第四部 104
「在校生代表送辞。二年B組。新井林健吾」
一瞬ざわめいた。二階父母席ではプログラムをぺらぺらめくる音もする。貴史もポケットからプログラムを取り出して確認してみた。ちゃんと「佐賀はるみ」と印刷されている。見間違いではない。
側で南雲が立村にささやきかけている。
「りっちゃん、知ってた?」
「一応な」
なんらかの理由で佐賀生徒会長予定の送辞が新井林にバトンタッチされる羽目となったのだろう。貴史には伺い知れぬ部分もあるがそう考えれば、朝一番に体育館へ向かい下見をしていたのも納得はいく。下級生もいろいろあるんだろう。
──やっぱ、バスケ部やることになったら、あいつともしゃべることが多くなるんだろうなあ。
さっきまで派手に騒いでいたこともあって貴史はすでに体力を消耗している。あとはひたすら座ってぼんやりしていればいい。式典とは通常そういうものだし、卒業式だからといって何かかしこまらねばならないこともない。むしろ問題はこれからだ。
──菱本先生びっくりするかなあ。
仕込みは十分。そしてもうひとつ。
──あの手紙、ちゃんと届けばいいがな。
隣りに座りまっすぐ新井林の男っぷりを見上げている立村に視線を寄せ、貴史は軽く目を閉じた。もちろん寝ない。一瞬だけだ。
「本来ならば、ここで青潟大学附属中学生徒会長である佐賀さんからお預かりした原稿を読み上げるところでありますが、本日は予定を変更し、あえて僕なりの言葉で卒業生のみなさんへのメッセージを伝えさせていただきます」
どうも最初は佐賀から預かってきた答辞をそのまま代読する予定だったらしいが、やっぱり男子としてそれは許せなかったのだろう。気持ちはわかる。持ってきた答辞の封筒をひっくり返してとうとうと述べ立てる新井林の言葉はほとんど聞いていなかったが、その情熱だけは伝わってくる。
「三年生の先輩たちに、僕はまだまだ学びきっていないことが山のようにあります。ですからこのまま拍手で見送るようなことは決してしません。かといって青大附中に戻って来てほしいとも思いません。僕たち下級生たちはこれから、青大附中をよりよくするために盛り上げていこうと心に決めていますが、先輩たちからもっと聞きたかった話、学びたかったところを僕たちの方から押しかけていって、とことん腹を割って話をさせていただきたいと思ってます。この学校が附属でよかったと、僕は心から思ってます。今、気がついたことは遅すぎるといえば遅すぎますが、でも、あえて僕は先輩たちにこれから、たくさんのことを学び合いたい、そう思っています」
隣の立村が身動きせずに聴き入る。内容からするといたってありきたりな、「先輩たちもっとしゃべろうぜ」に集約されると思うのだが、中に挟まれた評議委員会絡みのエピソードなども立村には身につまされることだったのだろう。あれだけの修羅場を乗り越えてきたのだから……貴史も一度だけその様子を垣間見したが……胸につまるものがあるのだろう。もっとも貴史からしたら、
──高校の校舎分かれてるったって徒歩で行けるだろうが。
結構クールに終わってしまう。まあいい、あれだけバスケ部に命賭けている新井林とは、卒業式終わってからでもじっくり話してみようと決めた。自分がこれからバスケ部と美術部を兼部しようと考えているとはまだ美里以外に話していないのだから。
「ご卒業おめでとうございます、そしてこれからも、どうか僕たちと一対一で向かい合い、正々堂々と本音をぶつけ合える関係でいてください。僕達下級生たちも遠慮はしません。これからも、よろしくお願いします。在校生代表、二年B組、新井林、健吾」
拍手喝采。深々とお辞儀をした新井林。大役を見事果たした。先ほどの卒業証書授与式と同様の盛り上がり再現中だった。立村が黙って手を打ち鳴らし、小さく頷いている。これで次期の評議委員会は安泰だとでも思っているのだろうか。
「おい羽飛、どうするよ次、藤沖どう返すよ」
「さあなあ。わからねえなあ、ただ即興これだけやられちまったら卒業生の答辞も中途半端にできねえよなあ」
後ろに振り返ってきたC組の男子に問われて貴史もそのまま答えた。さすが二年次期評議委員長あっぱれ、と言えばそれまでだが問題は次である。予定では卒業生代表答辞……日本語版……を藤沖が読み上げるのだが噂に聞く限りお世辞にもアドリブが得意そうには見えない。つくづく去年の卒業式において、本条先輩の立場が逆ではなくてよかったと思う。あの本条先輩のことだ。もし在校生送辞を派手にかましてしまったら卒業生答辞を読む生徒の立場はなさすぎる。
新井林が壇正面の階段から降り、絨毯に降り立った。そのまままっすぐ歩いた。壇上で用がすんだ生徒たちの退出方法はほぼ一緒だった。数歩歩き、三年D組男子列の脇でふと立ち止まった。じっと貴史の方を見つめている。
──俺になんか用か?
うっかり寝そうになっていたのを見咎められたのだろうか。すぐ背を伸ばした。新井林はそのまま敬礼をし、かちりと形を決め、そのまますっと二年男子列へと戻っていった。隣りで何か動く気配がして横を見ると、立村が唇をうっすら開いたまま凍りついていた。
──そっか、あいつ、そういうことか。
勘違いにも程がある。当たり前だ。新井林の目的は立村だった。アホすぎる自分につっこみを入れたくなるがここは立村をねぎらうほうが先だ。第一、三年A組列には立ち止まらなかったことを考えれば。
──天羽がいるってのに、だぞ。素直に喜んどけ。
「立村、ずいぶん、やるじゃねえか。苦労したかい、あったじゃねえか」
「そんな、違うだろ」
はっと気がついたのか立村は慌てて否定しようとする。ほんとは嬉しいくせに。畳み掛けてやろう。
「あの新井林をだぞ。敬語遣わせてな、『さん』で呼ばせてな、最後はきっちりこうやって礼させたんだぞ。こりゃあ上出来だと思うんだけどなあ」
「違うよ、ただ評議委員会の先輩だったから」
「だったらなんで天羽に挨拶しなかったんだ?」
「天羽はA組の先頭だから」
「だからお前は最後までガキのまんまだっていうんだよ。ったく、先が思いやられるぜ。古川じゃねえけどお前、お坊ちゃまのまんまだなあ」
立村は貴史にもう一度首を振り、改めて壇上を見上げた。順番からすると次の次が立村の英語答辞の出番となるはずだ。まだ人がざわめいている状態の中何も答えず席を立った。そのまま左端の待機席に移動していった。隣には藤沖がハードル高すぎる環境での卒業生答辞に備えている様子だった。
──まさか、新井林に釣られてまたまたアドリブなんてこと、ねえよなあ。
その、まさかだった。
「在校生のみなさん、先生、および父母のみなさん!」
やはりやりやがった。藤沖も壇上に立ち、答辞原稿には目もくれずマイクを片手に持ち、がらがらしたハウリングの音を響かせていきなり語り始めた。
「先ほどの在校生代表、新井林くんの熱く激しい言葉に、僕は本来自分がすべきことに気がつきました。今日話すつもりでいた答辞の原稿は、本日ここに納めて帰ります。今日は僕なりに、新井林くんを含めたくさんの人たちの前で、本当の意味での答辞を述べたいと思います。諸先生には、ご迷惑をおかけします。申し訳ございません!」
──ほんと大丈夫かよ。
あまり藤沖という生徒とは付き合いがないし、せいぜい立村や難波経由でちらと噂を聞いているに過ぎない。もともとは応援団設立を熱望していたがたまたまクラスで目立ってしまったため否応無しに生徒会へ引きずり込まれてしまったという経緯があるという。もちろんそつなく仕事はしたけれども本条先輩のようなカリスマ性はない。貴史も藤沖が立村といざこざを起こしたことから、だいぶまっすぐすぎる性格なんだろうと想像はしていたがそれ以上の興味は特になかった。
藤沖なりにアドリブ答辞を頑張っているのは伝わってくるのだが、やはり前の新井林と比較すると寂しいものがあるのも事実で、話が飛んだりよくわけのわからない生徒会裏事情話が出てきたりと、正直貴史の頭に残るものではなかった。どちらにせよ正式な答辞は立村が英訳したものを限りなくネイティブな発音で読み上げることでちゃらになるだろう。
それでも全員聴き入っているところ見ると不器用なりに生徒たち、父母、および教師、来賓のみなさまに伝わるものはあったし貴史もその気合だけは受け止めた。
──新井林と勝負するんだもんな。苦労するな、わかる、わかる。
「さきほど、新井林くんは僕たち三年生に向かい、『もっと腹を割って話をしたかった』という強烈なメッセージを残してくれました。自分自身を振り返ると、出来る限りのことをしたとはいえ、下級生のみなさんにそこまで真っ直ぐ向いていたかどうかは疑問です。おそらく、新井林くんもそのことを訴えたかったのでしょう。どうだよな、新井林?」
いきなり藤沖は新井林の座っている二年席に目を向けた。指差した。
「今、この場で僕、藤沖勲は、この場にいる全校生徒、および父母のみなさん、および先生たちに誓います。そして新井林、お前も聞け!」
次に拳を振り上げ、何を考えたか「選手宣誓」のポーズを取った。
「この三年間で語りきれないことがあるのなら、俺は正々堂々、受けて立つ! いつでも追いかけて来い。そして、その時は俺たち卒業生一同も、さらにパワーアップして後輩たちを迎え入れ、とことん腹の底まで語り合うことを、誓います。三月十五日、卒業生代表、藤沖、勲」
在校生送辞VS卒業生答辞アドリブ対決、お見事。イーブンだ。まさに大騒ぎ。目の前でいきなり三年B組の列で難波が立ち上がり掛け声をかけているのが見えた。後ろの二年生席でも喝采は鳴り止まず、二階父母石ではわけのわからぬ「ブラボー」なる声までかかる。極めつけは青潟の教育委員会をはじめとする来賓のみなさままで立ち上がり拍手を送っている。完全に式典というよりコンサートののりだろう。相当去年の本条先輩答辞で関係者は鍛えられたと見える。
──立村はどうしてる?
立村は席についたまま拍手をしているだけだった。次が自分の本番なんだから、かまっちゃいられないということか、それもまあ、事実ではある。
三年B組列の席に戻り迎え入れられた藤沖が座り余韻が残る中、アナウンスが流れた。
「英語答辞、卒業生代表、三年D組、立村上総」
瞬時に、高揚した空気が萎えたような感じがした。どことなく野菜がしんなりしたような、さっきまでしゃきっとしていたサラダがすっかり干からびてしまったような、そんな雰囲気だった。
──うわあ、立村こりゃ拷問だ。あいつまたこれでいじけちまったらどうするんだあ?
三年D組の男子連中もひそひそと、
「あちゃあ、こりゃ悲惨だわ」
「あいつさすがに英語でアドリブはねえだろ」
「いやあわからんぞ。立村の語学力ならやろうと思えばできるがな」
「第一やるかあいつ? 技術とやる気とは違うぞ」
みな好き勝手なことを言っておる。
どちらにしても立村にとっては息苦しいことは確かだ。三年D組のばたばたぶりや杉本梨南をめぐる株価の下落っぷり、その他E組に逃げ込んだりなんなりという立村の悲惨な状況を知るにあたって、最後に名誉回復の意味もあり与えられたチャンス。それが今回特別に任じられた「英語答辞」というわけだ。本来なら立村の語学能力でさらりとこなせる内容だろうし、意外なことだがこいつは舞台上でしどろもどろになったり硬直してしまったりということが全くない。舞台度胸は実をいうと結構ある方に見える。
だが、この状況、これ以上空気を盛り上げろと言われても立村には無理なような気がする。そもそも立村は卒業式を敬愛する本条先輩と同様に盛り上げようなんて気持ち、さらさらないはずだ。さっさと終わらせてさっさとひっこみたい、それだけだろう。
──まあ、空気が白くなるのはあいつも覚悟の上だろ。ま、がんばれよ。
何事も起こらないことを確信した上で、貴史は立村が壇上に立つのを見上げた。
立村は英語答辞原稿を開かず、すっと正面を見据え、そのままするりと暗唱し始めた。緊張感も気張りもない、いつもの英語の授業でリーダーの教科書を読み上げるのと同じ調子だった。はっきりした発音で聞き取りやすいが、やはり途中ややこしい単語も混じっているようで貴史にはうまく理解できないところもあることはあった。
「やっぱ立村すげえわ。さすが三D自動語学翻訳機」
「英語科行くのも当然だわな」
D組だけではない、C組からも感嘆の言葉が漏れている。男子たちはみなあっけにとられつつもただ立村の日常たる発音に圧倒されている。ただ内容は、
「けど、藤沖が本当にしゃべるべき内容だったんだろ」
「すげえ単純な話だってことはわかるんだがなあ。けど、どっかな」
「え、何が」
「どっか、変わった作文かなって気がするんだが」
全くわけがわからないことをしゃべっている男子も一部いる。貴史がヒアリングした限りだと、中学時代の懐かしき思い出や友情への感謝と高校に向けての抱負をあっさり述べたものであり、
──あんなに偉い先生どっさり読んで特訓するレベルのもんかよ。
そうつっこみたくなるところもある。まあ、それはそれで意味があるんだろう。無事に終わればそれでいい。一緒に女子席で聴いているであろう美里の様子を伺うと、遠目から見た限り真剣に見上げている。そりゃそうだ。
流れ出るような言葉をいったん溜め、立村が一瞬黙った時だった。
いきなり左側の教師席から立ち上がる気配がした。それまではポーカーフェイスで通していた立村が、はっとした表情でそちらを向いた。同時に二階父母席がざわめき、生徒たちもひそひそし出した。
──何があった?
貴史も中腰になり様子を伺った。まさかとは思うが、そのまさかだった。
──なにやってんだよ、菱本先生、おーい、守くーん。
南雲が東堂としゃべり合っているのも聞こえる。
「あらら、どうしたんだろ。菱本先生も最後に仕込みしようとしたのかな」
「俺たち全然聴いてませんぜ」
──聞いてるわけねえだろが! このあほたんが!
立村にとっても予想外の出来事であることは確かのようで、言葉を失っている。あの舞台度胸満点の立村ですらも動揺させていることに、菱本先生は気づいていないんだろうか。菱本先生は放送委員に声をかけると、すぐにマイクを受け取った。
「今、会場にいらっしゃるみなさんに、どうしてもお伝えしたいことがあります」
体育館内に響き渡る声。菱本先生の正装は男前、みな黙るしかない。
「会場のみなさんの中には、今、立村くんが暗誦した英語答辞の言葉遣いに一部、疑問を感じた方もいらっしゃるかと思われます。実は今回、英語答辞を作成するにあたり、青潟大学文学部教授でいらっしゃる大鳩先生のご教授を仰ぎ、現代英語とは若干異なる、十八世紀初頭の古い言葉遣いを用いることにいたしました」
みな息を呑んでいる……はずなのだがひとりうるさい奴がA組にいた。何か囁いている。
「そっか、やはり変だと思ってたけどそれなんだ」
──だからなんなんだよそれ。
二階父母席からも、ふみふむ頷きまじりにささやきが聞こえてくる。
「なんなのあれ。英語アウトの俺には理解全然できないんだけど、教えてちょうだ東堂大先生」
南雲が確認している。東堂が答えている。
「なぐっち、要するにだ。立村は俺たちが習ってる現代英語ではなくて、源氏物語とか平家物語とかみたいな古文でもって答辞をこしらえたと。そういうわけ」
「んなものあるのかなあ。俺考えたことなかったけど」
「そりゃあるだろ。昔からある言語なんだしな。菱本さんの熱く語りたいポイントってのは、それを考えたのが立村本人であって、まあ大学の偉い先生の助けは借りたかもしれないけど単なる藤沖の答辞を英訳してしゃべるだけじゃない、オリジナリティってのか? それをくっつけていたってこと。それを褒めてやってほしいってこと」
「けど俺たちにはわからないよな。特に俺みたいな」
「なぐっちや俺たちみたいな語学どうでもいい人間にはともかくとして、語学命とか、英語にこだわる人にとってはすげえことなんだと思うよ。けどまあ、菱本さん言わない限りは誰も気づかねかったろうけどなあ」
「とにかくりっちゃん、がんばったってことだけは理解した」
ここまですごいスピードで囁いていた。菱本先生はまだエキサイトして語っている。
「そのため、現在の英語教育では学ぶ機会のない古い単語なども混じっております。このアイデアは、読み上げた立村くんの発案です。教師として、また、担任として、非常に、嬉しく思うことのひとつであります。父母のみなさまおよびご来賓のみなさまからも、なぜ今回、英語答辞を、というお声をたくさん頂戴しましたが、三年担任たる私といたしましては、青潟大学附属中学において、素晴らしい語学能力を持つ立村くんに最後をきちんと締めてもらうことにより、ひとつの学びの集大成をみなさまにご覧いただきたかった、その思いがあります」
ひたすら酔っている。とにかく立村がこっそり仕掛けたことだけは貴史も理解した。あいつらしいやり方だとは思う。が、しかし。今気にすべきことは事実だけではない。
壇上の立村を改めてみやった。
じっと無表情で菱本先生の様子を睨みつけている。先ほど暗唱していた時のような穏やかな雰囲気はなく、今にも飛びかかりそうな目つきをしている。ポーカーフェイスだけはかろうじて保っているので気づく奴しか気づかないだろう。おそらく貴史以外だと、たぶん美里しか。
──立村、耐えろ。ここは菱本先生に花、持たせてやれ。
決して菱本先生は罵倒しているわけではない。褒めているのだ。三年間あいつなりに苦しんできたことを理解しつつ、なんとかこいつの努力を全校生徒に認めさせたいとがんばっているだけなのだ。もし貴史が立村の貴史だったら涙ちょちょぎらせていたかもしれないし、マイクから「先生ありがと!」くらい叫んだかもしれない。しかしあの立村が、蛇蝎のごとく菱本先生を嫌っているあいつが、ここで冷静さを保てるとは到底思えない。
アドリブ対決の続く青大附中卒業式、どう締めるか。ここは頼むから立村に大人の対応をしてほしいと切に願う。
貴史の見守る中、立村は壇上のマイクを両手で外し、そっと口元に当てた。
「菱本先生、まだ終わっていないのですが、続けさせていただいてよろしいですか」
まかりまちがっても「地球が滅亡するその日までてめえなんかに誰が感謝するか!」なんて叫ばないでほしい。祈った。たぶん美里も一緒だと思う。立村の凛とした声を日本語で耳にするのは本当に久しぶりだったことを思い出した。
「今、菱本先生にご紹介いただきました通り、僕が今、読み上げた英文答辞は、大鳩先生のご指導のもと、書き上げたものです。大鳩先生には僕のわがままを受け入れていただくことができて、大変感謝しております。ありがとうございます」
人並みの礼儀は保っているようだ。胸を撫で下ろす。立村の感謝の言葉は続いた。
「ただ、これだけは付け加えておきます。国語における古文のような文体で答辞を作成してはどうか、と提案してくれたのは、二年B組の杉本さんです」
完全に凍りついた。周囲の空気が、ではない。
──あいつ、いったい、何、言ってるんだ。
祈っていた手がぽろりと離れた。身体が一気に冷えていく。立村が続けた。
「僕自身はただ与えられた英文を読むだけでは満足できないという感情しか持っておりませんでしたが、具体的な形として提案してくれたのは、杉本さんのお蔭です。誰よりも、この場で杉本さんに感謝を述べたいと思います。ありがとうございます」
菱本先生の涙ぐんでいる顔など一切無視し、立村は三年席を通り越した先に目線をおいたまま、最後に締めた。
「三年D組、立村上総。以上」
マイクを両手で丁寧に戻し一礼した後、立村は一通分の答辞原稿を片手に持った。本当であれば答辞は盆に置いて退出すべきはずなのだが血が逆流しすぎて忘れたのだろうか。拍手と喝采は相変わらずだが、温度差が明らかに感じられたのは教師、来賓、二階席父母たちと比較した生徒席でだった。菱本先生の言う英語答辞のオリジナリティに感服しているような褒め言葉や、やはり意味不明のブラボーが飛び交う一方で生徒たちの席に漂う重たい空気。拍手もおざなり。こいつの前に見事なアドリブ答辞をぶつけた藤沖を迎えるような三年D組の気配はない。立ち上がろうともしない。ただ様子をひたすら見守るだけ。
教師来賓席に一礼した後、立村が壇上前方階段を降りてくる。絨毯を踏みしめたまままっすぐ歩いてくる。あっさりした拍手の中立村は二年の女子列近くまでまっすぐ歩き、止まった。貴史を含む三年連中が全員振り返った。二年A組を乗り越える形で立村はB組の女子ひとりに声をかけていた。隣りは空席だった。やはりあの女子だった。
「杉本、立って」
立村が声をかけた。すっとあの女子が立ち上がった。立村は片手に持ったままの答辞原稿を、二年A組の女子頭越しに差し出した。
「ありがとう。感謝する」
優しい声だった。棒読みの返事だけだったが。
「ありがとうございます」
一応義務といった風に両手で受け止め、胸に押し当てるような仕草をした。静まり、ふたたび二階父母席から温かい拍手が降り注いできている。それでもまだ生徒席の温度は暖まらない。立村が貴史の隣に戻ってきた時、誰もがねぎらいの言葉を口に出さなかったのがその答えだった。
──立村、お前さあ、なんであんな目立つことやった? よりによってあれだけパーフェクトに英語答辞やってのけてだぞ。お前があの女子にベタ惚れなのはよっくわかった。俺も邪魔しねえ。美里も理解してるってわかってる。けどな、こんな公開処刑みたいなことしてお前、平気かよ。もうどうするんだよ立村、高校行ってもこのままだと引きずるぞ。ったく、あれだけ俺らがお膳立てしたってのに、ったくお前って奴は。
そのくらい罵倒してやりたかった。口を開きかけた。立村と目が合った。微かに頭を下げたように見えた。それ以上何も言えなかった。