、りっちゃん」
馴れ馴れしく「ちゃん」付けで呼ぶのも正直気持ち悪い。天羽もたまに「立村ちゃんそんなこと言うなよ」とかおねえ言葉っぽく使うことがあるが、南雲の態度はそれと全く違う。軽やかに、さりげなく、堂々と話す。
「さっき相談してたことだけど、やっぱ、俺、面倒だし、降りるわ」
「なぐ……」
こいつも「なぐちゃん」とかたまに使っている。気持ち悪いからやめろと、貴史も雷を落としたりしているのだが聞き流されている。自分の走る順番が次というのを忘れたかのように立村は首を振った。
「降りると言ったって明日は」
「データ分析の結果羽飛の方がいいってこと」
「どいつもこいつも、何女々しく言い訳しやがるんだ!」
立村が返事をする前に貴史は地面に脱いだ靴を叩きつけた。先生に、
「羽飛、落ち着け」
肩を叩かれた。
「なあにがデータだ? 勝つ確率だあ? ふざけんなよ! 俺はただ、全力で勝負しろって言ってるだけだろうが。それを最初っから手抜きするのか? じゃんけんで決めるのもむかつくけどな、そういう発想でもってクラスのことなんて考えねえで」
「考えてるから分析したんじゃないか、なあ、りっちゃん?」
相槌を打てずに俯く立村に対し、貴史が矛先を向ける前に声が上がった。
「要は立村が一番の戦犯だろ?」
ひとりの声が上がると、またひとり、
「そう言われてみると、そうだよな」
「最初に決める段階でもう一度再対決していればこんなだらだらしたことにはならなかったよな」
「うん、俺もそう思う」
続く続く、止まらない。
今まで女子たちの口からこぼれるだけだった言葉が、今度は男子連中から溢れ出してきていた。立村は南雲に向かい口を開けたが、そのまま首を振りつつ貴史に向き直った。
「羽飛、ごめん、俺が余計なことしたから」
また謝ろうとした。なぜ、こいつは謝ることで逃げ道を作ろうとするのだろうか。貴史には理解できない発想の飛躍だ。これで話をおしまいにして、明日、全力勝負しなおすというわけか。こういう場合貴史は立村を張り倒すしか方法がないのだが、目の前には先生がいる。菱本先生なら仮に貴史が立村を蹴り飛ばしても理由を聞いてくれるだろうが、担任以外にそれを望むようなことはできない。
「立村、いいかげん謝るのはやめろ! 俺は南雲と話をしてるんだ!」
「いいよ、羽飛。俺が羽飛と南雲のふたりにやり直しを勧めておけばこんなことにはならなかったんだ。とにかく、悪いのは俺なんだから、だから」
──こいつまた、逃げようとしてるのか!
「そうだよな、立村が一番悪いよな」
一通り事情を聞いていたのだろう、体育の先生が納得した風に頷いた。
「それがわかれば、もう話は早い。南雲も露骨に手抜きしたことは素直に反省しろ。羽飛だけが全力投球していた、それは誇ってよいことだ」
ぐるりと全員の側に近づいて、顔を見ながらひとまわりした。
「今回の勝負は羽飛の本気度、それが決め手だ。仮に南雲が勝利したとしても、羽飛の手を抜かない態度を誰もが受け入れただろ? な? それに」
また立村を正面から見据えた。菱本先生に対しては冷たくそっぽを向いていた立村が、体育の先生に対しては神妙に目を伏せている。
「菱本先生の言う通り、立村が素直に反省すれば、これでいいんだ」
立村は言い返さなかった。授業が終わるまでその顔を上げなかった。黙って自分の走る順番を待ち、そのまま真面目に走り終えた。タイムは、計っていた近衛によれば、
「ずいぶん縮まったなあ、すげえ」
と、かなりの努力が認められる結果のようだった。
南雲だけがへらへらと、何にも考えていないかのように東堂とふざけあっていた。
──奴の手にはめられたかよ!
貴史は確信した。本当だったらさっき、南雲の襟首つかんだ状態まで時間を巻戻して、足蹴にしたい。
──立村が一番悪い? ふざけんなよ!
立村なりに考えるところがあってぎりぎりで決めるという話になったはずだ。
納得はいかなくても、立村なりに考えているとわかっていたから、菱本先生とバトルになってもかばわねばならない、そう思っていた。
しかし南雲はその、周囲の立村に対する不満を露骨にぶつけさせるような展開に持っていき、本来話し合うべきアンカー争いの勝負付けから、「立村がもともとは悪い」として本人に反省を促そうとしていたわけだ。
──ちゃん付けで呼んでいながら、そういう狡い真似よくできるわな。
どの方向から見直しても、貴史には南雲の保身工作にしか見えない。
親友面していて結局は突き落とすそのやり方になぜ、立村は気付こうとしないのか?
── 南雲、てめえが立村に罪なすりつけただけだろうが!
──どっちにせよ、明日が終わるまでは、勝つことしか考えたくねえよ。
頭を切り替え、貴史は明日の男子リレーのことだけ考えることにした。
改めて南雲と一対一の勝負をしなくてはならない。
友だちと呼ぶ奴を陥れようとする汚い奴の面を暴いてやりたかった。
──俺の言い分、間違ってるわけねえだろ!
はめられたことに気付いていない、おめでたい立村には一発張ったやりたいが、それもまだ、リレーで決着がつくまではお預けだ。




