二章 ~文化祭 練習の他にも~
体育祭が恙無く終わり、平常の授業が再び始まった頃。体育祭の練習が終わったと思えば、今度は文化祭で行われる合唱コンクールの練習が入ってきた。合唱コンクールはクラス対抗で、全クラス強制参加のイベント。文化祭のメインというか、「文化祭=合唱コンクール」くらい同一性を持った催しだ。しかし―――
「でさー」
「まじかよ」
「うっわー!」
合唱のために並んだクラスメイト(特に男子)たちは、練習そっちのけで雑談に夢中だった。声を掛けても無視されて、結局、練習どころではなくなる。それがここ数日間、ずっと続いているのだ。理由は分かっている。それは、クラスを纏める中心人物がいないからだ。担任の先生もやる気が乏しく、練習には顔も見せない。かといって、別に乗り気な子がいるわけでもない。誰も纏めないから、正しく学級崩壊状態なのだ。
「な、中田君……」
牧野さんが、困ったようにこちらを見上げて(身長から言って見下げているのだけど、見上げているように見える)、助けを求めてくる。けれど、今回ばかりはどうしようもない。だって―――
「皆さん静かにー! 練習始めますよー!」
「音痴が仕切んなー!」
「そうだ、引っ込め音痴ー!」
うぐっ……想定していたとはいえ、これはかなり堪える。このやり取りを見て分かるように、僕は音痴だ。それも、「超」がつくほどの、壊滅的な。だからなのか、誰も僕の言うことを聞いてくれない。室長である僕がこの調子だから、そりゃ学級崩壊もするわけだ。
「え、えっと……」
牧野さんがオロオロしながら、僕とクラスメイトの間で視線を彷徨わせているが、彼女にそれ以上のことは出来ず、結局今日もそのまま解散となった。
「……はぁ」
帰り道、僕は珍しく溜息を吐きながら帰っていた。理由は簡単、合唱の練習が全然進まないからだ。はっきり言って、この調子だとかなりまずい。「参加することに意義がある」とは言うけれど、このままだとそれすら危うい。まあ、その名言自体はスポーツについて述べたものだから、合唱に対して使うのはそもそも間違いか。
「せめて、西崎君がいてくれれば……」
彼の協力が得られれば、こんなに苦労しなかっただろう。音痴ではなく、どちらかといえばリーダーシップのある人だから、僕よりも適任だ。けれども、彼は風邪をこじらせ、暫くダウンするらしい。まったく、馬鹿の癖に風邪なんて……。
「……はぁ」
僕の音痴は生まれつきみたいで、他の人格でも音痴は変わらなかった。だから、人格を変えて何とかするのは無理だ。それに、おいそれと直せるものでもない。今まで色々と手を尽くしてきたけど、それでもこの有様なのだから。つまり、僕が音痴を克服するのは不可能といえる。
「……はぁ」
更に、西崎君のいない今、他にクラスを纏められそうな人がいないのも問題だ。正直、牧野さんは論外。失礼だけど、多分彼女は何も出来ないであろう。それから、担任も除外。全くやる気がないから、頼んでも現状は何も変わらないだろう。
「……もう家か」
そうやって頭を悩ませていたら、いつの間にか帰宅していた。……まあ、今日は特に寄り道する必要がなかったけど、今度からは気をつけないと、買い物を忘れてしまうかもしれないな。そんなことを思いながら、僕は家の扉を開けた。
「ただいまー」
「遅いわよこの愚図」
「……姉さん」
玄関に入ると、何故かそこには我が姉―――名前は中田綾―――がいて、不遜な態度で仁王立ちしながら僕を見下ろしていた。この人はもう家を出たはずなのに、どうしてここに……?
「この私が帰って来てるんだから、お茶の一つでも用意しておきなさい。それからお菓子も。プリマヴェーラのキャラメルラスクは常備しておくものよ」
プリマヴェーラというのは、東京にある洋菓子屋の名前だ。姉さんはそこのラスクがお好みなのだけれど、普通に考えて、地方で東京のラスクを手に入れるのは容易でない。お取り寄せも受け付けていないのだから尚更だ。なのに、それを常備しろと要求するこの傲慢で尊大な女性が、自分の姉とは思いたくない。
「何よ? その迷惑そうな顔は?」
「……いえ」
姉さんの真っ赤な瞳から、鋭い視線が放たれる。この人なら、目線で殺人も簡単なのではないかと思ってしまうほど、強烈なものが。こういうときは誤魔化して、後は無難にご機嫌を取ってやり過ごすべき―――なのだけど。
「それにしても、どうしてまた急にお戻りに?」
「まるで私に戻ってきて欲しくないような口振りね?」
「いえ、決してそのようなことは……」
そう口にすると、案の定、視線が更にきつくなる。けれど、ここで怯んでは意味がない。理由を聞き出して、早くお暇してもらわねば、別の案件(合唱コンクールの練習)に取り掛かれない。だから僕は、その視線を持ち前のポーカーフェイスで受け流した。
「……ふぅ、まあいいわ。姉弟のよしみで教えてあげる。感謝しなさい」
姉さんは肩に掛かった茶色の髪を払うと、とても恩着せがましい態度で話し始めた。折角すんなり教えてくれる気になったのだから、そんなのよしみとかそういう理由で話すものじゃないとか思ってはならない。
「私は今、妊娠しているの」
「はぁ……」
知ってる。姉さんは結婚していて、ついこの間、旦那さんとの間に子供が出来たらしい。それは前に聞いた。因みに、その旦那さんは婿養子なので、姉さんは未だに中田姓のままだ。
「だからよ」
いや、だからとか言われても……。まだお腹も目立たないような時期だし、そもそも家事なんて普段からしないから、負担なんか皆無のはずだけど。
「妊婦はなるべく負担を減らさないといけないの。家事なんて勿論、精神的な負担もなくさないといけないの。―――それなのに、うじうじした旦那の顔なんか毎日見てたら、ストレス溜まって胎教に悪いわよ」
出た。姉さんの十八番、理不尽な言いがかりと自分勝手な理屈。つまりはただの我侭だけど、姉さんはそれを押し通して生きてきた。そして、僕はいつもその被害に遭っていたのだ。具体的には、お腹が空いたからと腹を殴られたり、頭が痛いからと脳天をチョップされたり、特に意味もなく蹴られまくったり。……今考えると、どうして通報されなかったんだろうか? まあ、たとえ通報したとしても、姉さんには警察官も敵わないだろうけど。
「というわけで、十分以内にラスクを用意なさい」
「十分で、ですか……?」
「当たり前じゃない」
うちにラスクの買い置きはないし、近所にも売っていない。なのに姉さんは、突然押しかけてきておいてしれっとそんな無茶振りをしてくる。
「この私が十分も待つといっているんだから、一分も経たない内に揃えるのが誠意ってものでしょ? 普通」
この姉に誠意なんて無駄なだけだと思うけど、それを言ったらどうなるか分からない。いくら相手が身重だからといって、身の安全が保障されたわけではないのだから。
「……」
結論からいうと、僕はラスクを用意できなかった。そして、それから先のことはあまり話したくない……。




