第一部 14
立村が菱本先生のことを入学当時から嫌っていたのは知っていた。
もちろん入学式当日、というわけではないが。ただそんなにぶちぎれることだろうかと首をひねった記憶はある。第一、名前の呼び方の確認をされただけであんなに恨む必要なんてあるだろうか。わからん。
「人の名前をいやみったらしく確認されたのがな……」
理由を三年近くかけて聞き出した。
「しゃあねえだろ。間違えたらそっちの方が顰蹙だろうがよ」
「適当に流してくれればいいのになんでわざとらしく繰り返すんだろうな」
あまりつっこんでいくと、立村がだんまりを決め込んでしまうので貴史も深い追求はしなかった。する意味もないと思っていた。
──要はあれだろ。立村が自分の名前を女臭いとかいう理由で嫌ってて、それをたまたま菱本先生が繰り返して読み方確認したのがむかついたんだろ? たったそんだけでかよ。
美里に言わせれば、
「立村くんが自分の名前を好きになれば、すべて解決することじゃないの」
もっともだ。貴史も同意する。しかし肝心の立村が全く気持ちを変えようとしないのだからどうしようもない。
もっとも菱本先生も、立村の性格を把握し損ねた嫌いはあるようだ。
これは前から、貴史も美里と連れ立って菱本先生に相談を持ちかけていたことだった。
「先生あのさ、立村がなんで先生のことそんな嫌がってるかって言うとさ」
「なんでだろうなあ。何か地雷を踏んでるんだろうなあ」
自覚はあるようだ。菱本先生も立村とぶつかり合い逃げられるたびにいつも頭を抱えて貴史たちを呼び出し、愚痴っていたものだった。
「あいつは人に自分のことをあまり話すのが好きじゃねえの。俺とか美里とかにも全然言わねえよ。しゃべることったら学校のこととか、委員会の話とかそんなことばっかだぞ。評議委員会のことだったらだだっとマシンガントークすることもあるけどさ、ほんっと、そんだけ。菱本先生だけを嫌ってるんじゃねえよ。好きな奴にも全然本音、しゃべんねえよ。そういう奴なんだよ」
正直自分としても立村の何様なんだかといった態度は気に食わない。
本当だったら菱本先生と肩を抱き合い「だよなあ、俺もほんっと奴には頭来るよな!」くらい語り合いたいところだ。そうできないのが生徒と教師との間の壁だし、友だちだからこそ理解しなくちゃならないという面倒くさい繋がりもある。
「羽飛なあ、お前とは十年後に酒盛りだな」
深い溜息を吐きながら菱本先生が苦笑いしていたのが印象に残っている。
「ま、人生長いし、クラスのことはまあ俺に任せときなさい!」
隣で呆れた顔して首筋にチョップをかました美里には少々むかついたが。
単純に言ってしまえば、立村と菱本先生の二人とも気が合わないだけなのだろう。
「そうだよ、あんたと南雲くんとが天敵だってのと同じよ」
「わかりやすい説明だがなあ」
三年間近く美里も繰り返したものだった。
「もうあんなのほっときなさいよ! 私たちがいろいろ言ったって立村くん絶対反省なんてしないんだから! 一緒に評議やってた私の立場知ってる? 私が社会の荷物運び担当になったのも立村くんが菱本先生の顔を一瞬たりとも見たくないからなんだもん! すっごいわがままだよね!」
「とか言いながら、お前もがまんしてるだろ?」
「してるけど、だってしょうがないじゃない!」
──惚れてる弱みとも言うな。
美里の八つ当たりは別として、どちらにしてもクラスの代表たる評議委員……しかも三年に入ってからは「長」がついている……と担任とがぎすぎすやりあっていたら、ただでさえわずらわしい人間関係がさらに面倒くさくなりそうだ。
悪いが貴史は、面倒なのは嫌いだ。さっぱり、分かりやすい方がいい。
立村が物事をやたらとややこやしく取る癖を持っているのは承知しているが、それを第三者にまで押し付けるなとどやしてやりたい。
どちらにしろ、菱本先生との剣呑な関係を貴史なりになんとかせねば、といつも考えている。
さて、菱本先生は教室でまず、閉じた教科書の上に片手を置き、ゆっくりと見渡した。
ざあっと眺めているというよりも、ひとりひとりに話し掛けるように視線を留めている。
──なんだよ、俺、悪いけどその気ねえぞ。
勘違いなぞしないが、そう思いたくなるような視線で、生徒たちひとりひとりに目を留めては頷き、また違う相手を観てはつぶやき、の繰り返しを行っていた。
「まず、さきほど古川からダイジェストで事情を聞いたので、俺なりに情報を整理してみるが、違うんだったらその場で言えよ、羽飛、南雲、立村」
南雲は窓際付近の席で袖を捲り上げながら、「はあい」と脳天気な声を挙げた。
貴史は返事するまでもないと思い、まずは頷いた。
立村はというと、当然、無視。わざとらしく廊下側の壁を眺めていた。
「発端は来週行われる球技大会にプラスαとして行われる、学年別クラスリレー大会のアンカー選出に関して、意見が真っ二つに分かれているということなんだな」
なあ?と貴史に問い掛ける眼差しを向ける菱本先生。事実なので頷いて答える。今だに立村は知らん顔のままだ。
「だが、タイムウオッチの故障もあって羽飛の分、正確なタイムを測れなかったと、そういうことか?」
体育委員が頷いた。後付けで「はい」と答えた。
「単純に壊れたからか?」
「壊れたんじゃなくて、あの、いきなり羽飛がゴール近くでぶっ倒れたからおっぽりだしたら、そのタイムを計り損ねてしまっただけで」
「弁償したくねえよなあ」
誰かが合いの手を入れた。ごもっとも。大受けした。陸上部の近衛が付け加えた。
「あのタイムウオッチ壊したらまじで金かかるぞ」
「落としてねえから大丈夫」
何か勘違いした会話が続いた。そのまま体育備品の価格に関する話題に発展しそうだったのを菱本先生はすぐに軌道修正した。
「お前ら話を逸らすな。とにかくだ、羽飛がこけてタイムがわからなくなり、アンカー選考は振り出しに戻ったと、そういうわけだな?」
南雲に今度は振った。
「そうっすよ。俺はどっちでもいいけど」
「南雲もそうやる気なさそうなこと言うな。アンカーったら陸上の花だぞ。俺だってお前らと同じ立場だったらしゃかりきになって獲りに行ってるぞ」
「俺、そんな無理してまで奪う必要ねえし」
貴史の顔をちらっと見やり、南雲はあっさり答えた。
「だから俺は、立村の提案に大賛成だったんですよ。上位ふたりが俺と羽飛というのは決まってるから、今日はまず予選にしておいて本番ぎりぎりの段階で調子いい方を選べばいいじゃんってことで」
「けど」
どこからか、小声で女子たちが発する不服、異議申し立てが聞こえる。
「意見があるなら言えよ、そこ」
思わず罵ってしまった。聞こえたのか声はすぐに静まった。言いたいことがあるくせに黙ってそ知らぬ顔という態度が姑息だと思う。言いたかったら言えばいい。さっきまで立村をなぶりつくしていたように、発言すればいいのだ。でも決して先生の前では積極的に手を挙げないところにすべてが現れている。だから貴史は彼女たちを認めない。たとえ立村側に圧倒的非があったとしても、納得はできない。
「じゃあ当事者の羽飛、お前はどう思う? さっきまで保健室で寝てた人」
頬の傷をこれ見よがしに指差しつつ貴史は立ち上がった。もちろん、受け狙いである。
お通夜の雰囲気で討論したところで立村が考えを変えるわけがない。
「寝てないけど、まあ、顔面からこけたのは事実なんで」
「お前もドジだなあ」
笑いで、ささくれだっていた空気がほんのり柔らかくなる。貴史はもう一度立村の席に顔を向けるが、やはりポーズは変わらない。いつものことでは、ある。
菱本先生もやんわり話を進めている。
「俺は、まあ、納得いかねえよ」
当然これは、立村に向けて放った言葉だ。
「いくわけねえじゃねえか! なあ、立村?」
仕方なさそうな顔で立村がやっと、こちらを見た。少しやわらいだ空気は一瞬のうちに凍りついた。九月の残暑で溶ける見込みもなさそうだった。
このままだといつものパターンで、
1、菱本先生が立村を教室内で強制尋問し始める。
2、立村がすべて無視するか、慇懃無礼な対応をこなそうとする。大抵それは失敗する。
3、ぶちぎれた菱本先生が頭に炎を燃やして怒鳴りまくる。
4、だんまりを決め込んだ立村が恨みがましく菱本先生を睨み据えた後、後味悪く授業終了の鐘が鳴る。
三年間同じパターンが続いてきただけに考えるだけでも気が重い。
もちろん立村は今日も同じ展開だと思ってすうっと流すつもりなのだろう。
感情を隠しているつもりなのかそれとも、無視しているだけなのか、その辺は分からない。
立村の性格上、そのポーカーフェイスは通じていると思い込んでいるのだろう。
みんなからはばればれだというのに。
菱本先生も、またクラスメートの連中も毎回繰り返されるいがみ合いにはどう対処していけばいいのかわからない様子だった。貴史が夏に菱本先生のアパートへ遊びに行った時も、「具体的に何をすればいいのか」までは話が進まなかった。
──しゃあねえな。俺が戦うしかねえか。
まずは菱本先生が爆発する前に、貴史ひとりでけりをつけられるか試してみる。
「立村、あのな、悪いが俺、アンカーのことを一方的に決められたくねえんだよ。当たり前だろが、男だろ?」
すぐに立村は目線を逸らし俯いた。
「けど、俺が戻って来てからそういう話になったんだったら、納得したかもしれねえな」
さっき追っ払った女子たちがいきなり目を輝かせて頷き出した。
「なんで、俺が帰ってくるまで待てなかったんだよ。当事者がふたり揃ってその上で決めればいいだろうが」
立村は口を閉ざしたままだった。代わりに菱本先生が割って入った。
「羽飛の気持ちはよくわかった。そういうことだ。立村、なんでお前はいきなりアンカー候補の羽飛を差し置いて、勝手にぎりぎりまで決定を延ばそうなどと考えたんだ? 全く間違っているわけじゃあない。ただ羽飛が戻ってこないうちに勝手に決めるのは早すぎるんじゃないのか? 立村、なんでそんなにあせってるんだ?」
──あせってる?
頭の豆電球がぷつっと切れたようだった。
──立村なんてあせってねえじゃねえか。
他の連中もかすかにざわめき出した。
「言い方変えると、先走っているんじゃないかということだ」
立村はまた、首を傾けて斜め向かいの壁をじっと見つめていた。お得意の「無視」のポーズで乗り切ろうとしているようだ。菱本先生は手を緩めなかった。そのまま語りかけつづけた。頭の噴火警報はまだ鳴っていない様子だった。
「今日、なぜ授業をつぶしてこんな話をしたのかわかるか? 立村?」
ゆっくりと顔を挙げた様子だが、表情は堅いままだ。やはり「いつものパターン」だろう。 菱本先生は教壇から降り、立村の席脇へと立った。ちょうどさっきまで貴史が立村の側にいたところと同じ位置に当る。
「選抜メンバーのクラス対抗リレー勝負ともなれば、クラスの気合の入り方も違う。俺からするとなぜ、球技大会と銘打っていながら陸上競技をプログラムに入れるのかわからないがな。今回は特に、去年アンカーだった近衛が参加できないハンデもある。その中にいきなり放り込まれたお前の気持ちも、わからないわけじゃないんだ、わかるか?」
──先生、絶対立村、分かってねえよ。
貴史の心の呟きを、斜め前にいる古川こずえが、
「わかってるわけないじゃんねえ」
などとほざいている。心が読まれているわけではないだろう。
「どの順番になるかはまたあとで決まるだろうが、プレッシャーはあるよな」
──あいつはどうだっていいって思ってるんだよ、気付けよ先生。
クラス行事なんて関係ない、自分の生きる場は評議委員会だけ。そう思い込んでいるはずだ。
「たとえどういう結果になろうとも俺たちはお前を責める気はない。羽飛だって南雲だってそうだろう。クラスのみんな同じ気持ちのはずだ」
──先生、女子は怖いぞ。
言うまでもない。美里が唇を尖らせて何かを言いたそうに口を動かしている。
「だがな、やっぱり、本音は勝ちたいんだ。勝つためにはどうしたらいいか? それを真剣に考え、その上で一番胆になるアンカーの選出を行おうとあえて、早めに決断しようと決めたわけだ。そのことも、理解してるな?」
──いつのまにか、すごい展開だなこりゃ。
立村には絶対に響かない発言ではあるが、貴史にはずしんと来た。
──そりゃそうだ。俺、勝ちたいもんな。
「そのためには、どうしたらいいのかをみな、考えている。だからこそ一部のクラスメートたちは立村の判断に怒ったんだと思うんだ。一緒に、そうだよ、クラスのみんなと一緒に全力を尽くして、ベストな結果を出したい、その気持ちを一緒に味わいたい。それをひとりだけで決め付けられたら淋しい、そう淋しいんだな」
──先生、悪いけど、言葉に酔ってるよ。
やたらとしゃべる菱本先生。貴史はふと、夏休み中の修羅場にて、女性の怒鳴り声に黙りこくっていた菱本先生を思い出した。
「だからこそなんだ! 立村、もう一度考えてみないか? この機会はお前にとって決してマイナスにはならない。なぜお前が今、自分の言動で人を振り回してしまったのか、その本音の部分をだ。お前は、意識してただろう? クラスの中心としていざとなったら自分で指示を出さねばならないと、勝手に思い込んでいただろう?」
──先生、ちょっと待った!
まったく読みきれない展開に、貴史はただ口をあんぐりするしかなかった。
菱本先生が立村に対して訴える言葉は、明らかに予想外のものだった。
「立村、お前は無理に、クラスの中心として立ち回ろうとしなくてもいいんだ。背伸びするな。無理せずに自分のペースで、困った時は羽飛や南雲たちの手を借りるなりして、いっしょに乗り越えていけばいいんだ。ひとりですべてを抱え込む必要はないんだ。お前がもし判断できずに戸惑っていて焦っていることはよくわかった。だから短絡的な判断しかできなかったのもそうだろう。だが、こういう時こそクラスのみんなを信頼し、同時に羽飛の帰ってくるのを待って、その上で改めてアドバイスを貰う、その順番を忘れてはいなかったのか?」
──なんか違うだろ? 先生、なんか無理やり話を別方向にもっていこうとしてないか?
あっけにとられたまま、貴史は「永遠の青春野郎」菱本守の熱血講義を脇から聴いていた。
しばらく立村は身動きせぬまま菱本先生のお説教に聞き入っていた。少なくともそのようには見えた。
「先生、一言よろしいですか」
一段落ついたところで、立村は立ち上がった。きちんと整えられた格好で、じっと菱本先生に向かい合った。菱本先生もしっかりと受け止める準備をしているようだった。期待している、といってもいい。悪いがきっと裏切られるだろうと思いつつ貴史も様子を伺った。
「クラス全員がいない場所で判断したことについては謝ります」
「謝るなら、羽飛と南雲と、それから他のクラスメートだろう?」
穏やかに、かつ満足げに菱本先生は促した。
「ただ、手を抜いているわけではありません」
きりきりとひっかかりのあるような声で、立村はさらに続けた。唇の端を不自然に持ち上げる格好だった。
「学校にいる間は委員会活動を優先していますが、きちんと家ではトレーニングしています」
「走りこんでるのか?」
びっくりした風に菱本先生が問い返した。同時に他の女子たちを中心にざわめきが起きた。立村がひとりでジョギングに励む姿なんて絶対想像できないに違いない。ただ陸上部の近衛だけが、納得顔で頷いているのが解せなかった。
「少なくとも、足をひっぱるようなことはしないようにします」
「努力はしていると、いうことなんだな」
「はい」
そこまで答えて立村はきっと、貴史を見据えた。
──なんだよ、その言い草。だから俺になんで先に言わないんだよ。
めらめらするものが、自分の指先から燃え上がったように見えた。
近衛が立村の走りについてちらと、気になることを口にしていたのを覚えていた。
なんらかの練習をしているらしいとも。
そのことだろうか。
──けどそれは、まず走る俺たちに報告するのが筋だろうが!
立村は一拍、菱本先生を睨みつけた後ゆっくりと腰を下ろした。
振り返るように様子を伺っていた美里が、貴史に顔を少しゆがめるようにして視線を送ってきた。もちろん、色っぽいものじゃない。
「まずは立村、立ってきちんと謝ってからにしろよ。みんな水に流すだろ? な?」
促され、肩を叩かれ、しかたなく立村は腰をあげた。教室内を一通り見回し、
「申し訳ありません」
一言だけ小声で告げ、すぐに座り込んだ。いつもだったら「声が小さいと謝っていることにならないぞ!」と怒鳴る菱本先生も、それ以上何も言わなかった。