第56話
九百年前の大陸は肥沃な土地が広がる東側地域の全域にイグニクェトゥアの支配が及んでいた。ただ、その当時からロズオブニア地方は独立を保っていた。
イグニクェトゥアはその頃から市民に選挙権を与えていたが、選挙権を与えられた市民というのは魔法を使える者のみであり、使えない者には市民権を認めていなかった。
北部地方のミスリルと南部地方の金、二つの財政の柱があるイグニクェトゥアは大陸全土に覇権を唱えていた。
しかし、その繁栄を謳歌できたのは全人口の一〇パーセント未満の市民階級以上に限られ、それ以外の人々は主に農作業や鉱業・兵役に従事させられ、その八割を税として徴収されていた。
百年に一度程度の頻度で大規模な反乱があったが、組織的な軍隊と強力な魔法を持つイグニクェトゥア軍に鎮圧され、その度に大規模な粛清が行われた。
当時イグニクェトゥア南部ダ・ゴールの領主であったラサはイグニクェトゥアの制度に強い不信を抱えていた。
ラサはイグニクェトゥアの中でも名門の出身であったが、アカデミーに通っていた時の事件をきっかけに市民制度に強く反発していた。
その事件とは同じアカデミーの学生が非市民階級の女性をレイプするというものであった。
その女性はまだ十六歳であったし、食堂で配膳係をしていた。
レイプ事件のあとその女性は自ら命を絶つという残酷な結果となった。
その事件の加害者の学生には「非市民階級と性的行為を持つのは市民として恥ずべき行為だから以後自制するように」という注意処分のみがアカデミー総務から通達されただけであった。
ラサは名前も知らないその配膳係の女の子に好感を持っていたし、非市民階級であるということを恥ずかしいと思っていない振る舞いに感心もしていた。
その女性が辱めを受け、悲嘆にくれて自殺するという事件があったにも関わらず、加害者には実質的になんのお咎めもなしという結果となってから、ラサはイグニクェトゥアの制度自体に強い憤りを感じていた。
魔法が使えなくても同じ人間である。
その思いは多くの非市民階級の人と触れ合うことでさらに深くなっていった。
しかし、ラサのその言動は周囲の家族を困惑させ、さらにはイグニクェトゥア上層部からも問題視されるようになってきた。
「危険思想の持主」いつしかそのようなレッテルを貼られていた。
そして、決定的だったのは、ラサが非市民階級の女性との間に子どもまでもうけて、一緒に暮らし始めたことだった。
ラサは大都市ダ・ゴールの領主でありそのような立場の者が市民権すら持たないものと結婚することは法律で禁じられていたし、タブーであった。
法律上結婚はしていないものの、事実婚の状態にあるラサには中央政府から有形無形の圧力が日増しに強くなり、ついにはその女性と別れるか領主の座を放棄するか選択を迫られた。
ダ・ゴールの住民、特に非市民階級から絶大な人気のあったラサはここにいたって非市民階級に市民権を与えることを唱え、中央政府に対し挙兵するに至った。
それまで虐げられていた非市民階級の住民、特に軍属を中心としてイグニクェトゥア各地から続々ラサの下に集結し、軍勢の数は二十万を超えた。
その頃のイグニクェトゥア正規軍は三十万を超えてはいたが、各地の暴動などに人員を割かれており、ラサの反乱に対応できる兵は十五万程度であり数の上では拮抗していた。
しかし、ラサ軍には魔法を使用できる市民階級の軍属が少なかったため戦力的にはかなりの劣勢であった。
緒戦から数か月の間にダ・ゴールから中央平原まで支配下においたラサ軍であったが、金の産地であり、戦略上の要衝でもある中央山地近郊の戦いにおいて敗れてからは当初の勢いを失い、次第にダ・ゴール方面へと押し返されていった。
ラサの反乱軍は次第に追い詰められていったが、非市民階級がラサの反乱の噂を聞いて各地で暴動を起こすなどイグニクェトゥア全土においてなお予断を許さない状況が続いた。
そこで、イグニクェトゥア首脳部はラサと和平を結ぶという使者をダ・ゴールに送った。
「ラサ様、罠ではないですか」ラサの妻(正式な婚姻は認められていないが)のカーナがそう忠告した。
「その可能性は高い、しかしこのままダ・ゴールに籠城していては糧食も尽き、一か月のうちには女こどもから餓死していくであろう、私には戦いを起こした責任もある」
「どうか、そのような不吉なことは仰らないでください、ラ・カームもラキもまだ十三歳です。あなたがいなくなればイグニクェトゥアはこの子たちも放っておいてはくれないでしょう」
「私は父親である前にダ・ゴールの領主だ、領民の命を守る責任がある」
数秒の後、カーナが言った。
「ラサ様、ごめんなさい、私のような身分の者と関わらなければ・・・」あとは嗚咽しか残らなかった。
「お前を愛したことを後悔することはない」
近くにいたラ・カームとラキを抱きしめ
「少しの間留守にする、お前たちももう十三歳だ、留守の間ダ・ゴールの領主はお前がやるのだぞ」ラ・カームに告げた。
「はい・・・父上」ラ・カームは目を赤くしながらそう答えた。
「ラキ・・・」その後は言葉にならなかった。
「お父様・・・」ラキも言葉にならず嗚咽をもらした。
ラサは数人の護衛を連れてダ・ゴールの城を出た。
事実上の降伏であった。




