第一部 15
立村をつるし上げた後のクラスルームでは暫く意見が真っ二つに割れた。
結局南雲の、
「いいじゃん、だったら前日の練習が終わってから決めればさ。先生、もうこんなことで話し合うの疲れるじゃん」
なる軽すぎる言葉によってけりがついた。菱本先生も真面目にぶつかり合うことに疲れ果てていたのだろう。
「目標は遠くにおいて、ぎりぎりまで努力を続けるのも悪くないかもな」
あっさり納得してしまった。なんで菱本先生は立村に対してはやたらと青春熱血教師として接するのに、南雲に対してはあっさりと受け入れるのだろう。かなり面白くないがしょうがない。貴史も早めに切り上げてほしかった。
「羽飛、あんたつっこまないの」
ホームルームが終わり、掃除のため机を下げていると古川こずえに声をかけられた。
「お前もなあ、なんでいきなりそんな話、菱本先生に持ってったんだ? ったく、面倒なことになっちまっただろが」
「しょうがないよ。立村にはそのくらいしないとわかってもらえそうにないしさ」
「けどな、女子連中のわけわからねえ言葉の暴力ってのはちょっとねえだろ?」
「だからさ、立村はああいう奴だから」
ああいう立村はと見ると、長いほうきを片手に隅からゆっくり掃いていた。今日は掃除当番だったようだ。廊下越しには他クラス連中のざわめきが溢れている。
こずえも掃除当番からは外れていたようで、すぐに廊下へと貴史を連れ出そうとした。
「なんだよ」
「美里から聞いたでしょが。まあね、立村がリレーのアンカー決定のことで先走ってしまったのはまずかったけどさ。でもまあ、これで先生も問題の本質が見えてきたと思うよ。菱本先生は何にも実をいうとわかってないし」
気になる言葉だ。掃除が終わってから立村をグラウンドへ引っ張り出すという仕事が残っているので、まだ廊下でたむろっていてもよい。首と耳の後ろからじんわり汗が噴き出すのがわかる。美里は先にどこかへ行ってしまったようだ。
「なんだ、問題の本質ってのは? んなものねえだろ」
「つまりね」
気を持たせるように貴史の腕をぎゅっと握った。筋肉質な我が腕だが、やっぱり肉を捕まれたようでかなり痛い。
「痛てえなあ」
「ごめんねえ鈴蘭優じゃなくて」
下ネタでなかったのがまだましだ。その点だけを認め、貴史はこずえに従い廊下へ出た。立村がちらと貴史たちの方を見やった。無表情のままだった。
「廊下で話してたら誰かに聞かれるかもしれないんだけどね」
ちらちら周囲を伺いつつ、
「もっと近くで話していい?」
「しゃあねえなあ」
ぐっといきなり接近してきた。鈴蘭優相手の距離なら、ぐっときてしまいそうだが目の前にいるのはどう考えても古川こずえだ。
「今回、女子らがぶち切れた原因ってのはね」
背伸びして耳元に囁きかけてくる。
「立村が珍しくクラスの長たる態度を取ったからなのよね」
「おいおい、奴は三年連続評議委員で、かつ、委員長殿なんだが」
「クラスでその肩書通用したとこ、見たことある?」
「ねえけどさ。あいつ、委員長ってとこをひけらかす性格じゃあねえだろ」
思わせぶりにふんふん頷いている。不服らしい。
「ま、修学旅行の最終日にいきなり美里のために一肌脱いだりなんなりしてたよねえ。恋人宣言とかしちゃってたし」
「それとは違うと思うぞ」
いざとなったら開き直る度胸を持っている男だとは思う。が、それと三年D組評議委員としての存在価値とをごっちゃにするのは違うんじゃないか。
こずえはさらに互いのつま先をぶつけてきた。相手が鈴蘭優なら……のポジションを詰めてきた。
「男子連中は納得してたよね」
「俺はやだったけどな」
「でも、うちのクラスの男子たちって意外と立村に刃向かったりしないよね」
「まあなあ」
立村がそれなりに努力していることは貴史をはじめクラスの男子連中、理解はしているつもりだった。そのために陰でいろいろ工作をせざるを得ないところもあるが。
「それが女子たちには不満なのよ。あいつのあだ名知ってるでしょ。美里に言ったら怒るけど」
「『昼行灯』な」
女子たちの目にはそう映っていることも貴史は承知していた。美里が愚痴っているのを聞いていたら、仕方なく耳に張り付いてしまうものだった。
「そうなのよ。『昼行灯』。でも、今思えば立村にはそのポジションがベストだったのよね。評議委員長としては外でがんばってもらえばいいし、クラスでは可もなく不可もなく大人しくクラス委員の仕事してくれればよかったのよね」
「ひでえ言い分だな」
「だって事実じゃないのさ。美里だってそう言ってるよ」
まったく、何を考えているんだろうか。うんざり汗がじんわりにじむ。
「で、さ。話を戻すけど、クラスは今まで評議委員の馬鹿男がぼんやりしているだけですんでたけど、今回のアンカー事件」
「事件じゃねえだろが」
「黙って話、聞きな。当人を目の前にして言うのは照れるけど」
照れてない。いきなり手を肩に伸ばそうとするのはどういう意味だろう。しつこいようだが鈴蘭優ならともかく、古川こずえでは来るものも来ない。教えるべきか、悩む。
「単刀直入に話せ。悪いが俺はまどろっこしい話嫌いなんだよ」
「ごめん、アンカー勝負はさ、三年D組の花形スターふたりの競演ってとこでとことん盛り上がってほしかったのよね。ここだけの話、賭けしてた子がいるって噂も出てるよ。うちのクラスの子じゃないけど」
「俺は馬かよ!」
「そう怒らないでさ、とにかく、あんたと南雲との勝負に固唾を飲んで見守ってた女子たちにとって、立村の事なかれ主義の決断にはみな、あったまきちゃったってわけ!」
──お前ら勝手に人のことを馬扱いしやがって……。
かなり面白くない展開だったことを初めて聞かされて、貴史としては思いっきり壁を蹴るしかない。
「やめときな、ここの壁、壊したら罰金か弁償だよ」
「人を馬鹿にするなよな」
「それより話を聞きなさいよ。立村がなんで女子たちから袋に遭ったのかってことの説明、短く行くよ」
こぶしを握り、膝を数回叩いた。
「立村はさ、今まで出番をあえて少なめにしてきたところがあったんだろうね。羽飛と南雲がいるし、他にもみな得意技を持ってる連中ばっかりだし。ところが今回近衛のピンチヒッターで男子リレーに出る羽目にはなるし、調子こいてせっかくのアンカーの座決定戦を白ける結末にもっていこうとしたり、かなりむかつくってのは、女子としてあるんだよ。これ、私もわかるよ。本来、主役になるべき奴が陰に隠れてて、どうでもいい奴が権限握ってるってのがね」
「おい、今の取り消せ」
「なんでよ」
妙にこずえは強気だった。貴史も接近戦でめげるようなひょろひょろではない。ぐいと一歩出た。恋人同士の距離、唇重ねてもいいくらいのべったり状態だが、相手が古川こずえであることには変わりない。思わずこずえの方が一歩退いた。
「どうしたのよ、なんでいきなりくるわけ。もしや、むらむら、した?」
「ばかじゃねえの。お前にそんなこと感じるかよ。それよか立村に対しての今の言葉、すげえ頭に来るぞ」
実はそんなかりかりきているわけでもない。ただ、立村の親友としてきっちり打ち消しておく必要はあるように思えた。こずえはやっぱり退かなかった。
「あのね、私は事実を言ってるのよ。女子側の事実」
「他の女子連中はどうでもいいんだ。お前はどうなんだ? 古川、返事によってはぶったおすぞ」
「やだなあ」
まだ馬鹿にしているような口調、それがさらに癇に障る。
なぜだかこずえの言葉に、どうしようもないただれた感じを覚えるのはなぜなのか。
「取り消すか取り消さないか、どっちだ!」
声を荒げ、片足踏み鳴らし、こずえを見据えた。騒いだつもりはなかったが、通りすがる幾人かが振り返り噂話をして去って行った。
「ごめんごめん、わかった。私だって立村のこと嫌いじゃないからさ。そう怒らないでよね。ったく男子って友情命なんだから。とにかく!」
次の返事を待たずにこずえは畳み掛けた。
「私が言いたいのはさ、女子を中心にうちのクラス内で、反立村派が動きだしてるってことよ。美里にもそこまで話してないけどさ。もともと杉浦加奈子ちゃんのことも含めて立村を嫌ってる女子が多いのは事実だし、それでも今までは目立たなかったから大目に見てたけど、最近妙に目立ちだしてきてて面白くないって気持ちがゆらゆらしてるのよ」
「目立ってどこが悪いんだ? 奴は評議委員長だぞ。今までが地味すぎただけだろ?」
「そうだよ。私もそう思うよ。けど、女子たちはそう思ってないんだよ」
「なんでだ? 立村が『昼行灯』だからか?」
「それもあるけど、一番の理由はね」
さっき貴史の剣幕にびびっていたこずえが、隙を見て耳もとに接近してきた。避ける間もなかった。
「羽飛にトップに立ってほしいってみな、思ってるからに決まってるじゃん!」
──はあ? 何考えてるんだ?
口から問い返す前にこずえが続けた。
「これって一年の頃からみな、そう思ってたんだよ。たぶん女子だけじゃなくて男子だってそうだよ。立村ががんばってるからみな我慢してきたけど、本音はさ、羽飛にクラスを仕切ってもらいたいってこと」
「おい、ふざけんなよ? お前らみな、立村をそのまま二年、三年って評議委員に選んできただろが。文句あるなら前期後期に選ぶ段階で異議唱えろよ」
「唱えられるわけないじゃないの。推薦してるのが羽飛、あんたなんだよ」
「あ、俺か」
一年初めに評議委員を選ぶ際、貴史が先手を打って美里と立村をセットで推薦した。これは事実だ。それ以来何事もなくすんなり決まっていったはずだ。もともと委員はよほどの事情がない限り変わらないというのが流れだったというのもある。特にその流れを遮るつもりはなかった。もちろん、立村に対しての不協和音は聞こえなかったわけではない。だが、委員から下ろす程の強いエネルギーではなかなったような気がする。
こずえは肩同士を擦り付けるようにして話しつづけた。
「立村が美里と付き合った段階で、しょうがないか、ってことにはなったよね。それに後ろには羽飛だっている。まあ、ライバルの南雲は規律委員でスターだししょうがないかってことで今まで、立村を評議委員で持ち上げることを我慢してたの。女子たちはみなね。けど、最近になってそれって違う、って考えがうろこ雲状態で広がって来てるわけ」
噂の当人、立村がひょっこり扉から顔を出した。
一番聞かねばならないところで、本人に邪魔された。
「羽飛、また時間作ってよ」
背中を叩き、こずえは急ぎ早に階段へ向かい走っていった。
入れ違いに立村が近づいてきた。ほうきは持っていなかった。
「古川さんと、何かしてたのか?」
──こいつ、勘違いしているぞ。ったく能天気が。
貴史は思いっきり立村の額を叩いた。
「ごめん、変なこと言うつもりはなかったんだ」
「言っとくけどな、俺は優ちゃん以外にいちゃつく趣味はねえんだよ!」
慌てて謝りつつ、それでも一歩退くところがやっぱり立村だと思った。
「それよか、さっきのことも含めて、今日リレーの練習はどうするんだ?」
「ごめん、羽飛には話しておきたいんだけどさ」
おどおど、びくびく。確かに挙動不審と思われてもしかたない立村の態度。それでも貴史には話をしておきたいという気持ちが、体温と一緒に空気に丸められて届く。たまに立村もこうやって相談を持ちかける時がある。
「なんだよ、水くせえなあ。水って臭くねえけどなんでそんなこと言うんだろうな」
たいして面白くもないつっこみをしてみつつ、貴史は尋ねた。
「実は、今日と明日、知り合いの陸上やってた人と会う予定なんだ」
「へえ、珍しく評議じゃねえのか」
「うん、評議委員会には、大会が終わるまで休みを取ると話しておいた。天羽や難波たちもそれぞれクラスの練習があるみたいだし。あいつに余計なこと言われるまで放っておいたわけじゃないよ」
ずいぶん話がわかる。何も考えていなかったわけではないのだろう。古川こずえはさっきまで、女子たちの立村に対する偏った考え方を披露していたわけだが、直接当の本人と語り合えばそんなもの一気に溶け去るもの。単純な答えが出る。女子と違い男子の方がきれいな答えを出す。
「誰だよ、その『知り合いの陸上やってた奴』って」
立村は口篭もった。でっち上げなのかと疑いたくなった。
「他の学校で、陸上選手だったって友だちがいて、走るコツとかそういうのを教えてもらってるんだ。長距離走ってたらしいから、リレーに役立つかどうかはわからないけど、ほんの少しはタイム縮められるんじゃないかなって思ったんだ」
「誰だそいつ」
「だから、他の学校の友だち」
──へえ、品山小学校時代の友だち、それなりにいるのかよ。
いろいろトラブルがあったらしいとは聞いていたけれども、それなりに人間関係はしっかり残っているようだ。さっき立村をしばいた女子連中に言ってやりたい。立村は馬鹿ではないと。ちゃんと過去を清算して生きているじゃないかと。
「そういうことかあ」
「ごめん、言わなくて申し訳ない」
立村は頭を下げた。
「そういうことなんで、俺もきちんと結果を出せるようにしたい。ちゃんと練習には出るし、羽飛や南雲にも迷惑かけないようにしたいし、近衛の穴埋めにはならないかもしれないけどせめて少しは」
「もう、いい。立村、行けよ」
さらに言い募ろうとする立村に、貴史は首を振った。自然と笑いたくなってきた。
「最初から言えよ。小学校の連中と練習してるってなあ」
立村が息を呑んだ。貴史に責められると思っていたのだろうか。そんな心の狭い男ではないと言い聞かせたい。
「そんな事情だったら、俺も絶対そいつらに教えてもらった方がいいと思う。だってそうだろ! お前、今までやなことたくさんあったって聞いてるけど、ちゃんとそれを乗り越えようとしてるんだろ? それ、偉いぞ。絶対にお前、偉いぞ」
「偉い? 何が?」
戸惑い気味に立村が繰り返した。貴史のことを怖がっていたのだろうか。入学以来の大親友を相手に、そんな必要ないと背中を叩いてやりたかった。
立村は精一杯、自分の過去に立ち向かい、恨みのあるいじめっ子たちに教えを請うことにより、前に進もうとしている。それは誰にでもできることではないだろう。貴史や美里が小学時代の沢口先生と和解するのと同じくらい、ありえないことだと思う。それを、歯を食いしばり、やり遂げようとする立村の強さを貴史だけは認めたいと思う。
「近衛もさ、ちらっと言ってたなあ。お前、走るフォームがすごくよくなったってな。一緒にリレー、優勝してだ、あの馬鹿女子連中を笑ってやって、ついでに美里にちゅーのひとつでももらってだ。とにかく、男を上げてこいよ!」
ついさっきまで立村へ感じていたもやもや感がするっと抜けた。
最初から言ってくれればよかったのだ。
最初から立村が貴史にだけ、話を通してくれればあんなにいらいらしなかったのだ。
でも今、きっちり打ち明けてもらった以上、貴史がいらだつことは何もない。
「さ、しっかりタイム縮めてこいよ! 他の連中にはリレーが終わるまで言わねえから安心しろ。ほら」
肩を叩きつつ、貴史は立村を階段まで押しやった。男の友情とは、努力している友だちを全力で応援することだ。女子なんかにはわかるまい。
「羽飛、あのさ」
「とろとろしてるんじゃねえよ!」
背中を押した。はにかむような表情を浮かべた立村は、振り返りざまに真剣な目で、
「羽飛、ありがとう」
言い残し、そのまま全速力で階段を駆け下りていった。




